第120話 死者の印章
北書庫の扉が閉ざされ、二人の近衛兵が前に立った。
記録室に残ったのは、吉継とミセリア、トモエリア。それに、遺体を発見した侍女だけである。
「見つけた時のことを、順に話してくれ」
吉継は侍女と目の高さを合わせるため、傷む背中をかばいながら膝を折った。
「間違えても構わぬ。覚えていることだけでよい」
責められると思っていたのだろう。侍女は何度も息を整えてから、震える唇を開いた。
「書庫の鍵を返していただこうと思って来ました。扉は少し開いていて……中を見たら、侍従長が梁から……」
「誰かとすれ違ったか」
「いいえ。ただ、廊下の窓が開いていました。水の匂いがしたので、雨でも降ったのかと」
今日は晴れている。
吉継は床へ視線を落とした。書庫には乾いた埃が積もっている。その中に、細い水滴の跡が扉から遺体まで続いていた。
マティアスの靴底は濡れていない。
「其方は、いったん外へ出て休め。近衛には俺から話す」
「でも、私がもっと早く来ていれば……」
「其方の責ではない。最初に見つけ、すぐ知らせてくれた。それで十分だ」
侍女は唇を噛み、深く頭を下げた。
扉が閉じた後、ミセリアが遺体のそばへ膝をつく。
「水滴は、マティアスのものではない」
「ああ。誰かが川か船着き場から来た。その可能性がある」
吉継は梁から垂れた縄を見上げた。
太い麻縄には、乾ききっていない黒い染みが残っている。鼻を近づけると、川泥と油の匂いがした。
「この縄も王宮の備品ではないな」
「荷船を係留する縄に似ている」
ミセリアの声には、わずかな硬さがあった。
遺書はマティアスの筆跡だった。縄は川から持ち込まれた。そして、彼は死んでいる。
あまりにも分かりやすく、水運に関わる者へ疑いが向く。
「敵は、こちらに川を調べさせたいのかもしれぬ」
「証拠が多すぎる」
「同感だ。真実に見せたい時ほど、人は余計な飾りをつける」
その時、廊下から近衛兵の困り果てた声が聞こえた。
「お待ちください! 宰相閣下は現在――」
「患者が王宮へ逃げ込んだの。医師を止めるなら、あなたが代わりに包帯を替える?」
扉が開き、薬箱を抱えたイーナが入ってきた。
その後ろでは、肩を吊り布で支えたチヨネが、いかにも自分が道案内をしたという顔で胸を張っている。
「夕刻までは、まだ時間がある」
吉継が言うと、イーナは細縁眼鏡を押し上げた。
「昼前に王宮へ入った重傷人が、遺体の前で膝をついている。十分、逃亡よ」
ミセリアが吉継を見る。
「同意する」
「味方が増えたわね、吉継さん」
まったく嬉しくない援軍である。
だが、イーナが遺体へ向き直ると、その顔から呆れは消えた。
「この方を診ても?」
「許可する。死因を確認しろ」
イーナは首の縄痕、瞼、指先を順に調べた。口元へ顔を寄せたところで、眉が動く。
「甘い匂いが残っている。眠り蔓の抽出液ね。強い眠気と手足の麻痺を起こす薬よ」
「それだけで死ぬのか」
「この量なら死なない。けれど、抵抗できなくなる」
イーナは首の痕を指で示した。
「生きたまま自分で首を吊った痕とは違うわ。薬で動けなくした後、誰かが縄を掛けた。心臓が弱った状態で吊られた可能性が高い」
ミセリアは何も言わなかった。
ただ、床についたマティアスの右手を両手で包む。その指先には、長く政務を支えてきた者らしい墨の染みが残っていた。
「九年仕えた者を、私は疑った」
「疑うことと、罪を決めることは違う」
吉継は静かに答えた。
「マティアスはミセリアを恨んでなどいないだろう。むしろ、こんなところで足を止めていれば、其方の方が叱られるのではないか」
ミセリアは一度だけ目を閉じ、マティアスの手を胸元へ戻した。
「犯人を捕らえる。これは感情による命令だ」
「それでよい。俺も従う」
チヨネが遺体の脇へしゃがみ込んだ。
「ふん?」
何かを探すように、空になった右手の薬指を指している。
ミセリアの顔から、わずかに色が消えた。
「侍従長印がない」
「印があれば、何ができる」
「政務院内の返書、日程表、招待客記録の移送を命じられる。王命には使えない。だが、下級官署なら疑わず従う」
マティアスを殺した者は、罪を着せるだけでは足りなかった。
死後も彼の名を使い、記録を動かそうとしている。
廊下を駆ける足音が近づいた。
「宰相閣下! 侍従長印を押した移送命令が見つかりました!」
若い政務官が差し出した紙には、招待状と迎賓館に関する記録を、南水運記録所へ移すよう記されていた。
「荷車は四半刻前に南門を出ています!」
トモエリアが長刀の鞘をつかむ。
「追う。今ならまだ届く」
「待て。追うより、待ち構える方がよい。幸い、どの道を通るかは予測できる」
吉継は移送命令を読み、南水運記録所の名を指で押さえた。
迎賓館は川沿いにある。濡れた縄も、眠り蔓も、記録の行き先も水運へつながっている。
だが、ここまで道を示されれば、疑うべきは道そのものだ。
「トモエリア殿は屋根から荷車を追え。姿を見せず、人数と進路だけを確かめてくれ」
「斬って取り返す方が早いぞ」
「中身が本物の記録とは限らぬ。敵が欲しいのは、俺たちを王宮から引き離すことかもしれない」
トモエリアは不満そうに鼻を鳴らしたが、すぐ窓へ向かった。
「分かった。見つけても、合図を送るまで斬らない」
窓が開き、風が一筋だけ室内へ入る。
その風へ身を乗せるように、トモエリアは屋根へ消えた。
「チヨネ。其方は王宮の中を頼む。印を持ち出した者が、まだ残っているかもしれぬ」
「ふん!」
チヨネは吊り布の肩をかばいながら、机の影へ溶けた。
ミセリアは移送命令を見つめる。
「私は何をする」
「王宮に残り、運び出された記録と同じ内容を知る者を集めてほしい。紙を奪われても、人の記憶までは同時に焼けぬ」
「了解した。貴殿は」
「南門へ向かう。ただし、敵の示した道は通らない」
吉継は立ち上がった。
背中の傷が熱を持ち、礼装の下で包帯へ血がにじむ。
イーナが無言で、その襟首をつかんだ。
「行く前に包帯を替える。反論は診察が終わってから聞くわ」
犯人はすでに次の手を動かしている。
ならばこちらも、傷を抱えたまま倒れるわけにはいかなかった。




