表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大谷吉継 転生録 〜義は滅びず、再び剣を取る〜  作者: ひさめ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/22

第14話:水門の死地

橋下を抜け、西の宿場へ向かう吉継たち。

追手の手は、まだ水路の先に伸びていた。

橋の下を抜ける水路は、町の喧噪を背にするほど細く、冷たくなっていった。

 頭上では、灰橋の市のざわめきがまだ遠く尾を引いている。怒号。荷車の軋み。誰かが転んだ音。誰かが誰かを呼ぶ声。

 だが、石組みの水路へ降りてしまえば、それらは厚い土と石に吸われ、ただ水の匂いだけが残った。

 王都へ向かう。

 逃げるためだけではない。この国の中枢を知るため。病毒を持つ者へ向けられる敵意の根を探るため。そして、正規の文書を得て、追われるだけの身から抜け出すため。

 その最初の足場が、西の宿場だった。

 吉継は先頭を歩かず、最後尾にも立たなかった。

 チヨネを前に置き、エルネを中央に置き、自分はその半歩後ろを進む。もし前から来るならチヨネが影で止める。後ろから来るなら自分が斬る。横穴から来るなら、エルネを掴んで壁に寄せればいい。

 そう決めてから、吉継はようやく息を吐いた。

 胸の奥が熱い。

 先ほど押し込めた病毒魔力が、体内でまだ牙を立てている。肺の内側を爪で引っかかれるような痛み。右腕の包帯の下では、脈に合わせて濁った熱がうごめいた。

「……大谷さん、歩けますか」

 エルネが振り返り、声をひそめた。

 代書屋の娘は、恐怖を押し殺すのがうまい。顔色は悪い。だが足は止めない。震えながらも、必要なことだけを尋ねる。

 よい性根だ、と吉継は思った。

「歩ける。倒れる時は先に言う。黙って倒れれば、また二人に怒られる」

「それ、倒れる予定がある人の返事ですよね」

「予定ではない。備えだ。戦も逃げ道も、悪い方を先に数える」

 エルネは何か言い返しかけ、唇を閉じた。

 前を行くチヨネが、ふん、と小さく鳴らした。

「心配している。俺も分かっている。だから今は、心配ごと前へ進む」

 吉継がそう言うと、チヨネの肩がわずかに下がった。怒りではなく、安堵に近い動きだった。

 水路はやがて二つに分かれた。

 右は低い暗渠。水位が高く、膝まで濡れる。左は古い石段を上がる道で、先に朽ちた木戸が見える。木戸の向こうから、湿った風が吹き込んでいた。

 吉継は足を止めた。

「エルネ。この先は何だ」

「西水門道です。昔、用水を切り替えるための水門があって……今は半分使われていません。人通りは少なく、西宿カランへ抜けるなら左になります」

「追手もそう考えるか」

「はい。ですが、右は危ないです。水が深いし、魔物が出ることもあります」

「魔物」

 吉継はその言葉をゆっくり繰り返した。

 知っている語ではない。獣とも妖とも違う響きがある。

 エルネは、その反応で察したらしい。少しだけ目を丸くした。

「……知らないんですか」

「知らぬものは知らぬ。恥より、知らぬまま進む方が怖い。人を襲う獣か」

「獣に近いです。でも、魔力を食べたり、体の形が普通じゃなかったりします。水路なら、泥噛み犬が出ます。犬と呼ばれていますけど、あれは犬じゃありません」

 チヨネがぴたりと止まった。

 ふん。

 短い鼻鳴らし。

「見つけたか」

 こくり。

 吉継は木戸の先へ目を向けた。

 湿った風の中に、かすかな鉄の匂いが混じっている。

 血ではない。

 刃物の手入れに使う油の匂いだ。

「追手か」

 エルネの顔が強ばる。

 チヨネの影が、足元で薄く広がった。

 吉継は水路の壁に手を触れた。古い石は苔で滑る。木戸の向こうは狭い水門跡。天井は低い。左右に崩れた管理小屋。正面には開かなくなった鉄柵。

 逃げるには悪い。

 だが、戦うには悪くない。

「左へ行く」

「えっ、追手がいるなら、右に逃げた方が」

「右は足を取られる。知らぬ魔物もいる。こちらは狭い。数の利を殺せる」

 エルネが喉を鳴らした。

「……戦うんですか」

「追われ続ければ、お前が先に死ぬ。だから、ここで追う足を減らす」

 その言葉に、エルネは黙った。

 吉継は腰の刀へ指を添えた。安物の鞘。刃こぼれした刀。だが、鉄は鉄だ。人の喉を裂くには足りる。

「チヨネ。エルネを守れ。俺が合図するまで前へ出るな。お前の影を、一番必要な場所に置く」

 ふん。

 不満げな音。

「俺を案じているのは知っている。だが、優先順位はエルネとお前だ。俺は最後で良い」

 チヨネは振り向いた。

 無言で、ぷるぷると震える。

 吉継はその頭に軽く手を置いた。

「説教はあとだ。今は従え」

 チヨネはしばらく見上げていたが、やがて小さく頷いた。

 木戸を押す。

 蝶番が嫌な音を立てた。

 水門跡は、灰色の光に沈んでいた。

 崩れた屋根の隙間から日が差し、浅い水面に白く揺れている。中央の通路は幅二人分。左右は水溜まり。奥に鉄柵。その手前に、三人の男がいた。

 灰色の羽根飾り。

 市で見た者たちと同じ印だ。

 いや、三人ではない。

 崩れた管理小屋の陰に、もう一人いる。杖を持った痩せた男。口元だけを布で覆い、こちらを見ずに水面を見ている。

 術者か。

 吉継は知らぬ言葉を飲み込んだ。

 魔法というものの理は、まだ分からない。だが、戦場で後ろに立ち、武器ではなく杖を握る者が危ういことくらいは分かる。

「来たな」

 中央の男が笑った。弓を持っている。左右の二人は短槍と曲刀。

 そして、男たちの足元に、泥の塊のようなものが二つ伏せていた。

 犬に似ている。

 だが、顔がない。頭部にあるのは、横に裂けた大きな口だけだった。泥と毛が固まったような背から、黒い水がぼたぼた落ちている。

 エルネが息を呑む。

「泥噛み犬……」

「あれが魔物か」

「噛まれると、魔力を吸われます。普通の人なら数分で動けなくなる」

 なるほど、と吉継は思った。

 この世界では、犬まで兵に使う。

 いや、犬ではない。ならば斬ることに迷いはいらない。

 弓の男が口角を上げた。

「影使いと代書屋を渡せ。お前は腕一本置いていけば見逃してやる」

「断る」

「早いな」

「考える余地がない」

 男の眉が動いた。

「病毒持ちが、偉そうに」

 その言葉に、チヨネの影が跳ねた。

「待て」

 吉継は静かに制した。

 チヨネの影が、ぎりぎりで止まる。

 弓の男はそれを見て笑った。

「飼い慣らしているつもりか? そいつは市場で売れ残った欠陥品だ。影は便利だが、喋れもしない」

 チヨネの指が震えた。

 エルネが小さく「ひどい」と呟く。

 吉継は刀の柄を握った。

 怒りはある。

 だが、怒りで斬るな。

 怒りは刃を鈍らせる。斬る理由は、怒りでは足りない。

 守るために斬る。

 その一点だけでよい。

「チヨネ」

 吉継は前を見たまま言った。

「聞かなくていい。お前の価値を、あの男が決めることはない。俺も、決めさせるつもりはない」

 背後で、チヨネが息を止めた気配がした。

「ふん……」

 細く、震える音だった。

 弓の男が舌打ちする。

 「やれ」

 泥噛み犬が跳んだ。

 水が割れる。

 一匹は真正面。もう一匹は右の水溜まりから回り込む。犬ではない。獣より低く、蛇より速い。

 同時に、管理小屋の陰の男が杖を振った。

火礫ファイアショット

 短い詠唱。

 杖の先から拳ほどの火が三つ生まれ、石壁を焦がしながら飛んでくる。

 吉継は目を細めた。

 火縄の弾ではない。矢でもない。だが、飛ぶ前に杖の先が光り、術者の肩がわずかに沈む。

 放つ前の癖がある。

 吉継は踏み込まなかった。

 一歩、退く。

 泥噛み犬の口が空を噛む。その瞬間、吉継は鞘で横から頭部を叩いた。

 火の一つが、吉継のいた場所を抜けて水面に落ちた。

 じゅっ、と白い湯気が上がる。

 残る二つは、チヨネとエルネを狙っていた。

「チヨネ、下がれ。エルネ、伏せろ」

 吉継は水路脇に積まれた朽ちた板を蹴った。

 板は湿って重く、低く滑り、火礫の一つを受けて燃えた。燃えきる前に水溜まりへ倒れ、黒い煙を吐く。もう一つはチヨネの影が弾き、壁へぶつかって消えた。

 手応えは粘土に似ていた。骨がない。

「刃が通るか。通らぬなら、通る場所を探すまでだ」

 問いではない。確認だ。

 吉継は抜刀した。

 ぼろい刀が、水門跡の薄光を拾う。

 二匹目が右からエルネへ跳ぶ。

 チヨネの影が伸びた。

 影縫シャドウバインド

 泥噛み犬の影が、水面の上でぴたりと縫い止められる。だが魔物の体は影を引き裂くように暴れ、チヨネの肩がびくりと跳ねた。

 まだ長くは止められない。

 吉継は左手を開いた。

 病毒魔力を、刃ではなく糸にする。

 黒く、細く、湿った糸。

 腐敗の匂いを持つそれは、指先から水面へ垂れ、泥噛み犬の前脚へ絡みついた。

 腐蝕糸ふしょくし

 糸が食い込んだ箇所から、泥の体が崩れる。

 骨を断つ技ではない。物の結び目を腐らせ、形を保つ力を緩める技だ。泥噛み犬の脚は、縄をほどかれた袋のように崩れ、跳躍の力を失った。

 そのまま、吉継は糸を水路の両壁へ走らせた。

 狙うのは人ではない。

 水門を吊っていた古い鎖。半ば腐った木梁。足元に沈んだ鉄輪。

 腐蝕糸が絡む。

 錆びた鎖が、ぎ、と嫌な音を立てた。

「何をしている」

 弓の男が一歩踏み出す。

 その足が、苔の浮いた石へ乗った。

 吉継は鞘の先で水面を叩いた。

 浅い水が跳ね、苔の上に薄く広がる。男の踏んだ石が滑った。

「足場を見る癖をつけるべきだったな。戦う前から、負ける場所に立っている」

 吉継は踏み込む。

 一足一刀いっそくいっとう

 魔物の裂けた口の内側へ、最短で刃を入れる。

 刀が泥の喉を割った。

 黒い水が噴き、浅瀬へ落ちる。

 もう一匹が影を破った。

 吉継の左腕に痛みが走る。病毒の糸を張った反動で、指の皮膚が熱を持った。だが手は止めない。

「エルネ、壁へ」

「は、はい!」

 エルネが石壁に身を寄せる。

 その上を、短槍が突き込まれた。

 人間の追手が動いていた。

 吉継は刀で受けなかった。受ければ刃が欠ける。半歩ずれ、槍の柄を鞘で打ち落とす。相手の手首が浮いた瞬間、柄頭を肘へ叩き込む。

「ぐあっ」

 短槍の男が膝をつく。

 曲刀の男が横から斬り込む。

 吉継はその刃筋を見た。

 速い。

 だが、戦場の斬り合いに慣れていない。相手の目が、刃ではなく吉継の顔を追っている。白布の奥を見ようとしている。

 ならば顔を餌にすればいい。

 吉継はわずかに顎を上げた。

 男の視線が吸われる。

 次の瞬間、吉継は低く入った。

 曲刀の内側。

 間合いの死角。

 前世で幾度も体に叩き込まれた、命を奪うための近さ。

 刀が男の脇腹を裂いた。

 深くはない。だが動きは止まる。

 そこへチヨネの影が絡み、男の足を引いた。男は水面に倒れ、顔を打って呻いた。

 管理小屋の陰から、術者が舌打ちした。

土牙アースファング

 水門跡の床が盛り上がる。

 濡れた石の隙間から、土でできた牙のような杭が突き出した。狙いは吉継ではない。エルネの足元だ。

 吉継は走った。

 斬る相手を変える余裕はない。

 守る相手を間違える余裕もない。

 吉継はエルネの襟首を掴み、壁際へ投げるように引いた。直後、土牙が彼女のいた場所を貫く。

 エルネの悲鳴。

 チヨネの影が術者へ走る。

「まだだ」

 吉継は叫んだ。

 術者はチヨネを誘っている。管理小屋の前だけ水がない。乾いた床。影を踏みにくい場所だ。

 ならば、乾いた場所をなくせばいい。

 吉継は腐蝕糸を強く引いた。

 錆びた鎖が切れる。

 古い水門板の片側が落ち、溜まっていた水が横から流れ込んだ。乾いた床が一瞬で濡れ、術者の足元まで薄い流れが伸びる。

 チヨネの影が、その水面の影を拾った。

 影纏シャドウグラスプ

 術者の足首に黒い影が絡みつく。

 術者が杖を振り上げる。

 吉継は水を蹴った。

 肺が焼ける。

 右腕が悲鳴を上げる。

 だが、止まればエルネが死ぬ。チヨネが焼かれる。

 ならば、止まる理由がない。

 短槍の男が横から割り込んできた。

 吉継は低く沈み、槍の内へ入る。槍は長い。だが、内側へ入ればただの棒だ。柄を肩で押し上げ、すれ違いざまに腹を斬る。

 一人。

 曲刀の男が水面から起き上がり、背後を狙う。

 チヨネの影が遅れる。

 吉継は振り返らず、鞘を逆手に打った。柄頭が男の顎を砕く。体が浮いたところへ、刃を返して胸を裂く。

 二人。

 術者の杖の先に、また火が灯った。

火礫ファイアショット

 吉継は左手の腐蝕糸を術者の杖へ絡めた。

 狙いは術者の体ではない。

 杖の先端に嵌められた赤い石。

 そこが光る。そこから火が生まれる。ならば、そこが火縄の火皿だ。

 腐蝕糸が石を留める金具を食む。

 火が生まれる寸前、赤い石が外れた。

 術者の手元で魔力が乱れ、小さな爆ぜる音がした。

「ぎゃっ」

 男が杖を取り落とす。

 吉継は踏み込んだ。

 術者の喉元へ、刀の峰ではなく刃を通す。

 三人。

 弓の男が矢を番える。

 狙いは吉継ではない。

 エルネだ。

 吉継は即座に右へ動いた。だが足元の水が遅い。間に合わない。

 弦が鳴る。

 その直前、チヨネがエルネの前へ飛び出した。

「チヨネ!」

 影が立ち上がる。

 矢は影に呑まれ、勢いを殺されて床に落ちた。

 だがチヨネの顔が歪む。完全には消せていない。影を無理に厚くした反動か、彼女の足元がふらついた。

 吉継の中で、何かが冷えた。

 弓の男が二本目を取る。

「便利だな、その娘。売れば高くつく」

 吉継は左手を振った。

 腐蝕糸ふしょくしが水面を走る。

 男は嘲るように後退した。だが糸は男ではなく、弓へ向かった。

 弦。

 留め具。

 矢筒の革紐。

 腐蝕糸は生き物のように絡み、音もなくそこを食んだ。

 男が矢を引いた瞬間、弦が切れた。

「なっ」

 吉継は走った。

 水を蹴る。血が喉に上がる。右腕が軋む。

 それでも走る。

 守るべきものが増えた。

 ならば、傷つく順も決まっている。

 最初は自分だ。

 弓の男が短剣を抜く。

 遅い。

 吉継の刀が男の手首を打つ。短剣が飛ぶ。次いで、肩口へ一撃。男は壁に背を打ち、息を詰まらせた。

「ま、待て。金なら」

「命に代えられるものなどない。お前が奪おうとしたものも、同じだ」

 吉継は刃を返した。

 男の顔から血の気が引く。

「俺は」

「聞かぬ。今さら命乞いで軽くなる罪ではない」

 刀が閃いた。

 男は崩れ落ちる。

 吉継は倒れた男たちを順に見た。

 まだ息がある者が、指先だけを動かしている。

 灰羽の印を持つ者を逃がせば、あとで刃がエルネの背に届く。チヨネの小さな肩に届く。

 吉継は目を伏せなかった。

「エルネ。チヨネ。奥を見ていろ」

 エルネが息を呑む。

 チヨネは一瞬だけ迷い、吉継の顔を見上げた。

「頼む」

 こくり。

 二人が鉄柵の方へ向いたのを確かめ、吉継は残った息を断った。

 水音が、短く途切れた。

 水門跡に、水音だけが戻った。

 エルネは壁に背をつけたまま、両手で口を押さえていた。

 チヨネは、倒れた男ではなく吉継を見ている。

 責めてはいない。

 ただ、見ている。

 吉継は血を払った。

「見るなと言うのは遅いな。だが、覚えなくていい。これは俺が背負う」

 エルネが震える声で言う。

「……殺したんですね」

「ああ」

「迷わず」

「迷えば、お前かチヨネが死んだ。俺は、その方がずっと怖い」

 エルネは目を伏せた。

 吉継は続けた。

「すまない。エルネには迷惑をかけた」

 その言葉に、エルネの肩が小さく震えた。

 チヨネが吉継の袖を掴む。

 ふん……。

 甘えではない。

 叱責でもない。

 痛いのか、と問う音だった。

「少しだ」

 チヨネがじっと見上げる。

「嘘ではない。少しで済ませる」

 納得していない顔で、チヨネは袖を離さなかった。

 その時、奥の鉄柵の向こうで水が盛り上がった。

 まだ終わっていない。

 泥噛み犬の残った一匹が、浅瀬を這うように起き上がっていた。口だけの顔が、チヨネへ向く。

 吉継は刀を構え直す。

 だが、その前にエルネが叫んだ。

「左の栓です! 古い水門なら、そこを抜けば水が落ちます!」

 吉継は視線を走らせた。

 左壁の腰の高さに、錆びた鉄輪。

 なるほど。

 この娘は、戦えない。

 だが、場を読む目がある。

「チヨネ、影であの輪を引けるか」

 こくり。

「エルネは俺の後ろへ」

 チヨネの影が鉄輪へ伸びる。錆びた輪がぎしぎしと鳴った。泥噛み犬が跳ぶ。

 吉継は真正面から迎えた。

 逃げない。

 魔物の口が開く。

 その寸前、鉄輪が抜けた。

 床下で何かが外れ、水門跡の浅瀬が一気に渦を巻く。泥噛み犬の体が足元から崩れ、流れに取られた。

 吉継は一歩踏み込み、首に当たる部分へ刃を入れた。

 黒い泥が割れ、水に呑まれていく。

 沈黙。

 今度こそ、敵はいなかった。

 吉継は二人を振り返らせなかった。

 左手を下げる。

 喰骸瘴手くがいしょうしゅ

 黒灰色の瘴気が床を這い、倒れた男たちと散った血を布で包むように覆った。中で何が起きているかは見せない。ただ、湿った音だけが水門の石に吸われ、やがて瘴気は小さく萎んだ。

 残ったのは、濡れた石と、薄い黒染みだけだった。

 その瞬間、吉継の右腕に走っていた痛みが、ふっと遠のいた。

 包帯の下で裂けていた皮膚が、内側から寄せられるように熱を持つ。指先に残っていた痺れが薄れ、肺の奥の焼けつく感覚も、わずかに浅くなった。

 治った、のではない。

 光の癒やしのような清らかさはない。むしろ、誰かの体温と、誰かが戦場で覚えた動きの癖が、黒い水のように自分の内へ流れ込んだ感覚だった。

 吉継は眉をひそめる。

 なぜ、動ける。

 病毒魔法を使えば、肉は削れるはずだった。

 今、何を食った。

 吉継は刀を鞘に納めた。

 その瞬間、喉の奥から血が上がる。

 咳を殺しきれなかった。

 白布の内側が熱く濡れる。

「大谷さん!」

「寄るな」

 吉継は片手で制した。

 光魔法はない。だが、この世界の者が慌てて治療を試みれば、何が起こるか分からない。

 自分の体は、自分で押さえる。

 瘴息鎮め(しょうそくしずめ)。

 体内に暴れた病毒魔力を押し戻す。肺の熱が少しだけ沈む。代わりに、右腕の包帯の下で、針を束ねたような痛みが走った。

 チヨネが無言で吉継の袖を引く。

 休め。

 そう言っている。

「ここでは休めん。血の匂いが残る」

 エルネが震える手で、落ちた矢筒を拾った。

「この灰羽の印……やっぱり東境神殿の裏仕事に使われる仲介印です。ここで戻らなかったら、次はもっと大きい手が来ます」

「なら急ぐ」

「でも、あなた、その体で」

「体の都合で守る相手を減らすつもりはない。そんな勘定を始めたら、俺は俺でなくなる」

 吉継は水門の奥を見た。

 鉄柵の横に、人ひとり通れる隙間がある。西へ抜ける風がそこから来ている。

「エルネ。宿場まで、あとどれほどだ」

「半刻ほどです。西宿カラン。人は多いけど、書き屋の組合があります。そこで偽装ではなく、正規の紹介状を作れるかもしれません」

「正規か」

「はい。危ない橋ですが、私の名前で頼める人が一人います」

 危ない橋。

 吉継はその言葉を胸中で転がした。

 危ない橋なら、すでに渡っている。

 関ヶ原でも、敦賀でも、そしてこの見知らぬ世界でも。

 それでも渡る。

 守ると決めた者がいる限り。

「行くぞ」

 チヨネが、ふんふん! と鳴いた。

 今度は、少し興奮を帯びた強い音だった。

 任せて。

 そう聞こえた。

 吉継は短く頷いた。

「ああ。頼りにしている。お前の道案内が、今の俺たちの命綱だ」

 チヨネの影が、吉継の影に寄り添った。

 三人は水門の隙間を抜ける。

 背後で、水が血と泥の匂いを押し流していく。

 だが、吉継は知っていた。

 流れたものは、消えたわけではない。

 ただ、次の場所へ運ばれるだけだ。

 追手も、敵意も、己の病も。

 そして、守ると決めた誓いも。

 西の風の先に、宿場の屋根がかすかに見えた。

吉継がまた一つ、守るための病毒魔法を形にしました。

チヨネとエルネも、それぞれの形で戦場に関わり始めています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ