第114話 二人の軍師
川の中央に、石を積んだ低い卓が置かれた。
東岸からは吉継とトモエリア。西岸からはクラウスと副官が進み、双方二人だけで向かい合う。
両岸の兵は武器を下げていた。しかし、誰一人として気を抜いてはいない。
「ヴェイラ・バイゼンと、帝国兵七十三人を返してもらおう」
クラウスは挨拶を省いた。
「加えて、バルトロメウス・フォン・ガリア公爵の処分を撤回せよ。それが帝国軍撤退の条件だ」
「捕虜は返す。だが、バルトロメウスの処分は撤回しない」
吉継も即座に返した。
「ならば、交渉は終わりだ」
「そう急ぐな。公爵本人は救えぬが、ガリア家と帝国の窓口は残せる」
立ち去ろうとしたクラウスの足が止まった。
吉継は石卓へ一枚の紙を置く。
「バルトロメウスは蟄居ではなく、永久隠居とする。家督、公職、政務への関与、家臣への命令権。そのすべてを失わせる」
「それを救済と呼ぶつもりか」
「呼ばぬ。処罰だ」
朝の川風が紙の端を揺らした。
「ただし、ガリア家は潰さない。嫡男へ家督を継がせ、帝国との交渉役も引き継がせる。帝国は、両国をつないできた窓口を守ったと持ち帰れる」
クラウスは眼鏡の奥から吉継を見た。
「父の命令を受けた息子なら、何も変わらぬ」
「ゆえに、父子の命令系統を切る。交渉記録はすべて王国へ提出させ、ミセリアの契約魔法で条件を縛る」
「ガリア家を残しながら、バルトロメウスだけを政から切り離すか」
「帝国が欲しいのは老人一人ではない。王国へ通じる道であろう」
クラウスは否定しなかった。
バルトロメウスの赦免を求めて軍を動かした以上、何も得ずに帰れば帝国の面目は潰れる。
だが、ガリア家と外交の道を守ったとなれば、撤退を敗走ではなく任務達成と言い換えられる。
「こちらにも条件がある」
クラウスが石卓へ指を置いた。
「今回の戦闘を、帝国の敗北として公表しないこと。ヴェイラと兵たちは、全員を生きたまま返還することだ」
「王国の公式記録には、国境で両軍が対峙し、交渉によって同時撤退したと残す。捕虜の件も公にはしない」
「兵の口までは閉じられまい」
「噂まで止めるとは言わぬ。だが、王国が勝利を喧伝することはない」
吉継はクラウスの灰色の瞳を見返した。
「勝ったと叫べば、帝国はその屈辱を晴らすためにまた兵を出す。俺が欲しいのは名声ではない。この国境が静まることだ」
「勝利を捨てて、次の戦を消すか」
「戦は終わらせてこそ意味がある」
その時、東岸からジゼリアが歩いてきた。
白と赤の鎧には、治療で使った水と薬草の跡が残っている。胸元の十字架は光っていなかった。
「話の途中ですまない。捕虜七十三人の容体を伝えに来た」
クラウスの副官が身構える。ジゼリアはその反応を気にせず、真っ直ぐ報告した。
「全員、生きている。九人は歩かせられないが、荷車なら移せる。王国兵と同じ薬を使い、食事も与えた」
「敵兵に、そこまでする理由は何だ」
クラウスが問う。
「負傷者だったからだ」
ジゼリアの答えには迷いがない。
「国が違っても、痛みまで違うわけではない。返すのなら、治療隊を荷車につける。国境を越えたところで引き渡す」
言い終えると、彼女は吉継を見た。
「ただし、交渉が長引くなら先に治療へ戻る。言い争っている間にも傷は悪くなる」
「ああ。任せる」
ジゼリアはうなずき、天幕へ駆け戻っていった。
「あれが、貴国の聖騎将か」
「そうだ。俺には使えぬ光だが、多くの兵を救ってくれた」
クラウスの視線が、東岸の治療天幕へ向く。
そこでは王国兵と帝国兵が、同じ列で治療を受けていた。
「捕虜を傷つけて脅すより、治して返す方が帝国には重い。次に攻めれば、救われた兵を恩人と戦わせることになる」
「そこまで計算して治療させたのか」
「違う。あれはジゼリア殿が、自分で選んだ」
吉継は静かに続けた。
「人の情まで、すべて策に数えるつもりはない。だが、向けられた情を無駄にするつもりもない」
クラウスは、わずかに目を細めた。
「兵を数で動かしながら、数にないものまで使う。厄介な男だ」
「褒め言葉として受け取ろう」
トモエリアが小さく吹き出した。
「二人とも、よく似ているな。本人たちは認めないだろうが」
「私は百を捨てて百一を通す」
クラウスの声は冷たい。
「貴殿はどうだ、大谷吉継」
「必要なら俺も兵を死地へ置く」
吉継は目を逸らさなかった。
「だが、置いた兵には生きて帰る役目も与える。それでも死なせたなら、その死を次の勝利へつなぐ。忘れて数から消すことだけはせぬ」
二人の間を、川の水が流れていく。
やがてクラウスが右手の手袋を外し、吉継へ手を差し出した。
「条件を受ける。ただし、撤退は同時だ。まず捕虜を西岸へ返し、帝国軍が一里下がる。次に王国軍も国境から同じだけ下がれ」
「異存はない」
吉継は、その手を握った。
「大谷殿。王国側の権限は?」
トモエリアが懐から、青い文字の浮かぶ命令書を取り出した。
「ミセリアから預かっている。先制攻撃を避け、帝国軍を国境から退かせられるなら、捕虜返還と同時撤退を認める。ガリア家の処置も、今の条件なら王国側に利がある」
「用意のよい宰相だ」
「私の親友だからな」
トモエリアは少し誇らしげに答えた。
軍中停戦書が二通作られた。
吉継が大谷家の黒印を押し、クラウスが帝国総軍師の鉄獅子印を重ねる。最後にトモエリアが王国の命令書を添え、両軍の撤退条件を正式な約定とした。
◇
昼過ぎ、治療隊の荷車が浅瀬を渡った。
ヴェイラは縄を解かれ、西岸へ向かう前に吉継を振り返る。
「私を返したことを、いずれ後悔させる」
「その時は、また勝つ」
吉継が答えると、ヴェイラは小さく鼻を鳴らした。
帝国軍の旗が一つ下がる。
続いて王国軍の旗も一つ下がった。
どちらも背を向けず、同じ速さで国境から離れていく。
クラウスは最後まで西岸に残り、東岸の吉継を見ていた。
「大谷吉継。次は、川も捕虜もない場所で会おう」
「次がないよう努めるのも、軍師の役目だ」
戦勝の鬨は上がらなかった。
それでもこの日、二つの軍は剣を納めた。




