第110話 灰白葬濤
石荷道を塞ぐ泥の中で、帝国兵が盾を寄せ合った。
前には空荷の荷車。左右の林にはアリスティの兵。背後の斜面には、黒い鎧のカドゥが立っている。
ヴェイラは、自分たちが包囲されたことを一目で理解した。
「前列は荷車を盾にしろ。弓兵は射るな。矢を減らせば、最後に道を開けなくなる」
兵が短い命令へ従い、崩れかけた隊列を二列に組み直す。
小柄な将の声に迷いはない。
「見事だな」
吉継は白頭巾の奥から、その動きを見ていた。
「空荷を見抜き、すぐ退こうとした。包囲された後も、兵を落ち着かせている」
「敵を褒めている場合か?」
カドゥが円盾を構えた。
「強さを見誤れば、こちらが死ぬ。褒めることと、油断することは違う」
ヴェイラの白鞘が、ゆっくり地面へ向く。
足元の小石が跳ねた。
「全員、道の中央から離れろ!」
吉継の声と同時に、地鳴りが起きた。
「灰白葬濤」
石荷道そのものが持ち上がる。
灰白色の土が壁となり、やがて波頭のように反り返った。荷車より高い土の大波が、王国兵とアリスティ隊をまとめて呑み込もうと迫る。
「これが、あの小さな体から出るのか!」
カドゥが笑い、盾を前へ出した。
「正面から受けるな! 土に盾は勝てぬ!」
吉継は軍配を開き、地面へ向けた。
「縄張起城」
道の中央から、二つの土塁が斜めにせり上がる。
城門の前で敵を左右へ曲げる桝形と同じ形だった。灰白の大波が土塁へ衝突し、中央から二つに割れる。
それでも、すべては流せない。
崩れた土が王国兵の膝まで埋め、盾を奪った。二人が倒れ、後続の兵が腕を掴んで引き起こす。
ヴェイラの左膝も小さく震えていた。大波を起こした反動を押し殺すように足を踏みしめ、何事もなかった顔で剣を支えている。
「足を止めるな! 埋まった者を二人で引け!」
吉継自身も土へ踏み込んだ。
右腕へ熱が集まる。黒く湿った病毒の糸が指先から広がり、網となって倒れた兵の周囲へ潜った。
「腐蝕糸」
糸は鎧を避け、土の中に絡んだ木の根と荷車の残骸だけを腐らせる。足を縛っていたものが崩れ、兵たちが泥から抜け出した。
「殿、前へ出すぎです!」
「ここで兵を置いて下がれば、次から誰も俺の命令を信じぬ」
吉継の右腕から血が落ちる。
ヴェイラは、その姿を灰色の瞳で捉えていた。
「自分の体まで、兵を動かす道具にするか」
「将の命も、使うべき時には使う。ただし、捨てはせぬ」
「同じことだ」
「違う。捨てれば、それで終わりだ。使った命は、生きて帰して次にも働かせる」
ヴェイラの眉がわずかに寄った。
その一瞬を、アリスティは逃さない。
「総員、武器も盾も捨てろ! 持つのは縄だけだ!」
傭兵たちが剣、槍、盾を地面へ放る。
アリスティが短刀を泥へ突き立てた。
「重力不変の土」
帝国兵の剣、槍、盾が一斉に重くなる。
泥へ沈んだ足では、その重さを支えられない。帝国兵が装備に引かれて膝をつき、何も持たない傭兵たちが縄を手に殺到した。
「捕らえろ! 抵抗する者だけ盾で伏せさせろ!」
「私の魔法を見た後に、味方へ武器を捨てさせたか」
ヴェイラは白鞘の剣を手放した。
自分の武器まで重くなる前に捨て、泥の上を駆ける。小柄な体が、倒れた盾と兵の隙間を抜けた。
狙いは吉継だった。
「将を倒せば、包囲は止まる」
ヴェイラの黒い手袋が、腰の短刀を抜く。
吉継も刀へ手をかけた。
二人の間へ、黒い円盾が滑り込む。
「吉継を斬りたいなら、まず私を越えろ!」
カドゥが短刀を盾で弾いた。
「退け、黒騎士」
「断る。久しぶりに胸が躍る相手だ。しかも吉継は、生かして捕らえろと言っている。難しい方が楽しめる!」
「黙れ」
ヴェイラが低く踏み込み、カドゥの盾を蹴った。
◇
帝国軍の前進野営地では、作戦卓の上に三つの光景が浮かんでいた。
鋼の盤面が映すセレト村には、人影がない。第三隊は出発そのものが遅れ、石荷道の視界だけが泥と矢で激しく揺れていた。
「密令を読まれました」
参謀が青ざめた顔で言う。
「読まれただけではない。こちらが誰を、どこへ置くかまで読まれている」
クラウスは三つの光景を閉じ、石荷道の駒だけを残した。
「第三隊を救援へ回しますか」
「遅い伝令が運んだ命令を、さらに動かしてはならん。敵が次に待つ道へ、自分から入ることになる」
クラウスは軍帽を取り、外套を肩へ掛けた。
「中央予備隊一千二百を出す。私が率いる」
参謀が目を見開く。
「閣下ご自身が?」
「鉄血の砦には守備五百を残す。三方面の部隊も動かさない。一千二百で、あの男の包囲を外から折る」
「大谷吉継は、ヴェイラを殺さず捕らえるつもりだ。ならば捕らえる前に、盤面ごと壊す」
クラウスが右手を空へ向ける。
紫電が雲を貫いた。
◇
その時、北の空に紫の雷が立った。
一度。二度。そして三度。
帝国兵の間から、安堵の声が漏れる。
「総軍師の進軍信号です!」
ヴェイラは短刀を構えたまま、初めて薄く笑った。
「クラウスが来る。精鋭一千二百を連れてな」
吉継は北の空と、泥に沈む帝国軍を見比べた。
敵の援軍が着けば、数の利は再び帝国へ戻る。
軍配を握る左手に、力を込めた。
「ならば、来る前に貴殿を捕らえる」
石荷道の戦いに、残された時間は少なかった。




