第117話 聖矢の濁流
白い矢じりが、闇の中で一斉に揺れた。
「伏せろ!」
吉継が叫ぶと同時に、十二本の矢が放たれる。
儀礼刀を横へ薙ぎ、正面の二本を打ち落とした。チヨネは床へ身を沈め、倒れた卓の陰へ滑り込む。
その影から、もう一人のチヨネが飛び出した。
双影。
本体と寸分違わぬ分身が左右へ分かれ、弓を持つ男たちへ迫る。短刀がひらめき、一人の喉と、もう一人の胸を続けて貫いた。
だが、残る矢は招待客へ降り注いだ。
吉継は左手を突き出し、病毒の膜を広げる。黒灰色の魔力が半円を描き、伏せ遅れた貴族と給仕たちの前へ立った。
白い矢が触れた瞬間、膜が焼けた。
「ぐっ……!」
光が黒灰色の魔力を食い破り、吉継の左腕へ走る。皮膚の下へ熱い針を押し込まれたような痛みが広がった。
ただの矢ではない。
病毒魔法を貫くため、聖属性が込められている。
「宰相は東へ逃げた!」
闇の奥で男が叫ぶ。
「追撃班に任せろ! 病毒持ちをここで仕留める!」
ミセリアだけではない。吉継の弱点まで調べた上で仕掛けられた襲撃だった。
誰が指示したのか。その答えを得るには、まず生き残らねばならない。
「立つな! 卓を盾にして東階段へ進め!」
吉継は怯える招待客へ声を張った。
「走れば後ろの者が転ぶ。伏せたまま、前から順に動け!」
年配の伯爵が、近くの給仕とともに卓を起こす。周囲の者もそれに続き、倒れた椅子の間を低い姿勢で進み始めた。
暗殺者の一人が、逃げる列へ弓を向ける。
吉継の右手から、黒く湿った糸が走った。
腐蝕糸。
網状に広がった糸が三つの弓へ絡み、弦と革の留め具を腐らせる。弓を引いた瞬間、弦が切れ、矢が床へ転がった。
吉継は踏み込んだ。
伊藤一刀斎から学んだ、最短の間合い。
一足一刀。
相手が短剣を抜き終える前に、その懐へ入る。儀礼刀であっても、人を斬れる刃はついている。脇腹から胸へ斬り上げ、暗殺者をその場へ崩した。
背後から別の男が迫る。
振り返らず半歩を外し、逆手に返した刃で首筋を斬る。血の匂いが、香と酒の匂いを塗り潰した。
ここで手加減をして、ミセリアや招待客を危険へ戻す理由はない。
「ふん!」
チヨネの鋭い鼻鳴らしが飛ぶ。
幕の裏に隠れていた男が、短刀を振り上げていた。チヨネは壁を蹴り、男の手首へ刃を突き立てる。
相手が怯んだ隙に、分身が背後へ回った。二本目の短刀が鎧の継ぎ目を貫き、男は声もなく倒れる。
東階段から、円盾が床を叩く音が響いた。
「道はまだ開いている! こちらへ来い!」
カドゥの声だ。
ミセリアをトモエリアへ預けた後も、東階段に残って招待客の列を守っている。
倒れた椅子を踏み台にして、暗殺者が退避する列へ跳んだ。
吉継は長卓の脚を蹴りつける。横滑りした卓が、暗殺者と招待客の間へ割り込んだ。
暗殺者は止まらない。
短剣を両手で振り下ろし、卓板を一息に叩き割った。
その瞬間、割れた板の向こうから吉継が踏み込む。
暗殺者の刃は木へ食い込み、すぐには抜けない。吉継は低く沈めた儀礼刀を、腹から胸へ斬り上げた。
血を噴いた男が、二つに割れた卓へ倒れ込む。
休む間もなく、広間の奥で白い魔法陣が開いた。
「焼き尽くせ!」
聖なる光の塊が、退避する列へ放たれる。
吉継は割れた水差しから広がる水へ魔力を通した。水が招待客の前へ集まり、幾重にも圧縮された厚い膜となる。
白い光が水膜へ衝突した。
水が激しく沸騰し、広間を白い蒸気が覆う。受け止めきれなかった光が吉継の手を焼いたが、招待客へ届く前に勢いは消えた。
「前から順に来い! 私の盾から離れるな!」
カドゥの声に迷いはなかった。
吉継が託した役目を、もう果たしている。
伏せていた者たちが、東階段へ流れ始める。
暗殺者は残り六人。
そのうち三人が白い矢をつがえ、吉継だけへ狙いを絞った。
吉継は足元へ転がった水差しを蹴り上げる。こぼれた水へ魔力を通すと、薄い刃となって闇を走った。
水刃薄断が、一人の弓弦と指をまとめて切り裂く。
だが、残る二本が吉継へ飛んだ。
一本を刀で弾く。もう一本が右肩をかすめ、白い火を残した。
病毒魔法を使うたび、聖属性の熱が傷口から体内へ入り込む。力を出すほど、自分の肉体が内側から焼かれていった。
「まだだ」
吉継は刀を握り直した。
最後の招待客が東階段へたどり着こうとしている。若い給仕の女性だけが、倒れた椅子へ足を挟まれ、広間に残されていた。
白い矢じりが、その女性へ向く。
吉継より早く、チヨネが動いた。
床を蹴り、給仕の女性を突き飛ばす。
放たれた矢が、チヨネの左肩を貫いた。
「――チヨネ!」
小さな体が床へ転がる。それでもチヨネは起き上がり、給仕の女性を東階段へ押し出した。
肩に刺さった矢の周りから、白い光が影を焼いている。分身が黒い霧となって崩れたが、その傷が本体へ返ることはない。チヨネを震わせているのは、自らの肩を焼く聖矢そのものだった。
チヨネは痛みに震えながらも、吉継の前へ立とうとする。
「ああ、見えている。よく守った」
吉継はチヨネを抱き上げた。
「もうよい。次は俺が守る」
「ふん……」
弱い鼻鳴らしとともに、チヨネの指が吉継の襟をつかんだ。
東階段には、新たな足音が集まっている。追撃班が引き返してきたのだろう。
西階段からも白い光が近づく。
残された道は、大河へ面した窓だけだった。
吉継はチヨネの顔を胸へ押し当て、厚い幕へ向かって走る。儀礼刀で留め紐を断つと、月明かりと黒い水面が視界へ飛び込んだ。
「逃がすな!」
背後で弓弦が鳴る。
吉継は振り返らなかった。
窓硝子を肩から突き破り、チヨネを抱いたまま夜の大河へ身を投げる。
空中で、一矢が背中へ刺さった。
続けて二本。
聖なる光が白と青の礼装を焼き、病毒を宿す肉体へ食い込む。
吉継は声を押し殺し、チヨネを抱く腕だけは緩めなかった。
水面が迫る。
激しい衝撃とともに、二人の体が濁流へ沈んだ。
冷たい水が傷口へ入り、背中の光と混ざり合う。上下の感覚が消え、肺から空気が抜けていった。
それでも吉継は水を蹴り、一度だけ水面へ顔を出した。
腕の中で、チヨネが咳き込む。
「離さぬ……必ず、連れて帰る」
その言葉を最後に、吉継の意識は暗い流れへ沈んだ。
◇
迎賓館から離れた川下に、薬草を冷やすための古い取水網があった。
夜の採取を終えた白衣の女性が、網へ絡んだ二つの影に気づく。
「人……?」
女性は川へ入り、最初に小柄な少女を岸へ引き上げた。次に白布の男へ手を触れ、その背中で燃える聖属性の傷と、皮膚の下で脈打つ病毒を見つめる。
紫色の瞳が、驚きと好奇心に大きく見開かれた。
「聖なる光で焼かれているのに、毒で生き延びている……?」
女性は男の脈を確かめ、薬草籠を放り出した。
「死なないで。あなたの体、まだ分からないことだらけだわ」




