871.ない物を欲しがらない
「姉上、手伝います」
お父様の病歴も不明だけれど、エルヴィンならある程度分かるわ。ユリアーナとユリアンも、おおよそ把握している。外へ遊びに出かけては、病気を貰って家に持ち帰っていたわ。その意味では、近所の子が一人感染したら周囲にうつしまくる平民のほうが耐性ありそう。
「マスクは必須よ」
「もちろんです」
手を洗う水桶も、一度沸かしたお湯を使うよう伝えた。ラベンダーを入れたのは、侍従の一人だった。男爵家出身の子で、弟妹が多いため慣れているみたい。ラベンダーではなくて、ローズマリーを煮出して薄めるよう頼む。少しでも消毒効果の高いハーブがいいわ。
香りはラベンダーも素敵だから、足してもらっても平気。咄嗟にローズマリーが浮かんだのは、庭に植えてあったのを見たからよ。たぶん料理に使うためでしょうね。庭の端で大きな茂みになっていた。それを大胆に使って、ローズマリー水が作られる。
私がマスクなどで実績を作っているから、使用人達も戸惑いは少なかった。すぐに動いてくれて助かる。本当はエタノールなどで成分を抽出したらいいのだけれど……子どもの肌を拭く水にお酒は使いたくないわ。こういうとき、前世はいかに恵まれていたのか実感する。
「ない物を欲しがらない!」
声に出して自分に言い聞かせ、ローズの枕元にハーブの入った袋を置いた。侍女の一人が作ってくれたのよ。ローズマリーを中心に、タイムやオレガノ、ラベンダーも添えて。ポプリの袋に似ているわね。乾燥させる時間がなくて、そのまま使ったみたい。
ローズはその後も何回か嘔吐した。咳き込む様子は見られず、突然けぽっと吐き出す。汚れたと泣くたび、綺麗に拭いて抱きしめた。エルヴィンが慣れた手つきで汚れたタオルを回収する。すべてバケツに入れ、運んで洗う際もマスクを徹底させた。
吐しゃ物は危険なのよ。何度も言い聞かせて、シーツなど替えが利く布は焼却してもいいと許可を与えた。リネンによる多少の出費より、皆が感染しないほうが大切ですもの。こんなことなら、前世で医療の知識も蓄えておくべきだったわ。
簡単に検査できないし、病名もすぐ判明しない。発熱したローズは呼吸が苦しそうだけれど、それ以外の大きな症状はなかった。腹痛もないのか、お腹を押さえる仕草もない。
「旦那様がお帰りになりました」
扉の位置でイルゼが知らせる。彼女は屋敷の指揮を頼んだので、室内へ入らないようお願いしたの。言われて窓の外へ視線を向け、夕闇で暗い空に驚いた。もうそんな時間なのね。レオン達の様子も確認したいけれど……どうしましょう。




