第143話 光神教の金脈
夜が明けても、ヴァルグレン侯爵邸には祝いの空気など戻らなかった。
寝室ではディートハルトが眠り、扉の外にはアリスティの傭兵が立っている。吉継は隣室の机に、葡萄酒の瓶から剥がした封蝋を置いていた。
イーナが欠片を細い銀針で削る。赤い蝋の内側から、淡い金色の粉がこぼれた。
「やっぱり、保存聖油が混ざっているわね。神殿が聖具や古い経典を守るために使う物よ」
「市で買える物か」
「無理ね。使った量も、渡した相手も神殿の出納簿に残す決まりよ。まともに管理されていれば、だけれど」
最後の一言に、イーナの皮肉が滲んだ。
正面から神殿へ踏み込めば、帳簿を隠す時間を与える。証拠が残っていたとしても、担当の司祭一人へ罪を押しつけて終わるだろう。
ならば、隠す側から動かせばよい。
◇
昼を過ぎた頃、パトリア・クレアが侯爵邸を訪れた。
深い青緑の長衣を揺らしながら部屋へ入ると、机上の封蝋を見て琥珀色の目を細める。
「病人の見舞いにしては、随分と物騒な品を並べているのね。吉継殿、今度は何を買いたいの?」
「噂を一つ、王都へ売ってほしい」
「あら。形のない品ほど高いわよ」
パトリアは向かいの椅子へ腰を下ろし、笑みを浮かべたまま続きを待った。
「聖騎将ジゼリアが明朝、王都にある神殿の保存聖油と出納簿を調べる。そう流してくれ」
「本当に査察するの?」
「しない」
パトリアの笑みが、わずかに薄くなった。
「本人には?」
「知らせていない」
「なるほど。聖騎将殿は嘘をつけないものね。知ってしまえば、真っ直ぐな顔に出る」
「ああ。腐った者だけを動かすには、知らぬままでいてもらう必要がある」
パトリアは指先で机を二度叩いた。
「噂は夕刻までに神殿商人へ届くわ。ただし、代金は銀貨では払えないかもしれない」
「分かっている」
「本人に嫌われても?」
「証拠が消えれば、次に殺される者が出る」
吉継の答えを聞き、パトリアは小さく息を吐いた。
「そういう勘定を迷わず選ぶから、吉継殿との商売は高くつくのよ」
◇
日が沈む前には、噂が王都の六つの神殿へ流れていた。
保存聖油を扱う香料商。神殿へ蝋燭を納める職人。寄進を預かる両替商。パトリアは一度もジゼリアの命令書を作らず、人から人へ「明朝、査察があるらしい」と囁かせた。
夜半、一台の荷車が西神殿の裏門から出た。
少し遅れて、幌を掛けた別の荷車が北の奉納庫を離れる。
屋根の影に伏せていたチヨネが、吉継を見上げた。その隣では、チヨネと同じ顔をした双影が、同じように胸を張っている。
「西の荷車には帳簿、北には銭が積まれているはずだ。チヨネは西を追え。双影は北だ」
二人のチヨネが、同時に「ふんふん!」と鼻を鳴らした。
パトリアが目を瞬かせる。
「どちらが本物なの?」
「右だ」
吉継が本物の頭へ手を置くと、左の双影が不満そうに頬を膨らませた。仕方なく、そちらの頭も撫でる。
二人は満足そうに頷き、別々の影へ沈んだ。
◇
西の荷車が向かったのは、城壁近くの陶工場だった。
炉には火が入っている。司祭服の男が幌から帳簿の束を抱え、職人へ怒鳴った。
「全部燃やせ! 聖騎将が来る前に、一枚も残すな!」
帳簿が炉へ投げ込まれる直前、床の影が伸びた。
黒い帯が男の足首をさらい、身体を仰向けに倒す。チヨネは落ちた帳簿を抱き取ると、追ってきた護衛の剣を短刀で外へ弾いた。
もう一人が出口へ回る。だが、そこにはアリスティの傭兵二人が待っていた。
「夜中に帳簿を焼く仕事か。神殿勤めも大変だな」
退路を塞がれた護衛は剣を捨て、両手を上げた。
一方、北へ向かった双影は、銭を積んだ荷車を追って両替商の裏倉へ潜り込んでいた。
積み下ろされた箱には救貧寄進と書かれている。だが中身は食料でも薬でもなく、ガリア家の紋章を削った金貨と、支払い先を記した受取証だった。
双影は受取証を一枚抜き取り、箱の蓋を元へ戻す。
そのまま壁の影を伝い、夜明け前に吉継のもとへ帰った。
◇
二冊の出納簿と一枚の受取証を重ねると、銭の流れが見えた。
ガリア家から救貧のために寄進された金が、神殿の帳簿を通って保存聖油の購入費へ変わっている。聖油は正規の用途より多く買われ、余った分だけ受取人の名を空白にして外へ運び出されていた。
七年前、ディートハルトへ贈られた葡萄酒と同じ時期にも、大量の聖油が消えている。
「これで神殿とガリア家の間に、金と聖油が流れていたことは示せるわね」
パトリアが受取証を指で弾いた。
「ただし、誰が暗殺術式へ使ったかは、まだ別の証拠が必要よ」
「十分だ。次に動く者を追える」
その時、廊下から硬い足音が近づいた。
扉が開く。
白銀の鎧をまとったジゼリアが立っていた。いつもなら真っ直ぐ前を向く青い瞳が、今は静かな怒りに揺れている。
「王都中の神殿から、私へ確認が来ています」
彼女は机の上の帳簿を見た。次にチヨネ、パトリア、最後に吉継へ視線を向ける。
「私は、保存聖油の査察を命じていません」
「俺が噂を流した」
吉継は言い逃れをしなかった。
ジゼリアの右手が、胸元の十字架を強く握る。光は出なかった。
「私が知れば、顔に出る。腐敗した司祭たちが動かなくなる。そう考えたのですか」
「ああ」
「だから、私の名を使ったのですね。私には何も言わずに」
「その通りだ」
短い返事が、部屋の空気を冷やした。
ジゼリアは救貧寄進と書かれた受取証を手に取る。紙を持つ指が震えていた。
「この証拠があれば、救える人がいるのでしょう」
「いる。このまま追えば、次の犠牲も止められる」
「それなら、策は成功です。私は喜ぶべきなのでしょうね」
彼女は顔を上げた。怒りよりも深い痛みが、その目にあった。
「ですが今は、あなたへ礼を言えるほど器用ではありません」
ジゼリアは受取証を机へ戻し、背を向ける。
「明日、理由を聞かせてください。今夜は……あなたの顔を見ていたくありません」
扉が閉じた。
机には、光神教とガリア家をつなぐ証拠が残った。
同時に、目には見えない亀裂も残った。
吉継は追わなかった。
己が選んだ策の代価まで、他人へ払わせるつもりはなかった。




