第130話 慈母の仮面
救貧局長の机から、無署名の命令書が見つかった。
『鐘が三度鳴った後、十二番の指輪を北庭の井戸へ捨てよ。王妃殿下の御心を守れ』
紙にもインクにも、珍しいものは使われていない。王宮であれば、誰でも手に入れられる品だった。
「命令書だけでは、書いた者まで届かない」
ミセリアは紙を机へ戻した。
「指輪には魔力が残っている」
吉継が見ると、カレンは深い溜息を吐いた。
「ハアーーー……また私の目を使う気ね」
「比べる相手は分かっている。長くは使わせぬ」
机の端には、王妃が差し出した三本の鍵が封じられている。
エレオノーラ自身が触れた品だ。
カレンは十二番の指輪と、王妃の私室を開ける鍵を並べた。くすんだ金色の瞳に細い数字が走る。
やがて彼女は目を閉じ、こめかみを押さえた。
「同じよ」
ミセリアが顔を上げる。
「断定できるか」
「魔力の属性だけじゃない。流れる間隔も、光と風の混ざり方も同じだわ。指輪を最後に動かした者と、この鍵へ魔力を流した者は一致する」
王妃エレオノーラ。
名前にすれば、一つしかなかった。
だが、カレンは銭袋を二度鳴らした。
「法廷では弱いわよ。王妃の手袋や祈祷具から魔力を移された、と言い逃れできる。王族を裁くには安すぎる証拠ね」
「十分だ」
吉継は立ち上がった。
「罪を言い渡すためではない。相手の真意を聞くためにはな」
◇
王妃は、私室の奥にある小さな祈りの間で吉継たちを迎えた。
白い薔薇を刻んだ祭壇。母子を描いた聖画。窓から差す夕日まで、穏やかな慈愛を形にしたような部屋だった。
扉の外では、トモエリアが一人で警護に立っている。
室内へ入ったのは、吉継、ミセリア、カレンだけだ。
「調査は終わりましたか」
エレオノーラは三人分の茶を用意していた。
「救貧局長を拘束した」
ミセリアが十二番の指輪を置く。
「その指輪から、王妃殿下と同じ魔力が検出された」
王妃の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
「私の救貧局で使われていた品です。私の魔力が残っていても、不思議ではないでしょう」
「ええ。不思議ではないわ」
カレンが椅子へ深く腰掛ける。
「だから、これだけでは貴女を裁けない。随分と値段の高い逃げ道を作ったものね」
エレオノーラはカレンの無礼を咎めなかった。
吉継は命令書を指輪の隣へ置く。
「王妃殿下は、誰にも暗殺を命じていないのだろう」
「当然です」
「迎賓館の灯を消すよう頼んだ者。聖銀を運ばせた者。眠り蔓を買わせた者。俺たちの出席を知らせた者。それぞれに別の理由を与え、誰にも全体を見せなかった」
エレオノーラの微笑みは消えない。
「想像のお話でしたら、私には答えられません」
「そして、失敗すればセレナに罪を負わせる。セレナが拘束された後は、救貧局長に『王妃殿下の御心を守れ』と伝えた」
吉継は王妃の目を見た。
「命令せずとも、其方のために動く者が何をするか分かっていた。だから止めなかった」
祈りの間が静まり返った。
ミセリアは表情を変えない。ただ、机の下で握った指先だけが白くなっている。
「なぜ、吉継を殺そうとした」
短い問いだった。
エレオノーラの微笑みが、初めて消えた。
「その方が、私の息子を王に近づけるからです」
柔らかな声だった。
「ミセリア。貴女は正しいのでしょう。身分で人を分けず、法を曲げず、王国のために働いている。けれど、陛下が亡くなれば、その正しさはリシャールの王権を縛ります」
「私は、リシャール殿下の正当な継承を妨げない」
「継承は認めても、あの子の命令が法に反すれば退けるのでしょう」
「当然だ。王も法の外にはいない」
「それでは、冠を与えるだけです。王になっても、その手足を貴女が縛る」
王妃の視線が吉継へ移る。
「そこへ領地と兵を持ち、民から慕われる大谷殿まで加わった。母親が恐れるには、十分すぎるでしょう」
エレオノーラは聖画へ目を向けた。
「私は誰にも、二人を殺せとは命じていません。ただ、王家を守るために必要なことを、それぞれへお願いしました」
否定ではなかった。
自分の命令であると認めず、結果だけを望んだ者の告白だった。
「大勢を巻き込んでもか」
吉継の声が低くなる。
「迎賓館には、何も知らない給仕も貴族もいた。チヨネも傷ついた。其方の息子を王にするためなら、その命は失ってもよいと考えたのか」
「王国が二つに割れれば、さらに多くが死にます」
「だから先に殺す。それが其方の義か」
「母としての務めです」
吉継はしばらく王妃を見ていた。
この女は、息子を愛している。
だからこそ、他人の親子を泣かせることを受け入れた。
「分かった」
吉継は命令書を畳んだ。
「其方の守りたいものも、使う手もな」
「私を捕らえますか」
「今は捕らえられぬ。其方も、それを知って話したのであろう」
王妃を拘束すれば、第一王子派は証拠の捏造だと騒ぐ。病床の王を巻き込み、王宮はその日のうちに割れる。
だが、何もできないわけではない。
ミセリアが立ち上がった。
「白薔薇救済口を凍結する。救貧局の人事権と支出権も政務院へ移す。王妃殿下の名による非公式な依頼は、すべて無効とする」
エレオノーラの目に、初めて明確な怒りが浮かんだ。
「私から、民を救う手を奪うのですか」
「違う。民を救う金を、暗殺に使えなくする」
ミセリアは一歩も引かなかった。
吉継は、その横に立つ。
「王妃殿下。次に誰かへ御心を守らせる時は、覚えておくがよい」
王妃の静かな視線が向けられる。
「命令を分けても、流れた血は一つの場所へ戻る。次は、其方まで届く」
慈母の微笑みは、もう戻らなかった。




