第九章 お嬢様が奥様に連れ戻されるですって!? マリベル、正座なさい。
長い航海を終えた大型船が、ゆっくりと港へ入ってきた。
帆が畳まれ、船体が桟橋へ寄せられる。待機していた港の作業員たちが慌ただしく動き始める中、船から一人の貴婦人が降りてきた。
淡い金色の髪を上品にまとめ、深い青のドレスを身にまとっている。
名はクラリス・アルヴァイン。アルヴァイン公爵の夫人である。
半歩後ろには、リゼットという侍女が付き従っていた。
黒い侍女服。
白いエプロン。
一筋の乱れもなく結い上げられた髪。
背筋を伸ばし、足音ひとつ立てずに歩く。その腰には使い込まれた黒い鉄扇が差されていた。
「王都の空気も、随分と変わったわね」
クラリスが桟橋の先へ目を向ける。
「長くお離れになっておりましたから」
「屋敷も変わっているかしら」
「多少の変化はあるかと存じます」
「エレノアは?」
「ご自身の目でお確かめになるのがよろしいかと」
その返答に、クラリスが少しだけ眉を寄せた。
「相変わらず、教えてくれないのね」
「楽しみは残しておくものでございます」
淡々と答えたリゼットが、足を止める。
クラリスも立ち止まった。
桟橋の周囲を歩いていた荷運び人たちが、いつの間にか二人を取り囲んでいた。
十数人。
手には短剣や棍棒が握られている。
港の喧騒に紛れ、クラリスたちへ近づく機会を待っていたらしい。
「アルヴァイン公爵夫人だな」
先頭に立つ男が、短剣を構えた。
「大人しく来てもらおう」
クラリスは驚かなかった。
逃げようともしない。
ただ、面倒そうに目を伏せた。。
「リゼット」
「はい、奥様」
リゼットは、クラリスを庇うように前へ出た。
十数人分の殺気が、一斉に彼女へ向けられる。
短剣が鞘を走り、棍棒が持ち上がった。
リゼットは腰の鉄扇を抜かず、ただ刺客たちを静かに見据えた。
「奥様の御前です」
静かな声だった。
怒鳴ってもいない。
脅してもいない。
それなのに、空気が一瞬で重くなる。
「正座なさい」
次の瞬間だった。
刺客たちが次々に倒れた。
一人。
二人。
三人。
声を上げる暇すらなく、刺客たちはその場へ崩れ落ちていく。
ほとんどがそのまま意識を失った。
リゼットは一歩も動いていない。
鉄扇にも触れていなかった。
ただ、立っていただけである。
そんな中、一人だけ正座したまま意識を保っている男がいた。
顔を青ざめさせ、全身を震わせながら、それでもリゼットを見上げている。
リゼットがわずかに目を細めた。
「あら、珍しい。一人だけ根性の座っている方がいらっしゃるのね」
「ば、化け物……」
男の唇から、かすれた声が漏れた。
「失礼な」
リゼットは表情を変えない。
「私はただの侍女でございます」
そう言って、リゼットは刺客から視線を外した。
「奥様、お怪我はございませんか」
「ええ、何もされていないわ」
クラリスは倒れ伏した刺客たちを見渡し、わずかに眉間へ皺を寄せた。
「本当にうんざりするわね」
「まったくでございます」
「その者から依頼人を聞き出しておいてもらえる?」
「承知いたしました」
リゼットが正座した男へ歩み寄る。
クラリスはその背を見送ると、遠くに霞む王都の街並みへ目を向けた。
あの街に、久しく会っていない娘がいる。
「エレノア、元気かしら?」
***
その頃、アルヴァイン公爵家では穏やかな午後の茶会が行われていた。
もっとも、参加者は二人だけである。
エレノア・アルヴァインは窓辺の椅子に腰掛け、マリベルが淹れた紅茶へ口をつけた。
「今日の紅茶は、少し熱いのね」
「先ほど庭を歩かれて、お身体が冷えておられましたので」
「気づいていたの?」
「お嬢様のことでしたら、すべて」
マリベルは涼しい顔で答えた。
黒い侍女服。
白いエプロン。
きっちりと結われた髪。
腰には『お嬢様第一』と刻まれた黒い鉄扇。
いつもと変わらぬ姿だった。
そこへ、老執事が入ってきた。
「失礼いたします」
「どうしたの?」
「お嬢様。奥様がお戻りになられます」
エレノアの瞳が見開かれた。
「お母様が?」
「はい。すでに王都へ入られたとの知らせが届いております」
エレノアの表情が明るくなる。
「予定より早いわね。いつ屋敷へ?」
「間もなく到着なさるかと。リゼット様もご一緒です」
かすかな音がした。
マリベルが持っていた銀盆が、わずかに傾いた音だった。
載せられていたミルク壺が動きかける。
だが、落ちる前にマリベルが完璧な角度で盆を戻した。
「リゼットも一緒なのね」
エレノアがマリベルを見る。
「お母様に会うのは久しぶりでしょう?」
「……はい」
「嬉しくないの?」
「大変結構でございます」
「それ、喜んでいる人の顔ではないわよ」
「気のせいでございます。お嬢様」
マリベルは素早くエプロンの位置を確認した。
続いて髪へ手を伸ばし、乱れがないか確かめる。
「マリベル」
「はい」
「もしかして、お母様が怖いの?」
「恐れる理由などございません」
「そう」
「ただ、身だしなみに少々厳しい方でございますので」
「少々?」
マリベルが沈黙する。
「……非常に厳しい方でございます」
***
リゼット様がお戻りになる
その知らせは、瞬く間に屋敷中へ広がった。
廊下を歩いていた使用人が姿勢を正した。
厨房の料理人が調理台を磨き直した。
庭師が剪定ばさみの角度を揃えた。
老執事はいつも通りだった。
マリベルだけが、さらに背筋を伸ばした。
「馬車が見えました!」
若い従僕が慌ただしく駆け込んでくる。
その声に、使用人たちは一斉に持ち場へついた。
正面玄関の扉が開かれ、出迎えの者たちが左右に並ぶ。先ほどまで慌ただしかった屋敷は、まるで息を潜めたように静まり返った。
ほどなくして、クラリスとリゼットを乗せた馬車が公爵家の正面玄関へ到着する。
エレノアは自ら外へ出て、二人を迎えた。
馬車の扉が開く。
先に姿を見せたクラリスは、従者の手を借りて馬車を降りた。
玄関前に立つ娘を見つけると、表情を緩め、足早に歩み寄る。
「エレノア!」
「お帰りなさいませ、お母様」
エレノアが礼をしようとすると、クラリスはその頬へ手を添えた。
「あなた、少し痩せたのではなくて?」
「お母様は、お変わりなくて安心しました」
「わたくしは元気よ。あなたほど妙な事件には巻き込まれていませんから」
「もうご存じなのですね……」
「ええ、随分と報告が届いているわ」
クラリスは、娘の顔を確かめるようにじっと見つめた。
咎めるような厳しさはなく、その目に浮かんでいるのは隠しきれない心配だった。
エレノアが少し困ったように微笑む。
その半歩後ろで、マリベルは深く頭を下げた。
「お帰りなさいませ、奥様。お久しぶりでございます。お母様」
「ええ、久しぶりですね、マリベル」
リゼットは娘の姿を頭から足元まで見た。
途中で目が止まる。
「エプロンの右側が二ミリ下がっています」
「……申し訳ございません」
マリベルがすぐに直す。
「髪も一本乱れています」
「直ちに整えます」
「鉄扇の手入れは?」
「毎朝欠かさず行っております」
「道具の手入れより、声量を抑える訓練をなさい」
マリベルの手が止まる。
「……どなたからお聞きになったのですか?」
「王都中からです」
エレノアは驚いたように、自分の口元へ手を当てた。
「お嬢様」
マリベルがたしなめるように声をかける。
「ごめんなさい。でも、王都中からというのは……」
「誇張されております」
「では、なぜ王都中から苦情が届いているのでしょう」
リゼットの淡々とした指摘に、マリベルは黙り込んだ。
クラリスが二人を見比べる。
「リゼット、久しぶりに会った娘に、ほかに言うことはないの?」
「健康そうで何よりです」
「それだけ?」
「今後、改善すべき点は多くございます」
マリベルがたまらず母を見た。
「お母様」
リゼットはクラリスから娘へ視線を移した。
「呼び方は立派ですね」
「そこを評価されましても」
マリベルがわずかに肩を落とす。
その様子に、エレノアは小さく笑った。
クラリスも娘の笑顔につられて口元を緩めたが、胸に残る心配までは消えなかった。
***
ひとしきり再会の挨拶を交わしたあと、クラリスはエレノアたちを応接室へ呼んだ。
テーブルの上には一冊の報告書と、見覚えのある箱が置かれている。
幻燈恋愛ゲーム『青薔薇令嬢と正しき距離感』
エレノアが無断でヒロインにされ、のちに条件付きで発売を許可した作品だった。
全員が席に着くなり、クラリスはエレノアへ視線を向けた。
「説明してちょうだい、エレノア」
「このゲームについては、最終的に私も条件を出した上で許可しました。収益の一部は孤児院へ寄付されております」
「問題はこのゲームだけではありません。ほかにもこれだけあります」
クラリスが報告書を開く。
「一つ目、婚約者同然だった騎士に裏切られた件」
「はい」
「二つ目、王太子から、公衆の面前で罪を問われた件」
「誤解は解けました」
「三つ目、聖女から濡れ衣を着せられた件」
「今は和解しております」
「四つ目、王国裁判にかけられた件」
「無罪になりました」
「五つ目、殺人事件の容疑者にもされた件」
「犯人は捕まりました」
クラリスが報告書を閉じる。
「そして今度は、無断で恋愛ゲームの主人公にされた」
「……はい」
「なぜ、あなたは次から次へと事件に巻き込まれるの?」
「私にも分かりません」
「また何が起きるかも分からないのに、これからも王都に居続けるつもり?」
エレノアは答えに詰まった。
マリベルが前へ出ようとする。
その瞬間、リゼットの視線が向けられた。
マリベルの足が止まる。
クラリスは娘を責めるような口調ではなかった。
むしろ、声には疲れたような心配が滲んでいた。
「あなたが事件を起こしているとは思っていないわ。けれど、あまりにも巻き込まれすぎています」
「お母様……」
「荷物をまとめなさい、エレノア」
「え?」
「わたくしと一緒に来るのです」
クラリスは迷わず告げた。
「公爵家の南方領へ連れて帰ります。少なくとも王都が落ち着くまでは、静かな場所で休みなさい」
「ですが――」
「マリベルは王都に残します」
マリベルの顔から表情が消えた。
「なぜでございますか」
「あなたには、リゼットから侍女としての再教育を受けてもらいます」
クラリスは言葉を続ける。
「エレノアを守る力があることは認めています。けれど、あの子の意思を聞く前に動く癖を直さない限り、エレノアのそばに置くことはできません」
マリベルの手が、腰の鉄扇へ伸びた。
「お嬢様が奥様に連れ戻されるですって!?」
リゼットが娘を見る。
「マリベル、正座なさい」
低くもない。
強くもない。
いつもと変わらない声だった。
次の瞬間、応接室の空気が沈んだ。
居合わせた使用人たちが息を詰める。
立っているだけで、膝が震えた。
港で十数人の刺客を気絶させた威圧が、今度はマリベル一人へ向けられている。
マリベルの膝が折れた。
「……っ」
抗う間もなく床へ膝をつき、そのまま正座の形へ沈む。
リゼットは、正座した娘を静かに見下ろした。
「あなたは、エレノア様の侍女として――」
「まだ、終わっておりません……!」
マリベルが低く答えた。
床へ手をつき、震える足へ力を込める。
リゼットの威圧が、なおも肩へ重くのしかかっていた。
それでも、マリベルはゆっくりと膝を起こす。
「私は、エレノア様の侍女です」
片膝を立てる。
「お嬢様をお守りするために――」
そして、とうとう立ち上がった。
「ここで座っているわけにはまいりません!」
声は震えていなかった。
リゼットの眉が、わずかに上がる。
「あら、少しは根性が座ったようですね」
「立っておりますが、お褒めいただき光栄でございます」
「褒めていません」
リゼットは、鉄扇へ触れたままの娘の手を見る。
「あなたの主は、まだ何もお答えになっていませんが」
マリベルの動きが止まった。
「お嬢様を連れていくとお聞きしました」
「それはクラリス様がお決めになったことです。エレノア様のご意思ではありません」
「ですが――」
「あなたはまた、ご本人に代わって結論を出すのですか?」
マリベルは言葉を失った。
ゆっくりとエレノアを見る。
エレノアは、その視線をまっすぐに受け止めた。
「マリベル」
エレノアが静かに呼んだ。
「まずは、お母様のお話を聞きましょう」
「お嬢様……」
「鉄扇から手を離して、座って」
マリベルはしばらく動かなかった。
やがて、鉄扇から手を離す。
「……承知いたしました」
マリベルは元の席へ戻った。
リゼットは何も言わず、席に着く娘を見届けた。
***
しばらく言葉を交わすと、クラリスはエレノアと二人きりで話したいと申し出た。
応接室を離れ、母娘はクラリスがかつて使っていた部屋へ入った。
窓際には、幼いエレノアのために置かれた小さな机が昔のまま残されている。
「懐かしいでしょう」
「はい。幼い頃、ここでお母様に本を読んでいただきました」
「あなたは同じ本を何度も持ってきたわね」
「お母様が読んでくださるのが嬉しかったから」
「そうだったの」
クラリスが微笑む。
しかし、その表情はすぐに曇った。
「エレノア、わたくしはあなたを閉じ込めたいわけではないのよ」
「分かっています」
「本当に?」
「お母様が、私を心配してくださっていることは」
クラリスは窓の外へ目を向けた。
「わたくしが昔、隣国の王太子と婚約していたことは知っているわね」
「はい」
エレノアは小さく頷いた。
母にかつて婚約者がいたことは知っている。けれどそれがどのように終わったのかを、クラリス本人の口から聞いたことはなかった。
「ある朝、書面が一枚届いたの。身分を越えて愛する女性に出会ったから、婚約を破棄すると」
「それだけだったのですか?」
「ええ。事前の相談も、謝罪もなかったわ」
後になって判明した。
王太子は平民の女性に、自分が王族であることも、婚約者がいることも隠していた。
彼女を選ぶため、クラリスとの婚約を一方的に破棄したのだ。
「わたくしは怒っていた。悲しかった。でも、相手は王太子だったわ。何を言っても無駄だと思って、黙って受け入れようとしていたのだけれど」
「そこへ、リゼットが?」
「ええ」
クラリスの口元が、わずかに緩む。
「あの子は鉄扇を持って、王宮へ乗り込んだわ」
「お母様とよく似ていますね、マリベルは」
「似すぎているくらいよ」
リゼットは王太子を追い詰め、その尻を鉄扇で一度だけ打ち据えた。
さらに鉄扇を振り上げたところで、クラリスが止めた。
「わたくしは、リゼットの腕にしがみついて、やめてと叫んだわ」
「リゼットは止まったのですか?」
「ええ、すぐに止まってくれたわ」
クラリスは迷わず答えた。
「鉄扇を閉じて、わたくしに頭を下げたのよ」
クラリスは当時を思い返すように、わずかに目を細めた。
「リゼットが代わりに怒ってくれたことで、わたくしは救われたの。自分は怒ってもよかったのだと、初めて思えたから」
「では、マリベルのことも……」
「感謝しています」
クラリスの声に迷いはなかった。
「マリベルがあなたのために怒り、あなたを守ってくれたことを、否定するつもりはありません」
「それなら、なぜ私を連れていくのですか?」
「あなたが、もう十分に傷ついたからよ」
クラリスが娘の手を取る。
「わたくしは王太子との婚約が終わったあと、あの国を離れた。そこであなたのお父様と出会い、新しい人生を選んだわ」
「……はい」
「その場所を離れることは、逃げることではないの。自分を傷つける相手や場所に見切りをつけることも、ひとつの強さよ」
エレノアは母の手を見つめた。
その薬指には、父から贈られた結婚指輪が今も変わらず輝いている。
「あなたは、つらいときほど平気な顔をするでしょう?」
「そのようなつもりは」
「娘だから分かるの」
クラリスの指に力が入った。
「一度、休みなさい。誰にも疑われず、責められず、見世物にもされない場所で」
母の言葉には愛情があった。
間違っているとは言えなかった。
だからこそ、エレノアはすぐに答えを出すことができなかった。
***
一方、マリベルは別室で、再び正座させられていた。
リゼットは、その正面に立っている。
「いつまで座っていればよろしいのでしょう」
「自分の何が悪かったのか分かるまでです」
「私は、お嬢様をお守りしようとしただけです」
「わかっています」
リゼットは簡単に認めた。
「忠義だけならば、あなたはすでに私を超えているでしょう」
マリベルの顔が明るくなる。
「ありがとうございます」
「褒めていません」
「……はい」
「忠義だけでは、一流の侍女とは呼べません」
「なぜですか?」
「主のお言葉を聞く前に、鉄扇へ手を伸ばしたからです」
「奥様が、お嬢様を連れていくとおっしゃったではありませんか」
「クラリス様は、エレノア様の母君なのですよ」
「母君であろうと、お嬢様のご意思を無視することは許されません」
「そのエレノア様のご意思を、あなたは確認しましたか?」
マリベルが口を閉ざす。
「お母様も、かつて奥様のために王宮へ乗り込まれたと伺っております」
「ええ。乗り込みました」
「では、私と同じではありませんか」
「違います」
リゼットは即答した。
「クラリス様が『やめて』とおっしゃった瞬間、私は止まりました」
「王城へ向かわれる際は、止めに入った奥様ごと担いでいったと伺っておりますが」
「先ほどは、エレノア様に一度言われただけで従いましたね」
「お母様?」
「今後も同じように?」
「いま、私の指摘を無視なさいましたか?」
「今後も同じように?」
「……努力いたします」
「できるとは言わないのですね」
なおも何か言いたげなマリベルを、リゼットが鋭く見据えた。
「侍女が主のために怒ることは、間違いではありません」
「はい」
「ですが、主の声が聞こえなくなるほど怒る者は、侍女失格です」
マリベルの膝の上で、指がわずかに動く。
「あなたは、エレノア様のためなら何人でも正座させられるでしょう」
「当然でございます」
「では、エレノア様のために何もせず、待つことはできますか?」
マリベルはすぐに答えられなかった。
敵を倒すことよりも。
鉄扇を振るうことよりも。
何もせずに待つことの方が、マリベルには難しい。
「エレノア様が、ご自分の意思でクラリス様と行くとお決めになったら?」
「……お見送りします」
「本当に?」
「お嬢様がお決めになったのであれば」
「ついていくと言わないのですか」
「奥様は、私を残すとおっしゃいました」
リゼットはしばらく娘を見下ろしていた。
「少しは、侍女らしい答えができるようになりましたね」
マリベルが顔を上げる。
「いま、お褒めになりましたか?」
「いいえ」
「確かに聞きました」
「気のせいでございます」
親子は、よく似ていた。
***
その夜。
エレノアの部屋では、マリベルが黙々と旅行鞄へ衣服を詰めていた。
ドレス。
下着。
身だしなみの道具。
読みかけの本。
どれも、エレノアが困らないよう完璧に揃えられている。
「マリベル」
「はい、お嬢様」
「何をしているの?」
「明日のご出発に備え、お荷物をまとめております」
「本当にまとめるのね」
「はい」
エレノアは、マリベルの隣に腰掛けた。
「あなたは、私が行ってもいいの?」
「よくはございません」
即答だった。
マリベルの手が止まる。
「できることなら、馬車を分解し、街道を封鎖し、奥様を正座させたい気持ちでいっぱいでございます」
「ずいぶん具体的ね」
「すでに必要な道具と人員の配置まで考えております」
「考えなくていいのよ」
「承知しております」
マリベルは再び衣服を畳み始めた。
「ですが、お嬢様がお決めになることです」
「私が行くと言ったら?」
「笑顔でお見送りします」
「泣かないの?」
「お見送りが終わってから泣きます」
エレノアの口元が緩む。
「正直なのね」
「お母様に、嘘をつくなと教わりましたので」
「マリベルは、私にどうしてほしい?」
マリベルの手が止まった。
すぐには答えない。
やがて、丁寧に畳んだドレスを鞄へ入れる。
「それを私が申し上げれば、お嬢様のお答えではなくなってしまいます」
エレノアは目を見開いた。
「以前のあなたなら、絶対に行かないでくださいと言ったでしょうね」
「現在も、心の中では叫んでおります」
「聞こえないわ」
「声に出さないよう、努力しておりますので」
エレノアは笑った。
だが、すぐに表情を戻す。
「怖いの」
「何がでございますか」
「ここに残って、また同じような目に遭うことが」
「はい」
「でも、逃げるようにここを離れることも怖い」
「はい」
「お母様の言うことも分かるの。だから、決められない」
マリベルは答えを急かさず、いつもの半歩後ろへ下がった。
「明日の朝まで、お待ちしております」
「マリベル」
「どちらをお選びになっても、私はお嬢様の侍女でございます」
エレノアは、膝の上で手を握った。
マリベルのためでもない。
母のためでもない。
自分はどうしたいのか。
初めて、それだけを考えた。
***
翌朝。
公爵家の正面玄関前には、クラリスの馬車が用意されていた。
荷物が積み込まれ、御者が出発を待っている。
クラリスとリゼットは、その傍らに立っていた。
そこへ、エレノアが現れた。
旅装ではない。
いつも着ている淡い青のドレスだった。
その半歩後ろには、マリベルが立っている。
鉄扇は腰に差したまま。
手を触れてはいない。
「エレノア」
クラリスが娘を見る。
「荷物はどうしたの?」
「持ってまいりませんでした」
「どういう意味かしら」
エレノアは一度だけ息を吸った。
「私は、ここに残ります」
クラリスの視線が、マリベルへ向けられる。
「マリベルに止められたの?」
「いいえ」
エレノアは首を横へ振る。
「マリベルは、私の荷物をすべて整えてくれました」
「あの子が?」
「私が行くと決めたなら、従うつもりだったそうです」
リゼットが娘を見る。
マリベルは何も言わない。
ただ、エレノアの半歩後ろに立っている。
「お母様のおっしゃるとおり、私は傷ついています」
エレノアは自分の言葉で続けた。
「怖かったことも、逃げたかったこともありました。すべて平気だったわけではありません」
「ならば――」
「それでも、私は残ります」
クラリスが口を閉ざす。
「傷つけられるたびに居場所を捨てていたら、私の行き先を決めるのは、私を傷つけた人たちになってしまいます」
「エレノア……」
「お母様は、王太子を見限って、その国を離れたのでしょう?」
「ええ」
「それは、お母様がご自分で選んだ道です」
エレノアは母をまっすぐに見た。
「私は、この場所をまだ見限っていません」
クラリスの目が揺れる。
「お母様のように、自分の人生を選べる人になりたい。だからこそ、今回はここに残らせてください」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
朝の風が、エレノアの髪を揺らす。
向かいに立つクラリスの淡い金の髪も、耳元でかすかに揺れた。
やがて、クラリスが尋ねた。
「また同じようなことが起きたら?」
「そのときは、今度こそ私が先に怒ります」
エレノアが後ろを振り返る。
「それでも足りなければ、マリベルに怒ってもらいます」
「承知いたしました」
マリベルが深く頭を下げた。
「ただし」
「はい」
「私が止めたら、止まりなさい」
マリベルは一瞬だけ黙った。
リゼットが娘を見る。
「……はい、お嬢様」
クラリスの表情から、わずかに力が抜けた。
「分かりました」
「お母様……!」
「あなたを無理に連れていくことはしません」
エレノアが安堵の息を吐く。
「ありがとうございます」
「ただし」
クラリスが続けた。
「今後、何かあれば必ず知らせなさい。あとから報告書で知るのは、もう御免よ」
「承知いたしました」
「本当に分かっているの?」
「……努力いたします」
「そこは言い切ってちょうだい」
困ったように笑うエレノアの頬へ、クラリスがそっと手を添える。
「つらくなったら、いつでも帰ってきなさい」
「はい、お母様」
クラリスは娘を抱き寄せた。
エレノアも、母の背へ静かに腕を回す。
そのときだった。
「エレノア様ああああああああああああああああ!!!!」
遠くから、聞き覚えのある絶叫が響き渡った。
続いて、何かが地面を激しく蹴る音が近づいてくる。
門の向こうから、白銀の巨体が駆け込んできた。
狼にも、獅子にも似た美しい聖獣。
額に淡い光を帯びた角を持つ、聖獣アルシオンである。
その背には、白い法衣をなびかせた少女が乗っていた。
聖女リリアーナである。
アルシオンが前庭で足を止めると同時に、聖女リリアーナがその背から飛び降りた。
「エレノア様!」
裾を持ち上げ、玄関前まで一気に駆けてくる。
目には大粒の涙が浮かび、肩で息をしていた。
「王都を出ていかれると聞きましたわ! 本当なのですか!?」
「リリアーナ様、どうしてこちらへ?」
「大神殿まで噂が届いたのです! 居ても立ってもいられず、アルシオンに乗って駆けつけましたわ!」
リリアーナはエレノアの前まで来ると、涙を拭う暇もなく問いかけた。
「本当に行ってしまわれるのですか!?」
「いいえ」
エレノアは微笑んだ。
「ここに残ると、いま決めたところです」
「……え?」
リリアーナの動きが止まる。
「残られるのですか?」
「はい」
「王都に?」
「はい」
「わたくしが到着する前に、すべて解決していたのですか?」
「そうなりますね」
リリアーナは、その場で膝から崩れ落ちた。
「間に合いませんでしたわああああああああああああああああ!!!!」
「間に合わなくても、何も問題はなかったでしょう?」
エレノアが困ったように笑う。
リリアーナは膝をついたまま、しばらく肩を落としていた。
しかし、ふと顔を上げる。
そこで初めて、エレノアの隣に立つクラリスの存在に気づいた。
「はっ! もしかして、こちらがお母様ですか!?」
クラリスが目を瞬く。
「ええ、エレノアの母です」
「つまり、女神様の……」
リリアーナの瞳が輝いた。
「女神様をこの世へお生みになった、女神様のお母様!」
「女神様?」
クラリスが娘を見る。
エレノアは、そっと視線を逸らした。
「わたくし、リリアーナと申します! エレノア様には日頃より大変お世話になっておりまして――」
勢いのまま、リリアーナがクラリスの両手を取った。
次の瞬間。
二本の黒い鉄扇が、同時に開いた。
「距離が近い」
リゼットとマリベルの声が、ぴたりと重なる。
「ただのご挨拶ですのに!?」
リリアーナは慌ててクラリスの手を離した。
リゼットとマリベルが互いの顔を見る。
そして、ほとんど同時に鉄扇を閉じた。
クラリスが小さく笑う。
「本当によく似ているのね」
「どこがでしょう」
「どこがですか?」
否定する声まで重なった。
「そこです」
エレノアが即座に答える。
リリアーナは母娘を交互に見比べ、クラリスから一歩離れた。
「ご挨拶にも適切な距離が求められるのですね……」
「当然でございます」
「当然です」
また、二人の声が重なった。
「厳しすぎますわ!」
リリアーナの到着によって、張り詰めていた空気はすっかり消えていた。
ひとしきり騒ぎが収まると、リゼットが改めてマリベルの前へ立った。
「マリベル」
「はい」
「あなたは、まだ未熟です」
「承知しております」
「本当に?」
「……ある程度は」
「その自己評価の高さから直す必要がありますね」
マリベルが視線を逸らす。
リゼットは一拍置いてから、続けた。
「ですが、エレノア様のお荷物を整えたことは評価します」
マリベルが顔を上げる。
「お母様……」
「それから、エレノア様に『座って』と言われ、一度で従いましたね」
「はい」
「エレノア様ご自身がお決めになることを、あなたが先回りして決めてはなりません」
「承知いたしました」
全面的な褒め言葉ではなかった。
それでも、マリベルを侍女として認める言葉には違いなかった。
マリベルの表情が、ほんの少しだけ緩む。
リゼットは手を伸ばし、わずかに下がっていた娘のエプロンを直した。
「次に会うまでに、もう少し侍女らしくなっておきなさい」
「善処いたします」
「直しなさい」
「……承知いたしました」
リゼットはエプロンから手を離す。
「エレノア様をお願いいたします」
「命に代えましても」
「命に代える必要はありません」
「では、相手の命を――」
「マリベル」
「冗談でございます」
リゼットは娘をじっと見つめた。
「半分ほど本気ですね」
「まさか」
やがて、出発の時刻となった。
クラリスとリゼットが馬車へ乗り込む。
「お母様」
エレノアが呼びかけると、クラリスが窓から顔を覗かせた。
「また、いつでも会いに来てください」
「ええ、次は事件の報告を受ける前に来るわ」
「……善処いたします」
「そこは約束してちょうだい」
クラリスは困ったように笑い、エレノアへ手を振った。
その隣では、リリアーナが深々と頭を下げている。
「エレノア様のことは、わたくしにお任せくださいませ!」
「リリアーナ様にお願いした覚えはございません」
マリベルが即座に口を挟む。
「わたくしもエレノア様をお守りしたいのです!」
「お嬢様の侍女は私でございます」
「聖女としてお力になれることもございますわ!」
「必要な際はこちらからお呼びいたします」
「呼ばれなくても参ります!」
言い合う二人を見て、クラリスが小さく笑った。
「エレノア、あなたには心配してくれる方がたくさんいるのね」
「はい。少々、騒がしい方ばかりですが」
「エレノア様!?」
リリアーナが悲鳴を上げる。
御者が手綱を操り、馬車がゆっくりと動き始めた。
エレノアは小さく手を振る。
リリアーナはその隣で、両手を大きく振っていた。
「クラリス様あああああああ! またお会いしましょうですわあああああああ!」
アルシオンが驚いたように耳を伏せる。
「リリアーナ様、お母様はまだ聞こえる距離にいらっしゃいます」
「遠ざかっておりますから、大きな声を出した方がよろしいかと!」
馬車の窓から、クラリスが笑いながら手を振り返した。
その隣で、リゼットは最後までマリベルを見つめていた。
マリベルも黙って母を見返す。
言葉はなかった。
それでも馬車が門を抜ける直前、リゼットがほんのわずかに頷いた。
マリベルは背筋を伸ばし、深く頭を下げる。
やがて、馬車は街道の先へと遠ざかっていった。
「行ってしまわれましたね」
エレノアが寂しそうに呟いた。
「はい」
「マリベルも、寂しい?」
「いいえ。これで正座を命じられる心配がなくなり、安心しております」
エレノアがマリベルを見る。
「本当に?」
「もちろんでございます」
そう答えたマリベルの目元には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「泣いているじゃない」
「これは安堵の涙でございます」
「そういうことにしておきましょうか」
エレノアが笑う。
「マリベル様も、お母様とのお別れはおつらいのですね」
リリアーナがもらい泣きしながら近づいてくる。
「いまは放っておいてくださいませ」
「ですが、悲しいときは誰かに抱き締めてもらうと――」
マリベルが無言で鉄扇へ手を伸ばした。
「距離は守りますわ!」
リリアーナが即座に飛び退く。
エレノアは声を立てて笑った。
マリベルは目元を拭うと、遠ざかる馬車へもう一度、深々と頭を下げた。
***
翌朝。
エレノアは王宮からの呼び出しを受け、屋敷を留守にしていた。
マリベルも同行しようとしたが、昨日から働き通しだったため、エレノアから休むよう命じられている。
主人の命令には逆らえず、マリベルは不満を隠しきれない顔で銀盆を磨いていた。
そのとき、玄関の方から若い従僕が息を切らして駆け込んでくる。
「た、大変です!」
マリベルが顔を上げた。
「何事ですか」
「エレノアお嬢様が、王宮で身に覚えのない事件の容疑者として拘束されたとの知らせが!」
マリベルの手から銀盆が消えた。
床へ落ちたのではない。
気づけば、近くにいた使用人へ完璧な角度で預けられていた。
「お嬢様が、また濡れ衣を着せられたですって!?」
マリベルは腰から黒い鉄扇を引き抜いた。
「ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!!!!」
そのまま廊下の向こうへ駆けていく。
屋敷中の使用人が一斉に手を止めた。
老執事は何も聞かず、ただ静かに頷く。
「馬車を用意しなさい。あと、公爵様にもご報告を」
お嬢様に何かが起きた。
ならば、戦である。




