第127話 壁を走る風
灰色の外套の女は、王宮へ連れて行かなかった。
第一王子派の目が届きにくい、共和国商館の一室で保護している。見張るのはパトリアの護衛と、ミセリアが選んだ近衛兵だけだ。
「ここです」
女が指したのは、王宮東棟から二筋離れた古い共同洗濯場だった。
乾いた水槽の裏に、拳一つ分の穴がある。積み直された石の隙間へ手を入れると、壁の奥へ細い空洞が続いていた。
「印と命令書は、この中にありました」
「受け取るところを見られてはいないのか」
「分かりません。借金の証文を返してほしければ、一人で来いと書かれていました。怖くて、周りを見る余裕なんて……」
女は両腕を抱いた。
吉継は責めなかった。恐怖に追われた者へ、後から冷静さを求めても意味はない。
ミセリアが穴の縁へ触れる。
「空洞は東へ向いている」
「王宮の方角ね。でも、ここから東棟までは建物が三つあるわよ」
パトリアが壁を扇で軽く叩いた。
「地下水路か、古い排水溝へつながっているのでしょう。商品を隠して運ぶ商人が喜びそうな造りだわ」
「褒めるな」
「褒めてはいないわ。値段を考えただけ」
トモエリアは洗濯場の中央で目を閉じていた。
銀色の髪が、風もないのにわずかに揺れる。
「この壁、中が空いている。風が東から流れてくるぞ」
「どこへ抜ける」
「待て。今、聞いている」
トモエリアが指先を立てた。
細い風が壁穴へ吸い込まれる。やがて彼女は北東へ顔を向けた。
「北回廊の下だな。王族礼拝室の手前で、流れが上へ曲がっている」
吉継が尋ねるより先に答えたため、ミセリアが彼女を見る。
「詳しいな」
「風聞だ。忘れたのか?」
「記憶している。確認しただけだ」
「相変わらず疑い方が怖いな、ミセリアは」
トモエリアは笑った。
その声には、普段と変わらない親しさがあった。
◇
壁穴へ入れるのは、偽の口座閉鎖証書だった。
表向きには白薔薇救済口の閉鎖が終わり、支払い記録も破棄されたと記してある。
「これを信じれば、相手は安心する」
吉継が紙を折ると、パトリアが青い粉を薄く振りかけた。
「共和国の荷物に使う追跡染料よ。乾けば見えないけれど、水に触れると青く浮かぶ。紙を持った手や手袋にも残るわ」
「人体へ害は」
「ないわ。吉継殿と違って、私は客を腐らせないもの」
「其方が毒を使えることは知っている」
「商談中は使わないと約束したでしょう?」
パトリアは不満そうに唇を尖らせた。
紙を穴へ入れた後、全員が洗濯場から離れた。
双影は水槽の影へ潜る。吉継とミセリアは向かいの空き家、トモエリアは屋根の上、パトリアは洗濯女に化けた部下と通りへ散った。
日が落ちても、誰も来ない。
鐘が一度鳴った。
王族礼拝室の夕べの祈りを告げる鐘だ。
二度目の鐘が鳴った瞬間、壁穴の奥で紙が擦れた。
人の手ではない。
細い風が証書を巻き、暗い空洞の奥へ引き込んでいく。
「動いた!」
トモエリアの声が屋根から落ちた。
双影が穴へ腕を伸ばす。だが、指先が紙へ届く直前、空洞の奥で白い光が弾けた。
「ふっ……!」
双影の腕が肘から崩れる。
聖属性の光だ。
吉継は空き家を飛び出した。
「チヨネ、追わなくてよい! 出口へ回る!」
「北回廊だ、ついてこい!」
トモエリアが屋根から降り、風をまとって駆ける。
吉継、ミセリア、パトリアが後を追った。
◇
北回廊へ着いた時、礼拝を終えた侍女と神官が一斉に出てきた。
二十人を超える人波だ。
誰もが王宮東棟の通行札を持ち、誰もが祈りのため白い手袋を着けている。
「止まれ。全員、手袋を外せ」
ミセリアの声で、人の流れが止まった。
「何事ですか」
老神官が戸惑う。
「確認する。従え」
パトリアの部下が水を張った浅い盆を運んできた。
一人ずつ指先を浸す。
青く染まる手はない。
「もう洗い落とされた?」
パトリアが眉を寄せる。
「いや。染料の性質を知っていたなら、そもそも触れぬ」
吉継は回廊を見渡した。
窓は閉じている。壁際には、祈りに使った銀の香炉が並んでいた。その一つから、焦げた紙の匂いがする。
蓋を開けると、灰の下に焼け残った紙片があった。
偽の閉鎖証書である。
端には青い染料が浮き、中央には新しい文字が一行だけ書き加えられていた。
『セレナの命により、処理を完了した』
「まだ侍女長へ罪を着せるつもりか」
トモエリアの声から笑いが消えた。
ミセリアは紙片を見つめる。
「セレナは拘束中。この文を書けない」
「だからこそ書いたのだ」
吉継は香炉の底を指で示した。
灰の中に、青く染まった細い羽根が一本残っている。軸の先には、まだ黒いインクがにじんでいた。
人は紙に触れていない。
風魔法で羽根を操り、証書を回収し、文字を書き、香炉へ捨てた。
鐘と礼拝の人波は、逃げるためではなく、初めから姿を見せないために使われたのだ。
「犯人は、この場へ来ていない」
パトリアが回廊の天井を見上げた。
「それでも、羽根を動かせる距離にはいたはずよ」
「ああ。そして礼拝の時刻、香炉の位置、壁の中の道を知っている」
吉継は焼け残った偽証書を布へ包んだ。
首謀者の顔には、まだ届かない。
だが、相手が使う手は見え始めた。
王宮の壁を通り、姿を見せず、風で証拠を処理する者。
吉継が隣を見ると、トモエリアは北回廊の奥を睨んでいた。
「風を悪用するとは、気に入らないな」
「ならば、次は其方の風で捕らえてもらう」
「任せろ。今度は羽根一枚でも逃がさない」
トモエリアは迷わず答えた。
ミセリアは短く頷いた。




