885.口留めしないと駄々洩れ
帰宅したヘンリック様に、ローズの容体を伝える。もう心配いらないこと、でも触れ合うのは数日先になること。医師の判断を支持すると決まり、ヘンリック様は扉の前からローズに手を振った。
ここで寂しがって泣くか、ヘンリック様へ走り寄ろうとする、私やマーサはそう考えたのよ。いつもヘンリック様にべったりのローズは、きょとんとした顔で手を振り返した。暴れることなく、にこっと笑う。大人になったと表現するのもおかしいけれど、どうしたのかしらね。
エルヴィンにしっかり抱っこされたローズは、とても機嫌が良かった。もしかしてお気に入りのお兄ちゃんがいるから、お父様は不要とか? わからないわ。同じく理解できず「なぜ」と呟いて固まったのが、ヘンリック様だった。
お父様と泣いて手を伸ばす、そう思っていたのでしょうね。立ち尽くすヘンリック様の足元から、レオンが顔を覗かせて、ひらひらと手を振った。身を乗り出すようにして、ローズがお返しのお手振りをする。腕ごと振り回す勢いに、ヘンリック様がさらに凹んだ。
レオンへの対応と違う。わかりやすく落ち込む夫の背を叩き、手を繋いだレオンを引っ張って病室を離れた。ローズがご機嫌で過ごしているならいいじゃないの。そう言い聞かせて食堂へ向かった。着替えるため、ヘンリック様は途中で分かれる。
「お父様、へんだね」
「そうね。ローズが治ったんですもの。抱っこしたかったのだと思うわ。代わりにレオンがお膝に乗る?」
こてりと首を傾けて、レオンは考え込んだ。まさか、嫌と言われちゃうのかしら? 心配したけれど、レオンは「いいよ」と頷いた。
「ぼくね、お父様のおひじゃ……のる」
「まあ、さすがレオンね。優しくて立派で可愛いわ」
ふふんと胸を反らすレオンは、繋いだ手を揺らしながら歩いた。食堂へ着くと、いつの間にか先回りしたユリアンがいる。右手の指二本に包帯が巻かれていた。
「大丈夫なの?」
「うん、明後日にはピアノ弾けそう」
何度もケガをした経験があるユリアンは、自己判断でそう口にした。動かせるようになるのに二日ね。なら痛みが取れるのはもう少し先でしょう。無理をしないよう話していると、着替えたヘンリック様が合流した。まだ項垂れている。
「レオン、お父様を元気にしてあげて」
「あい! お父様、ぼくをおひじゃにのして」
惜しいわ。乗せて……が崩れている。ぱっと顔を上げたヘンリック様が私を見て、レオンを見る。伸ばされた手に近づいて、小さな息子を抱き上げた。私を真似て、だんだんと育児スキルが上達する夫は、一人称を言い直す。子どもには伝わりやすいわね。
「……お父様でいいのか?」
「うん。お母様が、言ったから」
ああ、そうだったわ。子どもは口留めしないと話してしまうのよ。失敗したと思ったのに、ヘンリック様は「嬉しいな」と明るく笑った。




