第141話 伯父を捨てた甥
褒賞の儀が終わった日の夕刻、吉継は王宮の客室で白蝶城へ戻る支度をしていた。
エルネが受け取った兵糧の目録を確かめ、チヨネは窓辺で二つの影を重ねて遊んでいる。片方が伸びれば、もう片方も真似をした。
そこへ、扉を叩く音が響いた。
「ディートハルト・フォン・ヴァルグレン侯爵がお越しです」
侍従の声に、チヨネの影が一つへ戻る。
「通してくれ」
入ってきたディートハルトは、儀礼用の上着を脱いでいた。葡萄酒色の胴着には細かな埃がつき、整えていた赤褐色の髪も乱れている。
普段なら漂うはずの香水と酒の匂いも、今日は薄かった。
「二人だけで話したい」
吉継がエルネへ目を向けると、彼女は目録を抱えて廊下へ出た。チヨネは動こうとしない。
ディートハルトが眉を寄せる。
「その娘もだ」
「チヨネは俺の影だ。影を外へ追い出すことはできぬ」
「ふん」
チヨネは吉継の隣へ移り、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「まあいい。今さら一人増えたところで、私の恥は減らん」
ディートハルトは卓上へ一通の書状の写しを叩きつけた。
評議で偽物と断じられた黒印状を、王宮の記録官に写させたものだった。
「単刀直入に聞く。これは貴殿が用意したのか」
吉継は書状へ手を伸ばさなかった。
「先の評議で答えた通り、俺が認めた正式な書状ではない」
「そんな答えを聞きに来たのではない!」
ディートハルトの拳が卓を打つ。宝石の指輪が木へ当たり、硬い音を立てた。
「貴殿は私と三度会った。千金を正門から運び込み、私に警護を増やさせた。その直後に、この書状が伯父の手へ渡った。すべてが偶然だと言うつもりか」
「偶然ではないこともある」
吉継が認めると、ディートハルトの顔から怒鳴り声が消えた。
「やはり、私をガリア家から引き離すためか」
「俺の狙いだけを知って、何になる」
「何だと」
「重要なのは、書状が偽物かどうかではない。バルトロメウスが、貴殿の言葉より書状を信じ、兵を送ったことだ」
ディートハルトの口が止まった。
最初に来たのは、失効した軍務監察印を持つ者たちだった。ディートハルトは王宮への照会が済むまで待てと求めた。
返ってきたのは正式な命令ではない。百人の兵と、藍色の女刺客だった。
「貴殿は説明する機会すら与えられなかった。伯父上は貴殿の潔白を確かめるより、屋敷を襲い、千金と契約書を奪う方を選んだ」
「私が裏切ったと考えたからだ」
「血を分けた甥を、書状一枚で敵と決めたのだな」
ディートハルトの指が、問題の書状を強く掴んだ。紙の端が潰れる。
「ならば、貴殿は違うと言えるのか。私と伯父の間に亀裂が入れば、白蝶城にも宰相にも都合がよいはずだ」
「ああ。ガリア派最大の武門が離れれば、ミセリア殿と王国には利がある」
吉継は目を逸らさなかった。
「だが、俺への忠誠を求めるつもりはない。貴殿が俺を疑うのも自由だ」
「随分と勝手な話だ」
「命を狙った伯父と、利を認めた俺。どちらを信用するかではない。二度と誰にも勝手に兵を動かされぬよう、貴殿自身が決めればよい」
部屋に沈黙が落ちた。
窓辺のチヨネも、今は影を動かしていない。
やがてディートハルトが椅子へ腰を下ろした。背もたれが重く鳴る。
「私は、西部三要衝の指揮権を軍務院へ一時返した」
「聞いている」
「そのまま返さぬと言えば、貴殿は喜ぶか」
「私兵として動かせる権限は王国へ返すべきだ。しかし、西部を守ってきたヴァルグレン家の経験まで捨てる必要はない」
「兵は奪うが、働けと言うのか」
「王命の下で率いればよい。貴殿の兵站と常備兵は、伯父上のためではなく王国を守るために使える」
ディートハルトはしばらく吉継を睨み、やがて喉の奥で笑った。
「ハハハッ。千金を置いた男が、次は兵まで返せと言うか。強欲なのは私ではなく、貴殿かもしれんな」
「千金で買った軍馬と米と荷車は、契約通り受け取る。そこは譲らぬ」
「安心した。何もかも正義のためだと言われたら、今度こそ信用できなくなるところだった」
笑いが消える。
ディートハルトは潰れた偽書状を二つに折り、懐へしまった。
「明朝、ガリア家との派閥関係を断つと公表する。三要衝は王国軍務院の監督下へ置き、ヴァルグレン家は王命によって西部防衛を担う」
「伯父上のもとへは戻らぬのだな」
「私を殺そうとした男を伯父と呼べるほど、私は情深くない」
立ち上がったディートハルトが扉へ向かう。
「大谷殿。一つだけ忠告しておく」
「何だ」
「伯父を捨てたからといって、貴殿の側へ立ったわけではない。私に刃を向ければ、次は貴殿と争う」
「それでよい。少なくとも、誰の命令で剣を抜くかは自分で選べ」
ディートハルトは振り返らず、片手だけを上げて部屋を出た。
◇
その夜、王都のヴァルグレン侯爵邸では、久しぶりに食堂の灯がともされた。
ガリア派を離れると決めた祝いに、ディートハルトは側近たちへ酒を出させた。
「侯爵様。西の酒蔵に、古い葡萄酒が一本残っておりました」
家令が埃を払った瓶を卓上へ置く。
封蝋には、絡み合う蔦と鷲の印があった。
「ガリア公爵閣下から、王国西方軍総監へのご就任祝いとして贈られた物です」
ディートハルトは瓶を見つめ、皮肉そうに口元を曲げた。
「伯父上からの最後の贈り物か。ちょうどよい。今夜、空けよう」
家令が栓へ手をかける。
赤い封蝋の下で、長く眠っていた術式が静かに目を覚ました。




