第142話 祝い酒の毒
古い葡萄酒の栓が抜かれた。
甘く濃い香りが、ヴァルグレン侯爵邸の食堂へ広がる。
家令は銀杯へ少量を注ぎ、毒見役へ渡した。男は口に含み、しばらく待ってから頷く。
「異常ありません」
「七年も寝かせた酒だ。悪くなっていたら、伯父上へ代金を請求するところだった」
ディートハルトが笑うと、側近たちの間からも控えめな笑いが起きた。
だが、誰も伯父という言葉へ続こうとはしない。
ディートハルトは自分の杯へ酒を注がせた。
「今夜をもって、ヴァルグレン家はガリア派を離れる。西部の兵は王命にのみ従う。古い縁へ、別れの一杯だ」
杯を口へ運び、酒を飲み下す。
その直後だった。
赤い封蝋の蔦模様が、火に炙られたように輝いた。
「侯爵様?」
ディートハルトの手から銀杯が落ちた。
喉を押さえ、椅子ごと床へ倒れる。呼吸をしようと口を開いても、浅い息しか吸えない。灰緑色の瞳が大きく見開かれた。
「毒だ!」
「毒見は済んでいる!」
「水を持ってこい! 吐かせろ!」
側近たちが一斉に動いた。
その足元から、黒い影が立ち上がる。
チヨネだった。
伯父を捨てた直後こそ、ディートハルトは狙われる。そう読んだ吉継の命で、チヨネは王宮から屋敷まで密かについてきていた。
「何者だ!」
護衛が剣へ手を伸ばすより早く、チヨネは床へ膝をついた。ディートハルトの身体を横へ向け、吐かせようとする側近の手を強く払う。
「待て!」
家令が護衛を止めた。
「その娘は大谷殿の配下だ。侯爵様を動かすな!」
チヨネの隣で、もう一人のチヨネが床から姿を現した。
同じ顔、同じ黒衣、同じ焦りを浮かべている。
本物が扉を指すと、双影は一度頷き、廊下へ駆け出した。その身体は角を曲がると黒く崩れ、壁や屋根の影を渡って王宮へ向かう。
◇
「吐かせなかったのは正解よ。喉が動いていない時に吐かせれば、今頃は息が完全に止まっていたわ」
ほどなくして、イーナ・シナールが食堂へ飛び込んできた。
褒賞に集まった負傷兵を診るため、王宮の救護所に残っていたのだ。深紫の髪は走った拍子にほどけ、細縁眼鏡も少し傾いている。
その後ろから吉継が入り、最後に双影が本物のチヨネへ溶けるように戻った。
「イーナ殿、助かるか」
「助けるために来たの。質問は手を動かしながらにして」
イーナは手首の甲で眼鏡を押し上げ、ディートハルトの首へ指を当てた。
「脈が遅い。息を動かす筋肉だけが止められている。毒見役は?」
「私です」
「舌の痺れ、吐き気、目のかすみは」
「何もありません」
「では、酒そのものへ毒を混ぜたのではないわね」
イーナの瞳に、細い紫の光輪が浮かぶ。
脈理透視。
指先からディートハルトの脈と魔力の流れを読み、胸元、喉、右手へ順に触れていく。やがて、宝石指輪の下で止まった。
「この指輪、ガリア家から贈られた物?」
家令が青ざめた。
「西方軍総監への就任時、葡萄酒とともに贈られました」
「外して。指ごと切る必要はないから、慌てないで」
指輪が抜かれると、その下から赤黒い蔦の痕が現れた。細い線が手の甲を這い、腕へ伸びている。
「毒を飲ませたのではない。酒と指輪を鍵にして、侯爵本人の魔力から毒を作ったのよ」
「毒見では分からぬわけか」
吉継が瓶の封蝋へ目を向ける。
「ええ。ほかの人が飲んでも、ただの古い葡萄酒。ガリア家との契約を破棄した本人が口にした時だけ、術式が動く仕掛けね」
イーナは薬箱から赤札と黒札の瓶を一本ずつ取り出した。
「侯爵様。聞こえているなら、少し痛いけれど我慢して。生き残れば、あとでいくらでも文句を聞くわ」
二つの薬を小さな器へ垂らし、長い薬匙で混ぜる。
液体は濁った紫から、わずかに透ける黒へ変わった。
禁薬調律。
イーナは薬液をディートハルトの舌下へ少量ずつ流し込み、赤黒い蔦の痕へ残りを塗った。
「心臓を止めないで、毒だけを眠らせる。量を間違えれば本当に止まるから、静かにしていて」
誰も返事をしなかった。
数十息の後、ディートハルトの胸が大きく上下した。
「ごほっ……!」
空気を求める荒い咳が、静まり返った食堂へ響く。
家令が膝から崩れ落ちた。
「まだ喜ばないで。今夜は眠らせない。呼吸と脈が落ちれば、すぐ私を呼んで」
「俺が見よう」
吉継が言うと、イーナは鋭く振り返った。
「あなたは医師ではないでしょう。人を見張るなら得意な人へ頼みなさい」
「もっともだ」
◇
ディートハルトの呼吸が落ち着いた後、吉継は割れた封蝋を布の上へ並べた。
「七年前の贈り物なら、王の赦免後にバルトロメウスが新たな命令を出した証拠にはならぬな」
「そもそも、この印を誰が刻んだかも分かりません」
家令は悔しそうに唇を噛んだ。
「ガリア家の紋章だけでは、術者まで断定できないか」
「でも、手掛かりはあるわ」
イーナが封蝋の欠片を鼻先へ寄せた。
「聖油の匂いがする。術式を七年も眠らせ、封を切るまで劣化させないために、神殿で使う保存聖油が混ぜられている」
「光神教の物か」
「ええ。ただし、どの神殿から出たかまでは分からないわ」
罪を裁くには足りない。
だが、次に調べる場所を選ぶには十分だった。
「吉継さん。その顔をすると、また患者を置いてどこかへ行くでしょう」
「今夜は行かぬ。まず、生きている侯爵を守る」
吉継は家令へ、王都に残るバルシュタイン傭兵団を呼ぶよう頼んだ。
しばらくして、濃紺の軍服をまとったアリスティが部下二十人とともに現れる。
「護衛は引き受けます。ただし、寝室だけでなく酒蔵まで見張るなら割増ですよ」
「払おう」
「即答ですか。侯爵を随分と高く買ったものですね」
寝台へ運ばれたディートハルトが、かすれた声を出した。
「私は……まだ、貴殿の味方ではないぞ」
「知っている。だが、ここで貴殿が死ねば、西部の兵をガリア家へ戻す口実を与える」
「最後まで、利の話か」
「それなら貴殿も納得できるだろう」
ディートハルトは苦しそうに息を吐き、それでもわずかに笑った。
「ハハッ……腹の立つ男だ」
吉継は返事をせず、赤い封蝋の欠片を見つめた。
葡萄酒は七年間、毒ではなかった。
人と家を縛る鎖が切れた瞬間にだけ、牙へ変わった。
その鎖を長く眠らせた金が、光神教へ流れている。
次に追うべきものは、酒ではなかった。
神殿へ渡った銭の流れだった。




