第131話 隠居公の爪
白い祈祷蝋燭が、音もなく折れた。
王都のガリア公爵邸。その最奥にある隠居部屋で、バルトロメウスは折れた蝋燭の底から銀紙を引き抜いた。
家督も公職も失った今、届く書状は王国の監視を受ける。だが、礼拝用の蝋燭まで砕いて調べる兵はいなかった。
『白薔薇救済口、凍結。救貧局の人事権と支出権は政務院へ移管。王妃殿下の非公式命令は無効』
銀紙に刻まれていたのは、それだけだった。
バルトロメウスは怒鳴らなかった。薄い唇を結び、蝋燭の火へ銀紙を差し出す。文字は赤く縮れ、すぐに灰となった。
「エレオノーラは、仕留め損ねたか」
娘は拘束されていない。だが、人と金を動かす手を奪われた。
大谷吉継は、王妃を裁く証拠が足りないと見るや、別の急所を切った。首へ刃が届かなければ、まず手足を動かなくする。戦場だけでなく政でも、判断が早い。
「厄介な男だ」
バルトロメウスが指輪を机へ置くと、室内の燭台が一斉に暗くなった。
静謀結界。
外を歩く監視兵の足音が遠のき、部屋の中からも物音が消える。バルトロメウスは、誰もいない天井へ顔を向けた。
「入れ」
梁から藍色の影が落ちた。
藍紫の長い髪を低く結び、口元を薄布で覆った女だった。着地した足は、床板を鳴らさない。
女は片膝をつき、古い魔導巻物を差し出した。
「親帝国派六家。光神教を追われた聖職者は三人。二人は迎賓館の一件を知り、王都を離れた」
「逃げた者は捨て置け。追えば、こちらの行動がミセリアにばれる」
バルトロメウスは巻物を開かなかった。
「次は、大谷吉継を見張れ」
女の青灰色の瞳が、わずかに動いた。
「暗殺か」
「まだ殺すな。あの男と会う貴族をすべて調べろ。会った回数、動いた金、増えた警護、出入りする荷車までだ」
バルトロメウスは机へ指を滑らせた。赤い魔力の線が浮かび、王国内の貴族家を結んでいく。
王妃へ伸びていた線は細くなった。だが、軍務局、穀倉、軍馬の買い付けを担う家々への線は、まだ太い。
「大谷は次に、我らの兵を動かす家を狙う。接触した家があれば、その書状を奪え。見られた時だけ、目撃者の口を閉じろ」
女は立ち上がらなかった。膝をついたまま、バルトロメウスの前に浮かぶ赤い線を見る。
「それは、裏切りを調べる命令ではない」
バルトロメウスの指が止まった。
「裏切ったと疑うための理由を、私に集めさせるのか」
「よく理解している」
「まだ裏切っていない者も、貴方は切る」
「切るかどうかは、私が決める。お前は事実を持ち帰ればよい」
穏やかな返答だった。
女の胸元に、白い羽の痕が浮かんだ。
次の瞬間、細い体が大きく震えた。喉を押さえ、息を吸おうとするが、胸の奥へ食い込んだ見えない鎖がそれを許さない。
魂封傀鎖。
バルトロメウスが魂の核へ打ち込んだ呪縛が、命令への疑問さえ反抗と見なして締め上げる。
「嫌なら、断ってみるとよい」
女は片手を床についた。もう片方の手が短刀へ伸びる。刃先はバルトロメウスへ向きかけ、苦痛に耐えきれず床へ落ちた。
それでも、彼女は顔を上げた。
「私は……貴方の刃ではない」
「いずれ、そう言える日が来ればよいな」
バルトロメウスは冷たい目で見下ろした。
「今は動け。大谷吉継が誰に銭を渡し、誰をこちらから奪おうとしているのか、すべて持ち帰れ」
白い痕が強く燃えた。
女は何度か息を詰まらせた後、震える指で短刀を拾った。
「……命令を、確認した」
承諾ではない。
魂に刻まれた言葉を、声に出させられただけだった。
藍色の女は梁へ跳び、闇の中へ消えた。
◇
同じ夜、吉継は王宮政務院の一室で、王国西部の地図を広げていた。
ミセリアが救貧局の引き継ぎへ向かった後も、カレンだけが残っている。彼女は机へ積まれた軍務資料を見て、長い溜息を吐いた。
「ハアーーー……王妃の財布を一つ潰しても、ガリア派の兵は消えないわよ」
「分かっている」
「王国西部の要衝と、千を超す常備兵を握る家が残っている。バルトロメウス本人が隠居していても、第一王子派の武力は消えないわ」
吉継は西部の街道へ指を置いた。
「なら、最も多くの兵と要衝を握る家を割り出してくれ」
「味方に引き込むの?」
「まず会う。兵を持つ者が何を望み、何を恐れているのか。それを知らずに、味方へ来いとは言えぬ」
「話を聞くだけなら、千金はいらないでしょう」
「話を聞かせるには、相応の手土産がいる」
吉継は静かに首を振った。
「強欲な者を銭だけで買えば、さらに高い銭を出す者へ売られる。だから、忠誠ではなく、まず互いの利を結ぶ」
カレンの目から眠気が消えた。
「取引から懐へ入る気ね」
「相手が取引に値する男ならな。そのための銭は、白蝶城にある」
座銭と関所税を廃したことで、白蝶城を通る商人と荷は大きく増えた。倉の貸し出し、船着場の利用、荷運びの仕事から得た利益が、領主の金庫へ積み上がっている。
民から新たに取り立てた銭ではない。商いを自由にしたことで生まれた千金だった。
「兵糧も、民へ渡す米も減らさぬ。その利益を使う」
カレンは口元だけで笑い、軍務資料の束へ手を伸ばした。
「いいわ。朝までに、ガリア派の軍を支える一番大きな武門を見つけてあげる」
窓の外では、藍色の影が王宮の屋根を走っていた。
吉継の名と、カレンの姿。
最初の二つを、その冷たい瞳へ刻みながら。




