第13話:橋下の誓い
喰骸瘴手まで使った吉継の身体は、確実に蝕まれていた。
三人は灰橋の下へ身を隠し、次に進む道を探ります。
橋の下は、朝の光が届きにくかった。
灰色の石橋。
その腹の下を、細い川が流れている。
水は浅く、川底には丸い石がいくつも転がっていた。
市の喧騒は、橋の上を通る人の足音に変わって聞こえる。
近い。
だが、見えない。
身を隠すには悪くない場所だった。
吉継は石壁に背を預け、ようやく膝をついた。
その瞬間、喉の奥から咳が噴き上がった。
「っ、げほ……!」
白布の内側が熱く濡れる。
血の味。
鉄の味。
喰骸瘴手の反動だ。
腐霧帳で肺を焼き、病鎖絡み(びょうさがらみ)で右腕を軋ませ、最後に喰骸瘴手で病毒魔力を深く引きずり出した。
当然の結果だった。
「ふん……!」
チヨネが駆け寄る。
外套の中から小さな手を伸ばし、吉継の右腕に触れようとして、途中で止めた。
触れてよいのか。
痛くないのか。
自分が触ることで悪化しないのか。
そんな迷いが、指先に出ていた。
吉継は左手を伸ばし、チヨネの頭に置こうとした。
だが、チヨネはその手をぺしりと払った。
「ふん!」
怒っている。
当然だ。
「すまぬ。怒って当然だ」
チヨネの肩が震える。
無言のプルプル。
謝れば済むと思うな。
そう言っている。
エルネは少し離れた石の上に座り、息を整えていた。
顔色は悪い。
だが、目は吉継を見ている。
「あなた、本当に何なの。怖いのに、放っておけないじゃない」
その声には、恐怖と怒りと困惑が混ざっていた。
「病毒持ちで、剣も使えて、人を殺せて、死体まで消せる。なのに、その子にはやけに丁寧で、私まで助ける」
吉継は答えようとして、また咳き込んだ。
血が喉に絡む。
チヨネが慌てて革袋を開ける。
マーヤから渡された薬包。
灰色の瓶。
黒い瓶。
包帯。
チヨネは黒い瓶を手に取った。
吉継は首を横に振る。
「それは、熱が上がった時だけだ」
「ふん!」
もう上がっている。
そういう抗議。
吉継は自分の額に触れた。
熱い。
たしかに、上がっている。
「半量だ」
チヨネは瓶を見つめる。
量が分からないらしい。
エルネがため息をつき、近づいてきた。
「貸して」
チヨネが警戒する。
「薬を盗むほど命知らずじゃないわよ。今のあなたの影、私の足を狙ってるでしょ」
チヨネの影が、ぴくりと動いた。
図星だった。
エルネは黒い瓶を受け取り、慎重に蓋を開ける。
「半量って、目盛りあるじゃない。ここまで」
チヨネに見せてから、木の小匙へ薬を注ぐ。
吉継はそれを飲んだ。
苦い。
舌が痺れる。
だが、身体の奥で暴れていた熱が、ほんの少しだけ沈んだ。
「助かった」
「礼より説明」
エルネは腕を組んだ。
「私、巻き込まれたのよね」
「そうだ」
「否定しないのね」
「否定しても状況は変わらぬ」
「最悪」
エルネはそう言ったが、逃げ出しはしなかった。
逃げても追われると分かっているのだろう。
文書を読んだ。
灰羽を見た。
吉継たちと一緒に逃げた。
もう無関係ではいられない。
「あなた、私をどうするつもり」
「まずは守る。巻き込んだ者を、置いて逃げる趣味はない」
「その次は」
「貴殿が離れられる状況を作る」
「できるの?」
「分からぬ。だが、分からぬから投げ出すつもりもない」
「そこは嘘でもできるって言いなさいよ」
「嘘で安心するか」
「しないけど、少しは気を使って」
吉継は少し考えた。
「努力する。……気を使うというのは、案外難しいな」
「今のところ全然期待できない」
チヨネが小さく鼻を鳴らした。
「ふん」
同意。
エルネがチヨネを見る。
「今の、絶対同意したわよね」
チヨネは目を逸らした。
吉継は、ほんの少しだけ目を細めた。
笑う余裕がある。
まだ倒れない。
そう判断した瞬間、右腕が強く疼いた。
包帯の下で、病毒魔力が暴れている。
喰骸瘴手で外へ引きずり出した力が、戻る場所を失って肉体を噛んでいる。
このままでは、動けなくなる。
吉継は呼吸を細くした。
外へ漏れた瘴気を、もう一度内へ沈める。
治すのではない。
押し込める。
暴れるものを、無理やり座らせる。
「瘴息鎮め(しょうそくしずめ)」
白布の下で、吉継の呼吸が変わった。
浅く。
細く。
長く。
右腕から漏れていた黒い脈動が、包帯の下へ沈んでいく。
喉の熱も、少しだけ引いた。
代わりに、全身へ重い倦怠感が落ちる。
エルネが顔をしかめた。
「それ、治療?」
「違う。先送りだ」
「もっと悪い」
「今は動く必要がある」
チヨネが、また無言でプルプル震えた。
今度は怒りだけではない。
悲しみに近い震えだった。
吉継はその震えを見て、言葉を選んだ。
謝るだけでは足りない。
この子は、謝罪がほしいのではない。
自分が傷つくたびに「仕方ない」と言われるのが嫌なのだ。
「チヨネ」
「ふん……」
「次は、もっと上手く使う。お前を怯えさせるための力ではない」
チヨネは首を横に振った。
使うな。
そう言いたいのだろう。
「使わねば守れぬ時がある」
チヨネの目が潤む。
「だが、使い方は選べる。巻き込まぬように。倒れぬように。お前が怖がるものを、できるだけ見せぬように」
吉継は、ゆっくりと言った。
「誓う。次は、使い方を誤らない。守るための力で、お前を傷つけたくはない」
チヨネはしばらく吉継を見ていた。
完全には納得していない。
だが、吉継が「使わない」と嘘をつかないことも分かっている。
やがて、彼女は小さく鼻を鳴らした。
「ふん……」
不満。
心配。
それでも、信じたい。
吉継はその頭を撫でた。
今度は、払われなかった。
エルネが小さく息を吐く。
「二人の会話、分かるようで分からないわ」
「私も、すべて分かるわけではない。だから見落とさぬように見ている」
「でも通じてる」
「通じるように見ている」
エルネは少し黙った。
その目が、チヨネの影を見る。
「あの子、ずっと怖かったんでしょうね」
チヨネが反応する。
吉継は、エルネへ視線を向けた。
「分かるのか」
「代書屋は、人の言いにくいことを聞く仕事でもあるの。文字を書けない人は、代わりに誰かへ伝えるために私の前で話す。借金、謝罪、遺言、婚約破棄、告発。だいたい、声より手を見る」
エルネはチヨネの指先を見た。
「食べ物を前にしても、あなたが言うまで手を伸ばさなかった。さっき袖を掴んだ時も、離したら置いていかれると思っているみたいだった」
チヨネは外套の中へ顔を隠した。
「ふん……」
困惑。
恥ずかしさ。
少しだけ、見抜かれた怖さ。
吉継はチヨネの前に手を置いた。
「無理に話さなくてよい。言葉にならぬものまで、急いで差し出さなくていい」
チヨネはこくりと頷く。
エルネもそれ以上は踏み込まなかった。
橋の上を、人が走る音がした。
三人は同時に黙る。
声が聞こえる。
「こっちに来たはずだ!」
「川沿いを見ろ!」
灰羽か。
それとも、騒ぎを聞いた市の者か。
吉継は川の流れを見た。
橋の下から、低い水路が続いている。
人が立って歩くには浅いが、身をかがめれば進める。
「ここにも長くはいられぬ」
エルネが顔をしかめた。
「どこへ行くの」
「王都へ向かう」
「無理」
即答だった。
吉継はエルネを見る。
「王都へ行く理由は二つある。一つは、敵の目を散らすためだ。境の町や灰橋に留まれば、神殿も捕縛屋も人を集めて囲みに来る。人の多い王都なら、身を隠す余地も、正規の文書を得る道もある」
吉継は濁った水面を見た。
「もう一つは、この国の中枢を知るためだ。誰が病毒を持つ者に敵意を向けさせているのか。神殿がどこまで関わっているのか。俺はこの世界の理を知らぬ。ならば、逃げながらでも学ぶしかない」
「通行証がいる。巡礼道は神殿の目がある。商隊に紛れるなら身分がいる。あなたは目立つ。その子も目立つ。私は巻き込まれて目立つ。最悪」
「解決策は」
「偽装通行証。読める地図。できれば商隊の荷札。あと、あなたが文字を少しでも読めるようになること」
吉継は頷いた。
「貴殿は作れるか」
「作れるけど、材料がいる。白紙の通行証、印の型、まともなインク、あと時間」
「場所は」
「この市にはない。西へ半日行ったところに、紙問屋を兼ねた宿場がある。灰羽より先に着ければ、何とかなるかもしれない」
「案内できるか」
「できるけど、対価は高いわよ」
「生存。まずは貴殿が明日も文句を言える状態にする」
「それは最低条件」
「では、王都まで無事に近づけたら、貴殿が安全に離れられる状況を作る」
エルネは目を細めた。
「約束?」
「約束だ」
「契約書にしたいところだけど、今は紙も時間もないわね」
「口約束では足りぬか。紙がなくとも、約束を軽く扱うつもりはない」
「普通は足りない。でも、あなたは約束を軽く言う人じゃなさそう」
吉継は、少しだけ目を伏せた。
約束。
その言葉は重い。
前世で果たせなかったものが、まだ胸の奥に刺さっている。
「約束は、守るためにある。破るくらいなら、最初から口にせぬ」
エルネは何かを感じ取ったのか、それ以上茶化さなかった。
「分かった。西の宿場まで案内する。ただし、途中で倒れないで」
チヨネが強く頷いた。
「ふん」
絶対に倒れさせない。
そんな顔だった。
吉継は立ち上がった。
膝がわずかに揺れる。
チヨネがすぐ支える。
エルネも反対側から肩を貸そうとして、途中で迷った。
「触って平気?」
「光魔法でなければ」
「私、代書屋。光らない」
「なら大丈夫だ」
エルネは吉継の左側を支えた。
「重っ」
「すまぬ」
「謝るなら少し軽くなって」
「努力する」
「無理な努力はしないで」
チヨネが、また小さく鼻を鳴らした。
「ふん」
同意。
橋の上の足音が近づく。
吉継は水路の先を見る。
暗い。
狭い。
だが、進める。
守るべき者が二人になった。
身体は削れている。
追手は増えている。
それでも、道はある。
ならば進む。
吉継は白布の下で、静かに息を整えた。
「行くぞ。橋の下で震えている時間は、もう終わりだ」
チヨネが頷く。
エルネが鞄を抱え直す。
三人は橋の下の水路へ足を踏み入れた。
冷たい水が足首を濡らす。
朝の光は、もう届かない。
だが、影は濃くなった。
チヨネの影が、吉継の影とエルネの足元を包むように広がる。
守るための影。
その中を、三人は西へ進んだ。
お読みいただきありがとうございます。
今回は戦闘後の代償と、吉継・チヨネ・エルネの関係を整える回でした。
吉継は「使わない」とは言えませんが、「使い方を誤らない」とチヨネに誓います。




