第八章 お嬢様が無断で乙女ゲームのヒロインにされたですって!? 認めませんわああああああああああああああああ!!!!
王都の中央通りは今日も賑わっていた。
宝飾店の硝子窓には流行の首飾りが並び、菓子店からは焼き菓子の甘い匂いが漂い、貴族令嬢たちは扇で口元を隠しながら新作の帽子について囁き合っている。
その通りの一角に、近頃若い令嬢たちの間で人気を集めている店があった。
王都幻燈遊戯工房。
光石と幻燈機を使い、物語の中へ入り込んだような体験ができる最新娯楽――幻燈恋愛ゲームを作る工房である。
そこに、ひときわ大きな看板が掲げられていた。
『新作幻燈恋愛ゲーム、恋する王都と青薔薇の令嬢。あなたも公爵令嬢になって、王都の名士たちと恋をしましょう!』
看板には、淡い青のドレスをまとった令嬢が描かれていた。
背筋を伸ばし、静かな瞳でこちらを見つめる美しい公爵令嬢。
誰がどう見ても、エレノア・アルヴァインだった。
それを見た通行人たちは口々に囁く。
「あら、エレノア様がゲームのヒロインに?」
「王太子ルートもあるのかしら」
「勇者様ルートもあるそうよ」
「魔王ルートまであるって聞いたわ」
「まあ、刺激的ね」
「それにしても、これって公爵家の許可は取っているのかしら」
「まだらしいわよ。先に広告を出して話題にしてしまえば、断りにくくなるだろうって」
その囁きを聞いて、一人の侍女が足を止めた。
黒い侍女服。
白いエプロン。
きっちり結われた髪。
右手には、いつものように黒塗りの鉄扇。
公爵家侍女、マリベルである。
マリベルは看板を見上げた。
じっと見た。
さらにじっと見た。
そして、たいへん美しい笑みを浮かべた。
近くにいた花売りの少女が、そっと荷車を押して下がる。
まずい。
この顔は、まずい。
「断りにくくなるですって?」
マリベルは静かに呟いた。
「お嬢様のご意思を確認もせず」
通行人たちが、なぜか一斉に道を空け始める。
鉄扇が、ぱちりと開いた。
黒い扇面に、金文字が輝く。
『お嬢様第一』
「乙女ゲームのヒロインにしたですって……?」
王都の空気が、少しだけ冷えた。
マリベルは看板へ一礼した。
看板に罪はない。
描いた者に罪がある。
許可を取らなかった者に罪がある。
そして何より、お嬢様の意思を確認する前に話題にして、断りにくくしようなどという発想そのものが大変許しがたい。
しかし、ここは王都の中央通りである。
公爵家侍女として、言葉は選ばなければならない。
マリベルは深く息を吸った。
「お嬢様が無断で乙女ゲームのヒロインにされたですって!?」
中央通りに、侍女の声が響き渡る。
「認めませんわああああああああああああああああ!!!!」
王都幻燈遊戯工房の扉が静かに揺れた。
中にいた警備員たちは、その声を聞いて互いに顔を見合わせる。
「今の声は……」
「まさか」
「いや、そんなはずは」
次の瞬間。
扉が開いた。
壊れてはいない。
蝶番も、硝子も、傷ひとつない。
ただ、開いた瞬間に警備員たちはなぜか自分たちの人生を振り返った。
「失礼いたします」
マリベルは完璧に一礼した。
「公爵家侍女、マリベルと申します。責任者の方にお取次ぎ願います」
警備員の一人が青ざめた顔で前に出る。
「こ、ここは関係者以外立ち入り禁止です」
「承知しております」
「では、お引き取りを」
「いいえ」
マリベルは微笑んだ。
「私はこれから関係者になりますので」
「予定で入ろうとしないでください!」
警備員たちが槍を構える。
いや、槍ではない。
工房用の警備棒である。
相手は侍女。
しかも礼儀正しく名乗っただけの侍女。
だが、この侍女が騎士団、王城、大神殿、裁判所において何をしてきたかは、王都中に知れ渡っている。
警備員たちの手は震えていた。
「これ以上進むなら、実力で止めます!」
「まあ」
マリベルは目を細めた。
「お嬢様を無断でゲームのヒロインにした工房の警備員様が、私を止めると」
「無断で作ったのは我々ではありません!」
「では、責任者をお呼びください」
「通せません!」
「そうですか」
マリベルは鉄扇を閉じた。
「では、少々失礼いたします」
ぱん。
一人目の警備棒が宙を舞った。
ぱん。
二人目の帽子が綺麗に直された。
ぱん。
三人目の姿勢が整った。
気づけば、警備員たちは受付前に美しく正座していた。
「なぜ正座に!?」
「受付の姿勢でございます」
「受付は正座しません!」
「では、反省の受付でございます」
「そんな受付はない!」
マリベルは涼しい顔で頷いた。
「お嬢様を無断で題材にした時点で、工房全体が反省窓口でございます」
なおも何か言おうとする警備員たちを置き去りにして、マリベルはそのまま奥の制作室へ向かった。
***
工房の内部は想像以上に広かった。
壁には背景画。
机には台本。
棚には登場人物の衣装見本。
部屋の中央には、光石を取り付けた大型の幻燈機が置かれている。
その前で技師たちが試作画面を確認していた。
『青薔薇令嬢は、王太子と夜の庭園へ向かいました』
『好感度が上昇しました』
マリベルの鉄扇が開いた。
「夜の庭園?」
技師たちが振り返る。
「どなたですか!?」
「公爵家侍女、マリベルでございます」
室内が静まり返った。
「この場面について、確認がございます」
「か、確認?」
「夜間に、未婚の令嬢を男性と二人きりで庭園へ移動させる理由は?」
「恋愛ゲームですので……」
「護衛は?」
「おりません」
「侍女は?」
「登場しません」
「照明は?」
「月明かりだけです」
「失格でございます」
ぱん。
気づけば、技師たちは幻燈機の前に正座していた。
「なぜ我々が正座を!?」
「危機管理意識が不足しておりますので」
「我々は技師です!」
「技師であっても、お嬢様の安全を軽視してよい理由にはなりません」
隣室から騒ぎを聞きつけて脚本係たちが飛び出してくるが、彼らも正座した。
背景を担当した絵師も正座した。
宣伝文を書いた担当者は、自ら正座した。
「判断が早くて大変よろしい」
「王城兵より学習しておりますので……」
やがて制作室には、整然とした正座の列ができていた。
なぜか開発中の幻燈恋愛ゲーム機まで椅子の上で正座しているように見えた。
錯覚である。
たぶん。
制作室の奥では、工房長グリムが青ざめていた。
小太りの中年男で、いかにも商売人らしい笑顔を持つ男である。
だが今、その笑顔は引きつっていた。
「こ、公爵家の侍女殿……」
「マリベルでございます」
「これは、何かの誤解で」
「誤解」
マリベルは壁に貼られた企画書を見た。
『王都初! 実在の公爵令嬢をモデルにした体験型恋愛ゲーム!』
『攻略対象予定、王太子アルベルト、勇者アレク、騎士団長ヴィクター、魔王、聖女リリアーナ、隠しルート:???』
マリベルの鉄扇が、ぱちりと開いた。
「お嬢様が、攻略するのですか?」
「い、いえ! 実際に攻略するのではなく、あくまでゲーム上の表現でして!」
「お嬢様の許可は?」
「……」
「公爵家の許可は?」
「……」
「私の許可は?」
「最後の許可は必要でしょうか!?」
ぱん。
工房長グリムは、いつの間にか正座していた。
「必要でございます」
「なぜ!?」
「お嬢様に関する案件ですので」
「法的には不要では!?」
「心情的には必須でございます」
「心情が法を超えてきた!」
マリベルは企画書を手に取った。
そして、赤い羽根ペンを取り出す。
なぜ持っているのか。
侍女なので。
「まず、王太子ルート」
赤線が引かれる。
「事実確認不足につき、初期好感度は最低でございます」
「乙女ゲームで攻略対象の好感度が最低から始まるんですか!?」
「当然でございます」
マリベルは次の項目に目をやる。
「次に、勇者ルート」
赤線が引かれた。
「勇者の方は、お嬢様を追放しそうな顔をしておりますので、まず補佐役への敬意から」
「顔だけで再教育イベントに!?」
「予防でございます」
次の項目に目を通す。
「次に、魔王ルート」
これも赤線が引かれる。
「お嬢様を攫う雰囲気がございますね」
「魔王ルートですので、削除しますか?」
「いいえ。最初から正座状態で登場させます」
「魔王が!?」
次の項目でマリベルの手が止まった。
聖女リリアーナのルートである。
「距離が近い」
赤線。
「まだ企画段階です!」
「志願した時点で近いのでございます」
そして、隠しルート。
『マリベル』
部屋中が凍った。
マリベルは、ゆっくりと工房長を見る。
「これは?」
「い、いや、その……非常に人気の高い方ですので……」
「私を?」
「ええ」
「攻略対象に?」
「ええ」
マリベルは、静かに笑った。
「お嬢様のおそばに控える侍女を、攻略対象に?」
工房長は悟った。
死んだな、と。
しかし、次の瞬間、工房の扉が開いた。
「マリベル」
静かな声だった。
マリベルの肩がびくりと跳ねる。
「お、お嬢様……」
そこに立っていたのは、公爵令嬢エレノアだった。
淡い青のドレスをまとい、背筋を伸ばしている。
その後ろには、老執事と公爵家の従僕が控えていた。
どうやら中央通りの騒ぎはすぐ公爵家へ伝わったらしい。
エレノアは室内を見渡した。
正座する警備員。
正座する幻燈技師。
正座する絵師。
正座する脚本係。
正座する宣伝担当。
正座する工房長。
赤字だらけの企画書。
鉄扇を持った侍女。
「これは何?」
「監修でございます」
マリベルは即答した。
「監修」
「はい」
「先方に許可は?」
「これからいただく予定でございました」
「いただく前に全員正座しているのだけれど」
「聞く姿勢が整っております」
「マリベル」
「はい」
「どなたにも怪我はさせていないでしょうね」
「もちろんでございます」
エレノアは制作室を見渡し、壁に貼られた人物紹介へ目を留めた
「これは、私をモデルにした主人公なのですね」
工房長グリムが、正座したまま背筋を伸ばす。
「は、はい。あくまで参考ではございますが……」
「王太子殿下や騎士団長様に似た方々と恋をする、と」
「左様でございます」
「聖女様も攻略対象なのですか?」
「近頃は、女性同士の物語も人気がございまして」
ぱちり。
マリベルの鉄扇が開いた。
「距離が近い」
「マリベル、今は私が聞いています」
「失礼いたしました」
鉄扇が閉じられた。
エレノアは次の企画書へ視線を移す。
「こちらには、私が攻略対象の方々に好かれるため、贈り物を選んだり、言葉を選んだりすると書かれていますね」
「乙女ゲームとは、そのようなものでございますので」
「では、相手の方々は私に何をしてくださるのですか?」
工房長の口が止まった。
「……と、申しますと」
「私だけが相手の好みに合わせるのでしょうか」
エレノアは静かに企画書を見つめる。
「私の考えを聞いてくださる場面は?」
「それは、その……好感度が上がった後に」
「私が断る選択肢はありますか?」
「断る、でございますか」
「ええ。贈り物が必要ないときや、二人きりになりたくないときに、断る選択肢です」
「そちらは……現在のところ」
「ないのですね」
エレノアの声は穏やかだった。
だが、工房長は額の汗を拭った。
「私を華やかに描いてくださったことは分かります。でも、誰かに好かれることだけが、私の望みではありません」
「ごもっともでございます」
「それから、私を題材にすると決める前に、まず私へ尋ねていただきたかったです」
「申し訳ございません!」
工房長グリムは、正座したまま深々と頭を下げた。
「先に宣伝を出して話題にしてしまえば、公爵家も断りにくくなると考えておりました」
「そうでしたか」
エレノアの表情が、わずかに曇った。
「それは、あまり良いお願いの仕方ではありませんね」
「弁解の余地もございません」
「宣伝は一度取り下げてください。そのうえで、企画を続けたいのであれば、改めてお話を伺います」
「は、はい!」
エレノアは床に広げられた、赤字だらけの企画書へ目を落とした。
「ところで、マリベル」
「はい、お嬢様」
「あなたは、どのように直したの?」
「まず、王太子風の方には事実確認を徹底していただきます」
「ええ」
「勇者風の方には、補佐を軽んじないよう、侍女見習いから始めていただきます」
「侍女見習いから始める必要はあるのかしら」
「基礎でございます」
「そう」
「魔王風の方は、開始時点から正座でございます」
「なぜ?」
「過去の行いを反省中ですので」
「恋愛が始まる前に終わりそうね」
「反省が済めば始まります」
「聖女様に似た方は?」
「三百年ほど修行していただきます」
「ゲームが終わるわ」
「隠しルートには、私を」
マリベルはそこで言葉を止めた。
エレノアが企画書を見る。
「マリベルのルート?」
「大変結構な案かと存じます」
「自分の項目だけ赤線がないわね」
「完成度が高うございましたので」
「そう」
エレノアは、赤字の入った企画書をもう一度見た。
「ずいぶん厳しい監修だけれど」
「お嬢様に近づく方を審査する以上、当然でございます」
「私が攻略するのではなく、相手の方が審査されるのね」
「はい」
「相手が私の気持ちを聞ける方か、断られたときに受け入れられる方か、困ったときだけではなく、普段から尊重してくださる方か」
「まさしく、そのとおりでございます」
エレノアは少し考えた。
「それなら、元の企画よりは興味があります」
正座していた工房長グリムが、勢いよく顔を上げた。
「あ、あの……」
「はい」
「このたびは、許可を取らずエレノア様を題材にしようとしたこと、深くお詫び申し上げます」
彼は改めて、深々と頭を下げた。
「その上で、大変申し上げにくいのですが」
「何でしょうか」
工房長グリムは、赤字だらけになった企画書を震える手で持ち上げた。
「この監修案……売れます」
全員が黙った。
マリベルも黙った。
エレノアも黙った。
工房長は、床の上で企画書を差し出した。
「お嬢様が攻略する恋愛ゲームではなく、お嬢様に近づく者をマリベル様が審査する恋愛ゲーム。これは新しい。非常に新しい。むしろ、王都の令嬢たちはきっと燃えます」
「燃えるのですか?」
エレノアが困惑する。
「はい。攻略対象ではなく、監視者が最強。甘い台詞を選ぶと正座。距離を詰めると正座。手を取ると正座。誰もお嬢様に近づけない。ですが、それでも挑みたくなる」
「それは乙女ゲームなのでしょうか?」
「新時代の乙女ゲームです」
「新時代が心配だわ」
工房長は、さらに身を乗り出した。
「正式に、公爵家の監修をお願いできないでしょうか。もちろん、無断利用についての賠償、売上の一部の寄付、そしてエレノア様ご本人の名誉を損なわない形へ全面修正いたします」
エレノアは黙って考えた。
マリベルは不安そうに主人を見る。
「お嬢様……」
「マリベル」
「はい」
「あなたが監修するのは、私から許可を取ってからです」
「はい」
「勝手に正座させない」
「はい」
「攻略対象を全員敵視しない」
「……はい」
「今、間があったわ」
「善処いたします」
「善処ではなく、約束です」
マリベルは鉄扇を胸に抱え、深く頭を下げた。
「承知いたしました。お嬢様の御心を第一に、監修いたします」
エレノアはため息をつく。
「では、条件付きで許可します。ただし、私を恋愛の景品のように扱わないこと。そして、遊ぶ人が誰かを尊重する物語にしてください」
工房長グリムは目を輝かせた。
「素晴らしい! 清らかで気高い主題ですね!」
マリベルは頷く。
「さらに、無許可で接近した者には正座を」
「マリベル」
「失礼いたしました」
こうして、無断で進められていた企画はエレノア本人の意思を尊重した物語へと作り直されることになった。
お嬢様の名誉は守られた。
正式な監修の許可も得た。
マリベルの赤入れは、ここからが本番だった。
***
数か月後。
王都幻燈遊戯工房の新作恋愛ゲームが発売された。
タイトルは『青薔薇令嬢と正しき距離感』
主人公は、架空の公爵令嬢。
攻略対象は、王太子風の青年、勇者風の青年、魔王風の青年、騎士団長風の青年、そして聖女風の少女。
実在の人物とは関係ありません。
という但し書きが箱に大きく書かれていた。
ただし、誰がどう見ても、どこかで見た人々だった。
ゲームの仕組みは簡単である。
幻燈機に手をかざし、選択肢を選ぶ。
正しい選択をすれば物語が進み、間違えれば画面の中の侍女が現れる。
そして、こう言う。
『距離が近い』
エンド名【正座】
発売初日から、王都の令嬢たちは悲鳴を上げた。
「また正座エンド!」
「手を取っただけなのに!」
「夜の庭園に誘ったら警備上問題がありますって言われたわ!」
「好感度ではなく身辺調査度が上がっていくのだけれど!」
「魔王の方、最初から正座しているわよ!」
「勇者の方、布巾を絞っているのだけれど!」
不満は多かった。
だが、なぜか皆やめなかった。
むしろ燃えた。
誰もクリアできない。
誰もルートにも入れない。
少しでも甘い言葉を選ぶと、侍女が現れる。
だが、その侍女の判定をくぐり抜けた先に真の信頼イベントがあるのではないか。
そんな噂が広まり、王都中の令嬢たちが挑戦を始めた。
王都幻燈遊戯工房は、かつてない売上を記録した。
工房長グリムは歓喜した。
「売れた……本当に売れたぞ……!」
横で脚本係が震えている。
「でも、恋愛イベントの八割が正座で潰れています」
「それが売れているのだ!」
「乙女ゲームとはいったい……?」
答えは誰にも分からなかった。
***
その夜。
大神殿の一室では、聖女リリアーナが一人で幻燈機の前に座っていた。
机の上には攻略手順を書き込んだ紙が山のように積まれている。
横では聖獣アルシオンが心配そうに伏せていた。
リリアーナは目の下に薄く隈を作りながらも、瞳だけは燃えていた。
「今度こそ……今度こそ聖女ルートへ入りますわ」
画面には、架空の公爵令嬢が微笑んでいる。
リリアーナは胸を押さえた。
「エレノア様ではない。エレノア様ではないと書いてあります。ですが、どう見てもエレノア様ですわ……!」
選択肢が出る。
『聖女風の少女が、青薔薇令嬢へ祈りの花冠を捧げようとしている。どうしますか?』
一、微笑んで受け取る。
二、丁寧に礼を言って距離を取る。
三、まず侍女に確認する。
リリアーナは迷わなかった。
「ここは当然、三ですわ! マリベル様に確認すれば、安全なはずですもの!」
選択。
画面が白く光る。
次の瞬間、黒い侍女服の人物が現れた。
『距離が近い』
エンド名【正座】
「確認したのに正座ですの!?」
リリアーナは机を叩いた。
聖獣アルシオンが、びくりとする。
「では、どうすればよろしいの!? マリベル様に確認する前に、マリベル様に確認すればよろしいんですの!?」
画面の中の侍女が、完璧な笑顔で告げる。
『その発想が、すでに距離が近うございます』
「やはり心を読まれていますわ!」
リリアーナは悔しそうに震えた。
「納得できません。わたくし、正式に聖女ルートを入れるよう工房にお願いしましたのに!」
アルシオンが、小さく鳴く。
リリアーナは再び選択肢を読み込む。
「次こそ必ず聖女ルートへ入ってみせますわ。エレノア様のために!」
その目的はかなりおかしかった。
しかし、リリアーナは本気だった。
再開。
今度は別の選択肢が出る。
『青薔薇令嬢は、少し疲れを覚えて椅子に腰を下ろしました。どうしますか?』
一、侍女を呼んで紅茶を頼む。
二、少しだけ目を閉じて休む。
三、近くにいる聖女風の少女に声をかける。
リリアーナは、じっと選択肢を睨んだ。
「一は駄目ですわ。お嬢様の紅茶は私が淹れます、と言われますもの」
経験済みだった。
「三も駄目ですわ。聖女風の少女に声をかけた瞬間、距離が近いと言われますもの」
これも経験済みだった。
ならば二か。
少しだけ目を閉じて休む。
誰にも近づかない。
誰にも近づかせない。
もっとも安全に見える。
だが、リリアーナは首を振った。
「いいえ。これも罠ですわ」
この遊戯は、甘くない。
少しでも油断すれば、黒い侍女が現れる。
ならば。
リリアーナは、幻燈機からそっと手を離した。
「選ばなければよいのですわ」
選択しない。
誰にも声をかけない。
侍女も呼ばない。
聖女風の少女にも近づかない。
ただ、時間が過ぎるのを待つ。
「完璧ですわ……!」
画面の中で、青薔薇令嬢は椅子に座ったまま静かに目を伏せている。
沈黙。
何も起きない。
リリアーナは勝利を確信しかけた。
次の瞬間。
黒い侍女服の人物が、画面中央に現れた。
『お嬢様がお疲れなのに、何もなさらないのですか?』
エンド名【正座】
「クソゲーですわ!」
リリアーナは、ついに叫んだ。
「選ばなくても駄目なんですの!? では何をすればよろしいの!?」
画面の中の侍女は、完璧な笑顔で言った。
『まずは三百年ほど修行を』
「寿命が足りませんわああああああああああああああ!!!!」
大神殿の夜に、聖女の悲鳴が響いた。
神官長は廊下でその声を聞き、静かに目を伏せる。
「また正座エンドか」
近くにいた神官が尋ねた。
「止めなくてよろしいのですか」
「無理だ」
「なぜです」
「聖女様が、あれほど楽しそうなのだ」
神官は首を傾げた。
「あれは楽しそうなのでしょうか」
「少なくとも、祈りより熱心だ」
「それは問題では?」
「大問題だ」
神官長は遠い目をした。
「だが、今の大神殿に、聖女様をゲームから遠ざける力はない」
「苦しんでおいでですが」
「それでも、目が輝いている」
その夜、リリアーナは十七回目の正座エンドを迎えた。
***
翌朝、大神殿の祈りの間に、なぜか新しい注意書きが掲げられた。
一つ。
『聖女様の幻燈恋愛ゲームは一日三時間まで』
一つ。
『正座エンドを迎えても、実際に正座する必要はない』
一つ。
『マリベル様は画面の中にいるだけである』
最後の一文は、すぐに消された。
理由は簡単だった。
聖女リリアーナが、震える手で書き足したのだ。
『いいえ。あの圧は本物ですわ』
***
一方、公爵家にも、ゲームの完成品が届いていた。
エレノアは箱を見て、小さく息を吐いた。
「本当に売れているのね」
「そのようでございます」
マリベルは紅茶を注ぎながら答える。
「お嬢様の名誉が損なわれぬよう、全選択肢を確認いたしました」
「全選択肢?」
「はい」
「どのくらいあるの?」
「二千八百四十七通りでございます」
「……いつ確認したの?」
「お嬢様がお休みの間に」
「寝ていないの?」
「侍女ですので」
「答えになっていないわ」
エレノアは箱を開け、説明書を見た。
そこには開発協力として小さく名前が載っている。
『監修協力:公爵家侍女M』
エレノアはその文字を見て、マリベルを見る。
「M?」
「匿名でございます」
「隠す気があるのかしら」
「最大限、配慮いたしました」
「そう」
エレノアは少しだけ笑った。
「でも、今回はあなたも反省したのよね」
「はい」
「勝手に乗り込まない」
「はい」
「人を正座させる前に、まず話を聞く」
「はい」
「監修するときは、私の許可を取る」
「はい」
「よろしい」
マリベルは深く頭を下げた。
「今後も、お嬢様の御心を第一に努めます」
エレノアは紅茶を口に運ぶ。
「それなら、今回の件はこれで終わりにしましょう」
「ありがとうございます。お嬢様」
「ただし」
「はい」
「あなたが入れた正座エンドが多すぎる件については、別途お説教です」
「はい」
「長いお説教です」
「はい」
「乙女ゲームなので、いつもより丁寧に説明します」
「はい」
「反省してる?」
「お嬢様に無断で近づく者を正座へ導いた件については、反省いたしかねます」
「マリベル」
「ですが、攻略難易度については少々上げすぎたかもしれません」
「少々?」
「かなり」
「よろしい」
エレノアは呆れたように笑った。
マリベルはその笑顔を見て、胸の奥が温かくなる。
お嬢様が笑った。
ならば、今日の戦も勝利である。
次は、もっと上手く守ろう。
お嬢様が自分で選ぶ余地を残したまま。
そのための監修ならば、いくらでもする。
たとえ、王国中の令嬢が正座エンドに泣こうとも。
***
後日。
王都幻燈遊戯工房には、新たな注意書きが掲げられた。
一つ。
『実在の人物を題材にする場合、必ず本人および関係者の許可を取ること』
一つ。
『公爵令嬢を恋愛商品として扱ってはならない』
一つ。
『侍女マリベルに監修を依頼する場合、椅子ではなく座布団を用意すること』
一つ。
『正座エンドは一作品につき百回までが望ましい』
工房長グリムは最後の一文を消そうとした。
だが、開発者たちが一斉に首を横に振った。
消してはならない。
これは規則ではなく、安全対策である。
***
そして今日も、公爵家のどこかで彼女の声が響く。
「お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」
使用人休憩室にいた者たちが、一斉に手を止めた。
机の上には王都で大ヒット中の幻燈恋愛ゲーム『青薔薇令嬢と正しき距離感』が置かれている。
老執事を中心に、若い従僕、庭師、料理長までが画面を覗き込んでいた。
ちょうど画面には王太子風の青年が宝石箱を差し出す場面が映っている。
『王太子風の青年から、高価な首飾りを贈られました。どうしますか?』
一、笑顔で受け取る。
二、理由を尋ねてから判断する。
三、マリベルに確認する。
「二番でしょうか」
若い従僕が言う。
「いや、三番だ」
料理長が首を振った。
「三番は正座になる」
庭師が真剣な顔で反論する。
「昨日、それで三回正座させられました」
「では二番だな」
老執事が選択しようとした、そのときだった。
「お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」
二度目の絶叫が屋敷を揺らす。
老執事は幻燈機から静かに手を離した。
「セーブしておきなさい」
「はい」
若い従僕が慌てて記録石へ手を伸ばす。
「馬車を用意しなさい。あと、公爵様にご報告を」
料理長が名残惜しそうに画面を見た。
「この選択肢は、どういたしますか」
老執事は立ち上がり、上着の皺を整えた。
「帰ってから考える」
「正座エンドにならないでしょうか」
「分からん」
老執事は遠い目をした。
「だが、今は画面の中の侍女より、現実の侍女を優先しなさい」
公爵家の者たちは、一斉に動き出した。
幻燈機の画面では、黒い侍女が選択を待ちながら完璧な笑顔を浮かべている。
その笑顔を見た若い従僕は、念のため二つ目の記録石にもセーブしてから部屋を飛び出した。
公爵家の者たちは、もう誰も理由を尋ねない。
お嬢様が呼ばれた。
ならば、戦である。




