第111話 死なせるには惜しい
北の空で、三度目の紫電が消えた。
クラウス率いる精鋭一千二百が、石荷道へ迫っている。蹄と軍靴の響きはまだ聞こえない。だが、残された時間が少ないことだけは、誰の目にも明らかだった。
「カドゥ。右へ追い込め。倒そうとするな」
「注文が多いな!」
カドゥは楽しげに笑い、黒い円盾を突き出した。
ヴェイラの短刀が盾の縁を滑る。骨色の指甲がカドゥの手首を狙ったが、円盾に浮かんだ黒い波紋が、受けた力を半歩遅れて押し返した。
「怨盾返し(カース・リバウンド)」
ヴェイラの小さな体が泥の上を滑った。
それでも倒れない。押し返された勢いを利用し、身をひねってカドゥの左へ抜けようとする。
「小さいからと、隙間ばかり選ぶな!」
「黙れ、長身」
低い声に、わずかな苛立ちが混じった。
ヴェイラは円盾の下へ潜り込む。短刀がカドゥの脇腹を狙った瞬間、吉継は軍配を横へ払った。
「アリスティ殿。左足だ」
「ようやく、団長らしい仕事をくれましたね」
アリスティが泥へ刺していた短刀を踏み込む。
「重力不変の土」
重くなったのは、ヴェイラの武器ではない。
左足の下に埋まっていた、帝国兵の盾だった。灰土の中へ沈んだ盾がヴェイラの長靴を巻き込み、踏み出そうとした足を地面へ引き留める。
ヴェイラは迷わず長靴の留め具を短刀で切った。
裸足になった左足を抜き、そのまま吉継へ走る。
「まだ来るか!」
カドゥが追う。
「追うな。そこだ」
吉継は動かなかった。
ヴェイラは、カドゥの盾を避けるため右へ抜けた。アリスティの重力を警戒し、落ちた武具を踏まない。その二つを選べば、残る足場は吉継の正面にある細い石畳だけだった。
そこには、すでに黒い魔力が這っている。
「病鎖絡み(びょうさがらみ)」
鎖の形をした病毒が、ヴェイラの裸足と短刀を握る右手へ巻きついた。
白い肌から血の色が引く。ヴェイラは力任せに踏み切ろうとしたが、灰白葬濤の反動が残る左膝は、もう命令に応えなかった。
短刀の切っ先が、吉継の白頭巾へ届く寸前で止まる。
吉継はその手首をつかみ、刀の柄で短刀を打ち落とした。
「捕らえたぞ、ヴェイラ・バイゼン」
「まだだ」
ヴェイラの左手が、外套の襟へ入る。
骨色の小さな刃が現れた。敵へではない。自分の喉へ向かっている。
吉継は迷わず左手を差し入れた。
刃が手袋を裂き、掌へ食い込む。それでも指を閉じ、刃を握り潰すように止めた。
「離せ」
「断る」
「私は帝国の殲滅軍団長だ。捕虜になれば、クラウスの足を引く。生かされるくらいなら、ここで死ぬ」
「それを決めるのは貴殿ではない」
ヴェイラが初めて、敵の将ではなく、一人の人間を見るように吉継を見上げた。
近い距離で、薄灰色の瞳と白頭巾の奥の目が重なる。
その瞬間、吉継の頭に一つの名が響いた。
白起。
秦の武安君。幾十万もの趙兵を降しながら、再び刃を向けることを恐れ、長平でことごとく坑した将。
前世の記憶を持たぬ、小柄な女将軍。その魂だけが、降伏した敵を生かす危険を知っている。
「白起か……」
「何を言っている」
「いや、こちらの話だ」
吉継は血のにじむ掌で、なおも刃をつかんでいた。
ヴェイラは自分の喉へ向けた力を緩めない。
「私をこのまま生かせば、必ず後悔するぞ。降った敵は、機を得ればまた刃を向ける。私なら、二度と立てぬよう、ここで殺す」
「確かに、貴殿の言っていることは間違っていない」
吉継が静かに答えると、カドゥもアリスティも口を挟まなかった。
「だが、ここで死なせるには惜しいと思ったのだ」
「敵将へ情けをかけるのか」
「違う。貴殿が再び刃を向ける危険より、生かして得られるものの方が大きいと見た」
吉継はヴェイラの手から刃を奪い、泥へ投げた。
「再び敵となるなら、その時は俺が責任を持って止める。だから今は、俺の判断で生きてもらう」
ヴェイラの灰色の瞳が、わずかに揺れた。
「傲慢な男だ」
「将とは、兵の生死を決める傲慢な役目だ。ならば、殺さなかった命にも責任を負う」
カドゥが円盾を背へ戻し、声を上げて笑った。
「よいな! 敵将の命まで自分の荷にするとは、実に吉継らしい!」
「笑っている場合ではありません」
アリスティはそう言いながらも、口元を少し緩めていた。
吉継は病鎖絡みを解かず、周囲の兵へ命じる。
「ヴェイラを縛れ。ただし、帝国の将として扱え。辱める者は味方でも罰する」
王国兵がヴェイラの両手へ縄を掛ける。
彼女は抵抗しなかった。ただ、北の空を見つめている。
今度は遠くから、低い地鳴りが届いた。
一千二百の軍靴が、大地を揺らしている。
吉継は血の流れる左手を白布で縛り、軍配を開いた。
「敵将は捕らえた。次は、この戦を終わらせる」
ヴェイラの捕縛は成った。
だが、帝国最高頭脳との戦いは、これからだった。




