16.アーセラの事情
「い、一万五千……だと!?」
長い黒髪に見事な口髭と顎鬚を蓄えた細面の男が、かすれた声で呻いた。
時はわずかに遡る。
要塞都市ストニアが妖魔の襲撃を受けて間もなく。
要塞の管制から報告を受けたグランディス軍幹部は、公爵とともに宮殿アダマスの軍指令室に集まっていた。
「何と言うことだ……!」
長く艶やかな黒髪の青年が、もともと白い顔をさらに蒼白にして呟いた。
「急ぎ、援軍を……」
彼はベネディクト・ローランド公爵。
齢三十にして、このグランディス公国を治める若き公王だ。
「王よ。私が応援に参りましょう」
黒髪の短髪に浅黒い肌をした壮年の男が低い声で申し出る。
長身な上に筋肉質な恵まれた体躯。
その身に纏うは重厚な完全鎧。
「なりませぬぞ、ドラグ将軍」
だが、最初に伝令兵の報告に反応したもう一人の男が、強い口調でそれを否定した。
ドラグと呼ばれた男よりはやや細身だが、その鍛え上げられた鋼のような肉体は完全鎧を纏っていてなお伺い知ることができる。
「千や二千の援軍ではどうにもなりますまい。いたずらに兵を死なせ、貴方も無駄死にするだけです」
「なんだと?」
ドラグ将軍がその男をギロリと睨むが、動じることなく男は先を続ける。
「まずはグランディス中から兵を集めつつ、ナディア本国からの応援を待つが得策かと」
「今まさにストニアは攻められているのだぞ!そんな悠長なことは言ってられぬ」
ドラグはドスの利いた低い声で唸った。
「デルフォイ将軍」
公爵は細面の男に問う。
「兵を集めるのにどのくらいかかる?」
「……四十八時間もあれば、なんとか五千は集められましょう」
「馬鹿な」
ドラグが口を挟む。
「ストニアは持ってあと一日だ。見殺しにしろというのか」
「アーセラの守りもこれ以上は減らせませぬ」
デルフォイと呼ばれた男は引き下がらない。
「我々の読みが甘かったのです。残念だがストニアは諦めるしかありますまい」
「……デルフォイ将軍」
ローランドはもう一度男の名を呼んだ。
「ストニアには、非戦闘員も千人以上いるのだぞ?」
だが、デルフォイはゆっくりと首を振った。
「アーセラの人口は十五万です、殿下。対して今ここにある兵はたかだか七千。それにこのアダマス宮殿はストニアほど堅固な要塞ではありませぬ」
デルフォイ将軍はそこで一度言葉を切り、ドラグを一瞥してから続けた。
「……しかも相手は人間ではなく妖魔ですぞ。奴らの目的はただの征服ではない。殺戮と凌辱――そして捕食です。例え城を守れたとしても、十五万の市民は妖魔どもに弄ばれ、最後は皆、喰い殺されるでしょう」
「むぅ……!」
ドラグは唸ったが、それ以上は何も言わなかった。
「……しかし、ストニアが堕ちれば、アーセラは遅かれ早かれその脅威にさらされる。今、ひとときアーセラが手薄になろうとも、ストニアさえ守り切れば結果的にアーセラに迫る危険も回避することにならないだろうか?」
ローランドがデルフォイ将軍に尋ねた。
その声には、何かにすがるような響きがある。
しかし、無情にもデルフォイはもう一度首を振った。
「お忘れですか、殿下。つい先日、ここから遥かに離れた王都レグルスに、突如として妖魔の大群が押し寄せたと言う話を。そしてほんの数刻前にも、何者かによって鉄道の線路が破壊されたとの報告を」
「……」
ローランドは答えない。いや、答えられない。
なぜなら、否定する言葉がないからだ。
デルフォイ将軍はその様子を確認してから、先を続ける。
「奴らは我々の知りえぬ未知の移動手段を持っている。まさに神出鬼没と言えましょう。聖石すらもはや盤石な守りには成り得ませぬ。ナディアとて王都や各主要都市の防衛に相当数を残すはず」
それから侯爵のそばに控える屈強な男を一瞥し、
「……我々だけがこれ以上民と兵を危険に晒すのは得策ではありません。例えストニアが敵の手に堕ちようとも、我らはアーセラの守りを固め、ナディアの援軍を待ってから、彼らに戦ってもらうべきです」
「何を馬鹿なことを!ここは我らがグランディスの領内ぞ!我々が戦わずしてどうする」
それまで黙っていたドラグ将軍が声を荒げた。
「そもそも妖魔の王の復活を防げなかったのは、ナディアの不始末です。我々は押し付けられただけだ」
「……デルフォイ、貴様、自分が何を言っているか分かっているのか」
ドラグは恐ろしい眼光で向かいに座るデルフォイを睨みつけた。
「【妖魔皇帝】の復活も、やつらがこのグランディスに巣食ったのも、誰の落ち度でもない。今まさにストニアではナディア兵もグランディス兵も命を懸して戦っているのだぞ」
「分かっていないのは貴方だ、ドラグ将軍」
デルフォイは真正面から受け止め、そして睨み返す。
「本来なら〈三将軍〉筆頭たる貴方が言うべきことを、私が代わりに言っているのです」
「なに」
「私が心も痛めずにこんなことを言っているとお思いか。私がストニアにいる三千もの同胞の命を軽んじているとお思いか。私がわが身可愛さに言っているとでもお思いか!」
その瞳の奥には、憤怒の炎が滾っている。
「殿下が死ねとお命じならば、私は今すぐ千の兵を率いて戦場に馳せ参じ、勇猛なるグランディスの戦士たちとともに喜んで散りましょう。――だが、その死には意味がないと言っているのです!」
そこまで言うと、デルフォイは指令室の机を拳でガン、と叩いた。
脇に控えていた伝令兵が「ひっ」と短い悲鳴を上げる。
「ぐっ……」
ドラグは言葉に詰まる。
デルフォイはもう一度ドラグを睨みつけてから、ローランド公爵のほうへ視線を移した。
「……殿下、どうか賢明なご決断を。ストニアの三千の同胞のために勝てる見込みのない応援を送り、派遣された兵とアーセラの民十五万の命を危険に晒すか、否か」
「……」
ドラグ将軍も、もう何も言わない。
ただ、ローランド公爵を見て、その口から発せられる決断を待っている。
ローランドは目を閉じて小さく息を吐いてから、口を開いた。
「……ナディアの援軍を待とう。デルフォイ、彼らが来るまでに、大至急グランディス中の都市からできるだけ兵をかき集めてくれ」
「……っ」
やり切れずに机を睨みつけるドラグの向かいで、デルフォイは立ち上がり「御意に」と短く答えてローランドに一礼する。
そして踵を返し、指令室から出ていった。
「すまない、ドラグ。お前は引き続き、アーセラ周辺の警戒に当たってくれ。お前がこの街の、ひいては我がグランディスの要だ」
残ったドラグ将軍に、ローランドは力なく声を掛けた。
「……御意」
ドラグは苦虫を嚙み潰したよう顔で答えた。




