第119話 用意された遺書
迎賓館襲撃から三日目の昼前、王宮の北門へ一台の小さな馬車が入った。
吉継は二日間、イーナの診療所で治療に専念し、ようやく短い馬車移動だけを許されていた。
降りてきた吉継は、白と青の礼装へ着替えていた。背中には幾重にも包帯が巻かれ、歩くたびに聖矢を受けた傷が熱を持つ。
「今日一日は寝ていなさいと言ったはずよ」
見送りに来たイーナが、馬車の窓から身を乗り出した。
「ミセリア殿へ無事を伝えたら戻る」
「患者の『すぐ戻る』ほど信用できない言葉はないわ。夕刻までに来なければ、私が王宮へ乗り込むから」
「医師は王宮まで往診するのか」
「逃げる患者を捕まえるのも仕事よ」
イーナは薬包を吉継へ押しつけた。
隣では、肩を吊り布で支えたチヨネが何度も頷いている。どうやら今回はイーナの味方らしい。
「分かった。必ず戻る」
「その台詞、前にも誰かへ言ったでしょう」
吉継は返事をせず、馬車を見送った。
◇
政務院の一室では、ミセリアが窓を背に立っていた。
机には昨夜の晩餐会の招待状、迎賓館の見取図、保護された招待客の名簿が並んでいる。休んだ様子はなく、青い髪飾りへ触れていた指だけが、吉継の姿を認めた瞬間に止まった。
「遅い」
「すまない。治療に手間取った」
「謝罪は受理しない。こちらへ来い」
吉継が机の前まで進むと、ミセリアは背中へ回った。
礼装の襟から覗く包帯を見つめる。手を伸ばしかけて、触れれば傷むと思ったのか、その指を静かに下ろした。
「三本と聞いた」
「すべて抜けた。チヨネも無事だ」
「貴殿の無事を聞いている」
平坦な声だった。
だが、髪飾りへ戻った指が、青い硝子を強く握っている。吉継はその手を見て、わずかに目元を緩めた。
「俺も無事だ。まだ痛むが、歩ける」
「歩けることと、治ったことは同じではない」
「医師にも同じことを言われた」
「ならば従え」
叱られている。
その事実が、吉継には不思議とありがたかった。
ミセリアは椅子を示した。吉継が腰を下ろすのを確認してから、自分も向かいへ座る。
「昨夜の襲撃について話す」
机上の見取図には、消灯した大広間、花台で塞がれた東階段、厚い幕で閉ざされた窓が記されていた。
「準備が整いすぎている」
「ああ。百を超える魔力灯を同時に消し、避難路を狭め、闇の中でも動ける者を入れていた」
吉継は見取図の大広間へ指を置いた。
「何より、矢に聖属性を持たせていた。俺の病毒障壁を破り、傷口から身体を焼くためだ」
「襲撃者は、貴殿が出席すると知っていた」
「そのはずだ。だが、最初から招かれていたのはミセリア殿だけだ。俺の出席は、其方から誘いを受けて決まった」
偶然、聖属性の矢を用意していたとは考えにくい。
襲撃者は、吉継が同行すると知った後で武器を揃えた。迎賓館の内部だけでなく、ミセリア側の動きまで漏れていたことになる。
「同行を決めた時、部屋にいた者は」
「私、貴殿、カドゥだけだ。ただし、返書は侍従長マティアス・ベルクが清書し、政務官が封を確かめ、使者が迎賓館へ運んだ」
「ならば、清書から受け取りまでに関わった者を調べたい。途中で馬を替えた者、迎賓館で返書を受け取った者もだ」
「すでに名を集めている」
ミセリアは一枚の紙を差し出した。
「マティアスを呼ぶ。彼は私に九年仕え、政務の返書と日程を管理してきた。疑うなら、私も同席する」
「本人を裏切り者と決めるつもりはない。情報を盗まれた可能性もある」
吉継が立ち上がろうとした、その時だった。
扉が激しく叩かれた。
「宰相閣下、失礼いたします!」
若い侍女が転がるように室内へ入った。顔から血の気が引き、震える両手を胸元で握っている。
「マティアス侍従長が……北書庫の記録室で、首を吊っているのが見つかりました」
◇
北書庫の記録室には、乾いた紙と蝋の匂いが満ちていた。
マティアスの遺体はすでに梁から下ろされ、床へ寝かされている。倒れた椅子のそばには、一枚の遺書が置かれていた。
ミセリアは遺体の前で立ち止まった。
「九年、一度も返書を遅らせなかった」
それだけを言い、目を伏せる。
吉継は黙礼してから、遺書へ目を通した。
『招待状に記されていた大谷吉継の名を、金と引き換えに外部の者へ漏らした。すべて私の罪である』
「筆跡は」
「マティアス本人のものだ。記録の眼でも一致している」
ミセリアの答えを聞き、吉継はもう一度、最初の一文を読んだ。
「これは遺書ではない。少なくとも、真実を書いたものではない」
「根拠を言え」
「招待状に、俺の名は記されていない。俺を同伴者に選んだのは、ミセリア殿が招待状を開いた後、この部屋で話した時だ」
ミセリアの瞳が、わずかに見開かれた。
筆跡は本人のものでも、書かれた内容は事実ではない。脅されて書いたのか、別の文章を書かされたのか。少なくとも、これを用意した者は、吉継の名が招待状に最初からあったと思い込んでいる。
いずれにせよ、この一枚だけでマティアスを内通者と断じることはできない。
「敵は、死者へ罪を押しつけて調べを終わらせたいらしい」
吉継は倒れた椅子にも、遺書にも触れず、部屋全体を見渡した。
「この部屋を閉鎖しろ。遺体も紙も動かすな。最初に見つけた者から、一人ずつ話を聞く」
「自害ではないと考えるのか」
「まだ決めぬ。だが、これほど都合のよい死を、そのまま信じることはできない」
吉継は静かに遺書を見下ろした。
「俺たちが探すべき内通者は、死んだ者ではない。今も、この王宮のどこかで息をしている」




