第118話 深淵の共犯
紫と緑の薬液が、乳鉢の中で渦を巻いていた。
イーナ・シナールは薬匙を動かしながら、寝台へ何度も目を向ける。白布の男の背中には、折れた聖矢が三本残っていた。
普通なら、光の治癒を重ねる傷だ。
だが、この男へ聖属性を足せば、傷口の奥で脈打つ病毒まで燃え上がる。
「光で治せないなら、光を抜くしかないわ」
イーナは矢尻の周囲へ黒紫の薬液を垂らした。
聖なる光が薬を拒み、白い火花を散らす。それでも薬液は焼けた肉へ染み込み、熱だけを少しずつ傷口の外へ引きずり出した。
逆性治療。
傷つける属性と反対の薬を使い、患者自身の回復が働ける状態へ戻す禁忌医術である。
「まず一本。次は止血。急いでは駄目よ。光が血管へ食いついているもの」
誰に聞かせるでもなく、イーナは手順を口にした。
一本目を抜き、薬煙で出血を抑える。二本目、三本目も同じように処置し終えた頃には、夜が薄い朝へ変わり始めていた。
隣の寝台では、小柄な少女が眠っている。
肩の矢は浅かった。だが、聖属性が影の魔力を焼いていたため、先に光を抜き、傷を縫ってある。
「二人とも、守ることばかり考えていた傷ね」
イーナは手首の甲で眼鏡を押し上げた。
患者の事情を知るのは、二人が目を覚ましてからでよい。今は生かす。それが医師の仕事だった。
◇
吉継が意識を取り戻した時、最初に感じたのは薬草の匂いだった。
木の天井。薄い朝日。背中には焼けるような痛みが残っているが、聖矢に貫かれた直後より呼吸が深く入る。
「チヨネ……」
起き上がろうとした肩を、白い袖の手が押し戻した。
「動かないで。あなたは痛みを我慢できても、傷口は我慢してくれないわ」
細縁眼鏡をかけた女性が、寝台の横から吉継を見下ろしていた。
濃い紫の長髪を右側で束ね、白と灰の薬師ローブをまとっている。小柄で華奢だが、黒い革帯で留めた胸元は驚くほど豊かだった。
「連れの少女なら隣よ。矢は抜いた。命にも、腕の動きにも問題はないわ」
吉継は首だけを動かした。
隣の寝台で、チヨネが清潔な布を肩へ巻かれて眠っている。胸が静かに上下しているのを確かめ、ようやく力を抜いた。
「助けてくれたのか。礼を言う」
「礼は、勝手に起き上がらなくなってから受け取るわ」
女性は吉継の手首へ指を置いた。
紫の瞳へ細い光輪が浮かぶ。脈の奥まで覗かれているような感覚に、吉継は目を細めた。
「傷は深い。けれど、もっと変なのはあなたの身体よ。聖属性が病毒を焼き、その病毒が傷ついた肉を内側から補おうとしている。普通なら、どちらか一つで死んでいるわ」
「普通でないことには慣れている」
「私は慣れていないの。だから興味深い」
女性は身を乗り出した。
豊かな胸元が吉継の腕へ触れそうになるほど近づき、眼鏡の奥の瞳が危うい光を帯びる。
「痛みは? 熱は? 病毒魔法を最後に使ったのはいつ? 待って、先に瞳を見せて」
「一度に聞かれても答えられぬ」
「そうね。患者は一人につき口が一つだったわ」
悪びれずに言い、女性は吉継の下瞼へ指を伸ばした。
その手首へ、細い影が巻きつく。
「ふん……!」
いつの間にか目を覚ましたチヨネが、寝台の上から女性を睨んでいた。
負傷した肩をかばいながらも、右手は枕の下へ差し込まれている。短刀を探しているらしい。
「チヨネ、よせ。この方は命の恩人だ」
「ふん」
影は解いたが、視線は解かない。
女性は自分の手首とチヨネを交互に見て、感心したように頷いた。
「もう影を動かせるのね。小さな護衛さんも興味深いわ」
「興味深いと言う前に、名を聞くべきではないか」
「それもそうね。私はイーナ・シナール。王都の外れで、薬を作って人を治しているわ」
その名を聞いた瞬間、吉継の魂の奥へ、知らない名が重なった。
イブン・スィーナー。
遠い西方で、病と薬の理を集め、後の世へ残した知の巨人。吉継が前世で知るはずのない人物の輪郭が、イーナの背後へ一瞬だけ浮かんだ。
「俺は大谷吉継。隣はチヨネだ」
「吉継さんと、チヨネちゃんね」
イーナは棚から黒い札のついた薬瓶を取った。
蓋を開けると、甘さの奥に土を腐らせたような匂いが混ざる。
「死霊の吐息。光神教が所持を禁じている薬草よ。普通の人には毒だけれど、あなたの身体はこれを受け入れた。おかげで聖属性の熱を抜くことができたわ」
「知られれば、其方も罪に問われるのではないか」
「診療所を焼かれて、私は牢へ入れられるでしょうね」
「なぜ、そこまでした」
イーナの瞳から、好奇心の色が少しだけ薄れた。
「目の前で死にかけている人を、使える薬が禁じられているという理由で見捨てたくなかった。それだけよ」
吉継は黙って彼女を見た。
奇異な体へ向けられる興味は本物だ。だが、それより先に、この女は二人を川から引き上げ、夜通し治療した。
「イーナ殿。俺の身体を調べたいのだな」
「ええ。病毒が傷を補う仕組みも、聖属性に焼かれる理由も知りたい。けれど、意識のある患者へ勝手な実験はしないわ」
「ならば契約しよう。俺は身体の変化と病毒魔法の反応を伝える。必要な血や魔力も、命に関わらぬ範囲で渡す」
吉継は右手を差し出した。
「代わりに、其方は俺の治療を続けてほしい。そして今夜の薬と、この場所の秘密は互いに守る」
イーナは差し出された手を見つめ、楽しそうに口元を緩めた。
「禁じられた薬を使った医師と、病毒を宿した患者。表へ出せない秘密を一つずつ持つのね」
彼女は吉継の手を握った。
「いいわ。今日から私たちは共犯者よ、吉継さん」
二人の重ねた手へ、チヨネの小さな手が割り込んだ。
「ふん!」
「チヨネちゃんも入るの?」
チヨネは強く頷く。
吉継は困ったように笑い、イーナは声を立てて笑った。
だが、握った手を離す直前、イーナの表情が医師のものへ戻る。
「一つだけ先に言っておくわ。聖矢の火傷は治せる。でも、あなたの病毒は少しずつ変わっている。次に無茶をした時も、同じように助かるとは限らない」
吉継は、自分の胸の奥で脈打つ黒い熱を感じた。
新しい共犯者を得た朝、病毒はまだ、彼自身にも答えを見せていなかった。




