第十章 後編 マリベルが猫になったですって!? にゃああああああああああああああああ!!!!
魔術師の塔へ足を踏み入れた瞬間、背後の鉄扉が重い音を立てて閉じた。
がちゃん。
外の光が遮られる。
塔の中は暗かった。
窓はない。
石造りの壁には、古びた燭台が並んでいる。けれど、どれにも火は灯っていなかった。
足元には黒と白の石板が、複雑な模様を描くように敷き詰められている。
エレノアは猫マリベルを抱き上げた。
「暗いわね」
「お任せくださいませ」
リリアーナが聖杖を掲げる。
杖の先に、白い光が灯った。
眩しすぎず、柔らかな光が周囲へ広がっていく。
壁、床、天井。
そして、その先に伸びる三本の通路。
「便利だな」
魔術師が感心したように言った。
「魔法ではないのか?」
「女神様より授かった聖なる力でございます」
「仕組みは?」
「信仰ですわ」
「再現は?」
「できません」
「素晴らしい」
魔術師の目が輝く。
「再現不能な現象が同行しているとは」
「わたくしを現象扱いしないでくださいませ」
リリアーナが頬を膨らませる。
その横で、猫マリベルが黒と白の石板を見つめる。
「マリベル?」
「にゃあ」
猫マリベルは床へ鼻を近づけた。
一枚ずつ匂いを確かめる。
それから白い石板だけを踏み、通路の奥へ進み始めた。
「そちらで合っているの?」
「にゃっ」
魔術師が床を見下ろす。
「なるほど」
「何か分かるのですか?」
「黒い石板には、わずかに油の匂いがついている」
「油?」
「踏めば、壁の内部にある歯車が回る仕組みだろう」
リリアーナが聖杖の光を床へ向ける。
黒い石板の隙間には、小さな金属片が見えた。
「これは、罠?」
「おそらくな」
「踏んだら、どうなるんです?」
「分からない」
「そうですか。では、踏まないように気をつけましょう」
「分からないが、試せば分かる」
「えっ?」
魔術師が黒い石板へ足を伸ばす。
エレノアが即座に腕を掴んだ。
「試さないでください!」
「少しくらい」
「だめです!」
「では、帰りに」
「帰りもだめです!」
魔術師は残念そうに足を戻す。
猫マリベルは一度振り返った。
「にゃあ」
「ついてきて、と言っているわ」
「どうして分かるんですか?」
「マリベルですから」
リリアーナは感心したように頷いた。
「愛ですわね」
「シャーッ!」
猫マリベルが振り返って威嚇する。
「なぜですの!?」
「言葉の選び方が気に入らなかったのかもしれません」
「難しすぎますわ!」
三人と一匹は、猫マリベルが選んだ白い石板だけを踏んで進んだ。
最後の一枚を越えた瞬間。
背後で、がちゃん、と音がした。
黒い石板が一斉に沈む。
左右の壁から、無数の木製の槍が飛び出した。
誰もいない通路を貫き、そのまま止まる。
リリアーナの顔が青ざめた。
「踏んでいたら、串刺しでしたわね……」
「面白い仕掛けだ」
「面白くありませんわ!」
魔術師だけが嬉しそうだった。
***
最初の階段を上った先には、巨大な書棚があった。
天井まで届く高さ。
横幅は、部屋を完全に塞いでいる。
書棚の前には取っ手も扉もない。
ただ、棚の隙間から向こう側の空気がわずかに流れてきていた。
「この向こうに通路がある」
魔術師が書棚へ耳を当てる。
「だが、この棚は回転式だ。裏側の留め金を外さなければ動かない」
「裏側へ行く道は?」
「ない」
リリアーナが首を傾げた。
「では、どうやって留め金を?」
エレノアは書棚の下を見る。
床との間に、猫一匹が通れるほどの隙間があった。
「マリベルなら通れるわ」
「にゃん!」
猫マリベルは迷わず隙間へ頭を入れた。
「待って」
エレノアが呼び止めると、猫マリベルが振り返った。
「中に何があるか分からないわ」
「にゃっ」
「だからこそ、自分が行くと?」
「にゃあ」
黒色の瞳は、少しも迷っていなかった。
エレノアは猫マリベルの背中を一度だけ撫でる。
「危険を感じたら、すぐに戻ってきて」
「にゃっ!」
猫マリベルは隙間へ潜り込んだ。
黒い尻尾が消える。
しばらく、何も聞こえなかった。
「マリベル様、大丈夫でしょうか」
リリアーナが不安そうに屈み込む。
書棚の向こうから、かりかり、と何かを引っ掻く音がする。
続いて。
がちゃん。
巨大な書棚が、ゆっくりと回転し始めた。
隠されていた通路が現れる。
その中央で、猫マリベルが前足を揃えて座っていた。
「マリベル」
エレノアが歩み寄る。
猫マリベルは立ち上がり、当然のようにエレノアの腕へ飛び込んだ。
「よくできました」
「にゃあ!」
エレノアが頭を撫でる。
すると、猫マリベルの喉から、ごく小さな音が漏れた。
「ごろ……」
音は一瞬で止まる。
エレノアが目を輝かせた。
「いま、喉を鳴らしたわね?」
「にゃっ!」
猫マリベルは勢いよく首を横に振る。
「鳴らしていないとおっしゃっていますわ」
「リリアーナ様にも分かるの?」
「いまの否定は、たいへん分かりやすかったですわ」
猫マリベルは、ぷいと顔を背けた。
***
二階へ続く螺旋階段の途中で、低い唸り声が響いた。
リリアーナが聖杖を構える。
白い光が階段の先を照らす。
そこにいたのは、巨大な鼠だった。
小型の犬ほどもある身体。
黄色く濁った牙。
赤い目。
背中の毛を逆立て、階段の上からエレノアたちを見下ろしている。
リリアーナが聖杖を握り直した。
「大きいですわね……」
「この塔で最も繁殖している魔物の一つだ」
魔術師が嬉しそうに説明する。
「地下にある古い穀物庫を巣にしている」
「追い払わないのですか?」
「観察対象だ」
「何でも観察対象にしないでくださいませ!」
巨大鼠の視線が、猫マリベルへ向いた。
小さな黒猫。
自分よりはるかに小さい。
それを見て、獲物だと判断したようだ。
牙を剥き、階段を駆け下りてくる。
「マリベル!」
エレノアが抱き上げようとする。
だが、猫マリベルは腕の中から飛び降りた。
巨大鼠へ向かって走る。
「猫と大鼠では、さすがに体格差がありすぎますわ!」
リリアーナが聖杖を掲げる。
「聖鎖を――」
「待って」
エレノアが止めた。
「マリベルは、任せてほしいと言っています」
「鳴いてもおりませんのに!?」
「背中で分かります」
「愛ですわね」
「シャアアアッ!」
走りながら猫マリベルが威嚇する。
「聞こえてましたの!?」
巨大鼠が飛びかかった。
猫マリベルは直前で横へ跳ぶ。
鼠の前足を足場にし、背中へ飛び乗った。
巨大鼠が身体を激しく振る。
猫マリベルは爪を立てず、毛を掴むようにしがみついた。
そのまま背中を駆け、頭へ移る。
「にゃあ!」
小さな前足が、巨大鼠の額を叩いた。
ぱん。
巨大鼠の前足が揃う。
次に、後頭部へもう一度。
ぱん。
後ろ足が折り畳まれる。
巨大鼠は階段の途中で、背筋を伸ばして座っていた。
正座である。
「鼠が正座しましたわ……」
リリアーナが呆然とする。
猫マリベルは巨大鼠の頭の上に座り、前足を揃えた。
「にゃあ」
「反省なさい、と言っています」
「鼠へ礼儀作法を?」
巨大鼠は震えながら猫マリベルを見上げている。
魔術師は目を輝かせていた。
「体格差を覆すだけではなく、関節の構造を利用して姿勢を固定したのか」
床へ這いつくばり、巨大鼠の足を観察しようとする。
「あと少し近くで――」
「シャーッ!」
猫マリベルが睨む。
魔術師はぴたりと止まった。
「観察も許可制か」
「当然ですわ」
リリアーナが胸を張った。
「なぜ聖女様が誇らしげなのかしら」
エレノアは猫マリベルを抱き上げる。
「怪我は?」
「にゃっ」
「本当に?」
「にゃん」
前足も、身体も無傷だった。
エレノアは安堵し、猫マリベルの額へ軽く口づける。
「よかった」
「にゃっ!?」
猫マリベルの身体が固まった。
耳が立つ。
尻尾が大きく膨らむ。
「どうしたの?」
「にゃああああっ!」
「嬉しかったんですわね!」
「シャーッ!」
「また怒られましたわ!」
***
三階へ上がったところで、金属音が響いた。
暗い廊下の奥から、複数の男たちが現れる。
粗末な革鎧。
腰には短剣。
背負った袋からは、古い銀食器や小さな彫像が覗いている。
塔へ入り込み、珍品を盗んでいる者たちだった。
「これは運がいい」
先頭の男が笑う。
「金持ちのお嬢様に、神殿の女か。ずいぶん値打ちのありそうな一行だな」
リリアーナが聖杖を構える。
「盗賊ですわね」
「盗賊とは人聞きが悪い。俺たちはこういった塔に捨てられていた物を拾っているだけだ」
男が背負う袋の口から、銀色の皿が覗いていた。
魔術師はそれを見つけると、眉をひそめる。
「それは私の食器だ」
「持ち主がいたのか?」
「先週まで使っていた」
「捨てたような汚れ方だったぞ」
「研究中だった」
「洗えよ!」
盗賊たちは呆れた顔をしながら、背負っていた荷袋を床へ下ろした。
エレノアは彼らの荷物へ目を向ける。
「黒い表紙の本を見ませんでしたか?」
頭領らしき男の目がわずかに動く。
「突然現れて、どこかへ消える黒い本か?」
「ご存じなのですね」
「俺たちも探している」
男は短剣を抜いた。
「何が書かれているかは知らないが、勝手に現れて、勝手に消える本だ。金になる」
「その本は、私の侍女を元に戻すために必要です」
「侍女?」
男は周囲を見回した。
「どこにいるんだ?」
エレノアは、腕の中の猫マリベルへ視線を落とす。
「この子です」
「猫が?」
男は猫マリベルを見て、鼻で笑った。
「ずいぶん可愛い侍女だな」
その視線が、値踏みするように黒い毛並みをなぞる。
「売れば高くつきそうだ」
猫マリベルの目が細くなった。
次の瞬間、全身の毛がぶわりと逆立つ。
「マリベル」
エレノアが静かに呼ぶ。
「やりすぎてはいけません」
「にゃあ?」
「正座までです」
「にゃあああ!!!!」
盗賊たちが顔を見合わせる。
「何の話だ?」
エレノアは猫マリベルを床へ降ろした。
「これから分かります」
頭領が腕を振る。
「捕らえろ!」
盗賊たちが一斉に動いた。
「聖鎖よ!」
リリアーナが聖杖を掲げる。
金色の光が床を走った。
光は鎖となり、盗賊たちの足や腕へ巻きつく。
「なっ!」
「動けない!」
数人がその場へ倒れる。
だが、頭領だけは横へ跳び、聖鎖をかわした。
そのままエレノアへ向かう。
「エレノア様!」
リリアーナが振り返る。
猫マリベルはすでに走っていた。
床。
壁。
柱。
黒い影が跳ねる。
頭領が短剣を振るう。
猫マリベルは刃の上へ前足を置き、軽く押した。
短剣が床へ落ちる。
「猫が剣を!?」
頭領が目を見開く。
猫マリベルは男の腕を駆け上がり、肩へ飛び乗る。
両前足で目を塞いだ。
「くそっ、見えない!」
男が手を振り回す。
猫マリベルはその隙に頭へ移動する。
耳元で思いっきり威嚇した。
「シャアアアアアアアアッ!」
「ひっ!」
頭領の膝が震える。
その足首へ、猫マリベルの尻尾が絡む。
軽く引く。
男は床へ膝をついた。
次の瞬間には、両足が綺麗に揃えられている。
正座だった。
「なぜ……」
頭領が震える。
猫マリベルは男から降り、目の前へ座った。
「にゃあ」
「反省なさいませ、と言っています」
エレノアが静かに訳す。
「猫の鳴き声に、そんな意味があるか!」
「にゃっ!」
猫マリベルが男の額を叩いた。
「痛い!」
聖鎖で縛られていた盗賊たちは、顔を見合わせる。
そして、自主的に足を折り畳み始めた。
「何をしているのです?」
リリアーナが尋ねる。
「正座です」
「猫にやられる前に、自分からしました」
「賢明な判断でございますわ!」
リリアーナが感心した。
「褒めるところではないと思うわ」
エレノアは猫マリベルを抱き上げる。
魔術師は盗賊の袋から、自分の銀食器を取り出していた。
「これは研究用だ」
「洗ってくださいませ」
リリアーナが言う。
「帰ったら考える」
「絶対に洗わない方の言い方ですわね」
***
盗賊たちから話を聞くと、最上階へ続く通常の階段は崩れているという。
別の通路を探す必要があった。
「この先に通気路がある」
盗賊の頭領が、正座したまま答える。
「だが、人間は通れない。子供でも無理だ」
エレノアは猫マリベルを見た。
「猫なら?」
「通れるだろうな」
猫マリベルが腕の中で立ち上がる。
「にゃあ」
「行くつもりなのね」
「にゃっ!」
「一人で?」
「にゃん」
エレノアの胸に、不安が広がる。
けれど、ほかに道はない。
「私たちが通れる道を見つけたら、すぐに戻ってきて」
「にゃっ」
「危険な魔物がいたら?」
「にゃああああ!!!!」
「正座させる前に、戻ってきて」
「……にゃあ」
返事までに間があった。
「いま迷ったでしょう?」
「にゃん?」
「迷っていない?」
「にゃあ……?」
明らかに嘘だった。
エレノアは猫マリベルを強く抱きしめる。
「必ず戻ってきて」
「にゃあ!」
猫マリベルはエレノアの顎へ頭を寄せた。
それから床へ降り、壁の上部にある小さな穴を見上げる。
一度、壁を蹴る。
窓枠。
突き出した石。
高い棚。
次々と足場を移り、穴の中へ消えた。
「マリベル様……」
リリアーナが心配そうに見上げる。
「大丈夫よ」
エレノアは自分へ言い聞かせるように答えた。
「マリベルですもの」
しばらく、静かな時間が流れた。
通気路の奥から、爪が石を掻く音がする。
遠ざかる。
聞こえなくなる。
やがて、上の階から何かが倒れる音がした。
続いて、甲高い鳴き声。
魔物の声だった。
「マリベル!」
エレノアが壁へ駆け寄る。
上階から、ぱん、ぱん、と乾いた音が連続して響く。
そして。
「にゃああああああああああああっ!!!!」
猫の絶叫。
「マリベル様!」
リリアーナが聖杖を掲げる。
その直後。
天井近くの大窓が開き、縄梯子が落ちてきた。
「昇降機の予備通路だ!」
魔術師が目を輝かせる。
「見つけたのか!?」
エレノアはすぐに梯子へ手をかけた。
上る。
リリアーナと魔術師も続く。アルシオンはそのまま飛んだ。
四階へ到着すると、猫マリベルが待っていた。
その前には、三羽の鳥型魔物が並んでいる。
翼を身体の横へ綺麗に畳み、首を垂れていた。
鳥なりの正座らしい。
「鳥まで正座させたのね」
「にゃあ!」
「通路を塞いでいた?」
「にゃっ」
エレノアは猫マリベルを抱き上げた。
毛並みを確認する。
怪我はない。
だが、猫マリベルの瞼が少し重そうに見えた。
「眠いのでしょう?」
「にゃん」
小首を横に振って即座に否定する。
「昨夜から、一度も眠っていないわ」
「にゃあ!」
「少し休みなさい」
「シャーッ!」
「怒らなくてもいいでしょう?」
猫マリベルはエレノアの腕から降りようとした。
しかし、エレノアは離さない。
「ここからは私が抱いていきます」
「にゃにゃ!!」
「命令です」
猫マリベルの動きが止まった。
「にゃあ……」
不満そうではあるが、抵抗をやめる。
リリアーナが胸を張った。
「周囲の警戒は、わたくしがいたしますわ!」
「シャーッ!」
「命令に従った直後に、わたくしを否定なさいましたわ!」
「リリアーナ様は信用しているけれど、私のそばから離れたくないのだと思います」
「エレノア様の解釈だけ甘すぎません!?」
***
最上階へ続く最後の扉には、鍵穴がなかった。
扉の中央には、三つの丸い窪み。
その下には、古い文字が刻まれている。
『高きところより見渡す者』
『狭きところを恐れぬ者』
『誰かのそばを選ぶ者』
エレノアは言葉を読み上げた。
「上巻に書いてあった猫の習性と同じだわ」
「本が塔の仕掛けを変えたということか」
魔術師が興奮した声を上げる。
「もともとあった機構を、自らの内容に合わせて動かしたのかもしれないな」
「本が仕掛けを?」
「そう考えなければ説明がつかない」
「説明がつかないのに、嬉しそうですわね」
「説明がつかないから嬉しいのだ!」
猫マリベルがエレノアの腕から降りた。
最初の窪みは、扉の上部にある。
猫マリベルは壁を駆け、突き出した石を足場にして窪みへ前足を置いた。
がちゃん。
一つ目の歯車が動く。
二つ目の窪みは、扉の下の細い隙間の奥にあった。
猫マリベルが身体を滑り込ませ、前足で押す。
がちゃん。
二つ目の歯車が回る。
最後の窪みは、扉の中央。
人間の胸ほどの高さにあった。
猫マリベルは棚の上から飛び、前足を窪みへ当てた。
だが、何も起きない。
「にゃあ?」
猫マリベルは小首をかしげた。
「誰かのそばを選ぶ者……」
エレノアは考える。
上巻には、
『猫は信頼する相手へ身体を寄せる』
と書かれていた。
「マリベル」
エレノアが扉の前へ立ち、両腕を広げた。
「おいで」
猫マリベルは一瞬、窪みを見る。
それからエレノアを見る。
棚から飛び降り、エレノアの腕へ収まった。
その瞬間。
扉中央の窪みが白く光った。
がちゃん。
重い扉が左右へ開く。
「正解ですわ!」
リリアーナが声を上げる。
魔術師は扉の機構へ顔を近づけた。
「接触ではなく、選択そのものを判定したのか?」
「後にしてください」
エレノアは猫マリベルを抱いたまま、最上階の書庫へ入った。
***
円形の部屋だった。
壁一面に書棚が並んでいる。
その中央には、一つの机。
机の上に、黒い本が置かれていた。
上巻と同じ表紙。
何も書かれていない。
「下巻……」
エレノアが足を進める。
猫マリベルも腕の中で身を乗り出す。
机まで、あと数歩。
そのとき。
足元の石板が沈んだ。
「エレノア様!」
天井から巨大な石の重りが落ちてくる。
リリアーナが聖杖を掲げた。
「聖なる光よ!」
白い光が石を包む。
重りの落下速度が、わずかに鈍った。
だが、止まらない。
エレノアが後ろへ下がろうとすると、足元の石がせり上がり、靴を挟んだ。
「動けない……!」
猫マリベルがエレノアの腕から飛び出す。
「マリベル!」
小さな身体が、エレノアの胸へ体当たりした。
靴が脱げる。
エレノアの身体が床へ倒れ込んだ。
同時に、石の重りが机の横へ落ちる。
轟音が部屋を揺らした。
「エレノア様!」
リリアーナが駆け寄る。
「大丈夫です」
エレノアが静かに体を起こす。
「マリベルは?」
猫マリベルは、少し離れた場所で横倒しになっていた。
「マリベル!」
エレノアが抱き上げる。
猫マリベルの右前足に、小さな傷があった。
血が毛を濡らしている。
「大丈夫!?」
「にゃあ」
「どこが大丈夫なの!? 怪我をしてるじゃない!」
猫マリベルは、傷ついた足を隠そうとする。
エレノアは離さなかった。
「リリアーナ様」
「はい!」
リリアーナが前足へ両手をかざす。
柔らかな白い光が傷を包み込んだ。
血が止まる。
裂けた皮膚が閉じていく。
ほどなく、傷は跡形もなく消えた。
「これで大丈夫ですわ」
猫マリベルは右前足を動かす。
痛みはないらしい。
リリアーナを見る。
「……にゃあ」
小さな声だった。
「いま、ありがとうございますと?」
「ええ」
エレノアが頷く。
リリアーナの瞳が輝いた。
「初めてマリベル様に素直に感謝されましたわ!」
勢いのまま両手を伸ばす。
ぱん。
猫マリベルの前足が手を叩いた。
「そこは変わりませんの!?」
「距離は守らなくてはならないようです」
「厳しすぎますわ!」
エレノアは猫マリベルを胸へ抱き寄せた。
「助けてくれて、ありがとう」
「にゃあ」
「でも、あなたが怪我をしたら、私は嫌よ」
猫マリベルの耳が少し下がる。
「覚えておいて」
エレノアの声は、静かだった。
「私を守ることと、自分を粗末にすることは、同じではないわ」
猫マリベルは、すぐには返事をしなかった。
やがて、エレノアの胸元へ頭を寄せる。
「……にゃあ」
その声は、いつもより小さかった。
***
下巻は、机の上に残っていた。
エレノアが手を伸ばす。
今度は何も起きない。
黒い本を手に取り、表紙を開いた。
最初のページには、こう書かれている。
『借りた姿を返す方法』
「これですわ!」
リリアーナが身を乗り出す。
猫マリベルも、エレノアの腕からページを覗き込んだ。
内容の大半は、猫の眠りについて書かれていた。
『猫は、眠るときにもっとも無防備となる』
『周囲を信じられぬ猫は、決して深く眠らぬ』
『守ることをやめられぬ者は、守られることを知らぬ』
エレノアの指が止まる。
最後のページ。
そこには、元へ戻る条件が記されていた。
『常に誰かを守ろうとする者が自ら守られることを選び、もっとも信頼する者の膝で、心より身を預けて眠ったとき、借りた姿は返される』
部屋が静まり返った。
リリアーナが、ゆっくりと猫マリベルを見る。
魔術師も見る。
猫マリベルは下巻から目を逸らした。
「マリベル」
「にゃあ」
「私の膝で眠れば、元へ戻れるようです」
「にゃにゃ!」
猫マリベルは即座に小首を横へ振った。
「嫌なの?」
「にゃあ!」
「眠っている間、私を守れなくなるから?」
猫マリベルの耳が動く。
答えなかった。
それが答えだった。
エレノアは床へ座る。
膝の上を、軽く叩いた。
「おいで」
「にゃっ」
猫マリベルは動かない。
「マリベル」
「にゃん」
「ここまで来る間、あなたは一度も眠っていません」
猫マリベルは目を逸らす。
「冒険者を正座させました」
「にゃあ」
「巨大鼠も正座させました」
「にゃっ!」
「盗賊も、鳥の魔物も」
猫マリベルは、少し誇らしげに胸を張る。
「褒めていません」
「にゃっ!?」
エレノアは猫マリベルをまっすぐに見つめた。
「あなたが私を守ってくれることは、もう十分に分かっています」
猫マリベルの耳が動く。
「私が危険な目に遭えば、あなたは必ず来てくれる。どれだけ遠くても、どれだけ強い相手でも」
「にゃあ」
「でも、私はあなたに守られたいだけではないわ」
猫マリベルが顔を上げる。
「あなたが無事でいてくれることも、私には必要なの」
エレノアの声は、静かだった。
「あなたが怪我をしたとき、私は怖かった」
猫マリベルの耳が下がる。
「私を守れなかったからではないわ」
エレノアは両腕を広げる。
「あなたを失うかもしれないと思ったからです」
リリアーナは何も言わなかった。
魔術師も、今だけは観察の言葉を口にしない。
「マリベル」
エレノアが呼ぶ。
「今度は、私にあなたを守らせて」
「……にゃあ」
「眠っても大丈夫だから」
猫マリベルは周囲を見る。
閉じた扉。
リリアーナ。
聖獣アルシオン。
魔術師。
部屋の隅々まで、何度も確認した。
「わたくしが見張りますわ」
リリアーナが胸へ手を当てる。
「アルシオンもいますし、聖鎖も、聖なる光もございます。何が来てもエレノア様には近づけません」
猫マリベルが、じっとリリアーナを見る。
「今だけは、信じてくださいませ」
「にゃあ……」
「いまのは、まだ完全には信じていない声ですわね」
アルシオンも、エレノアのそばへ伏せた。
白銀の巨体が、入口を塞ぐ。
魔術師は両手を上げた。
「私は何もしない」
「観察もしないでください」
「それは難しい」
猫マリベルが睨む。
「努力しよう」
エレノアは、もう一度膝を叩いた。
「おいで、マリベル」
猫マリベルは一歩だけ近づいて止まる。
また周囲を見た。
「大丈夫よ」
エレノアが微笑む。
「私はここにいます」
猫マリベルは、さらに一歩進んだ。
やがて、エレノアの膝へ前足をかけた。
身体を持ち上げる。
自分から膝の上へ乗った。
けれど、丸くならない。
前足を揃え、扉を見張る。
「それでは眠れないわ」
「にゃっ!」
「命令です」
猫マリベルの耳が、ぴくりと動く。
「横になりなさい」
「……にゃあ」
渋々といった様子で、身体を伏せる。
それでも目は開いたまま。
耳も立っている。
エレノアが背中を撫でる。
「眠っていいの」
「にゃん……」
「目を覚ますまで、私が抱いています」
ゆっくりと撫でる。
猫マリベルの身体から、少しずつ力が抜けていく。
けれど、目を閉じかけては、また開いた。
「私を信じて」
エレノアは猫マリベルの額へ触れる。
「あなたが守ってくれた私を」
猫マリベルの黒色の瞳が、エレノアを見上げた。
「私は、もう何もできずに守られるだけではありません」
エレノアの声が優しく響く。
そこには揺るがない芯があった。
「だから、眠って」
猫マリベルは、長い間エレノアを見つめていた。
やがて。
「……にゃあ」
小さく鳴いた。
頭をエレノアの腕へ預け、目を閉じる。
耳の力が抜けた。
尻尾が、エレノアの手首へ巻きつく。
エレノアは背中を撫で続けた。
「大丈夫よ」
呼吸がゆっくりになる。
「私はここにいます」
猫マリベルは、とうとう完全に眠った。
小さな寝息が聞こえる。
その瞬間。
猫マリベルの身体が、白い光に包まれた。
「マリベル様が!」
リリアーナが声を上げる。
光が膨らんだ。
エレノアの膝の上で、小さな猫の身体が人の形へ戻っていく。
黒い侍女服。
白いエプロン。
きっちりと結われた髪。
マリベルは、元の姿へと戻った。
人間の姿のまま、エレノアの膝に頭を預けて横たわっている。
マリベルは静かに目を開け、起き上がった。
最初に、自分の手を見る。
次に、自分の身体。
最後に、エレノアを見た。
「……お嬢様」
「お帰りなさい、マリベル」
エレノアが微笑む。
マリベルの目が揺れた。
「ただいま戻りました」
声は震えていた。
「ご心配をおかけし、申し訳ございません」
「ええ。とても心配しました」
「今後、このような不審な本は、二度と読みません」
「そうしてちょうだい」
「必ず、お嬢様のお許しを得てから読みます」
「読まないで」
「……はい」
エレノアは、マリベルの背へ腕を回した。
「無事に戻ってくれて、よかった」
その言葉に、マリベルは息を呑んだ。
エレノアの肩へ額を寄せる。
「お嬢様……」
「それと」
エレノアの声が、少し苦しそうになる。
「マリベル」
「はい」
「重いわ」
マリベルの身体が固まった。
自分がエレノアの膝の上へ座っていることを、ようやく完全に理解したのである。
「申し訳ございません、お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」
魔術師の塔に、マリベルの絶叫が響き渡った。
リリアーナは両手を叩いて喜ぶ。
「元に戻られましたわ!」
アルシオンも嬉しそうに鳴く。
魔術師だけは、マリベルではなく机の上を見ていた。
「本が!」
上巻と下巻。
二冊の黒い表紙から、文字が消え始めていた。
紙が透ける。
輪郭が薄くなる。
「魔術師様」
エレノアが立ち上がる。
「申し訳ございません。お譲りすると約束したのに……」
「素晴らしい!」
魔術師が叫ぶ。
「現象の終了と同時に消失するのか!」
魔術師は机へ駆け寄り、消えかけた本へ顔を近づける。
「文字だけではない。紙も、綴じ糸も、表紙も消えていく!」
「いいんですか? このままですと、本をいただけなくなりますわよ?」
リリアーナが言う。
「それがいい!」
「よいのですか!?」
「所有されることを拒む! 保存も、複製も、再現もできない! 最高だ!」
下巻が光の粒となって消える。
続いて、エレノアが持っていた上巻も消えた。
あとには、何も残らない。
魔術師は両手を広げた。
「これだよ! 本を手に入れるより、未知が未知のまま完成する瞬間を見られたことの方が価値がある!」
「変わった方ですわね……」
リリアーナが小声で呟く。
魔術師は床へ這いつくばった。
「埃の形が変わっている。温度もわずかに低い。匂いは……ない!」
床へ鼻を近づける。
「何も残っていない! 素晴らしい!」
マリベルは元へ戻ったばかりだというのに、すでに黒塗りの鉄扇を拾い上げていた。
「魔術師様」
「あと少しだけ待ってくれ!」
「お嬢様がお帰りになりますので、通路をお空けくださいませ」
「この床だけ調べさせてくれ!」
「正座を」
魔術師は即座に正座する。
だが、その目は輝いたままだった。
「正座まで現象の一部なのか!?」
「違います」
エレノアは即答した。
「この人が私の侍女のマリベルです」
「それはそれで興味深い」
「興味を持たなくて結構でございます」
マリベルは完璧な笑顔で言った。
***
帰り道。
正座していた盗賊たちは、魔術師の指示によって塔の外へ連れ出された。
宿場町の衛兵へ引き渡される予定である。
冒険者たちは、エレノアたちが無事に戻ってきた姿を見て驚いた。
さらに、人間へ戻ったマリベルを見て、もっと驚いた。
「あの猫は?」
正座させられた冒険者が尋ねる。
マリベルは静かに一礼した。
「私でございます」
冒険者たちは黙った。
「やはり、ただの猫ではなかったのか」
「私はただの侍女でございます」
「ただの侍女も、冒険者を五人まとめて正座させない!」
「猫の姿でしたので」
「猫ならもっとしない!」
マリベルは首を傾げる。
冒険者たちは、それ以上何も言わなかった。
もう何を言っても無駄だと理解したのである。
***
公爵家へ戻った翌日。
エレノアは自室で紅茶を飲んでいた。
マリベルは、いつものように半歩後ろへ控えている。
黒い侍女服。
白いエプロン。
きっちりと結われた髪。
腰には黒塗りの鉄扇。
外見上は、完全に元通りだった。
「身体に違和感はない?」
「ございません」
「本当に?」
「はい」
「耳が生えている感じは?」
「ございません」
「尻尾があるような感じは?」
「ございません」
「高いところへ上りたい気持ちは?」
「ございません」
そう答えたマリベルの視線は、なぜか本棚の上を向いている。
エレノアは見なかったことにした。
「夜は眠れた?」
「はい」
「扉の前で?」
「……寝台でございます」
「そう」
「ただ、少々」
「少々?」
「身体を丸めて眠ると、落ち着きました」
「猫の影響が残っているのでは?」
「気のせいでございます」
マリベルは真顔だった。
そこへ、リリアーナが訪ねてくる。
「エレノア様!」
扉が開く。
リリアーナが笑顔で入ってきた。
「マリベル様も、すっかり元へ戻られたようで安心いたしましたわ」
「ありがとうございます」
「猫のお姿も愛らしかったですけれど、人のお姿も大変素敵ですわ」
「恐れ入ります」
リリアーナはエレノアの隣へ座ろうとする。
マリベルの目が細くなった。
「距離が――」
そのとき。
エレノアが何気なく手を伸ばした。
猫だったときの癖でマリベルの顎の下へ指を添え、軽く撫でる。
「……」
マリベルの身体が固まった。
そして喉の奥から、小さな音が漏れる。
部屋が静まり返り、エレノアは手を止めた。
「……今の音は?」
「今のは無かったことにしてくださいませ」
リリアーナの瞳が輝く。
「マリベル様、喉を鳴らしましたわ!」
「聞かなかったことにしてくださいませ」
「わたくしも撫でてよろしいですか?」
リリアーナが手を伸ばすと、マリベルが反射的に振り返る。
「シャーッ!」
リリアーナが飛び退いた。
「人間に戻っても猫のままですわ!?」
「違います!」
「いま完全に威嚇なさいましたわ!」
「気のせいでございます!」
「気のせいではありません!」
エレノアは二人を見て、声を立てて笑った。
マリベルが振り返る。
「お嬢様」
「ごめんなさい。でも、少し可愛くて」
「可愛い……」
マリベルの頬が赤くなる。
その直後、再び喉が鳴った。
エレノアの笑みが深くなる。
「やはり、まだ残っているのね」
「残っておりません!」
「では、もう一度撫でても?」
「お嬢様ならば――」
マリベルは口を閉ざす。
だが、リリアーナが聞き逃さなかった。
「お嬢様ならばよろしいのですか!?」
「距離が近い」
「わたくしは離れておりますわ!」
「心の距離でございます」
「猫のときより厳しくなっておりますわ!」」
「当然でございます」
エレノアは、また笑った。
その笑顔を見た瞬間、マリベルの胸に温かいものが込み上げる。
猫になり。
言葉を失い。
鉄扇すら持てなくなり。
それでも、お嬢様を守ろうとした。
けれど最後には、お嬢様に守られた。
エレノアの腕の中ならば、目を閉じてもよい。
そのことを、マリベルは知った。
少しだけ。
本当に少しだけ。
守られることも、悪くないのかもしれない。
「マリベル」
「はい、お嬢様」
「戻ってきてくれて、ありがとう」
マリベルは深く頭を下げる。
「こちらこそ、私を連れ戻してくださり、ありがとうございました」
「ええ」
「今後は、不審な本を見つけた場合、必ずお嬢様へご報告いたします」
「読む前にね」
「はい」
「絶対に読まないでね」
「はい」
「本当に?」
「善処いたします」
「マリベル」
「冗談でございます」
リリアーナが小声で呟いた。
「半分ほど本気ですわね」
マリベルの鉄扇が、ぱちりと開く。
「距離が近い」
「今のはただの独り言ですわ!」
***
後日。
公爵家の書斎には、新たな注意書きが掲げられた。
一つ。
『蔵書目録にない本を見つけた場合、勝手に開いてはならない』
一つ。
『題名も著者名もない本は、特に開いてはならない』
一つ。
『ページが勝手にめくれた場合、内容を読み上げてはならない』
一つ。
『侍女マリベルが猫になった場合、鉄扇の代わりに猫用の座布団を用意すること』
老執事は最後の一文を消そうとした。
だが、書斎の使用人たちが一斉に首を横へ振る。
消してはならない。
これは規則ではなく、安全対策である。
***
そして今日も、公爵家のどこかで彼女の声が響く。
「お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」
屋敷中の使用人が、一斉に手を止めた。
老執事は何も聞かず、ただ静かに頷く。
「馬車を用意しなさい。あと、公爵様にご報告を」
そばにいた若い従僕が首を傾げる。
「今回は、どちらへ向かわれるのでしょうか」
老執事は、遠くから聞こえてくるリリアーナの悲鳴と、マリベルの「距離が近い」という声を聞いた。
「どこにも行かん」
「では、馬車は?」
「習慣だ」
「公爵様へのご報告も?」
「習慣だ」
若い従僕は納得したように頷いた。
公爵家の者たちは、もう誰も理由を尋ねない。
お嬢様が呼ばれた。
ならば、戦である。




