第十章 前編 マリベルが猫になったですって!? にゃああああああああああああああああ!!!!
アルヴァイン公爵家の書斎には、古今東西の書物が収められている。
王国史、貴族名鑑、領地経営の記録、異国の旅行記、薬草図鑑、料理書、詩集。
誰が購入したのか分からない恋愛指南書や、あまりの分厚さに歴代の公爵さえ途中で読むのを諦めた税制史まで、整然と書棚へ並べられていた。
その日の午後、公爵令嬢エレノア・アルヴァインは、天井まで届く書棚の間をゆっくりと歩いていた。
「確か、この辺りにあったと思うのだけれど」
探しているのは、南方領に咲く花について記された植物図鑑である。
母クラリスが暮らしている南方領には、王都では見かけない花が多い。
先日届いた手紙にも、庭に薄紫の花が咲き始めたと書かれていた。次に返事を書く際にその花について尋ねてみようと思い、昔読んだ図鑑を探しに来たのだ。
エレノアの半歩後ろには、いつものように侍女マリベルが控えていた。
黒い侍女服。
白いエプロン。
きっちりと結われた髪。
腰には、黒塗りの鉄扇。
扇面には、金文字で『お嬢様第一』と刻まれている。
「お嬢様。お探しの本でしたら、南方地誌の棚に収められている可能性がございます」
「植物図鑑なのに?」
「前任の司書が、花の分布を地誌として分類しておりましたので」
「どうして知っているの?」
「侍女ですので」
「答えになっていないわ」
エレノアは小さく笑い、隣の書棚へ移った。
マリベルも静かに後へ続く。
「南方地誌……ああ、ここね」
エレノアが棚に並ぶ背表紙を目で追う。
その横で、マリベルはふと足を止めた。
書棚の中央。古びた革張りの本の間に、見覚えのない一冊が収まっている。
黒い本だった。背表紙には題名も、著者名もない。
周囲の本には薄く埃が積もっていた。けれどその一冊だけは、つい先ほど置かれたかのように汚れひとつない。
公爵家の書斎は、蔵書の位置まで厳密に管理されている。
マリベル自身も、エレノアが読む可能性のある本はすべて把握していた。
この本を見落としていたとは考えにくい。
「……こちらは」
マリベルは黒い本を棚から抜き取った。
手にした瞬間、妙に冷たい感触が伝わってくる。
だが、表紙にも裏表紙にも、何も書かれていない。
慎重に表紙を開く。
最初のページには、一行だけ記されていた。
『人は時に、自らにもっとも相応しい姿を知らぬ』
マリベルの眉が、わずかに動く。
「どうしたの?」
エレノアが振り返った。
「いえ、見覚えのない本が――」
その瞬間、本のページがひとりでにめくれ始めた。
ぱらぱらぱらぱら、と激しい音が書斎へ響く。
書斎の窓は閉まっている。風なども吹いていなかった。
「マリベル、その本を離して!」
エレノアが駆け寄る。
しかし、マリベルが本を閉じようとするより早く、ページは中央でぴたりと止まった。
そこには、たった一行だけ文字が書かれていた。
『それでは、始めよう』
「始める……?」
マリベルが読み上げた直後。
黒い本から、白い煙が噴き出した。
「マリベル!」
煙が一瞬でマリベルの全身を包み込む。
黒塗りの鉄扇が床へ落ちた。
エレノアは煙の中へ手を伸ばす。
「マリベル! 返事をして!」
だが、人の手には触れない。
黒い侍女服も、白いエプロンも、煙の中に消えていた。
代わりに。
「にゃっ」
小さな声がした。
煙がゆっくりと薄れていく。
床の上に一匹の猫が座っていた。
艶のある黒い毛並みに、胸元と四本の足先だけが白い。瞳は光を吸い込むような黒色だった。
前足をきちんと揃え、背筋をぴんと伸ばしている。
その傍らには、先ほどまでマリベルが持っていた黒い本と、黒塗りの鉄扇が落ちていた。
エレノアは猫を見る。
猫も、エレノアを見上げた。
沈黙。
「……マリベル?」
「にゃあ」
声は完全に猫だった。
だが、その目は紛れもなくマリベルである。
エレノアは目を見開き、咄嗟に口元を手で覆った。
「マリベルが猫になったですって!?」
「にゃああああああああああああああああ!!!!」
公爵家の書斎に、猫の絶叫が響き渡る。
廊下を歩いていた使用人たちが、一斉に足を止めた。
花瓶を抱えていた若い従僕は、驚いて書斎の方を振り返る。
「今の声は……猫でしょうか?」
隣にいた老執事は、静かに目を伏せた。
「猫だな」
「ですが、マリベルさんの叫び方に似ていたような」
「おそらく、両方だ」
「両方?」
老執事は書斎の扉を見つめる。
この屋敷で理解できないことが起きたとき、考え込んでも意味はない。
まず必要なものを揃えるべきである。
「公爵様にご報告を。それから獣医を呼びなさい」
「獣医でよろしいのでしょうか」
「分からん」
「では、何と伝えれば?」
「侍女が猫になった。と」
「信じていただけるでしょうか」
「連れてくれば分かる」
老執事は一拍置いた。
「猫用の籠と、マリベル用の座布団も用意しなさい」
「どちらを使うのでしょう」
「両方持ってきなさい。判断は現物を見てからだ」
***
書斎では、猫になったマリベルが鉄扇と格闘していた。
「にゃっ……!」
黒塗りの鉄扇の柄へ噛みつく。
動かない。
今度は両前足を柄にかけ、全身で引っ張る。
「にゃああっ!」
やはり動かない。
人間のマリベルなら片手で軽々と扱っていた鉄扇だが、猫の身体にはあまりにも重かった。
「マリベル、無理よ」
「シャーッ!」
「鉄扇に怒っても仕方がないでしょう?」
エレノアが鉄扇を拾い上げる。
猫マリベルは悔しそうに尻尾を床へ叩きつけた。
「その身体では持てないわ」
「にゃあ!」
「元に戻るまでは、私が預かります」
エレノアが鉄扇を机の上へ置く。
猫マリベルは机を見上げた。
床を蹴る。
椅子へ飛び乗り、その背から机の上へ。
そして鉄扇の横へ座った。
「持てなくても、そばには置いておきたいの?」
「にゃっ」
「そう」
エレノアは黒猫の姿を改めて見た。
胸元の白い毛は、小さなエプロンのように見える。
前足を揃えて座る姿も、妙に礼儀正しい。
見た目だけなら大変愛らしい猫だった。
「可愛いわ」
「にゃっ!?」
猫マリベルの耳が、ぴんと立った。
「とても可愛い」
「にゃあああっ!」
猫マリベルはエレノアの腕へ飛びついた。
肩まで駆け上がり、前足で口元を塞ごうとする。
柔らかな肉球が、エレノアの頬へ触れた。
「照れているの?」
「シャアアアアッ!」
「そんなに怒らなくてもいいでしょう?」
エレノアは笑いながら猫マリベルを抱き上げる。
見た目どおり、毛並みは驚くほど柔らかい。
猫マリベルは最初こそ身をよじったが、エレノアの腕から飛び降りようとはしなかった。
「本当にマリベルなのね?」
「にゃあ」
「右前足を上げて」
右前足が上がる。
「左前足」
左前足が上がる。
「私が一番大切?」
「にゃあ!」
今までで一番強い返事だった。
「間違いないわね」
エレノアは猫マリベルの頭を撫でた。
猫マリベルの喉が、ほんの一瞬だけ震える。
しかし、すぐに口を固く閉じた。
「今、喉を鳴らしかけなかった?」
「にゃっ」
「鳴らしていない?」
「にゃあ」
猫マリベルはエレノアから顔を背けた。
耳だけがわずかに赤く見える。
猫の耳が赤くなるものなのかは分からない。
けれど、たぶん照れているのだろう。
エレノアは床に落ちた黒い本を拾い上げた。
猫マリベルもすぐにその手元を覗き込む。
「元に戻る方法を探しましょう」
「にゃあ」
本を開く。
先ほどのようにページが勝手に動くことはなかった。
最初のページには、新たな文字が浮かんでいた。
『これは上巻である』
「上巻?」
エレノアがページをめくる。
そこには、猫の習性について妙に詳しい文章が並んでいた。
『猫は高い場所を好む』
『猫は狭い場所へ入る』
『猫は信頼する相手へ身体を寄せる』
『猫は不快な相手へ爪を立てる』
猫マリベルが、前足でページを叩く。
「にゃっ」
「役に立たないと言っているの?」
「にゃあ」
「最後まで確認しましょう」
ページを進めていった。
しかし、元へ戻る方法らしい記述は見当たらない。
最終ページに書かれていたのは、わずか一行だった。
『元へ戻る方法は、下巻に記す』
エレノアは黙って文字を見つめた。
猫マリベルも、文字を見つめる。
数秒後。
「にゃあああああああっ!」
猫マリベルが本へ飛びかかった。
前足で表紙を叩く。
何度も叩く。
「マリベル、本は正座できないわ」
「シャーッ!」
「気持ちは分かるけれど」
エレノアは猫マリベルを抱き上げ、黒い本から引き離す。
「下巻を探しましょう」
「にゃあ!」
猫マリベルが勢いよく頷いた。
***
呼ばれた獣医は、最初こそ困惑していた。
公爵家から迎えが来て、侍女が猫になったと聞かされたのである。
冗談かと思った。
だが、診察室代わりに用意された客間で、前足を揃えて座る黒猫を見た瞬間、何となく納得した。
普通の猫ではない。
視線だけは妙に鋭いのだ。
「では、まず身体を診せていただきます」
獣医が手を伸ばす。
猫マリベルが目を細めた。
「マリベル。診察です」
「にゃあ」
不満そうではあるが、逃げなかった。
獣医は慎重に心音を確認する。
骨格、瞳、耳、毛並み。
どこにも異常はない。
「身体は完全に猫でございますね」
「人間へ戻る方法は?」
「私に聞かれましても……」
「そうよね」
「健康状態については、何の問題もございません。たいへん健康な若い猫です」
「若い?」
猫マリベルの目が光った。
獣医が慌てて言い直す。
「人間であった頃のお年と比較したわけではございません!」
「にゃあ」
「歯も綺麗です。一応、口の中も検査し――」
獣医が口元へ手を伸ばす。
ぱん。
小さな前足が手を叩き落とした。
「痛っ!」
「マリベル」
「にゃっ」
「先生は診てくださっているのよ」
「シャーッ」
「口の中は嫌なのね」
獣医は手をさすりながら苦笑した。
「大変意思の強い猫ですね」
「侍女ですので」
「そうでした」
獣医はなぜか納得した。
診察が終わると、猫マリベルは診察台からエレノアの膝へ飛び乗った。
当然のように座る。
「よく懐いておりますな」
「私の侍女ですから」
「にゃあ」
猫マリベルが誇らしげに胸を張った。
***
その日の午後、公爵家では下巻の捜索が行われた。
書斎、倉庫、客室、屋根裏、地下の保管庫。
本が置けそうな場所はすべて確認した。
しかし、黒い下巻はどこにもない。
蔵書目録にも記録はなく、使用人の誰も上巻を書棚へ置いた覚えはないと言う。
窓や扉にも侵入の痕跡はなく、本が持ち込まれた形跡さえ見つからなかった。
「本当に、突然現れたのね」
エレノアは執務室の机に上巻を置き、改めて表紙を調べた。
猫マリベルは机の上へ座って横から本を睨んでいる。
「何か手がかりがないかしら」
「にゃあ」
「あなたも分からないのね」
「にゃっ」
猫マリベルが本の裏表紙へ前足を置いた。
「裏側?」
エレノアは本を裏返す。
何も書かれていない。
だが、窓から差し込む光にかざすと、黒い表紙の奥へ薄く文字が浮かび上がった。
『塔を探せ』
「塔……」
エレノアは小さく呟く。
王都周辺にはいくつもの塔がある。
王城の見張り塔。
大神殿の鐘楼。
古い貴族の屋敷に残された塔。
魔術師の塔
この中で不可思議な本と結びつきそうな場所は、一つしか思い当たらなかった。
「魔術師の塔」
「にゃあ!」
猫マリベルが勢いよく立ち上がった。
王都の北には深い森が広がっている。
その奥に魔術師の塔と呼ばれる古い建物があった。
魔術師という名前が付いているが、この国には物語に出てくるような魔法は存在しない。塔に住む人物も、特別な力を使えるわけではなかった。
ただ、自らを魔術師と名乗り、奇書を集め、怪異などの説明のつかない現象を研究している変わり者らしい。
「魔術師様なら、この本について何かご存じかもしれないわ」
「にゃあ!」
猫マリベルは机から床へ飛び降り、そのまま扉へ向かう。
「待ちなさい」
「にゃっ」
「もう夕方よ」
「にゃあ」
「夜の森へ入るのは危険です。出発は明日の朝にしましょう」
「シャーッ!」
「怒ってもだめです」
猫マリベルは扉の前で振り返った。
今すぐ行きたい。
一刻も早く元へ戻り、エレノアを人間の姿で守りたい。
その目が、そう訴えている。
エレノアは猫マリベルの前へ膝をついた。
「必ず元に戻します」
「にゃあ」
「だから、焦って危険な道を選んではいけません。あなたがいつも私へ言っていることでしょう?」
猫マリベルは黙った。
「今日は休んで、明日の朝に出発します」
「……にゃあ」
渋々といった様子で、猫マリベルはエレノアの手へ頭を寄せた。
「よろしい」
エレノアが背中を撫でる。
猫マリベルは目を細めかけ、すぐに表情を戻した。
***
その夜。
猫マリベルのために、立派な寝床が用意された。
柔らかなクッション。
上質な毛布。
黒と白で統一された、落ち着いた色合い。
老執事が、公爵家の侍女にふさわしい猫用寝台を急いで取り寄せたのである。
だが、猫マリベルは見向きもしなかった。
エレノアが寝室へ向かうと、その後ろをついてくる。
そして寝室の前まで来ると、ぴたりと足を止め、扉の前にきちんと座った。
「マリベル」
「にゃあ」
「寝ないの?」
「にゃっ」
「私を守るつもり?」
「にゃあ」
エレノアは寝室の扉を開けた。
「それなら、中へ入りなさい」
猫マリベルは一瞬迷い、寝室へ入った。
だが、寝台へは近づかない。
室内側の扉の前へ座り直す。
「そこでは寒いでしょう?」
「にゃっ」
「せめて椅子へ上がりなさい」
エレノアが寝台脇の椅子を示す。
猫マリベルはその椅子へ飛び乗った。
しかし、丸くならない。
前足を揃えて座り、耳を立てたまま扉を見張っている。
「眠らないつもりなのね」
「にゃあ」
「私が起きている間くらい、休んでもいいでしょう?」
「にゃっ」
猫マリベルは頑として譲らない。
エレノアは小さく息を吐いた。
姿は猫になっても、マリベルは変わらない。
自分がどれだけ疲れていても、エレノアを守ることを優先する。
これ以上言っても聞かないだろう。
エレノアは説得を諦めて寝台へ入り、椅子の上の猫マリベルへ目を向けた。
「おやすみなさい、マリベル」
「にゃあ」
その夜。
エレノアが何度目を覚ましても、猫マリベルは椅子の上に座り、扉を見張っていた。
***
翌朝。
公爵家の正面玄関前には、馬車が用意されていた。
エレノアは動きやすい旅装を整え、猫マリベルを腕に抱いている。
猫マリベルの首には、淡い青のリボンが結ばれていた。
「よく似合っているわ」
「にゃっ」
不満そうな返事だった。
「首輪ではないわ。人の多い場所で、あなたを見失わないための目印です」
「にゃあ」
「嫌なら外すけれど」
猫マリベルは、自分の首元を見る。
次に、エレノアを見る。
少し考えたあと、リボンを外そうとはしなかった。
「お嬢様が選んだものなら構わない、と言っていますね」
老執事が静かに言う。
「分かるの?」
「長くマリベルを見ておりますので」
猫マリベルは満足そうに頷く。
そのとき、門の外から地面を蹴る激しい音が近づいてきた。
「エレノア様ああああああああああああああああ!!!!」
白銀の聖獣アルシオンが、門を抜けて前庭へ駆け込んでくる。
その背には、白い聖衣をなびかせた聖女リリアーナが乗っていた。
アルシオンが足を止めるより早く、リリアーナがその背から飛び降りる。
「エレノア様!」
「リリアーナ様」
「マリベル様が猫になられたと伺いましたわ!」
「もうご存じなのですね」
「王都中で噂になっております!」
「まだ昨日起きたことなのだけれど」
「王都の噂は、聖獣より速いのですわ!」
リリアーナの視線が、エレノアの腕の中へ落ちる。
黒猫と目が合った。
「まあ……!」
リリアーナの瞳が輝いた。
「マリベル様! なんて愛らしいのでしょう!」
両手を伸ばす。
ぱん。
猫マリベルの前足が、リリアーナの手を叩いた。
「痛いですよ!」
「シャーッ!」
「猫のお姿でも距離に厳しいですわ!」
「マリベル、リリアーナ様は心配して来てくださったのよ」
「にゃあ」
「それは感謝の鳴き方ですの?」
「違うと思います」
「エレノア様まで!」
リリアーナは手をさすりながらも、猫マリベルから目を離さない。
「それにしても、たいへん愛らしい……」
再び手を伸ばしかける。
猫マリベルが目を細める。
リリアーナは、途中で手を止めた。
「触りません。見るだけですわ」
「にゃっ」
「それならば許す。とおっしゃいました?」
「たぶん、まだ警戒しています」
「厳しいですわ!」
エレノアは小さく笑った。
「リリアーナ様も、塔へ?」
「もちろんです。エレノア様を魔術師の塔へお一人で向かわせるわけにはまいりませんもの」
「マリベルもいます」
「猫ですわ」
「にゃっ!」
猫マリベルがリリアーナを睨む。
「猫ですが、マリベルです」
「その言葉、たいへん頼もしくも不安ですわね」
リリアーナは聖杖を胸元へ抱えた。
「塔には魔物や盗賊も現れると聞いております。わたくしの聖なる力で、エレノア様をお守りいたしますわ」
「にゃあ」
猫マリベルが不満げに鳴く。
「何と?」
「私を守るのは自分の役目だ、と」
「猫のお姿なのですから、少しくらい任せてくださいませ!」
「シャーッ!」
「なぜですの!?」
老執事は三人を見渡し、静かに頭を下げた。
「道中、くれぐれもお気をつけくださいませ」
「ええ」
「にゃあ」
「お任せくださいませ!」
返事が三つ重なった。
一つは人間の声。
一つは聖女の声。
一つは猫の鳴き声だった。
***
魔術師の塔がある森までは、馬車で半日ほどかかる。
道中、猫マリベルはずっとエレノアの膝の上にいた。
眠りはしない。
窓の外へ目を向け、周囲を警戒しているのだ。
リリアーナが向かいの席から、じっと猫マリベルを見つめていた。
「触りませんわ」
「にゃあ」
「ただ、見ているだけです」
「にゃっ」
「毛並みが美しいと思いまして」
猫マリベルが顔を背ける。
「褒めても駄目ですの?」
「距離を測っているのだと思います」
「わたくしの気持ちを疑いすぎでは?」
猫マリベルは、エレノアの膝の上で前足を揃えた。
その視線の先に、布へ包まれた上巻がある。
リリアーナも本を見る。
「これを読まれて、猫になったのですね」
「ええ」
「どのようなことが書かれているんですか?」
「猫の習性と、元へ戻す方法が下巻にあるということだけです」
「わたくしも読んでみても?」
猫マリベルが、すぐに上巻の上へ移動した。
どっかりと座る。
「マリベル様?」
「にゃあ」
「少し見るだけですわ」
「シャーッ!」
「別に、わたくしも猫になればエレノア様のお膝へなんて――」
「シャアアアアアアッ!」
猫マリベルの毛が逆立った。
「まだ何もしておりませんわ!」
「考えた時点で駄目なようです」
「心まで監視されるのですか!?」
リリアーナが肩を落とす。
猫マリベルは上巻の上に座ったまま、決して動かなかった。
***
森の入口には、小さな宿場町がある。
通りには旅装の者たちが行き交い、荷馬車が行き来し、道具店や食堂の前では客を呼び込む声が響いていた。
魔術師の塔へ挑む冒険者。
珍しい品を探す商人。
魔物の素材を求める猟師。
王都から離れた場所でありながら、人の出入りは絶えなかった。
エレノアたちは情報を集めるため、宿場の食堂へ入る。
扉が開くと、店内の視線が一斉に集まった。
旅装とはいえ、立ち居振る舞いから身分の高さが分かる令嬢。
白い聖衣をまとった聖女。
その腕の中には、青いリボンをつけた小さな黒猫。
奥の席にいた冒険者たちが、顔を見合わせて笑った。
「何だ。貴族令嬢が猫の散歩か?」
「魔術師の塔は庭園じゃないぞ」
「猫を抱いて魔物を見物しに来たのか?」
猫マリベルの耳が、ぴくりと動いた。
エレノアは腕に力を込める。
「マリベル。話し合いで済ませましょう」
「にゃあ」
素直な返事だった。
だが、一人の冒険者が立ち上がってエレノアたちの前へ歩いてくる。
「おい、そこの令嬢」
冒険者の一人が、エレノアの腕の中へ目を向けた。
「ちょっとその猫、貸せよ」
「お断りします」
「別に減るもんじゃないだろ。塔に入る前の暇つぶしに、少しくらい触らせろよ」
男は返事も待たず、猫マリベルへ手を伸ばした。
「おやめください」
「貴族の猫なら、俺たち平民に触られるのも嫌だってか?」
男が鼻で笑う。
「ただの猫だろ。少しくらい乱暴に扱っても死にはしねえよ」
猫マリベルの目が細くなった。
「マリベルは嫌がっております」
「猫の分際で、俺を選ぶつもりかよ」
男は顔をしかめ、今度は強引に猫マリベルの首根っこを掴もうとした。
その瞬間。
エレノアの腕の中から、猫マリベルが消えた。
「え?」
次に見えたとき、猫マリベルは男の肩の上にいた。
前足で後頭部を押す。
男の身体が前へ傾く。
そのまま膝が折れ、床へ両膝をついた。
足が綺麗に揃う。
正座である。
「なぜ!?」
隣にいた冒険者が立ち上がる。
「何をした!」
猫マリベルは一人目の頭から跳んだ。
二人目の肩へ。
そこから三人目の背中へ。
黒い影が食堂の中を駆け抜ける。
ぱん。
ぱん。
ぱん。
剣が床へ落ちる。
椅子が引かれる。
冒険者たちの膝が次々に折れる。
気づけば、五人の冒険者が、机の前へ美しく正座していた。
「俺たちは……猫に負けたのか……?」
一人が呆然と呟く。
猫マリベルは、正座した男たちの前へ座った。
背筋を伸ばし、前足を揃える。
「にゃあ」
エレノアは猫マリベルを抱き上げた。
「この子は、ただの猫です」
「ただの猫が冒険者を正座させるか!」
「にゃっ!」
猫マリベルが男の額を叩いた。
「痛い!」
リリアーナは感心したように両手を合わせた。
「猫のお姿でも、見事な正座ですわ!」
「褒めるところなのかしら」
食堂の主人は、黙って割れ物を棚の奥へ片づけた。
猫が暴れたのではない。
冒険者たちが勝手に正座したのだ。
そういうことにしようと決めたのである。
***
正座させられた冒険者たちは、態度を改めた。
「魔術師に会いたいなら、塔の入口へ行けばいい」
最初に手を伸ばした男が、正座したまま答える。
「あの変人、最近は毎日塔の前にいる」
「なぜですか?」
「三日前から、塔の中の仕掛けが勝手に動き始めたらしい。何か珍しいものが現れたとか」
エレノアとリリアーナが顔を見合わせる。
「黒い本かもしれませんわ」
「ええ」
猫マリベルも強く頷く。
「にゃあ!」
冒険者は猫マリベルを見て、少し身体を引いた。
「塔の中には魔物もいる。それに、最近は盗賊も入り込んでいる」
「盗賊?」
「塔で見つけた珍品を持ち出して、闇市へ売っている連中だ。あんたたちみたいな目立つ一行なら、狙われるかもしれない」
「ご忠告、ありがとうございます」
エレノアは丁寧に頭を下げた。
正座した冒険者たちは目を瞬く。
猫に正座させられた直後だというのに、令嬢本人は礼儀正しい。
「……あんた、本当にその猫の飼い主なのか?」
「飼い主ではありません」
「では?」
「私の侍女です」
冒険者たちは黙った。
誰も、それ以上尋ねなかった。
***
宿場町を出ると、道は深い森へ続いていた。
馬車が通れるのは途中までである。
そこから先は、徒歩で進まなければならない。
エレノアが猫マリベルを抱き、リリアーナが半歩後ろを歩く。
聖獣アルシオンは、周囲を警戒しながら先頭を進んでいた。
「エレノア様、お疲れではありませんか?」
「大丈夫です」
「マリベル様は、わたくしが抱きましょうか?」
「シャーッ!」
「聞いただけですわ!」
猫マリベルは、エレノアの胸元へ身体を寄せた。
「自分で歩く?」
「にゃっ」
「私が抱いていてもいいの?」
「にゃあ」
猫マリベルはエレノアの腕に収まったまま、周囲へ目を光らせている。
前夜から、ほとんど眠っていない。
エレノアは背中を撫でた。
「少し眠ってもいいのよ」
「にゃっ」
「リリアーナ様もアルシオンもいます」
「にゃあ」
「それでも嫌なのね」
猫マリベルは耳を立て、森の奥を睨んでいる。
姿は猫でも、エレノアを守る意思は少しも揺らいでいなかった。
***
やがて、木々の隙間から灰色の建物が見えてきた。
高い。
あまりにも高い塔だった。
蔦に覆われた石壁。
細長い窓。
頂上は木々よりもはるかに高く、雲へ突き刺さりそうなほど遠い。
塔の周囲だけ、森の木々が不自然に途切れていた。
正面には巨大な鉄の扉。
その前に、一人の男が座っていた。
長い灰色の髪。
黒い外套。
首からは、鍵や石、金属片、用途の分からない道具をいくつも下げている。
年齢は四十にも、六十にも見えた。
男はエレノアたちを見ると、ゆっくりと立ち上がった。
「待っていた」
エレノアは足を止める。
「私たちを?」
「正確には、その本を」
男の視線が、エレノアの荷物へ向く。
そこには布に包んだ黒い上巻が入っていた。
「あなたが、魔術師様ですか?」
「そうだ」
リリアーナが首を傾げた。
「ということは、魔法をお使いになるのですか?」
「使えない」
「では、なぜ魔術師を?」
「私が魔術師だからだ」
「答えになっておりませんわ」
「よく言われる」
男は猫マリベルを見る。
猫マリベルも男を見る。
「見事な猫だ」
「にゃっ」
「おそらく、人間だな」
エレノアの目が見開かれた。
「分かるのですか?」
「普通の猫は、それほど人間を正座させたそうな顔をしない」
「顔で判断されたのですか」
「長年、不可解なものを見ていれば分かる」
魔術師が猫マリベルへ手を伸ばそうとする。
猫マリベルの目が鋭くなる。
魔術師は途中で手を止めた。
「触れない方がよさそうだ」
「大変賢明ですわ」
リリアーナが頷く。
「先ほど冒険者の方々が全員正座させられましたもの」
「素晴らしい」
魔術師の目が輝いた。
「猫になっても身体能力が失われず、むしろ体格に合わせて戦い方を変えているのか。筋力の比率、反射速度、平衡感覚――」
「観察は後にしてください」
エレノアが静かに言った。
「残念だ」
魔術師は本当に残念そうだった。
「下巻について、ご存じなのですね?」
「ああ」
魔術師は背後の塔を見上げた。
「三日前、この塔の一階に、突然一冊の黒い本が現れた」
「突然?」
「何も置かれていなかった机の上にな」
「それが下巻ですか?」
「確証はない。だが、おそらくそうだろう」
「今も一階に?」
「いや」
魔術師は楽しそうに笑った。
「私が触れようとした瞬間、机ごと消えた」
リリアーナが目を瞬く。
「机ごと?」
「机ごとだ」
「どこにいったのですか?」
「わからない。消えたその直後、塔中の仕掛けが勝手に動き始めたのだ」
「魔法ですか?」
「違う」
魔術師は即答した。
「この塔の仕掛けは、すべて歯車、滑車、重り、鎖、油圧、その他の機構で動いている。人の手で作られたものだ」
「では、なぜ勝手に?」
「分からない」
「分からないのですか?」
「分からないから素晴らしい」
魔術師は目を輝かせた。
「この三日間、塔は自ら内部の構造を変え続けている。封鎖されていた通路が開き、開いていた扉が消え、地下にいた魔物が上階へ移動した」
「危険ではありませんの?」
「極めて危険だ」
「なぜ嬉しそうにしてらっしゃいますの?」
「危険で不可解だからだ」
リリアーナはエレノアへ顔を寄せ、小声で言った。
「この方、かなり変ですわ」
「にゃあ」
「マリベル様もそう思われます?」
「聞こえているぞ」
魔術師が言う。
リリアーナは少し考えた。
「では、たいへん変ですわ」
「褒め言葉として受け取ろう」
エレノアは一歩前へ出た。
「下巻を手に入れる方法を教えてください」
「いいだろう」
魔術師は首から下げた鍵の一つを持ち上げた。
「私も塔へ同行する。内部の仕掛けについて、知っている限りのことは教えよう」
「ありがとうございます」
「ただし、条件がある」
「何でしょうか」
「すべてが終わったあと、上巻と下巻を私に譲ってほしい」
エレノアは腕の中の猫マリベルを見る。
猫マリベルもエレノアを見上げた。
「にゃあ」
迷う必要はない。
そう言っているようだった。
「分かりました」
エレノアは頷いた。
「マリベルが元へ戻ったあと、二冊ともあなたへお譲りします」
「契約成立だ」
魔術師は満足そうに笑った。
そして、巨大な鉄の扉へ鍵を差し込む。
重い音を立てながら、内部の機構が動き始めた。
がちり。
鎖が引かれる。
歯車が回る。
長く閉ざされていた鉄の扉が、ゆっくりと開いていく。
その向こうには、灯りのない暗い通路が続いていた。
冷たい風が吹き出す。
塔の奥から、何かの低い唸り声が響いた。
リリアーナが聖杖を握る。
白い聖なる光が、杖の先に宿った。
「エレノア様は、わたくしがお守りします!」
猫マリベルが、エレノアの腕の中から床へ飛び降りた。
リリアーナの前へ立つ。
黒い毛を逆立て、暗い塔を睨む。
「シャアアアアアッ!」
「いま絶対に『お嬢様を守るのは私です』とおっしゃいましたわね!?」
「たぶん、二人で守りましょうと言っているのでは?」
「エレノア様はお優しすぎますわ!」
魔術師は開いた扉の前で、楽しそうに両手を広げた。
「さあ、行こう」
彼の目は、未知を前にした子供のように輝いていた。
「行こう! 下巻はおそらく、この塔の最上階にあるはずだ!」
エレノアは暗い通路を見つめる。
その足元で、猫マリベルが背筋を伸ばした。
「マリベル」
「にゃあ」
「必ず、一緒に帰りましょう」
猫マリベルはエレノアを見上げる。
そして、力強く鳴いた。
「にゃあ!」
それはどう聞いても、
『当然でございます』
と言っていた。
三人と一匹は、魔術師の塔へ足を踏み入れた。
重い鉄の扉が、背後でゆっくりと閉じ始める。
その先に何が待っているのか。
まだ、誰にも分からない。
ただ一つ、確かなことがある。
猫のマリベルを侮った者は、塔の中でも正座することになる。




