第116話 月下の晩餐
帝国軍との対峙を終えてから、三日が過ぎた。
王都政務院の執務室で、ミセリアは銀色の封蝋が押された招待状を開いていた。
差出人は、王都の水運を取り仕切る商会主と、それを後援する貴族たちである。
国境問題が大きな戦へ発展せずに収まったことを祝い、今後の水運と街道整備について話し合いたい。七日後、王都水運迎賓館で晩餐会を開くため、宰相ミセリア・イシダに出席してほしい。
丁寧な文章だった。
しかし、招待状を読み終えたミセリアの表情は変わらない。
「祝いだけが目的ではないな」
向かいの椅子に座っていた吉継が言った。
「その通りだ。帝国との交渉で、王国の力関係が変わった。彼らは誰につくべきか見定めたい」
「ガリア家が実権を失い、其方が国境へ千五百を動かした直後だ。商人も貴族も、次の流れを知りたがるだろう」
ミセリアは招待状を机へ置いた。
「護衛と使用人のほかに、同伴者を一人連れてよいと書かれている。大谷吉継、貴殿も参加するのはどうだ」
「俺をか」
「白蝶城の水路と街道は、今後の議題になる。領主である貴殿が直接答えた方が早い」
吉継は招待状へ目を落とした。
白霧境を立て直すには、米を作るだけでは足りない。余った米や木材、薬草を運び、必要な鉄や塩を買い入れる道がいる。
その道を広げるには、商人の力が必要になる。王都の貴族と商会主へ顔を覚えさせることも、領主として避けては通れない。
「悪くない。味方になり得る者と、敵に回る者を知る機会にもなる」
「では、出席で返答する」
「ああ。だが、俺は王都の宴の作法には詳しくない」
「心配はいらない。余計なことを言いそうになったら、私が止める」
「俺より、カドゥを止める用意をした方がよいと思うが」
部屋の隅で護衛をしていたカドゥが、勢いよく顔を上げた。
「なぜ私が参加することになっている」
「其方を白蝶城へ置いていけば、勝手に宴を始めそうだからだ」
「それは否定できないな!」
カドゥの笑い声が執務室へ響く。
ミセリアは無言で新しい紙を取り、招待への返書を書き始めた。
◇
それから七日後、王都水運迎賓館には、百を超える魔力灯が輝いていた。
迎賓館は大河へ張り出すように建てられている。二階の大広間からは、月明かりを砕いて流れる水面が見えた。
その夜、王国の有力貴族や商会主たちが招かれていた。名目は、帝国との緊張が収まったことを祝う晩餐会である。
だが、吉継には別の戦に見えた。
誰がミセリアへ近づくのか。誰が目を合わせず、誰がガリア家の話題にだけ耳を傾けるのか。
杯を持つ指と、言葉を挟む間。その一つ一つが、槍の穂先よりも雄弁だった。
「白霧境へ、さらに銭を入れるおつもりですかな」
腹の突き出た伯爵が、赤い酒を揺らした。
「白蝶城は辺境の城にすぎません。水路と街道を整えても、王都へ戻る利益は少ないでしょう」
ミセリアは青灰色の正装をまとい、伯爵を正面から見た。黒髪には、吉継が贈った青い硝子の髪飾りが挿されている。
「水路が完成すれば、白霧境から王都までの輸送は四日短くなる。米、木材、薬草の損失も減る。三年で費用を回収できる」
「しかし、また帝国が動けば」
「そのための白蝶城だ。守れない道へ銭は使わない」
ミセリアの声には、怒りも愛想もなかった。ただ、覆しようのない数字だけが並ぶ。
伯爵は返す言葉を失い、笑ってごまかしながら人垣へ戻った。
少し離れた場所で、吉継はその様子を見守っていた。
白を基調とした礼装に、深い青の帯。顔の病を隠す白布も外していない。腰にあるのは軍配ではなく、儀礼用の刀だけである。
「ずいぶんと窮屈そうですね、大谷殿」
黒い礼装鎧をまとったカドゥが、首元を覆う高い襟へ指を入れた。人前でデュラハンだと悟られぬよう、鎧と幻惑の魔具で正体を隠している。
「首が締まる。いっそ戦場の方が楽ではないか」
「それは俺も同感だ。しかし、ここで刀を抜けば国境の戦より面倒になる」
「では、料理を食べて耐えるとしよう」
カドゥは大皿へ手を伸ばしたが、その手を給仕姿のチヨネにぺしりと叩かれた。
「ふん」
「まだ取るなというのか」
チヨネは料理を運ぶ侍女に化けていた。白い前掛けを整え、澄ました顔で首を縦に振る。
「毒見の後だ。従え」
「私より小さいのに厳しいな」
「ふんふん」
チヨネは胸を張り、銀の匙で肉汁を確かめ始めた。その得意げな横顔に、吉継はわずかに目を細める。
「大谷吉継」
ミセリアが人垣を抜け、三人のもとへ来た。
「北の商会主が、白霧境との共同倉を受け入れた。次は西部の二家を説得する」
「随分と骨の折れる戦だな」
「剣が使えない分、面倒だ」
ミセリアは手にした杯へ視線を落とした。
「この場では、誰も結論より先に本音を言わない。貴殿と話す方が早い」
声はいつもと変わらない。
それでも吉継には、百人の中で一人きりになっている三成の姿が、一瞬だけ重なって見えた。
「俺でよければ、いつでも聞こう」
ミセリアが顔を上げる。
「貴殿は領主だ。暇ではない」
「話を聞く時間くらい作れる。其方が一人で抱えるより早く片づく」
青い髪飾りに、魔力灯の光が差した。
ミセリアの目元から、ほんのわずかに力が抜ける。
「ならば、今の言葉も記録しておく」
「約束を帳面にまで縛られるとは思わなかった」
「貴殿は放置すると無茶をする。必要な措置だ」
カドゥが吹き出した。
「反論できぬな、吉継」
「其方まで言うのか」
その時だった。
チヨネが銀の匙を皿へ置いた。
かすかな音が三度、続けて鳴る。
彼女が決めていた警告の合図だった。
吉継は表情を変えず、杯へ手を伸ばすふりをする。チヨネは盆を抱えたまま、大広間の南側へ視線を送った。
一人の給仕が、窓の厚い幕を閉じている。
月を眺めるため、今夜は開けておくと決められていたはずだ。
別の給仕は東階段の前へ花台を動かしていた。飾りにしては位置が悪く、人が通れる幅を狭めている。
さらに、香の匂いに紛れて、鼻の奥を刺す清涼な気配があった。
ジゼリアが聖魔法を使った時と似ている。だが、あの光ほど温かくない。
「カドゥ。東階段の花台を見ろ」
吉継は笑みを崩さず、小声で告げた。
「宴には邪魔だな」
カドゥの目から酔いの気配が消える。
「トモエリアは外周か」
「ああ。屋根と川岸を見ている」
吉継はミセリアの半歩前へ出た。
大広間の扉が閉じる。
直後、百を超える魔力灯が、すべて同時に消えた。
悲鳴が上がる。
杯が割れ、椅子が倒れた。誰かが出口へ走り、人と人がぶつかる音が暗闇の中で重なる。
「魔力切れか!」
「動くな!」
吉継の声が広間を貫いた。
魔力灯は別々の魔石で動く。百の灯りが同時に尽きることなどあり得ない。
「ミセリア、俺の手を取れ。灯りが消えたのではない。消された」
伸ばされた手を、ミセリアが迷わず握った。
次の瞬間、細い風切り音が走る。
吉継はミセリアの腕を引いた。彼女が立っていた場所へ短い矢が突き立ち、床板に白い光が散る。
「……聖属性の矢」
ミセリアの声が低くなる。
「ああ。ここは宴の場ではない。俺たちを仕留めるための狩場だ」
闇の中で、カドゥが円盾を構えた。
「カドゥ。ミセリア殿を東階段へ。外にいるトモエリアと合流しろ」
「吉継はどうする」
「俺とチヨネが残り、追手を分ける」
「断る。私はお前の盾だ」
「敵の狙いはミセリア殿だ。ここで全員が固まれば、まとめて射抜かれる」
吉継はカドゥの肩をつかんだ。
「其方にしか任せられぬ。必ず生きて外へ出せ。これは命令だ」
カドゥは歯を食いしばる。
「……必ず追いつけ」
「ああ」
ミセリアは吉継の手を離さなかった。
「貴殿も来い」
「すぐに追う。そのために、まず其方が動いてくれ」
暗闇の中でも、ミセリアの視線だけは分かった。
やがて指が離れる。
「約束を破るな」
「承知した」
カドゥはミセリアを盾の陰へ入れ、花台を蹴り倒した。塞がれていた東階段へ突入し、待ち伏せていた男を盾で壁へ叩きつける。
「道は開けた! 行くぞ、ミセリア殿!」
二人の足音が遠ざかっていく。
吉継は儀礼刀を抜いた。
隣では、チヨネが侍女の帽子を脱ぎ捨てている。前掛けの下から二本の短刀を抜き、吉継の背へ自分の背を重ねた。
「怖ければ、影から俺を援護してもよい」
「ふん!」
チヨネは怒ったように鼻を鳴らし、床を一度踏んだ。
置いていくな。そう言っている。
「分かった。共に帰るぞ」
大広間の奥で、弦を引く音がいくつも重なった。
闇の中に、白い矢じりだけが次々と灯った。




