第14話:水門の死地・前
橋下を抜け、西の宿場へ向かう吉継たち。
追手の手は、まだ水路の先に伸びていました。
橋の下を抜ける水路は、町の喧噪を背にするほど細く、冷たくなっていった。
頭上では、灰橋の市のざわめきがまだ遠く尾を引いている。怒号。荷車の軋み。誰かが転んだ音。誰かが誰かを呼ぶ声。
だが、石組みの水路へ降りてしまえば、それらは厚い土と石に吸われ、ただ水の匂いだけが残った。
王都へ向かう。
逃げるためだけではない。この国の中枢を知るため。病毒を持つ者へ向けられる敵意の根を探るため。そして、正規の文書を得て、追われるだけの身から抜け出すため。
その最初の足場が、西の宿場だった。
吉継は先頭を歩かず、最後尾にも立たなかった。
チヨネを前に置き、エルネを中央に置き、自分はその半歩後ろを進む。もし前から来るならチヨネが影で止める。後ろから来るなら自分が斬る。横穴から来るなら、エルネを掴んで壁に寄せればいい。
そう決めてから、吉継はようやく息を吐いた。
胸の奥が熱い。
先ほど押し込めた病毒魔力が、体内でまだ牙を立てている。肺の内側を爪で引っかかれるような痛み。右腕の包帯の下では、脈に合わせて濁った熱がうごめいた。
「……大谷さん、歩けますか」
エルネが振り返り、声をひそめた。
代書屋の娘は、恐怖を押し殺すのがうまい。顔色は悪い。だが足は止めない。震えながらも、必要なことだけを尋ねる。
よい性根だ、と吉継は思った。
「歩ける。倒れる時は先に言う。黙って倒れれば、また二人に怒られる」
「それ、倒れる予定がある人の返事ですよね」
「予定ではない。備えだ。戦も逃げ道も、悪い方を先に数える」
エルネは何か言い返しかけ、唇を閉じた。
前を行くチヨネが、ふん、と小さく鳴らした。
「心配している。俺も分かっている。だから今は、心配ごと前へ進む」
吉継がそう言うと、チヨネの肩がわずかに下がった。怒りではなく、安堵に近い動きだった。
水路はやがて二つに分かれた。
右は低い暗渠。水位が高く、膝まで濡れる。左は古い石段を上がる道で、先に朽ちた木戸が見える。木戸の向こうから、湿った風が吹き込んでいた。
吉継は足を止めた。
「エルネ。この先は何だ」
「西水門道です。昔、用水を切り替えるための水門があって……今は半分使われていません。人通りは少なく、西宿カランへ抜けるなら左になります」
「追手もそう考えるか」
「はい。ですが、右は危ないです。水が深いし、魔物が出ることもあります」
「魔物」
吉継はその言葉をゆっくり繰り返した。
知っている語ではない。獣とも妖とも違う響きがある。
エルネは、その反応で察したらしい。少しだけ目を丸くした。
「……知らないんですか」
「知らぬものは知らぬ。恥より、知らぬまま進む方が怖い。人を襲う獣か」
「獣に近いです。でも、魔力を食べたり、体の形が普通じゃなかったりします。水路なら、泥噛み犬が出ます。犬と呼ばれていますけど、あれは犬じゃありません」
チヨネがぴたりと止まった。
ふん。
短い鼻鳴らし。
「見つけたか」
こくり。
吉継は木戸の先へ目を向けた。
湿った風の中に、かすかな鉄の匂いが混じっている。
血ではない。
刃物の手入れに使う油の匂いだ。
「追手か」
エルネの顔が強ばる。
チヨネの影が、足元で薄く広がった。
吉継は水路の壁に手を触れた。古い石は苔で滑る。木戸の向こうは狭い水門跡。天井は低い。左右に崩れた管理小屋。正面には開かなくなった鉄柵。
逃げるには悪い。
だが、戦うには悪くない。
「左へ行く」
「えっ、追手がいるなら、右に逃げた方が」
「右は足を取られる。知らぬ魔物もいる。こちらは狭い。数の利を殺せる」
エルネが喉を鳴らした。
「……戦うんですか」
「追われ続ければ、お前が先に死ぬ。だから、ここで追う足を減らす」
その言葉に、エルネは黙った。
吉継は腰の刀へ指を添えた。安物の鞘。刃こぼれした刀。だが、鉄は鉄だ。人の喉を裂くには足りる。
「チヨネ。エルネを守れ。俺が合図するまで前へ出るな。お前の影を、一番必要な場所に置く」
ふん。
不満げな音。
「俺を案じているのは知っている。だが、優先順位はエルネとお前だ。俺は最後で良い」
チヨネは振り向いた。
無言で、ぷるぷると震える。
吉継はその頭に軽く手を置いた。
「説教はあとだ。今は従え」
チヨネはしばらく見上げていたが、やがて小さく頷いた。
木戸を押す。
蝶番が嫌な音を立てた。
水門跡は、灰色の光に沈んでいた。
崩れた屋根の隙間から日が差し、浅い水面に白く揺れている。中央の通路は幅二人分。左右は水溜まり。奥に鉄柵。その手前に、三人の男がいた。
灰色の羽根飾り。
市で見た者たちと同じ印だ。
いや、三人ではない。
崩れた管理小屋の陰に、もう一人いる。杖を持った痩せた男。口元だけを布で覆い、こちらを見ずに水面を見ている。
術者か。
吉継は知らぬ言葉を飲み込んだ。
魔法というものの理は、まだ分からない。だが、戦場で後ろに立ち、武器ではなく杖を握る者が危ういことくらいは分かる。
「来たな」
中央の男が笑った。弓を持っている。左右の二人は短槍と曲刀。
そして、男たちの足元に、泥の塊のようなものが二つ伏せていた。
犬に似ている。
だが、顔がない。頭部にあるのは、横に裂けた大きな口だけだった。泥と毛が固まったような背から、黒い水がぼたぼた落ちている。
エルネが息を呑む。
「泥噛み犬……」
「あれが魔物か」
「噛まれると、魔力を吸われます。普通の人なら数分で動けなくなる」
なるほど、と吉継は思った。
この世界では、犬まで兵に使う。
いや、犬ではない。ならば斬ることに迷いはいらない。
弓の男が口角を上げた。
「影使いと代書屋を渡せ。お前は腕一本置いていけば見逃してやる」
「断る」
「早いな」
「考える余地がない」
男の眉が動いた。
「病毒持ちが、偉そうに」
その言葉に、チヨネの影が跳ねた。
「待て」
吉継は静かに制した。
チヨネの影が、ぎりぎりで止まる。
弓の男はそれを見て笑った。
「飼い慣らしているつもりか? そいつは市場で売れ残った欠陥品だ。影は便利だが、喋れもしない」
チヨネの指が震えた。
エルネが小さく「ひどい」と呟く。
吉継は刀の柄を握った。
怒りはある。
だが、怒りで斬るな。
怒りは刃を鈍らせる。斬る理由は、怒りでは足りない。
守るために斬る。
その一点だけでよい。
「チヨネ」
吉継は前を見たまま言った。
「聞かなくていい。お前の価値を、あの男が決めることはない。俺も、決めさせるつもりはない」
背後で、チヨネが息を止めた気配がした。
「ふん……」
細く、震える音だった。
弓の男が舌打ちする。
「やれ」
泥噛み犬が跳んだ。
水が割れる。
一匹は真正面。もう一匹は右の水溜まりから回り込む。犬ではない。獣より低く、蛇より速い。
同時に、管理小屋の陰の男が杖を振った。
「火礫」
短い詠唱。
杖の先から拳ほどの火が三つ生まれ、石壁を焦がしながら飛んでくる。
吉継は目を細めた。
火縄の弾ではない。矢でもない。だが、飛ぶ前に杖の先が光り、術者の肩がわずかに沈む。
放つ前の癖がある。
吉継は踏み込まなかった。
一歩、退く。
泥噛み犬の口が空を噛む。その瞬間、吉継は鞘で横から頭部を叩いた。
火の一つが、吉継のいた場所を抜けて水面に落ちた。
じゅっ、と白い湯気が上がる。
残る二つは、チヨネとエルネを狙っていた。
「チヨネ、下がれ。エルネ、伏せろ」
吉継は水路脇に積まれた朽ちた板を蹴った。
板は湿って重く、低く滑り、火礫の一つを受けて燃えた。燃えきる前に水溜まりへ倒れ、黒い煙を吐く。もう一つはチヨネの影が弾き、壁へぶつかって消えた。
手応えは粘土に似ていた。骨がない。
「刃が通るか。通らぬなら、通る場所を探すまでだ」
問いではない。確認だ。
吉継は抜刀した。
ぼろい刀が、水門跡の薄光を拾う。
二匹目が右からエルネへ跳ぶ。
チヨネの影が伸びた。
影縫。
泥噛み犬の影が、水面の上でぴたりと縫い止められる。だが魔物の体は影を引き裂くように暴れ、チヨネの肩がびくりと跳ねた。
まだ長くは止められない。
吉継は左手を開いた。
病毒魔力を、刃ではなく糸にする。
黒く、細く、湿った糸。
腐敗の匂いを持つそれは、指先から水面へ垂れ、泥噛み犬の前脚へ絡みついた。
腐蝕糸。
糸が食い込んだ箇所から、泥の体が崩れる。
骨を断つ技ではない。物の結び目を腐らせ、形を保つ力を緩める技だ。泥噛み犬の脚は、縄をほどかれた袋のように崩れ、跳躍の力を失った。
そのまま、吉継は糸を水路の両壁へ走らせた。
狙うのは人ではない。
水門を吊っていた古い鎖。半ば腐った木梁。足元に沈んだ鉄輪。
腐蝕糸が絡む。
錆びた鎖が、ぎ、と嫌な音を立てた。
「何をしている」
弓の男が一歩踏み出す。
その足が、苔の浮いた石へ乗った。
吉継は鞘の先で水面を叩いた。
浅い水が跳ね、苔の上に薄く広がる。男の踏んだ石が滑った。
「足場を見る癖をつけるべきだったな。戦う前から、負ける場所に立っている」
吉継は踏み込む。
一足一刀。
魔物の裂けた口の内側へ、最短で刃を入れる。
刀が泥の喉を割った。
黒い水が噴き、浅瀬へ落ちる。
もう一匹が影を破った。
吉継の左腕に痛みが走る。病毒の糸を張った反動で、指の皮膚が熱を持った。だが手は止めない。
「エルネ、壁へ」
「は、はい!」
エルネが石壁に身を寄せる。
その上を、短槍が突き込まれた。
人間の追手が動いていた。
吉継は刀で受けなかった。受ければ刃が欠ける。半歩ずれ、槍の柄を鞘で打ち落とす。相手の手首が浮いた瞬間、柄頭を肘へ叩き込む。
「ぐあっ」
短槍の男が膝をつく。
曲刀の男が横から斬り込む。
吉継はその刃筋を見た。
速い。
だが、戦場の斬り合いに慣れていない。相手の目が、刃ではなく吉継の顔を追っている。白布の奥を見ようとしている。
ならば顔を餌にすればいい。
吉継はわずかに顎を上げた。
男の視線が吸われる。
次の瞬間、吉継は低く入った。
曲刀の内側。
間合いの死角。
前世で幾度も体に叩き込まれた、命を奪うための近さ。
刀が男の脇腹を裂いた。
深くはない。だが動きは止まる。
そこへチヨネの影が絡み、男の足を引いた。男は水面に倒れ、顔を打って呻いた。
管理小屋の陰から、術者が舌打ちした。
「土牙」
水門跡の床が盛り上がる。
濡れた石の隙間から、土でできた牙のような杭が突き出した。狙いは吉継ではない。エルネの足元だ。
吉継は走った。
斬る相手を変える余裕はない。
守る相手を間違える余裕もない。
吉継はエルネの襟首を掴み、壁際へ投げるように引いた。直後、土牙が彼女のいた場所を貫く。
エルネの悲鳴。
チヨネの影が術者へ走る。
「まだだ」
吉継は叫んだ。
術者はチヨネを誘っている。管理小屋の前だけ水がない。乾いた床。影を踏みにくい場所だ。
ならば、乾いた場所をなくせばいい。
吉継は腐蝕糸を強く引いた。
錆びた鎖が切れる。
古い水門板の片側が落ち、溜まっていた水が横から流れ込んだ。乾いた床が一瞬で濡れ、術者の足元まで薄い流れが伸びる。
チヨネの影が、その水面の影を拾った。
影纏。
術者の足首に黒い影が絡みつく。
術者が杖を振り上げる。
吉継は水を蹴った。
肺が焼ける。
右腕が悲鳴を上げる。
だが、止まればエルネが死ぬ。チヨネが焼かれる。
ならば、止まる理由がない。
短槍の男が横から割り込んできた。
吉継は低く沈み、槍の内へ入る。槍は長い。だが、内側へ入ればただの棒だ。柄を肩で押し上げ、すれ違いざまに腹を斬る。
一人。
曲刀の男が水面から起き上がり、背後を狙う。
チヨネの影が遅れる。
吉継は振り返らず、鞘を逆手に打った。柄頭が男の顎を砕く。体が浮いたところへ、刃を返して胸を裂く。
二人。
術者の杖の先に、また火が灯った。
「火礫」
吉継は左手の腐蝕糸を術者の杖へ絡めた。
狙いは術者の体ではない。
杖の先端に嵌められた赤い石。
そこが光る。そこから火が生まれる。ならば、そこが火縄の火皿だ。
腐蝕糸が石を留める金具を食む。
火が生まれる寸前、赤い石が外れた。
術者の手元で魔力が乱れ、小さな爆ぜる音がした。
「ぎゃっ」
男が杖を取り落とす。
吉継は踏み込んだ。
術者の喉元へ、刀の峰ではなく刃を通す。
三人。
今回は水門跡での戦闘前半です。
吉継が地形、相手の配置、魔物、魔法を観察しながら、逃げるだけでは守れないと判断する回になっています。
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