第17話:水車道の朝霧
夜明け前、西宿カランを出る吉継たち。
敵が待つ本道でも旧街道でもなく、彼らは水車道を選ぶ。
夜明け前の西宿カランは、息を潜めていた。
酒場の灯は落ち、荷馬車の列もまだ動かない。井戸端に残った水桶だけが、薄い朝霧の中で白く濡れている。
吉継たちは、ノアの書き屋を裏口から出た。
いや、裏口と呼べるほど立派なものではない。紙束を運び出すための細い木戸だ。肩を斜めにしなければ通れず、チヨネでさえ影を縮めるようにして抜けた。
吉継の懐には、三つの紙がある。
紹介状。
通行控え。
告発状。
どれも薄い紙だ。だが、ただの紙ではない。赤と青の封蝋に、ノアの組合印と吉継の血が沈んでいる。
剣ではない。
それでも、道を切り開く刃になる。
「北西の旧街道は使いません」
エルネが小声で言った。
「役人が聞かせるように言いました。親切ならありがたいですが、灰羽が聞いていた以上、待ち伏せの可能性が高いです。私は親切より罠を疑います」
「本道は」
「検めが増えます。人に紛れられますが、封蝋を見られる回数も増える。大谷さんの血封は目立ちます」
「なら、水車道だ」
「はい。人は少ない。荷車も通れません。けれど徒歩なら抜けられます」
エルネの説明は短い。
必要なことだけが並んでいる。
よい、と吉継は思った。
この娘は怯えている。だが、怯えながら使える情報を出せる。
戦場で最も信頼できる者のひとりだ。
チヨネが吉継の袖を軽く引いた。
ふん。
右、と言っている。
吉継は足を止めず、視線だけを動かした。
朝霧の向こう、空樽を積んだ荷台の陰に男がいる。旅人のふりをしているが、立ち方が違う。すぐ走り出せるよう、踵が浮いている。
「見えている」
吉継が低く答えると、チヨネの影がほっとするように揺れた。
ノアが最後に言っていた。
灰羽は、直接踏み込んで失敗した。
次は、こちらが自分から危ない道へ入るよう仕向ける。
ならば、仕掛けられた道を選ばなければいい。
吉継は、足裏に意識を落とした。
地脈俯瞰。
魔力を薄く、地面へ流す。
石畳の冷たさ。
馬小屋の裏に積まれた湿った藁。
宿場を抜ける三本の道。
北西へ伸びる旧街道は、ゆるやかに上っている。高い場所に出る。見張るにはよい。撃ち下ろすにも向く。
本道は広い。人と馬が多い。だが、そのぶん検めの目も多い。
そして、南寄りに細い低地がある。
水の筋。
用水路だ。
その横を、細い道が這っている。
吉継は目を開いた。
「水車道は、南から回る」
エルネが驚いた顔をした。
「地図を読んだんですか」
「読めぬ。だが、道の低さと水の流れは分かる」
「便利すぎませんか。代書屋としては、地図屋の商売が心配になります」
「便利なものほど、代償がある。今も頭の奥を削られている」
言った瞬間、こめかみに鈍い痛みが走った。
やはりな。
地脈俯瞰は、目で見るより疲れる。地面へ魔力を流すたび、頭の奥を細い針で撫でられるような感覚があった。
チヨネが吉継の袖を握る。
休め。
そう言っている。
「少し痛むだけだ。まだ行ける」
チヨネは納得していない顔で、ふん、と短く鳴いた。
「説教はあとで聞く。今は足を止める方が叱られそうだ」
チヨネの頬が、わずかにふくらむ。
エルネが小さく息を吐いた。
「仲がいいですね」
「そう見えるか」
「見えます。かなり」
吉継は返事に困り、軍配の代わりに懐の文書を軽く押さえた。
今は笑う場面ではない。
だが、息をする余地は必要だ。
三人は、染物屋の裏を抜け、宿場の南へ回った。
朝霧が濃くなる。
用水路の水音が近い。
石垣の下に、細い道が見えた。人が二人並ぶには狭い。片側は用水路、もう片側は低い土手。荷車は通れない。
水車道。
吉継は足元を見た。
土が湿っている。
足跡が残る。
新しいものが三つ。
こちらへ向かう足跡ではない。
待っている足跡だ。
「止まれ」
エルネがぴたりと止まる。
チヨネはすでに影を広げていた。
「先にいる」
「灰羽ですか」
「足跡は三つ。ひとりは軽い。ひとりは重い。もうひとりは足を引きずっている。隠れる気はあるが、急ぎすぎだ」
「そこまで分かるんですか」
「ああ、人数や重さ、土を蹴っている感覚で、ある程度予想できる」
吉継は膝をつき、湿った地面へ指を触れた。
地脈俯瞰を細く絞る。
広く見ない。
近くの地形だけを拾う。
用水路。土手。少し先に古い水車小屋。水車は止まっている。水門板が半分落ち、流れが淀んでいる。
待ち伏せるなら、小屋の影。
逃げ道を塞ぐなら、水車の手前。
そして、足跡はそこへ向かっている。
「小屋を避けますか」
エルネが囁く。
「避ければ、本道へ戻るしかない」
「では、どうします」
「水を動かす」
エルネが一瞬だけ黙った。
「またですか」
「まただ。嫌なら、もっと良い道を教えてくれ」
チヨネが、ふんふん、と鳴いた。
少し楽しそうだった。
吉継は腐蝕糸を指先に集めた。
黒く湿った糸が、水路脇の古い杭へ伸びる。杭は水門板を留めている。錆びた金具と、腐った縄。
切るのは人ではない。
道だ。
糸が縄を食む。
すぐに切らない。
半分だけ腐らせる。
いつでも落とせるようにする。
「チヨネ。小屋の影を見ろ。相手が出たら足を止めるだけでいい」
こくり。
「エルネは俺の後ろ。文書を濡らすな。お前の肩より先に紙を心配するなとは言ったが、今は両方守れ」
「それが一番大事です」
「命も大事だ」
「分かっています。けれど紙が濡れたら、命が残っても王都で詰みます」
実利的でよい。
吉継は小さく頷き、前へ出た。
水車小屋の前に差しかかった瞬間、朝霧が裂けた。
短杖の男が小屋の影から腕を出す。
「土牙」
地面が盛り上がる。
吉継はすでに半歩ずれていた。
地脈俯瞰で、足元の土が膨らむ前の歪みを見ていた。
土の牙は空を突く。
同時に、重い足音。
大柄な男が棍棒を振り下ろす。
吉継は受けない。
棍棒が土へめり込む。湿った土が跳ねる。吉継はその内側へ入り、鞘で男の膝を払った。
倒れた男の背に、チヨネの影が絡む。
殺さない。
まだだ。
足を引きずる三人目が、小屋の裏から弓を構えた。
狙いはエルネ。
吉継は腐蝕糸を引いた。
半分腐らせていた縄が切れる。
水門板が落ちた。
溜まっていた水が、堰を失って一気に走る。
弓兵の足元を水が払った。
矢は放たれたが、狙いは逸れる。エルネの肩をかすめる前に、チヨネの影が矢を叩き落とした。
「ふん!」
今のは怒っている。
「助かった」
チヨネは吉継を見ず、弓兵を睨んだ。
術者が次の魔法を構えようとする。
吉継は踏み込んだ。
刀を抜く。
一足一刀。
距離を潰し、杖を持つ手首を斬る。
血が水車道の土に落ちた。
術者が悲鳴を上げる前に、吉継は柄頭を鳩尾へ入れた。
息が止まる。
倒れる。
大柄な男は影に縛られたまま暴れている。
弓兵は水に足を取られ、立てない。
吉継は刀を下げた。
「殺さないんですか」
エルネが震えた声で言う。
「今は殺すより使える。死体は黙るが、怯えた口は走る」
「使う?」
「戻って伝えさせる。水車道も安全ではないとな」
エルネが息を呑む。
「追手を散らすんですね」
「そうだ。こちらの道を読ませる。読んだと思ったところで外す」
吉継は大柄な男の前に膝をついた。
「灰羽へ伝えろ。本道にも旧街道にも、水車道にも俺はいない」
男が歯を食いしばる。
「なら、どこへ行く」
「それを教えるほど、俺は優しくはない」
吉継は立ち上がった。
チヨネの影が男たちの武器を遠くへ弾く。
エルネは懐の文書を確認していた。
「無事か」
「紙は無事です。私も、たぶん」
「肩を見せろ」
「かすっただけです。血は少し。動けます」
吉継は布を裂き、エルネの肩に巻いた。
光魔法は使えない。
この世界の治療も、今はない。
できることは、血を止めることだけだ。
「すまない」
「謝るより、早く行きましょう。謝罪は王都に着いてから、まとめて請求します」
「分かった」
チヨネが、ふん、と低く鳴る。
エルネを案じている。
「大丈夫です。ありがとう」
エルネがそう言うと、チヨネは少しだけ目をそらした。
吉継は水車小屋の裏へ回った。
地脈俯瞰をもう一度、細く使う。
頭痛が増す。
だが、見えた。
用水路はこの先で二つに分かれる。
ひとつは王都へ向かう外縁水路。
もうひとつは、崩れた橋へ続く行き止まり。
敵は、行き止まりを見ている。
ならば外縁水路へ入る。
吉継は白頭巾の奥で、静かに息を吐いた。
「進む。王都の外縁へ出る。ここまで来て、霧の中で足を止める気はない」
「はい」
エルネが短く答える。
チヨネは吉継の影へ自分の影を寄せた。
三人は朝霧の中、水車道を離れた。
背後では、解き放たれた水が音を立てて流れている。
敵の目を洗い流すように。
王都へ続く細い道が、霧の向こうに伸びていた。
今回は、新しい軍師魔法「地脈俯瞰」を実戦で使う回でした。
吉継は敵を倒すだけでなく、あえて生かして情報を散らす選択をしています。




