第126話 待てなかった者
休眠口座が三日後に政務院へ報告される。
その噂は、王都の両替商と共和国商人の間だけへ流された。王宮にも政務院にも、正式な命令は出していない。
「商人は、損をしそうな話ほど早く広めるのよ」
パトリア・クレアは楽しげに笑った。
「ただし、誰の口から聞いたか分からない程度にね。情報は香水と同じ。振りかけすぎれば、持ち主まで分かってしまうわ」
「頼もしいが、其方へ秘密を話すのが怖くなってきた」
「安心して。吉継殿の秘密は、まだ売らないわ」
「まだ、か」
その横で、チヨネが寝台の上から低く鼻を鳴らした。
左肩には包帯が巻かれている。本人は決済所へ行くと言い張ったが、イーナから立ち歩きを禁じられていた。
「ふん……」
「不満でも、本体は休め。見張りは双影に任せる」
床から現れたもう一人のチヨネが、任せろと言わんばかりに胸を張った。
本体も負けじと胸を張る。だが、肩へ痛みが走ったらしく、すぐ小さく震えた。
「競うところではない」
吉継が布団を掛け直すと、本体だけが満足そうに目を細めた。双影は少し悔しそうな顔を残し、床の影へ沈んだ。
◇
一日目、白薔薇救済口を訪れる者はいなかった。
二日目の夕刻。共和国の王都決済所が扉を閉める直前に、灰色の外套をまとった若い女が現れた。
「白薔薇救済口を閉じたい」
女は小さな声で告げ、受付へ確認印を置いた。
印は本物だった。帳場の奥に潜んでいた双影は、棚の下から女の指先を見つめる。
爪は短い。右手の人差し指だけ、硬い筆だこがある。腰に武器はないが、立つ時も踵へ重心を置かず、いつでも前へ踏み出せる姿勢だった。
「残金を数えます。少々お待ちください」
受付を務めるパトリアの部下が、わざと奥へ引っ込んだ。
女の視線が、入口、裏口、天窓の順に動く。
待てない者の目だった。
「残金は要らない。口座を閉じた証書だけ寄越せ」
「確認に時間がかかります」
「では、明日また来る」
女は印を取り戻し、決済所を出た。
双影が床を滑る。石畳へ落ちた馬車の影、露店の天幕、通行人の足元を渡り、一定の距離を保って追った。
女は中央市場へ向かわなかった。
染物職人が集まる細い通りへ入り、青い布を干した店の前で銅貨を一枚落とした。
拾うふりをして振り返る。
誰もいない。
それでも女は、袖から細い針を抜いた。背後の壁へ向けて迷わず投げる。
針が、双影の喉を貫いた。
黒い体が水のように崩れる。
「……いたか」
女は走り出した。
だが、次の建物の影が膨らみ、双影がもう一度顔を出す。輪郭は先ほどより薄くなっていたが、紫の瞳には同じ意地が宿っていた。
壊された記憶は、寝台にいる本体へ戻っている。
「ふん!」
今度は姿を隠さず、女の前へ飛び出した。
「なぜ、まだ動ける!」
女が二本目の針を投げる。
双影は身を沈めてかわし、そのまま路地の左側へ追い立てた。
右の道は市場へ戻る。左は古い染料倉へ続く袋小路だった。
女はそれを知らない。
◇
染料倉の前には、吉継が待っていた。
女が決済所へ入った時点で、パトリアの部下が窓辺の布を赤から黒へ替えている。吉継は地図を見て、追われた者が人混みを避けて選ぶ道を絞っていた。
「そこまでだ。確認印を置け」
女は足を止めない。
袖から白い粉を撒き、吉継の顔へ短刀を突き出した。
吉継は半歩だけ身を引く。粉は布で覆った顔の手前を流れ、短刀の切っ先だけが迫った。
鞘が下から跳ね上がる。
鞘打が女の手首を打ち、短刀が石畳へ落ちた。
それでも女は退かない。左手の針を自分の喉へ向ける。
「死なせぬ」
黒い病毒の鎖が地面を這った。
病鎖絡み(びょうさがらみ)が女の手首と足へ巻きつく。指が痺れ、毒針は喉へ届く前に落ちた。
背後から双影が飛びつき、女の両腕を影で縛り上げる。
「放せ! 私は何も知らない!」
「知らぬ者は、自害する毒まで持たぬ」
吉継は落ちた確認印を布で拾った。
表には白薔薇。裏には、針ほど小さな三日月が刻まれている。
王宮東棟の洗濯札にも使われる印だった。王妃の私室、第一王子の居室、王族礼拝室の衣類を扱う者だけが持つ通行の印である。
「誰から渡された」
「知らない。本当よ!」
女の声は震えていた。
「壁の穴に、印と命令書が入っていた。口座を閉じれば家族の借金を消すと……それだけ!」
雇われた者だ。
実行役に命令者の顔を見せず、失敗すれば自害させる。捕らえられても、王妃にも第一王子にも届かない。
それでも、何も得られなかったわけではない。
命令を置いた者は、王宮東棟の通行印を用意できる。
そして監査の噂を聞いたその日のうちに、女を動かせた。
「クレア殿。閉じる者の名は買えた」
路地の入口から、パトリアが姿を見せる。
「でも、売った者の名はまだね」
「ああ。次は、この女へ命令書を届けた者を探す」
吉継は怯える女を見た。
「安心しろ。其方を使い捨てようとした者へは返さぬ。借金も家族も調べる。偽りなく話せば、命は守る」
「どうして……私を」
「真実の代金を、其方の命だけで払わせるつもりはない」
女は唇を噛み、やがて小さく頷いた。
白薔薇の口座は閉じられなかった。
代わりに、王宮の壁へ通じる細い道が一本、吉継の前へ現れた。




