3.『教典』にない妖魔たち
【妖魔皇帝】復活――そのセンセーショナルなニュースは、瞬く間にナディア全土に広がり、人心は不安と恐怖に覆いつくされた。
しかしそれは、【妖魔皇帝】がいかに恐ろしいかを知っていたからではない。
誰も何も知らなかったからだ。
【妖魔皇帝】などと言う怪物は、それまで誰一人聞いたことがなかった。
それは王国の有識者たちも、『教会』の高僧たちも同じであった。
にも拘らず、先日の王国全土を揺るがした凶悪な瘴気の柱の発生後、改めて王宮の禁書庫の文献を紐解いて見れば、それらしい記述が次々と見つかった。
もっとも、その多くは童話や作り話のような類のもので、信憑性の薄いものばかりではあった。
それでも、ここ最近の妖魔の異常発生、新種の人型の魔物の出現、そして先日の国中を震撼させた邪力の波動から、王宮は禁書に示された【妖魔皇帝】の実在を断定。
さらにそれを封印していた何らかの強力な結界の消失も、認めざるを得ない状況となった。
だが、その後の王宮の対応は早かった。
即時、本事案を緊急事態と認定。現時点で確実性の高い情報をただちに公表し、ナディア全土へ警戒を呼び掛けた。
さらに各都市の兵団と冒険者ギルドには、これに加えて文献から知り得る未確定の情報も共有し、未曾有の事態に備えて協力を要請した。
禁書庫から得られた難解な情報を読み解き、王宮が公表した情報は概ね次のような内容だ。
――曰く、今から三百年も昔のこと。
この地に突如として一体の大妖魔が現れた。
いずこから来たとも知れぬその大妖魔は、他のどの妖魔も持たない特殊な能力を持っていた。
すなわち、あらゆる妖魔を従える力――である。
この怪物がいつ、どこで生まれたのか、また何故そのような力を持っていたのかについては、今のところ何も分かっていない。
分かっているのは、その恐るべき能力を持った大妖魔は、出現して後、瞬く間に三千を超える妖魔の大軍勢を築き上げ、人間の街や村を蹂躙していったということだ。
当時の人はこの怪物を【妖魔皇帝】と呼び、大いに恐れた。
三百年前と言えば、五百年もの間続いた帝国機械文明の末期だ。
絶大な力で大陸の覇権を握っていたローエンデール帝国が徐々に衰退し、帝国からの支配を逃れて人々が独立し始め、各地で小競り合いが勃発していた混迷の時代といえる。
突如として現れたこの妖魔の軍勢は人々を恐怖のどん底に陥れたが、皮肉にも人間達はこの未曾有の危機を前に争うのをやめ、互いに手を取り合って妖魔に対抗するようになった。
妖魔と人間との間で繰り広げられた激しい戦いが、果たして何年続いたのかは定かではない。
しかし、最後には人々の手によって【妖魔皇帝】は討たれ、聖なる力で封印された。
そして月日が流れた。
三百年の間に帝国の崩壊、三つの民族の長い争いとナディアの建国戦争など、人々の争いが再燃し、そして繰り返された。
こうした多くの混乱の中で、すでに永い眠りについた過去の怪物の脅威も次第に風化し、終には人々の記憶から完全に忘れられていた。
しかしそれが今、本来なら永遠に解けることのない封印を、邪悪な何者かが解いたことで、三百年の時を超えて古の大妖魔が復活した――
この異例の事態に、最も混乱したのは『教会』だった。
古来――それこそ、三百年より遥かに昔の話だ――より、『教会』は妖魔を『触れてはならない不浄の存在』とみなし、妖魔について調査・研究することは禁忌と定めている。
一方で、『教会』は妖魔に関する伝承を管理する役割を担い、教義の中で教え伝えてもいた。
しかしその教典の中に、【妖魔皇帝】などと言う名は一切存在しない。
しかもそれだけではなかった。
教義では次のように教えている。
何千年もの昔、大罪を犯した『小人』と『巨人』が闇の力に魅入られ、堕落して怪物と化したもの、それが妖魔であると。
つまり、ブラウニー、ドワーフ、それから現代ではオリジナルのほうは絶滅した『巨人』の亜種とされる種族。
それらが瘴気により醜く変貌した姿――それが妖魔なのだと。
一方で、『光に祝福されし子ら』の中でも『人』と『妖精』は神々の寵愛により闇に対する抵抗力が強かったために、同族の中から妖魔が産まれることはなかったのだと。
したがって、この世に妖魔と言えば、ゴブリン、コボルド、オーク、オーガー、トロール。この五つの種族しかいないのだと。
全て邪悪で油断ならない存在ではあるが、大型種は数が少なく愚鈍であり、それ以外は数は多いが矮小で、いずれも人類を脅かすほどの脅威足りえないのだと。
ナディアの国民であれば、誰でも――それこそ学校にも行けないスラムで育った者ですら――幼いことから知っている当然の常識である。
――しかし、その常識はこのたった数週間で覆された。
禁書庫での調査は、最近頻発する『新種』の人型の魔物の目撃報告にも及んだ。
それも当然だ。
濁った黄色い瞳に日差しの下の猫のような縦長の細い瞳孔。
息の根が止まると共に始まる“風化”。
よくよく考えてみれば、妖魔固有の特徴としか言いようがない。
なぜ宮中の学者や魔導士たちが揃いも揃って、もっと早く気づけなかったのか――。
予想通りというべきか。
禁書の中には『新種』の正体に関する記述もあった。
いや、そもそも『新種』と言う表現も正しくない。
三百年以上前に、人々はすでにそれを知っていて、この三百年間、ただ忘れていただけなのだから。
これまで認知されていた妖魔たちとは明らかに一線を画すその妖魔たちを、王宮は暫定的に『高等妖魔』と呼称し、区別することした。
しかし何よりも学者たちにとって衝撃だったのは、どうやらこの高等妖魔が『小人』や『巨人』から生まれたものではない、ということが分かったことだった。
そしてその衝撃は、『教会』の聖職者たちにとってはさらに甚大なものだった。
「――『教会』連中を上手く黙らせろとな……やれやれ、簡単に言ってくれるわ」
すでに光の消えた魔水晶の前で一人椅子に腰かけたまま、年老いた男が深くため息をついた。
「……こうなってしまっては已むを得まい。お気の毒だが、高司祭様に責任を被っていただくほかないな」
誰にともなく呟くその老人の口の端は、僅かに吊り上がっていた。




