第115話 勝利を叫ばぬ帰還
帝国軍の最後の旗が消える少し前、治療隊の荷車が浅瀬を渡った。
西岸から一人の女将軍が歩いてくる。淡い藤紫を帯びた黒髪を低く束ね、薄灰色の外套の下へ細身の長刀を差していた。
薄明機動隊を率いるケイス・サナリアである。
「ヴェイラ殿、お迎えに来ました。帝国へ帰るまでが任務ですよ」
「一人で歩ける」
ヴェイラは差し出された手を取らず、荷車から降りた。小さな体はまだ灰土と包帯に覆われているが、背筋だけは折れていない。
「ええ、そう言うと思いました」
ケイスは困ったように笑い、無理に手を貸さなかった。
その灰紫の瞳が、吉継の左手へ向く。ヴェイラの自害を止めた掌には、新しい包帯が巻かれていた。
「その手は、ヴェイラ殿の刃を受けた傷ですね」
「俺が勝手に受けたものだ」
「敵将の命まで背負うとは。大谷殿は、優しいのか怖いのか判断に困ります」
「救ったつもりはない。危険を承知の上で、ここで死なせるには惜しいと判断した」
ヴェイラが吉継を見上げる。
「命を拾わせて、私を借りで縛るつもりか」
「そのつもりはない。其方は帝国の将として帰れ」
「甘いな」
「そうかもしれぬ。だが、忠義を曲げさせて得た将に、背中は預けられぬ」
二人の間にあるものは恩ではない。次に会えば、互いの命を奪う覚悟だった。
それでもケイスは、どこか楽しそうに目を細めた。
「敵同士だと言いながら、相手の忠義まで認めるのですか。お二人とも、ずいぶん気が合いますね」
「どこを見ればそうなる」
ヴェイラの声が一段低くなる。
「ふふ、怖い顔をしないでください。帰りましょう。クラウス閣下へ報告することが山ほどあります」
ケイスは吉継へ向き直り、帝国式の礼を取った。
「大谷殿。ヴェイラ殿と七十三人、確かに帝国が引き取りました」
「ああ。負傷者を急がせるな」
「承知しました。敵にそこまで言われては、こちらも粗末には扱えませんね」
ケイスはヴェイラの歩幅へ合わせ、ゆっくりと西岸へ戻っていった。
◇
帝国軍の最後の旗が、西の丘の向こうへ消えた。
それを見届けた吉継は、ようやく川へ背を向けた。
王国兵たちから歓声は上がらない。停戦の約定を守り、槍も旗も静かに下ろされている。
「これで終わったか」
カドゥが黒い兜を抱え、川岸へ座り込んだ。
「国境での戦はな」
「その言い方だと、まだ面倒が残っているな」
「よく分かってきたではないか」
吉継がわずかに笑う。
「アリスティ殿。こちらの死者は」
「白霧境兵が五人。私の傭兵が三人です。名と遺品は、すべて確認しました」
アリスティは笑みを消し、八人の名を記した紙を差し出した。
「遺族への補償は、王国から出る分とは別に白蝶城からも出す。傭兵の三人にも同じだけ渡してくれ」
「相変わらず、金のかかる主君ですね」
「命を預けさせた。安く済ませるつもりはない」
吉継は八人の名を順に読み、紙を懐へ収めた。
「王都へ報告した後、俺が家族へ文を書く」
「だから、うちの連中は貴殿の仕事を断れないのですよ」
アリスティは困ったように笑い、静かに頭を下げた。
その直後、白装束の袖が強く引かれた。
チヨネが吉継の左腕を抱え、包帯をにらんでいる。鼻を鳴らすどころか、頬を膨らませ、全身を小刻みに震わせていた。
「ふんふん!」
「怒っているのは分かる」
チヨネは首を横へ振る。吉継の袖をさらに強く引き、近くの木箱を指さした。
「座れと言っているのか」
今度は勢いよくうなずく。
「まだ撤退の確認が――」
「ふん!」
チヨネの小さな手が、吉継の膝を容赦なく叩いた。
「大谷吉継。今はチヨネが正しい」
治療天幕から戻ったジゼリアも、腰へ手を当てていた。
「帝国兵は全員引き渡した。王国兵の重傷者も治療隊へ任せた。残っているのは、あなた一人だ」
「俺には光を使えぬ」
「知っている!」
ジゼリアの声が川辺へ響いた。
すぐに声を落とし、悔しそうに十字架を握る。
「だから薬草と水で洗う。包帯も替える。治せないから放っておくなど、私は認めない」
「……分かった。任せよう」
吉継が木箱へ腰を下ろすと、チヨネは満足そうに胸を張った。
「ふんふん」
頭を差し出して待っている。
「叱った褒美まで求めるのか」
吉継が頭を撫でると、チヨネは目を細めた。それでも左袖だけは離さない。
「ミセリアから、貴殿を必ず連れて帰れと言われている」
トモエリアが長刀を肩へ預けた。
「歩けないなら、風で王都まで運ぶぞ」
「それは勘弁してもらいたい」
「ならば、おとなしく治療を受けろ。私も親友の簪を二度も心配したくない」
アリスティが横で笑う。
「大谷殿も、ようやく包囲されましたね。帝国軍より厳しい包囲です」
「否定できぬな」
吉継は目を閉じ、ジゼリアが包帯を解くのを受け入れた。
◇
三日後、吉継たちは王都へ戻った。
凱旋の列は作らない。帝国の敗北を公表しない約定に従い、兵は北鎖砦と各宿営地へ戻り、吉継たちは少人数で王宮の脇門をくぐった。
政務院の一室では、ミセリアが一人で待っていた。
「大谷吉継。帰還を確認した」
「報告は黒印状で先に送った」
「書状は帰ってこない」
ミセリアは椅子から立ち、吉継の前まで歩く。
白頭巾。新しく巻き直された左腕の包帯。川と泥の汚れが残る白と青の陣羽織。
そのすべてを、記録するように見つめた。
「負傷は」
「病毒魔法の反動と、浅い切り傷だけだ。ジゼリア殿に薬草で処置してもらった」
「そうか」
短い返事だった。
だが、ミセリアの肩から、見えない重りが落ちたようにわずかに力が抜ける。
「バルトロメウスの永久隠居は、国王印を得た。家督は嫡男へ移す。父からの命令を受けないこと、帝国との交渉記録をすべて提出することも契約で縛る」
「これで帝国は退く理由を得て、王国は公爵の実権を奪える」
「貴殿の策だ」
「決めたのはミセリア殿だ」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
吉継は彼女の髪へ目を向ける。青い硝子の髪飾りは、以前と同じ場所に挿されていた。
「壊れていないようだな」
ミセリアは髪飾りへ触れる。
「貴殿より丈夫だ」
「それは頼もしい」
「次から、帰還も命令に含める」
「承知した」
「軽く答えるな。貴殿は、自分を最後にする癖がある」
声は静かなままだった。しかし、その言葉だけは政務上の注意ではなかった。
吉継は一度目を伏せ、改めてミセリアを見た。
「今度は守れた」
「何をだ」
「国境と、其方の決断をだ」
前世の名は言わない。守れなかった友の姿も、この女へ背負わせない。
「次も守る」
「ならば、生きて戻れ。それも貴殿の役目だ」
「ああ。次も必ず戻る」
◇
同じ頃、ガリア公爵家の王都屋敷では、王命が読み上げられていた。
バルトロメウス・フォン・ガリアは深緑の礼服をまとい、椅子に座ったまま聞いている。
永久隠居。
家督、公職、政務への関与、家臣への命令権を剥奪。ガリア家の印章は嫡男へ移される。
「謹んで、お受けいたします」
口元には、礼儀正しい笑みが浮かんでいた。
王宮の使者が部屋を出る。扉が閉まった瞬間、その笑みが消えた。
「おのれ、大谷吉継……」
殺されるよりも重い。
家を残し、外交の道も残しながら、自分だけを切り離された。帝国さえ、その条件を成果として受け入れた。
部屋の隅で、藍色の髪がわずかに揺れた。
女刺客が片膝をついている。首元には、黒い鎖のような呪紋が淡く浮かんでいた。
「古い巻物を持て。王国へ潜り、親帝国派の貴族と、光神教を追われた者たちへ接触しろ」
女の指が震える。
「閣下には、もはや命令権がありません」
「王命が縛るのは、ガリア家の命令だ」
バルトロメウスが指輪へ魔力を流すと、女の首にある呪紋がきつく締まった。
「これは、お前の魂へ下す命令だ」
女刺客は苦しげに息を呑み、それでも無表情のまま頭を下げる。
「……承知しました」
「大谷吉継。国境では勝ったつもりだろう」
バルトロメウスは、窓の外に広がる王都を見下ろした。
「だが、国の内側に川はない。次は、逃げ場のない場所から崩してやる」




