第135話 偽りの監察
夜明け前、二つの報告がガリア公爵邸へ届いた。
西部三要衝の兵に動きはない。ヴァルグレン侯爵家から政務院へ向かった使者も確認できない。
「書状が偽物なら、ディートハルトは潔白ということになります」
報告役の男が慎重に言った。
バルトロメウスは返事をせず、奪った書状と、配下が作った調査書を並べた。
千金。三度の面会。直後に三倍へ増えた警護。
それに対し、動いていない兵と、出されていない使者。
「潔白なら、我らの監察を拒む理由はない」
バルトロメウスは、机の引き出しから古い銀印を取り出した。かつて王国軍務を取り仕切っていた頃の監察印である。
今の彼に、これを使う権限はない。
「灰衣を着せた二十人を向かわせろ。軍務監察を名乗り、千金の入った鉄箱と契約書を確認させる」
「王宮へ照会されれば、偽りだと分かります」
「だから夜明け前に行く。素直に扉を開けば、何も取らずに戻れ。時間を求め、王宮へ知らせようとしたなら――隠すものがある」
壁際に立つ藍色の女が、傷の残る指を握った。
「拒絶だけで、裏切りと決めるのか」
「拒絶の理由を確かめるのだ」
バルトロメウスは銀印を報告役へ放った。
「あの男がどちらへ転んだか、扉の開き方で分かる」
◇
空が白み始める頃、ヴァルグレン侯爵の王都屋敷が激しく叩かれた。
「王国軍務監察だ! 緊急監査につき、ただちに門を開けよ!」
門前には、灰色の外套を着た二十人が並んでいる。胸に王国軍の紋章はなく、先頭の男だけが銀印を掲げていた。
寝台から起こされたディートハルトは、葡萄酒色の上着を羽織り、門楼から銀印を見下ろした。
「命令書を上げろ。発給者と日付を確認する」
「機密監察だ。門を開けた後に示す」
「ずいぶん都合のよい機密だな」
ディートハルトの灰緑の目が細くなる。
掲げられた銀印は本物だった。だが、三年前に改められる前の古い意匠である。現在の軍務院なら、ミセリアの認証を刻んだ政務印を添える。
「監察の対象は何だ」
「白蝶城から運び込まれた鉄箱と、その使途だ。加えて、旧林道で襲われた私用荷車についても調べる」
ディートハルトの指輪が止まった。
襲われた道も、奪われた荷も、侯爵家の中で知る者は限られている。王宮へはまだ届けていない。
「その荷車を、誰から聞いた?」
「質問する立場を間違えるな。門を開けよ」
先頭の男は答えなかった。
ディートハルトの脳裏に、最初の襲撃が浮かぶ。自分の私物だけを奪い、命へ手が届くと示した、行儀のよすぎる野盗。
そして今、ガリア家しか持っていない古い監察印が、同じ秘密を口にした。
「監察は受ける。ただし、夜が明けてからだ。私の使者を軍務院へ送り、正式な命令だと確認する」
「今すぐ受け入れなければ、証拠隠滅と見なす」
「王命も政務印もない者が私邸へ押し入れば、それこそ反逆だ」
ディートハルトは門兵へ顔を向けた。
「門を閉じたままにしろ。弓兵は壁上へ。こちらから矢を放つな」
灰衣の男たちは、しばらく門前に立っていた。
やがて一人が馬へ乗り、ガリア公爵邸の方角へ走り去った。
◇
「延期を求めただと!」
バルトロメウスの杖が机を打った。
杯が倒れ、赤い葡萄酒が地図を濡らす。
「王宮へ使者を出すとも言いました。門は閉じられ、弓兵が配置されています」
「確認の時間を稼ぎ、その間に千金と書状を移すつもりだ」
偽書状の可能性を疑っていた冷静さが、積み重なった事実によって削られていく。
千金を受け取った。吉継と三度会った。兵を増やした。そして、ガリア家の監察を拒んだ。
バルトロメウスは濡れた地図を払い落とした。
「兵を百に増やせ。紋章は外したままでよい。鉄箱、契約書、大谷との往復書状をすべて奪え」
「ディートハルト侯爵が抵抗した場合は」
「生かせるなら生かせ。だが、証拠を持って逃がすな」
藍色の女が顔を上げた。
「それは監察ではない。略奪だ」
白い羽の痕が胸元で淡く燃えた。
女の呼吸が止まり、傷のない方の手まで震え始める。
「言葉は結果を得た者が決める」
バルトロメウスは、彼女へ古い巻物を投げた。
「先に入り、屋敷の警鐘を止めろ」
「……命令を、確認した」
◇
その夜、ヴァルグレン侯爵邸の外壁へ鉤縄が掛かった。
黒い覆面をした兵たちが次々と壁を越える。
警鐘へ走った侯爵家の兵が、綱へ手を伸ばした。
藍色の巻物から細い投げ槍が飛び、警鐘の綱だけを壁へ縫い止める。
「侵入者だ! 西庭を閉じろ!」
ディートハルトの命令で、侯爵家の兵が三列に並んだ。第一列が盾を構え、第二列が槍を重ね、第三列が弓を番える。
享楽に溺れるだけの貴族が抱える兵ではない。
灰衣の兵が西庭へ流れ込むたび、盾に止められ、槍の柄で足を払われた。狭い回廊では数の差も使えない。
「殺しすぎるな! 生け捕りにして、誰の命令か吐かせろ!」
ディートハルトは、庭を横切る藍色の髪を見た。
ガリア家が人知れず使ってきた、書状と証人を消す女。その噂を、甥である自分が知らぬはずはない。
「伯父上……私を切ったか」
短い呟きから、迷いが消えた。
ディートハルトは執務室へ戻り、二通の書状を書いた。一通は宰相ミセリアへ。もう一通は大谷吉継へ。
『ガリア家の旧監察印を持つ兵が、千金と契約書を奪うため私邸へ侵入した。私は王国の正式な裁定を求める。西部三要衝の兵は、王命が下るまで動かさない』
同じ文面へ署名し、侯爵家の印を押す。
「東厩と南厩から一騎ずつ出せ。別の道を使え。片方が倒れても、必ず王宮へ届けろ」
「大谷殿にも、同じものを?」
「あの男との取引が理由で狙われたのだ。ならば、最後まで責任を取らせる」
忠誠を誓ったのではない。
それでもディートハルトは、血縁の伯父ではなく、まだ三度しか会っていない白頭巾の男へ助けを求めた。




