第3話:影の少女
黒森の奥へ向かった吉継。
そこで彼が見つけたのは、影の力ゆえに捕らえられた小さな少女でした。
黒森は、昼でも暗かった。
木々の枝葉が空を覆い、湿った土の匂いが足元から立ち上る。
幹には黒い苔がこびりつき、ところどころに青紫の瘴気が薄く漂っていた。
普通の者なら、長くはいられない場所だ。
だが、大谷吉継の身体は、その瘴気を嫌わなかった。
むしろ、肺の奥へ入ってくるたび、体内の病毒魔力がわずかに静まる。
光に焼かれた右腕は、まだ熱を持っていた。
包帯の下で壊死に似た疼きが続いている。
病毒魔法を使った反動も残っていた。
それでも、足は止めない。
この森の奥で、影が泣いている。
そう感じた。
声ではなく、はっきりした気配でもない。
足元の影が、ときおり自分とは別の呼吸をするように震える。
その震えが、吉継を森の奥へ導いていた。
「……妙な道案内だ。だが、助けを求める者の影なら無視できぬ」
吉継は白布の奥で呟いた。
腰には施療院で手にした古びた刀を差している。
名刀ではない。
重心もやや悪い。
だが、刃がある。
鞘がある。
握れば、前世の身体感覚が戻る。
この若い身体は、まだ吉継自身のものになりきっていない。
踏み込みは軽すぎるほど軽く、腕は思ったより速く動く。
呼吸の深さも、前世の病み衰えた身体とは違っていた。
強みでもあり、同時にまだ馴染まぬ違和感でもある。
慣れねばならない。
今度こそ守るためには、軍略だけでは足りない。
刀も、身体も、魔術も、すべて鍛え直す必要がある。
吉継が一歩踏み出した瞬間、枝の上で何かが動いた。
小石が落ちる。
吉継は半歩だけ身をずらした。
直後、首筋の横を黒い針が通り過ぎ、背後の幹に突き刺さる。
毒針。
森が、急に静かになった。
「出てこい」
吉継は刀の柄に手をかけた。
「こちらは争いに来たのではない。だが、弱い者を売る場なら話は別だ」
返事はない。
次の瞬間、左右の茂みから二人の男が飛び出した。
粗末な革鎧。
曲刀。
泥で塗りつぶした顔。
山賊か。
それとも奴隷狩りか。
吉継は抜刀しなかった。
一人目の曲刀を鞘で受け、手首を返す。
刃の向きを殺しながら、相手の膝へ柄頭を落とした。
骨が軋む音。
二人目が背後から斬りかかる。
吉継は振り返らず、足を引いた。
刃が白布の端を掠める。
そのまま相手の踏み込みに合わせ、腰でぶつかる。
男の体勢が崩れたところへ、鞘の石突を鳩尾に入れた。
男が息を詰まらせて倒れる。
若い身体は、動く。
だが、動いた後に遅れて痛みが来た。
右腕の包帯の下が熱い。
光に焼かれた傷が、踏み込みの衝撃で疼く。
吉継は呼吸を整えた。
前世の病身であれば、今の動きだけで膝をついていたかもしれない。
この身は若い。
だが、呪痕は若くない。
「ちっ、なんだこいつ」
枝の上から声がした。
今度は三人。
弓を持つ者が一人。
網を持つ者が二人。
吉継は周囲を見た。
倒れた男たち。
枝上の弓兵。
足元の湿った土。
右奥に細い獣道。
左には瘴気の濃い窪地。
軍師魔法が、戦場の形を頭の中に描く。
敵の目的は殺害ではない。
捕獲。
網。
毒針。
瘴気に慣れた足運び。
つまり、彼らはこの森で何かを捕まえていた。
「奴隷狩りか。胸の悪くなる匂いだ」
吉継が言うと、枝上の男が舌打ちした。
「だったら何だよ、白布野郎。あの影使いは俺たちの獲物だ」
影使い。
吉継の足元の影が、また震えた。
怒りではない。
怯え。
そして、ひどく小さな期待。
「獲物ではない。二度とその言葉で呼ぶな」
吉継は静かに言った。
「人だ。怯え、飢え、それでもまだ生きようとしている人だ」
男たちが笑った。
「あれが人? 笑わせるな。言葉も喋らねえ、影に潜る、化け物みたいなガキだぞ」
その言葉が終わるより早く、吉継は動いていた。
抜刀。
白い軌跡が森の暗がりに走る。
殺しはしない。
弓の弦だけを斬った。
枝上の男が目を見開く。
「な」
吉継は地を蹴り、幹を足場にして一段高い根へ上がる。
若い身体の跳躍は、前世の記憶より軽かった。
その軽さに、まだ心が追いつかない。
だが、刀は迷わない。
降りながら、網持ちの手元を鞘で打つ。
もう一人の膝を払う。
最後に、弓兵の喉元へ切っ先を突きつけた。
「案内しろ。今すぐだ。俺の気が変わらぬうちにな」
男は唾を飲んだ。
「ど、どこへ」
「影使いのところだ」
「売り物だぞ。高く売れる。光神教の連中も欲しがって」
切っ先が、わずかに皮膚へ触れた。
血が一筋、落ちる。
「案内しろ」
声を荒げる必要はなかった。
男は震えながら、森の奥を指差した。
黒森のさらに奥。
瘴気が濃い窪地の先に、古い石造りの祠があった。
祠は半ば崩れ、蔦に覆われている。
その前に、鉄の杭が打ち込まれていた。
杭から伸びる鎖。
鎖の先に、小さな影がうずくまっている。
少女だった。
非常に小柄で、華奢な身体。
ぼろぼろの布をまとい、裸足の足首には擦り切れた鎖の跡がある。
黒い髪は泥で固まり、頬には薄い傷がいくつも残っていた。
だが、何より異様なのは影だった。
少女の影だけが、彼女の身体よりもずっと大きく広がっている。
獣のように牙を剥き、けれど持ち主を守るように震えていた。
少女が顔を上げる。
大きな瞳。
声はない。
ただ、鼻が小さく鳴った。
「……ふん」
それは言葉ではない。
だが、吉継には不思議と意味が分かった。
怖い。
来ないで。
でも。
助けて。
吉継の胸の奥で、関ヶ原とは違う痛みが走った。
「この子の名は」
後ろで震える奴隷狩りに問う。
「知らねえよ。市じゃ、影巫女とか、無声の化け物とか呼ばれてた」
吉継は振り返らなかった。
「お前たちは、この子に食事を与えたか」
「売り物だからな。死なない程度には」
「許可なく食べると罰したか」
奴隷狩りが黙った。
それが答えだった。
吉継は刀を鞘へ戻した。
そして、少女の前に膝をつく。
近づくと、影が牙を剥いた。
吉継は止まった。
「怖いなら、近づかぬ。俺も、怖がらせるために来たのではない」
少女は、じっと吉継を見た。
白布。
包帯。
黒く疼く右腕。
不浄と呼ばれた男の姿を。
「私は大谷吉継」
吉継は名乗った。
「お前を買いに来たのではない。奪いに来たのでもない。もう誰かの品でいなくてよい」
少女の影が、少しだけ揺れる。
「ここから出るか。頷くだけでいい。嫌なら、俺は一歩退く」
少女は答えない。
ただ、小さく鼻を鳴らした。
「ふん……」
恐怖。
困惑。
信じたいが、信じられない。
吉継は背後の奴隷狩りへ言った。
「鍵を」
「へ、へい」
男が震える手で鍵束を差し出す。
吉継はそれを受け取り、少女の鎖へ手を伸ばした。
その瞬間、影が吉継の手首に巻きついた。
冷たい。
刃のような気配。
だが、吉継は動かなかった。
「斬りたければ斬れ。怖いなら、それで自分を守れ」
少女の目が揺れる。
「ただし、その前に聞け。私はお前に命じない。食えとも、立てとも、笑えとも言わぬ。お前の息は、お前のものだ」
吉継は鍵を差し込む。
錆びた音がした。
「だが、報酬は渡す」
鎖が外れる。
少女はまだ動かない。
吉継は、施療師リナから受け取った包みを開いた。
乾いたパン。
薬草。
彼はパンを半分に割り、少女の前に置いた。
「これは報酬だ。施しではない」
少女が、ぴくりと反応する。
「生き延びたことへの報酬だ。食べなさい。許可を待たなくていい」
その言葉を聞いた瞬間、少女の瞳が大きく開いた。
唇が震える。
手が伸びる。
けれど、途中で止まる。
許可を疑っている。
許可が取り消されることを恐れている。
吉継は、もう一度言った。
「食べなさい。これは、お前のものだ」
少女はパンを取った。
小さくかじる。
次の瞬間、ぽろぽろと涙が落ちた。
声はない。
泣き声もない。
ただ、鼻だけが小さく鳴り続ける。
「ふん……ふん……」
吉継は、その意味をまだ完全には知らない。
だが、少なくとも今は分かる。
安心。
驚き。
そして、どうしようもない飢え。
「ゆっくりでいい。誰も取り上げぬ」
吉継はそう言った。
背後の奴隷狩りたちは、逃げようとしていた。
吉継は振り返らずに言う。
「逃げてもよい。戻りたくなければ、戻らなくていい」
男たちの足が止まる。
「ただし、二度とこの子に近づくな。近づけば、次は手足では済まぬ。俺はもう十分に腹を立てている」
静かな声だった。
だが、男たちは悲鳴に近い息を漏らして森へ逃げていった。
残されたのは、吉継と少女だけだった。
少女はパンを食べ終えると、恐る恐る吉継を見上げた。
そして、ほんの少しだけ近づく。
影も一緒に近づいた。
少女の影が、吉継の影に触れる。
ぴたりと寄り添う。
吉継は、なぜかそれが誓いのように思えた。
「行くところはあるか」
少女は首を横に振った。
「戻りたい場所は」
また、首を横に振る。
「名は」
少女は口を開いた。
しかし、声は出なかった。
何度も息だけが漏れる。
言葉がない。
喉が壊れているのか、心が拒んでいるのか。
吉継には分からない。
だが、無理に問うことではなかった。
「では、私が呼び名をつけてもよいか。嫌なら首を振れ」
少女が瞬きをする。
小さく鼻を鳴らした。
「ふん」
肯定。
たぶん。
吉継は少女の影を見た。
忍び。
巫女。
無声。
影。
そして、魂の奥にかすかに触れる響きがあった。
望月千代女。
武田に仕えた伝説の歩き巫女。
だが、この少女に前世の記憶はない。
それを背負わせるべきではない。
ここにいるのは、この世界で傷ついた一人の少女だ。
「チヨネ」
吉継は言った。
「お前を、チヨネと呼んでもよいか。影ではなく、一人の名として」
少女の瞳が揺れた。
次の瞬間。
「ふんふん……」
小さな鼻鳴らし。
甘えるような、信じたいような、震える音。
チヨネは、吉継の着物の裾をそっと掴んだ。
指先は細く、冷たかった。
吉継はその手を見下ろす。
この手は、誰かに握られることを許されてこなかった手だ。
この影は、誰かを守る前に、自分を守るためだけに牙を剥いてきた影だ。
「私は、まだ弱い」
吉継は言った。
チヨネが顔を上げる。
「この世界の魔法も知らぬ。四大魔法も扱えぬ。病毒魔法も、使えば身を蝕む。刀も、この若い身体に慣れねばならない」
白布の奥で、彼は息を吐いた。
「それでも、守ると決めたものは守る。弱いままでも、手を伸ばすことはできる」
チヨネの影が、吉継の影にさらに寄り添う。
「来るか。無理にとは言わぬ。だが、来るなら隣を空けておく」
チヨネは、こくりとうなずいた。
そして、ほんの少しだけ胸を張った。
「ふん」
ドヤ、と言っているようだった。
吉継はかすかに目を細める。
「そうか。役に立つ、と言っているな。なら、頼りにする」
チヨネが、はっきりとうなずいた。
黒森の瘴気が、二人の周囲をゆっくり流れていく。
光に焼かれた男と、影に怯えていた少女。
どちらも、この世界では忌まれる側の存在だった。
だが、だからこそ。
吉継は歩き出した。
チヨネはその半歩後ろを、音もなくついてくる。
やがて森の出口が近づいたころ、チヨネがふと足を止めた。
彼女は吉継を見上げる。
そして、期待に満ちた目で、じっと頭を差し出した。
吉継は数秒、考えた。
「……撫でろ、ということか。褒美の催促は覚えるのが早いな」
チヨネが全力でうなずく。
吉継は、そっとその頭に手を置いた。
泥で汚れた髪。
細い肩。
小さな身体。
チヨネは目を閉じた。
「ふんふん!」
森の中に、言葉にならない喜びが弾けた。
その音を聞いて、吉継は思った。
守るべきものが、また一つ増えた。
関ヶ原で失ったものを取り戻すためではない。
この世界で、今ここにいる命を守るために。
白布の軍師は、影の少女と共に歩き始めた。
お読みいただきありがとうございます。
ついにチヨネが登場しました。
言葉を持たない彼女と、白布の軍師・吉継の関係はここから少しずつ育っていきます。




