第112話 鉄の軍師、来たる
ヴェイラを捕らえた吉継は、石荷道に留まらなかった。
「東の浅瀬まで下がる。負傷者と捕虜を先に渡せ」
石荷道の南東には、旧街道を横切る川がある。東岸を王国、西岸を帝国が管理する、現在の実効支配上の境界でもあった。
普段は膝ほどの深さしかないが、川底には丸石が多く、流れも見た目より速い。
鎧を着た兵が隊列を組んで渡るには、厄介な場所だった。
「ここで迎え撃つのか?」
カドゥが円盾を背負い直した。
「ああ。一千二百が相手でも、川を渡る間は一千二百ではない」
吉継は軍配で浅瀬を示す。
「川底の左右を掘れ。中央だけは、敵が渡れそうに見える深さで残す」
土魔法が川底をゆっくり削った。
浅瀬の両端は腰まで沈む深さとなり、中央には十人ほどが並べる道だけが残る。上流ではアリスティ隊の十人が土嚢と倒木を積み、流れを一時的にせき止めた。
「帝国兵が中央へ集まったら、堰を切るのですね」
「切るかどうかは、敵に決めてもらう」
アリスティが片眉を上げた。
「また、使わない罠まで数えさせるおつもりで?」
「堰があると知れば警戒する。知らなくても、俺が堂々と待っていれば疑う。知略に長けた者ほど、見えぬものを放置できぬ」
吉継は短い書状へ、帝国軍一千二百、ヴェイラ捕縛、浅瀬で防戦中とだけ記した。黒印を押し、最も速い騎手へ渡す。
「王都へ届けろ。途中で北鎖砦の伝令所を通れ」
「援軍を求めるのですか」
「ミセリアなら、この三つで何が必要か分かる」
騎手が南へ走り去る。
残る兵は二百五十に満たない。その多くが、灰白葬濤を受けた直後だった。
吉継は負傷者と捕虜七十三人を東岸の後方へ置き、同じ天幕で治療を続けさせた。ヴェイラだけは両手を縛り、川が見える場所へ座らせる。
「私たちを川辺へ並べれば、クラウスも攻撃しにくいぞ」
「捕虜を盾にすれば、次から帝国兵は降伏しなくなる」
「では、二百余りで何をする」
「貴殿の総軍師に、考えてもらう」
◇
北から、一千二百の帝国兵が現れた。
大盾兵、長槍兵、火術兵、雷術兵。左右を騎兵が固め、軍靴の音が一つの獣の足音のように揃っている。
軍の中央で、銀髪の男が馬を止めた。
クラウス・フォン・ベルンシュタイン。
細い眼鏡の奥にある灰色の瞳が、川と対岸を見渡す。
「ヴェイラ軍団長を確認。捕虜七十三人も後方にいます」
副官の報告に、クラウスは表情を変えない。
「対岸の兵は」
「二百五十未満。疲労しています」
「川底を見ろ。渡れる場所、流れの変化、上流の倒木を調べさせろ」
その時、東岸から一人の男が川へ入った。
白頭巾。白と青の陣羽織。腰には刀を差し、左手には軍配を持っている。
吉継は浅瀬の中央まで進み、帝国軍を正面から見据えた。
「我こそは、サンクトゥス・レガリア王国直臣、大谷吉継!」
静かな声が、水面を渡った。
「ヴェイラ・バイゼンを捕らえた者だ。取り戻したくば、この川を越えてみよ!」
帝国軍の前列がざわめく。
赤い槍を持った百人長が、馬腹を蹴って前へ出た。
「閣下、あの病人の首を取って参ります」
クラウスは百人長ではなく、吉継の足元を見ていた。
「殺す必要はない。川底を確かめ、危険なら戻れ」
「一人を相手に、戻ることなどありません」
百人長は馬を降り、大盾と赤槍を持って川へ入った。
中央の浅瀬だけを選び、慎重に歩く。だが、鉄板を重ねた鎧は水を含み、一歩ごとに足が重くなった。
「帝国の百人長、ロルフ・ハルマン! その首、もらい受ける!」
赤槍に火が走った。
穂先が水面を焼き、白い蒸気を上げながら吉継の胸へ伸びる。
吉継は動かない。
赤槍が届く寸前、軍配で穂先を外へ流した。火花が白頭巾の横を通り過ぎる。
「返刃一閃」
百人長は槍を引こうとした。
しかし、右足が川底の石に挟まっている。吉継はこの浅瀬を渡る際、踏める石と、足を取られる窪みをすでに確かめていた。
一歩で槍の内側へ入る。
刀が大盾の縁を滑り、兜と胸甲の間を斬った。
百人長の赤槍が水へ落ちる。
百人長の体が水へ倒れ、流されかけた。帝国兵二人が川へ入り、動かなくなった体を西岸へ引き戻す。
吉継は血を払わず、刀を帝国軍へ向けた。
「次は誰だ」
誰も動かない。
「帝国最高頭脳と聞いていたが、病人一人を前に川も渡れぬか!」
怒号が上がった。
「百人長の仇を!」
「大盾隊を出せ!」
帝国兵が前へ出ようとする。
「全軍、止まれ」
クラウスの低い声が、その動きを止めた。
吉継の挑発は、あまりにも分かりやすい。
一人で川へ立ち、渡れる場所まで自ら示している。背後の土塁には弓兵の姿が少なく、上流には不自然な倒木が見えた。
「罠です」
副官が呻く。
「分かっている。問題は、罠が一つとは限らないことだ」
クラウスは左右の部隊へ命じた。
「上流と下流へ斥候を出せ。工兵は川底を測れ。弓兵と魔術兵は待機。対岸へ一人も渡すな」
「しかし、ヴェイラ軍団長が」
「大谷吉継は、我々に急げと思わせている。ならば、急いだ側が負ける」
帝国軍は川の西岸で陣を組み始めた。
斥候が上流へ走り、工兵が長い棒で川底を探る。吉継が見せた堰を調べるだけでも、すぐには終わらない。
浅瀬に立つ吉継の足元を、冷たい水が流れていく。
クラウスは動かなかった。
吉継もまた、動かない。
両軍の間にある川だけが、夕暮れへ向かって流れていた。
その頃、一騎の伝令が北鎖砦の伝令所を抜け、王都へ続く街道を駆けていた。
吉継が稼いだ時間を、戦を止める力へ変えられる者。
伝令が届ける相手は、ミセリア・イシダだった。




