第144話 信じなかった人
翌朝、吉継は侯爵邸の小さな祈り室でジゼリアを待っていた。
壁に掛けられた光神教の紋章は、朝日を受けて白く輝いている。吉継は窓から一歩離れた場所に立っていた。
扉が開く。
ジゼリアは一人で入ってきた。白銀の鎧も剣も身につけているが、兜だけは抱えている。
いつもの彼女なら、真っ直ぐ吉継の前へ立つ。
今日は三歩手前で止まった。
「昨夜は、感情のまま話してしまいそうでした」
「あれだけ抑えられたのなら、十分に冷静だったと思う」
「そういう話をしに来たのではありません」
ジゼリアの声が強くなる。
「なぜ私を信じて話してくれなかったのですか」
吉継はすぐには答えなかった。
言葉を選んで責任を軽くすれば、彼女をさらに傷つける。そう分かっていた。
「貴殿は、神殿の者から査察について問われれば、嘘をつけぬ」
「ええ。私は否定したでしょう」
「その反応を見れば、腐敗した司祭は噂が偽りだと知る。帳簿も銭も動かさなかった」
「だから、私には知らせなかった」
「ああ」
ジゼリアは兜を抱える腕へ力を込めた。
「それは、私を信じたのではありません。私が嘘をつけないと知って、策に利用しただけです」
吉継は否定できなかった。
「私が反対すると決めつけたのですか」
「正面から神殿へ行くと言っただろう」
「言ったと思います。怒って、今すぐ帳簿を出させるべきだと叫んだでしょう」
ジゼリアは自分の短気を隠さなかった。
「ですが、その後で貴方の話を聞いたかもしれません。私にできない役なら、別のやり方を二人で考えられたかもしれない」
声がわずかに震える。
「それを選ぶ機会まで、なぜ奪ったのですか」
「証拠を消される前に動く必要があると、俺が判断した」
「つまり、私の意思より策を優先したのですね」
「その通りだ」
ジゼリアの青い瞳に怒りが戻った。
「以前、貴方は私を囮ではなく、倒れてはならない旗だと言いました」
「覚えている」
「旗なら、本人に何も知らせず、勝手に名を掲げてもよいのですか」
「よくない。だが、今回はそう扱った」
吉継は頭を下げた。
「貴殿には反対する権利があった。俺はそれを奪った。すまなかった」
ジゼリアは目を見開いた。
策の必要性を説かれ、最後まで正しいと言い張られると思っていたのだろう。怒りの行き先を失ったように、唇を一度噛む。
「……謝れば、元どおりになると思っていますか」
「思っていない」
「では、次も同じ状況になれば、また私を利用しますか」
吉継はそこで初めて迷った。
同じ条件なら、同じ策を選べば証拠は得られる。だが、それではジゼリアを仲間ではなく、動かすための道具として扱うことになる。
「次は先に話す。貴殿が反対したなら、説得する。それでも駄目なら、貴殿の名を使わぬ別の策を選ぶ」
「本当に?」
「約束する」
ジゼリアは吉継の顔を見つめた。
やがて兜を持ち直し、小さく息を吐く。
「帳簿の調査は続けます。私の名を使われたからではありません。救貧のために寄進された金を、誰かを殺す道具へ変えさせないためです」
「原本は王国側で保管する。貴殿には写しを渡そう」
「神殿の中にも、まだ信頼できる者はいます。私の側から、保存聖油を扱った者を探します」
二人の目的は同じだった。
だが、以前のように並んで歩けるほど、傷は浅くない。
「吉継殿。私はしばらく、貴方のそばには立てません」
「分かった」
「それでも、困っている人がいれば助けます。貴方が先に見つけたとしても、そこだけは譲りません」
その言葉には、ジゼリアらしい意地が戻っていた。
吉継はわずかに目を細める。
「ああ。貴殿なら、そう言うと思っていた」
「今の言葉も計算ですか」
「違う。これは信じている」
ジゼリアは返事をしなかった。
ただ、部屋を出る前に一度だけ振り返った。その目から怒りは消えていない。それでも、昨夜ほど冷たくはなかった。
◇
同じ頃、王都大神殿の奥では、数人の高位司祭が円卓を囲んでいた。
机には、昨夜運び出した帳簿を奪われたという報告と、聖騎将ジゼリアが病毒持ちの軍師と会っているという報告が並んでいる。
「ジゼリア様は、人身売買に加担した東境神殿を正した方です」
若い司祭が立ち上がった。
「今回も、保存聖油を悪用した者を調べようとしているだけではありませんか」
白金の法衣をまとった老司祭が、指先で机を叩く。
「だから危険なのだ。あの娘は、自分の信じた正義のためなら、高位司祭にも真っ向から逆らう」
「ですが、証拠を隠せば、教団への信頼が――」
「信頼を失わせたのは、病毒持ちだ」
老司祭は言い切った。
「聖騎将は病毒持ちに名を使われ、神殿の会計を混乱させた。長く行動をともにするうち、その心まで汚された。そう各地へ伝えよ」
若い司祭の顔から血の気が引いた。
「事実ではありません」
「民が信じる形に整えるのも、教団を守る務めだ」
反論は許されなかった。
別の司祭が、声を潜めて尋ねる。
「ジゼリア様を呼び戻しますか」
「命じても、今のあの娘は素直に戻るまい」
「では、どうなさるおつもりです」
老司祭は円卓の端に置かれた、白い封書へ目を向けた。
「光は、一人だけではない」
封書には、純白の花をかたどった印が押されている。
「第二聖女候補を、王都へ呼びなさい」




