第139話 針孔の書状
夜明けから二刻後、王宮の大評議室には西部の有力貴族と軍務官が集められていた。
長机の右にはディートハルト・フォン・ヴァルグレン。左には、蟄居先から連れてこられたバルトロメウス・フォン・ガリアが座っている。
二人の間に立つミセリアが、黒印の押された書状を掲げた。
「この書状は、ガリア公爵から提出されました」
室内の視線が、末席に立つ吉継へ集まる。
「大谷吉継がヴァルグレン侯爵へ千金を渡し、西部三要衝の兵をガリア家から離反させようとした証拠だ」
バルトロメウスの声は静かだった。
「末尾には大谷吉継の名があり、黒印も押されている。侯爵と三度会い、千金を運び込んだ事実とも一致する」
「知らん!」
ディートハルトが机を叩いた。
「大谷殿とは軍馬、米、荷車を取引しただけだ。そのような書状を受け取った覚えはない!」
「受け取る前に、私の者が押さえたのであろう」
「ならば、私が知らぬところで書かれた物を使い、私まで反逆者に仕立てるつもりか!」
「静粛に」
ミセリアの声が、二人の怒声を断った。
彼女は記録の眼を開き、過去に吉継が提出した書状を脳裏へ重ねる。
「文字の傾き、筆圧、払いの癖は一致しています。黒印も、見た限りでは同じです」
家臣たちがざわめいた。
ミセリアは断罪しなかった。ただ吉継を見て、書状を差し出す。
「説明を求めます」
「承知した」
吉継は書状を受け取った。
文字より先に、紙の縁を指でなぞる。次に封蝋の下へ親指を滑らせ、裏返した。
やがて、静かに息を吐く。
「よく似せてある」
「似せてある、だと?」
バルトロメウスの眉が動いた。
「筆跡は、時間をかければ真似できる。印も同じだ。押された蝋から型を取れば、形だけは写せる」
「言い逃れだ!」
ガリア派の貴族が立ち上がった。
「ならば、何をもって偽物と申す!」
吉継は答えず、ミセリアへ手を差し出した。
「以前、俺が提出した書状を一通借りたい」
ミセリアが侍従へ命じる。間もなく、白蝶城の水運工事について吉継が提出した書状が運ばれてきた。
「文字を見る必要はない。黒印の下へ指を置いてくれ」
ミセリアは言われた通り、乾いた封蝋の下を指先でなぞった。
「小さな穴が三つあります」
「今度は、そちらを」
問題の書状には、何もなかった。
室内のざわめきが消える。
「俺は、かつていた国で病により目を悪くしていた。自分が書いた物か確かめるため、正式な書状には針で小さな印を残していた」
見えなくても、指で触れれば分かる。
宛先と日付によって穴の位置を変える習慣は、若い肉体を得た今も残っていた。
「この書状には、それがない。俺の筆跡を真似た者は、見える形ばかり追い、指で読む印までは知らなかったようだ」
バルトロメウスだけが、書状ではなく吉継の顔を見ていた。
「貴様……最初から、この書状が表へ出ると分かっていたのか」
「何のことだ」
吉継は穏やかに問い返した。
その目に笑いはない。だが、バルトロメウスの薄い唇から血の気が引いた。
「提出された書状は、吉継本人が正式に作成した文書とは認められません」
ミセリアが結論を下す。
「ヴァルグレン侯爵への買収を示す証拠にはならない。対して、失効した監察印を用いた武装侵入には、証言と捕虜が存在します」
彼女はバルトロメウスへ向き直った。
「蟄居中の身でありながら、再び私兵を動かした罪は重い。公爵位、旧軍務権、ガリア家が保持する官職推薦権の剥奪を――」
「待て」
かすれた声が、評議室の奥から届いた。
閉ざされていた扉が開く。
王室侍医長と二人の近衛に身体を支えられ、エドワード・レガリアが入ってきた。
頬は痩せ、王衣の下の身体は驚くほど細い。歩くたびに息が乱れていたが、その目には王国を率いてきた者の光が残っている。
「陛下……!」
全員が立ち、膝をついた。
エドワードは玉座まで進まず、近衛の腕を借りたまま立ち止まった。
「報告は、すべて聞いた。バルトロメウスが命を出し、王国の兵を争わせたこともな」
「ならば、裁定を」
ミセリアが頭を下げる。
「命は取らぬ」
家臣たちの間に、押し殺した声が広がった。
「バルトロメウスは公職へ戻さず、これまで通り蟄居とする。外部との書状と面会は王家の監視下へ置け」
「陛下、今回で二度目です」
「分かっている」
王の声に、初めて苦しさがにじんだ。
「だが今ここでガリア公を処刑すれば、第一王子リシャールを掲げる者たちは、宰相が王位継承を妨げるため外祖父を殺したと叫ぶ。西部の兵を止めた直後に、王国を二つへ割るわけにはいかぬ」
正しさではなく、国を割らないための裁定だった。
バルトロメウスが深く頭を下げる。その口元に浮かびかけたものを、吉継は見逃さなかった。
ミセリアはしばらく何も言わなかった。
机の下で握った指が白くなる。それでも顔を上げた時には、いつもの静けさを取り戻していた。
「陛下がそう裁かれるのであれば、宰相として従います」
その言葉で、裁定は決した。
吉継にとっても想定外だった。
五千の兵を動かして私闘を止めたミセリアは、王国を救った宰相として発言力を増した。偽書状は崩れ、バルトロメウスが命じた武力行使だけが残った。
本来なら、ここでガリア派の柱を折れるはずだった。
だが、ミセリアは王ではない。
エドワードから国政を預かり、その権威を支える宰相にすぎない。どれほど正しくとも、王が赦せば剣を収めなければならない。
前世で見た、主君の一言が万の理を覆す世と同じだった。
病んだ王は、王国を守るために罪人を残した。
そして、その判断さえもバルトロメウスの盾になった。
吉継は白い頭巾の下で、静かに目を細める。
敵の策を破るだけでは足りない。
次は、王が赦そうとしても二度と立てぬところまで、根を断たなければならなかった。




