第134話 奪われた書状
吉継は書状を細い革筒へ入れ、封を閉じた。
机の端に置いた細い針へ一度だけ指を伸ばし、何も刻まずに戻す。
筒の宛名は、ディートハルト・フォン・ヴァルグレン。封蝋には、大谷吉継の黒印が押されている。
吉継が視線を向けると、二人のチヨネが並んで胸を張った。
同じ黒髪。同じ黒衣。同じ得意げな顔。
「チヨネは上から追え。書状を持つのは双影だ」
本物のチヨネが、むっと頬を膨らませる。隣の双影も、まったく同じ顔で頬を膨らませた。
「相手は書状を奪うためなら、持ち主の喉も断つ。本体を危険に出す必要はない」
二人は顔を見合わせ、しぶしぶ頷いた。
吉継は迷わず本物の頭だけを撫でる。
「双影は、戻ってからだ」
影のチヨネは少し不満そうに鼻を鳴らした。
◇
日が落ちた後、双影は王都西区の屋根を走っていた。
書状は胸元の革筒に収めている。向かう先はヴァルグレン侯爵邸だった。
本物のチヨネは三棟離れた屋根の影に沈み、気配を消している。
古い染物倉の前で、月明かりが雲に隠れた。
藍色の刃が、双影の喉を狙って飛ぶ。
双影は首を傾けた。短刀が髪をかすめ、背後の柱へ突き立つ。
そこにいたはずの藍色の女は、もう梁の上へ移っていた。
「影か」
低い声だった。
双影は答えず、影へ沈む。
次の瞬間、女の背後から現れ、短刀を横へ払った。
女の手で、藍色の魔導巻物が開く。
「図窮匕見」
紙面の奥から金属音が響き、長剣が滑り出した。
女は長剣で双影の短刀を受ける。そのまま柄を放すと、今度は巻物から槍を抜いた。
一歩の間合いは長剣。三歩離れれば槍。
双影が槍の内側へ入ると、女は槍さえ捨て、刃の広いハルバードを取り出した。
武器を惜しまない。選び直す時間さえ、ほとんどない。
双影は二度続けて同じ間合いへ入らなかった。それでも女は先回りし、次の武器を選ぶ。
動きを見てから変えるのではない。双影の踏み込みを読み、必要な刃を先に抜いていた。
双影の足元から黒い糸が走った。
影縫が、女ではなく魔導巻物の影を床へ縫い止める。
巻物が開かなくなり、女の動きが初めて止まった。
「ふん!」
双影が踏み込み、短刀を振り上げる。
女はハルバードの柄で刃を受けた。膝を落とし、縫い止められた巻物を自分の手ごと強く引く。
革手袋が裂け、白い指に血がにじんだ。
それでも巻物を影の糸から引き剥がす。
開いた紙面から、細身の長槍が飛び出した。
穂先は双影を刺さず、胸元の革紐だけを切る。
書状の入った筒が宙へ浮いた。
双影は両手を伸ばす。
指先が筒へ届く直前、藍色の女が横から奪い取った。
女は革筒を外套の内側へ入れると、梁を蹴った。
双影が影渡で追う。
ハルバードの刃が振り返りざまに走り、双影の胴を断った。
黒い身体が霧となって崩れる。
三棟離れた屋根で、本物のチヨネが小さく息を呑んだ。
傷はない。だが、消える直前まで見た武器の速さと、女の薄い青灰色の目が記憶として戻ってくる。
女は逃げる前に、裂けた手袋を見た。
その指が、わずかに震えていた。
◇
王都屋敷の密室で、バルトロメウスは奪われた書状を開いた。
千金は約定通り渡した。西部三要衝と兵を王国の命令へ従わせ、ガリア家の私的な命令網を断て。バルトロメウスの身柄、または首級を差し出すなら、王国西方軍総監の地位と領地の維持をミセリアへ進言する。
末尾には、大谷吉継の名と黒印がある。
「あまりにも、こちらが疑うように書かれている」
偽書状の可能性はある。
だが、黒印は本物だった。千金も、三度の面会も、ディートハルトが私兵を三倍に増やしたことも事実である。
バルトロメウスは書状だけで決めなかった。
「西部三要衝の兵が動いていないか調べろ。侯爵家から政務院へ使者が出ていないかも確認する」
藍色の女は、片膝をついたまま動かない。
「確認した」
声は冷たかった。だが、裂けた革手袋の下で、傷のない指まで震えている。
「裏切りが偽りなら、それでよい」
バルトロメウスは書状を机へ置いた。
「だが、三千の兵を動かせる男を、疑わしいまま残すことはできぬ」
処断を決めるのは、確認が済んでからだ。
そう言い聞かせるように、指先で黒印をなぞった。
◇
双影の記憶が戻ると、チヨネは吉継の前で両腕を大きく広げた。
長剣、槍、ハルバード。次々と武器が変わったことを、身振りで懸命に伝えている。
「ああ。よく分かった」
吉継は一度頷いた。
チヨネは胸元を指した後、空になった両手を見せた。書状を奪われたことが悔しいのか、唇を強く結んでいる。
「ああ。お前も双影も戻った。それで十分だ」
吉継はチヨネの頭を撫で、ほんのわずかに口元を緩めた。
「相手は、双影の正体を見抜いても、書状を選んだか」
チヨネが不思議そうに首を傾ける。
「今はそれでよい。次は侯爵の警護へ回れ」
「ふん!」
走り出すチヨネを見送りながら、吉継は藍色の女が傷を負ってまで巻物を取り戻したという話を考えていた。
忠実な刺客というだけでは、説明しきれない。
巻物を取り戻した後まで震えていた指が、胸に引っかかった。
次に現れる時は、書状ではない。
ヴァルグレン侯爵の命を奪いに来る。




