894.階段は下りるほうが危険
「ふふっ、そんな顔しなくても……お姉様の分も仕上げるわ」
ユリアーナはそう言って手を動かす。先ほどの刺繍枠を裁縫用具の入った籠へ片付け、代わりに新しい針を手に取った。今度の作業は裁縫だからか、針やハサミも違うみたい。慣れた様子で仕上げる手元をじっと見つめた。
おかしいわ、私も同じように針を動かすのに、どうして仕上がりが違うのかしらね。真似て運針の手つきをしてみるものの、違いがわからなかった。得意な人に任せて、その間に私はお菓子でも焼きましょうか。
「レオン、私は焼き菓子を作ってくるわ。ここにいる? ユリアンと鍛錬する?」
「ぼく……たんれん」
ここで選択肢に加えなかったけれど、私に付いてくるの言葉を期待したのに。もう立派なお兄ちゃんね。自分で動けるようになってきた。子離れや親離れはまだ先なのに、寂しくなってしまう。一緒にいる時間をもっと大切にしようと決めた。
「ユリアン、お願いね。階段は特に気を付けて」
「わかってる。安心してよ、リア姉」
任せろと胸を叩く弟に「信じているつもりよ」と笑った。信じていなければ、大切なレオンを任せない。でもどこかで「大丈夫かしら?」と心配になるの。ユリアンがお調子者で、すぐに気を抜いて失敗するから? いえ、これがエルヴィンでもやっぱり心配だと思うわ。
先に部屋を出たのに、追いかけたユリアンとレオンが横をすり抜ける。階段の前まで来たレオンが立ち止まり、ばいばいと手を振った。振り返す私に満足したのか、ユリアンの手を取って階段に挑戦する。一段ずつ足を揃えながら降りるので、常に一段下でユリアンが待ち構える。
きちんとレオンと向き合う形で階段の踊り場まで、問題なく下りた。
「どうだ!」
胸を張るユリアンには悪いけれど、まだ半分よ? そう思った矢先、レオンが躓いた。階段に身を乗り出した私を、後ろの侍女が支える。
「奥様、危険です」
「ありがとう……」
微笑んだのは、視界の端でユリアンがレオンを受け止めたのが見えたから。ほっとして膝から力が抜けそうよ。毎日の上り下りは無理そうなので、自室を二階に戻す話はまだ先にしましょう。レオン達が無事に下りるのを確認し、私はスカートの端を摘まんで軽やかに駆け下りた。
「奥様! そのように階段で急がれると危険です。それに、若様達が見たら真似をしますよ」
イルゼに見つかって叱られ、素直に謝った。焼き菓子のために厨房へ到着したのは、予定より半刻ほど遅れてだった。料理長に事情を説明し、混ぜて焼くだけの菓子を作る。手早くやらないと、料理長の仕事の邪魔になっちゃうわ。
混ぜてナッツを入れて、スプーンで楕円形に掬って鉄板へ並べる。焼くのは任せて、ローズやディの様子を見に行きたいわ。




