第136話 笑う軍師
夜半を過ぎた白蝶城で、吉継は机へ向かっていた。
灯りの届かない床が揺れ、黒い人影が音もなく立ち上がる。
ヴァルグレン侯爵邸の警護へ向かわせた、チヨネの双影だった。
「屋敷は、まだ持ちこたえているか」
双影が大きく頷く。
続けて、古い印を掲げる仕草をし、両手の指を何度も開いた。最後に藍色の巻物を広げる真似をする。
旧監察印。百人近い兵。藍色の女刺客。
「そうか。隠居公は、そこまで踏み込んだか」
吉継が頷くと、双影は再び床の影へ沈んだ。
それから間もなく、城門の方角から馬の蹄が響いた。
馬は中庭へ駆け込み、白い息を荒く吐いて止まる。鞍から飛び降りたのは、深緑の髪を高く結んだトモエリアだった。
銀の軽鎧へ夜露をまとったまま、彼女は執務室の扉を押し開ける。
「夜分に失礼する。だが、朝までは待てない」
差し出された書状には、ヴァルグレン侯爵家の印が押されていた。
吉継は封を切り、初めて読むように一文ずつ目を通す。
ガリア家の旧監察印を持つ兵が、千金と契約書を奪うため私邸へ侵入した。王国の正式な裁定を求める。西部三要衝の兵は、王命が下るまで動かさない。
「なんだと。バルトロメウスが、そのような暴挙を?」
吉継はわずかに声を強めた。
「だから私が急いで来た。ミセリアも、ガリア家がここまで強引に動くとは考えていなかった。これから夜間軍議を開く。西部三要衝を預かる侯爵の私邸が襲われた以上、ただの身内争いでは済まない。貴殿にも来てほしいそうだ」
「分かった。すぐに向かおう」
吉継は椅子から立ち上がりかけ、背中へ手を回した。
「……いや、難しいな。晩餐会で受けた聖矢の傷が、まだ治りきっていない」
息を浅くし、再び椅子へ腰を下ろす。
「その状態で軍議へ来るつもりだったのか。貴殿は、自分の身体を何だと思っている」
「馬へ乗れば傷が開く。途中で倒れれば、かえって判断を遅らせる」
「ミセリアへは私から伝える。医師も寄こす」
トモエリアは苛立ったように息を吐いた。
「代わりにカドゥを向かわせる。兵三百も預けよう」
「三百も?」
「王国の命令を示すには必要だ。ただし、現場の指揮はミセリア殿に従わせる」
「分かった。今度こそ安静にしていろ。次も同じことをしたら、私が寝台へ縛りつける」
言い残し、トモエリアは中庭へ戻ると、再び馬へ飛び乗った。
蹄の音が遠ざかる。
吉継は背中から手を離し、何事もなかったように姿勢を正した。衣の下の包帯は乾いたままだった。
◇
しばらくして、黒い甲冑の女騎士が部屋へ入ってきた。
カドゥは扉を閉めると、机の上に残る侯爵印を見た。
「ヴァルグレンの調略は失敗したのか」
吉継は答えず、口元をわずかに緩めた。
「フッ」
胸甲の奥で、カドゥが息を呑む。
「なぜ笑う。味方にするはずの男が、ガリア家と殺し合っているぞ」
「俺は一度も、ディートハルトへ寝返れとは言っていない」
吉継は机へ四枚の紙を置いた。
千金の契約書。三度の面会記録。私用荷車が襲われた報告。そして、奪われた偽書状。
「千金は、軍馬と米と荷車を確保する正規の取引だ。面会は現物を調べるため。荷車を襲わせたことで、ディートハルトは警護を三倍へ増やした」
「それを、隠居公に見せたのか」
「ああ。最後に、千金を買収金と思わせる書状を奪わせた」
カドゥの赤紫の瞳が見開かれる。
「貴様はディートハルトを味方へ誘ったのではない。隠居公に、甥を裏切らせたのか」
「疑われたディートハルトがどう動くかは、本人の選択だ。バルトロメウスが再確認を選べば、正規取引を続ければよい。だが、奴は兵を送った」
血縁を信じていた甥の屋敷へ、伯父が無許可の兵を入れた。
その事実は、どれほど言葉を重ねても消えない。
「では、我らはヴァルグレンへ味方するのだな」
「今は動くな」
「助けを求められたのだろう?」
「帝国が国境の混乱へ乗じるかもしれない。ミセリア殿には、そう伝えた」
「嘘なのか」
「可能性はある。だが、それを理由に俺が残ったわけではない」
吉継は西部の地図を広げた。
「ガリア側にも、ヴァルグレン側にも加勢するな。三百を戦いの外へ置き、両者が疲弊するまで傍観しろ」
カドゥの赤紫の瞳が細くなる。
「共倒れさせるのか。屋敷で戦っている者は、どちらも王国の兵だぞ」
「今止めれば、二つの武力が残る。いずれまた同じ争いを起こし、今夜より多くの兵と民が死ぬ。ならば、今ここで両方の力を削る」
「戦いが終わった後は?」
「動ける者の武器を捨てさせ、双方の指揮官を捕らえろ。ディートハルトが偽書状を取引材料にして王国へ逆らうなら、口を封じる。一度だけ降伏を求め、拒んだ時は討て」
カドゥはしばらく地図を見つめ、それから大きく頷いた。
「救援の兵ではなく、戦いを終わらせる兵か」
「現場へ着いた後は、ミセリア殿の命令を優先しろ。俺の予想と違う判断でもだ」
「其方が、指揮を譲るのか」
「俺は王家直臣の末席だ。宰相の決断を無視する権限はない」
吉継は地図から目を上げた。
「それと、共倒れを狙う本当の命令はミセリア殿へ話すな。バルトロメウスと帝国がつながっている可能性があるため、帝国の動きを見定めるべきだとだけ伝えろ」
「なぜ隠す」
「ミセリア殿まで、俺と同じ泥をかぶる必要はない。あの人には、義のために正しいと思う道を進んでもらう」
両派を共倒れさせる責任も、その後に生き残った者を討つ責任も、吉継は一人で背負うつもりだった。
カドゥは兜を抱え、部屋を出ようとした。
扉の前で振り返る。
「千金を使って、伯父と甥を争わせた。恐ろしい男だ」
「違う」
吉継は千金の契約書を指で叩いた。
「千金で買ったのは、軍馬と米と荷車だ。疑いには、一枚の書状しか使っていない」
カドゥは一瞬黙り、胸甲の奥から楽しそうな笑い声を響かせた。
「やはり、恐ろしい男だ」




