第121話 燃えるはずの荷車
王都南部の地図が、長机いっぱいに広げられていた。
包帯を替え終えた吉継は、南門から水運記録所までの道を指でたどる。
「最短は魚市場を抜ける大通りだ。だが、昼時の今は人が多すぎる。記録を積んだ荷車では進めぬ」
西の川沿いには、修繕中の石橋がある。残る東側の道は広く、荷車同士がすれ違える。
その先には、二本の水路が交わる双樋橋があった。
「荷車はここを通る」
吉継が橋を指すと、カドゥは黒い兜を小脇に抱えたまま地図を覗き込んだ。
「道が三本あるのに、そこまで言い切るのか」
「運ぶ側は急いでいる。人混みも、壊れた橋も選ばぬ。荷を捨てるつもりでも、目的の場所までは運んでいるように見せたいはずだ」
カドゥは納得したように笑う。
「なるほど。では、追いかける必要もないな」
「本当に理解しているか」
「失礼な。橋の前で待ち、来たところを捕まえる。それくらいは分かる」
吉継は白蝶城から同行した兵を六人だけ選んだ。
大勢で動けば、王宮内の協力者へ伝わる。双樋橋の荷揚げ人に外套を借り、兵には空の木箱を運ばせた。
吉継自身も白と青の礼装を脱ぎ、荷運び人の上着をまとった。病を隠す白布だけは外せないため、口元まで深く巻き直す。
◇
双樋橋のたもとは、湿った石と魚油の匂いが混ざっていた。
吉継たちは木箱を積み直すふりをしながら、東の道を見張る。
頭上で風が二度、短く鳴った。
トモエリアからの合図だ。
ほどなく、灰色の幌をかけた荷車が姿を現した。御者が一人、左右に護衛が二人。幌の中にも、人の気配がある。
吉継は荷車の車輪を見た。
轍が深い。
紙を積んだだけにしては、重すぎる。
「カドゥ。荷車を止めろ。火を持つ者から押さえよ」
「任された」
カドゥが橋の中央へ出た。
御者は手綱を強く引き、声を荒らげる。
「どけ! 政務院の急ぎ荷だ!」
「その荷を調べる。おとなしく降りろ」
「邪魔をするなら、王宮への反逆と見なすぞ!」
護衛の一人が剣を抜いた。
合図を待っていたように、幌の中から二人の男が飛び出す。一人は短剣、もう一人は赤い液体の入った瓶を握っていた。
瓶の男が、荷台へ腕を振り上げる。
吉継は足元の水路へ手を向けた。
水が細い帯となって跳ね上がり、男の手首へ巻きつく。瓶は荷台へ届かず、濡れた石畳へ落ちた。
赤い液体が漏れ、鼻を刺す油の臭いが広がる。
「火油だ!」
兵の一人が叫んだ。
短剣の男は、吉継が負傷していると見て狙いを変えた。
真正面から胸へ踏み込んでくる。
吉継は半歩だけ身を外した。短剣を上着の袖で絡め、相手の肘を押し上げる。崩れた脇腹へ膝を入れ、石畳へ転がした。
背中の傷が熱を上げる。
それでも、刀を使うまでもない相手だった。
剣を抜いた護衛へ、カドゥが黒い円盾を打ちつける。刃ごと腕を弾かれた男は、橋の欄干へ背中をぶつけた。
「その程度で、私の主を狙うな!」
もう一人が橋から水路へ飛び込もうとする。
屋根から緑の影が落ちた。
トモエリアが男の肩を踏みつけ、そのまま石畳へ押さえ込む。長刀は鞘に収まったままだ。
「言いつけどおり、まだ斬っていないぞ」
「助かった」
「礼より先に、血を止めてもらえ。包帯が赤い」
六人の兵が残る者を取り囲むと、御者はようやく手綱を放した。
◇
荷台から出てきたのは、古い帳面と白紙の束だった。
その下には、火油を満たした瓶が十二本。藁と乾いた布まで敷き詰められている。
「追っ手が近づいたところで、荷車ごと燃やすつもりだったのか」
カドゥが瓶を見下ろし、低く唸った。
「記録を消し、追ってきた者も焼く。その後で、政務院の者が荷を奪おうとして火を出したと話を作れる」
吉継は白紙の束を一枚ずつ確かめた。
本物の招待状も、迎賓館の警備記録もない。
荷車が囮なら、記録は最初から王宮を出ていない可能性が高い。
「チヨネを中へ残して正解だったな」
「ふんふん!」
橋の下から、聞き慣れた鼻鳴らしが返った。
全員が振り返る。
欄干の影から現れたチヨネは、片腕を吊ったまま、小さな紙片を掲げていた。
「王宮を調べていたのではなかったか」
チヨネは大きく頷き、紙片を吉継へ渡す。
それは記録室の当直表だった。
荷車が出る直前、王妃付きの侍女が「マティアスの遺品を確認する」という名目で、北書庫へ入っている。
「王宮を調べた後、ここまで追ってきたのか」
「ふん!」
得意そうだが、肩の傷は開きかけている。
「よく見つけた。だが、無理をしたな」
チヨネは吉継の血のにじんだ背中を指し、今度は不満そうに鼻を鳴らした。
言い返す言葉がない。
◇
王宮へ戻ると、政務院の前に見慣れない一団が待っていた。
象牙色と深い葡萄色の長衣。その中央に立つ金髪の女性が、ミセリアの手を両手で包んでいる。
王妃エレオノーラ・レガリアだった。
「マティアスのことを聞きました。長く王家へ尽くした方を失い、私も胸が痛みます」
柔らかな声だった。
吉継に気づくと、王妃は心配そうに眉を下げる。
「まあ、大谷殿。背中へ三本もの聖矢を受けたのでしょう。まだ歩いてはなりません」
「お気遣い、感謝いたします」
吉継は静かに頭を下げた。
聖矢の数を知る者は少ない。
イーナとチヨネ、そして治療後に報告を受けたミセリア。少なくとも、王宮へ戻る前に公表した覚えはなかった。
顔を上げると、王妃は変わらぬ慈愛の微笑を浮かべていた。




