お嬢様が殺人事件の犯人にされたですって!? ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!!!!
王都でもっとも華やかな舞踏会の夜だった。
高い天井から下がる硝子の燭台には、無数の灯が揺れている。
磨き上げられた大理石の床には貴族たちの靴音と絹の衣擦れが重なり、楽団の奏でる優雅な旋律が広間全体を満たしていた。
色とりどりのドレスが舞う。
笑い声。
囁き声。
視線。
扇の陰に隠された噂。
公爵令嬢エレノア・アルヴァインは、そのすべてを静かに受け止めながら壁際に立っていた。
淡い青のドレスは夜明け前の空のような色をしている。
派手ではない。
けれど、背筋を伸ばして立つエレノアには不思議と人目を引く品があった。
その少し離れた控えの間には、侍女マリベルが控えている。
外套。
替えの手袋。
予備のリボン。
化粧直しの道具。
それから、お嬢様が少し疲れたときのための、温かい茶葉。
舞踏会の大広間に、侍女が常に立つことはない。
だが、公爵令嬢の身支度係として、マリベルはいつでも呼ばれれば動ける場所にいた。
それだけでエレノアは少し安心できた。
今夜の舞踏会は、ただ華やかなだけの場ではない。
笑顔の下で値踏みが行われ、挨拶の一言にも家柄や立場が透ける。
誰かの失言はすぐに広まり、誰かの沈黙でさえ勝手に意味を持たされる。
エレノアは、その空気を静かに受け止めながら立っていた。
「エレノア様」
低い声がして、エレノアは振り返る。
そこに立っていたのは、ベルンハルト伯爵だった。
灰色の髪を後ろへ撫でつけた、痩せた男である。
反公爵派に近い貴族として知られ、王国裁判の場にも傍聴人として姿を見せていた。
彼は丁寧に一礼した。
だが、その目には礼がない。
「今宵もお美しい。さすがは王都でもっとも話題に事欠かぬ公爵令嬢でいらっしゃる」
周囲の貴族たちが、さりげなく耳を傾ける。
扇の陰で笑う令嬢もいた。
だがエレノアは、表情を変えなかった。
「恐れ入ります。ですが、話題になることを望んでいるわけではありません」
「でしょうな。あなたはいつもそうだ」
ベルンハルト伯爵は、薄く笑った。
「何も望んでいない顔をなさる。けれど、騎士団も、王城も、大神殿も、裁判所も。あなた様の周囲ではいつも誰かが膝をついているではありませんか」
その言葉に、近くにいた者たちがわずかにざわめいた。
エレノアの胸の奥が少しだけ痛む。
けれど、顔には出さなかった。
「それは、私が望んだことではありません」
「ええ。あなたならそうおっしゃるでしょう」
伯爵は一歩近づいた。
「ですが、結果として皆があなたに頭を下げる。あなたの侍女が鉄扇を振るえば、騎士も、神官も、王族さえ黙る。実に見事な支配ですな」
「支配ではありません」
「では、何と?」
「私を守ろうとしてくれた者たちがいて、私自身も、事実を明らかにしようとしただけです」
エレノアの声は静かだった。
だが、周囲の空気は少しずつ硬くなる。
ベルンハルト伯爵は、乾いた笑みを漏らした。
「美しい言葉だ。ですが、世の中にはそれを信じない者もおりますよ」
「信じていただけないことは、残念です」
「残念、ですか」
伯爵の目が細くなった。
「あなたは本当に、怒らない方ですな」
その言葉は褒め言葉ではなかった。
まるで怒らないこと自体が罪だと言わんばかりだった。
「どれほど周囲が騒いでも、あなたは静かに立っている。傷ついた顔をして、許すようなことを言う。そうすれば皆、あなたを責められなくなるでしょう」
エレノアは、ほんのわずかに指先を握った。
「私は、責められないために誰かを許しているわけではありません」
「では、何のために?」
ベルンハルト伯爵の声が低くなる。
「あなたのような方が一番恐ろしいですな。清廉な顔で人の心を奪い、周囲を動かし、気づけば誰も逆らえなくなっている」
周囲で聞いていた貴族たちが、こちらを見ながら小声で何かを囁き始めた。
誰も大声では言わない。
だが、疑いの種は確かに落とされた。
エレノアは静かに伯爵を見返す。
「ベルンハルト伯爵。私は誰かを従わせたいと思ったことはありません」
「でしょうな」
伯爵は笑った。
「従わせている自覚がない者ほど、厄介なものはない」
その言葉に、エレノアの胸が一瞬だけ沈んだ。
自分の存在が誰かを追い詰めているのか。
侍女のマリベルが私の代わりに怒るたびに、私は本当に彼女を止めようとしていただろうか。
守られていることに甘えていなかったか。
そんな思考が、ほんの一瞬だけ頭をよぎる。
だが、エレノアは顔を伏せなかった。
「それでも、していないことを認めるつもりはありません」
ベルンハルト伯爵の笑みが、少しだけ消えた。
「……強くなられましたな」
「そうありたいと思っています」
「その強さが、いつまで続くか」
伯爵はグラスを手に取り、赤い葡萄酒を揺らした。
「今夜はお気をつけなさい。強い者ほど、折れたときの音はよく響く」
そう言って、彼はエレノアに背を向けた。
エレノアはその後ろ姿を見送る。
胸の奥に、嫌な重さが残っていた。
「エレノア様、大丈夫ですか?」
近くにいた令嬢が声をかける。
エレノアは小さく微笑んだ。
「ええ。少し、空気に酔っただけです」
「控えの間へお戻りになります?」
「いいえ。もう少しここにいます」
ここで下がれば、逃げたように見える。
そう思ったわけではない。
ただ、背を向けたくなかった。
そのとき、楽団の曲が変わった。
広間の中央では、新しい踊りの輪ができ始める。
ベルンハルト伯爵は、少し離れた柱の近くで誰かと短く言葉を交わしていた。
相手は、濃い紫のドレスをまとった令嬢だった。
ヴィオレッタ・レンブラント子爵令嬢。
ベルンハルト伯爵の遠縁にあたる娘で、反公爵派の集まりにも時折顔を出していると聞いたことがある。
ヴィオレッタは扇で口元を隠している。
表情はよく見えない。
エレノアは、ほんの少しだけ眉を寄せた。
だが、別の貴族から挨拶を受け、視線を戻すしかなかった。
それから、しばらくして。
悲鳴が上がった。
「きゃあああああっ!」
楽団の音が乱れた。
踊っていた者たちが足を止める。
人々の視線が一斉に、広間奥の柱の陰へ向いた。
「人が倒れているわ!」
「誰か、医師を!」
エレノアも駆け寄った。
人垣の向こう。
大理石の床の上に、ベルンハルト伯爵が倒れていた。
先ほどまで嫌味を口にしていた男が、今はぴくりとも動かない。
胸元には赤い染みが広がっていた。
近くには割れたグラスが床に散り、赤い液体が広がっている。
「血……?」
誰かが震える声で呟いた。
エレノアは恐る恐る一歩近づき、床に広がる液体を見つめた。
鼻先に、甘く重い香りが届く。
「これは……葡萄酒?」
エレノアが小さく呟いた。
倒れた伯爵の唇にも、赤い酒の跡がうっすらと残っている。
「触れてはいけません!」
衛兵が駆け込んできて、人々が一斉に下がった。
エレノアは息を呑んだ。
そのとき、人垣の奥から震える声が上がる。
「わ、わたくし、見ました……!」
声を上げたのは、壁際にいた若い男爵令嬢だった。
クラリス・モートン男爵令嬢。
気弱そうな少女で、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「伯爵様と口論なさっていたエレノア様が、そのあと伯爵様と柱の陰へ向かわれるところを……」
大広間が凍りついた。
エレノアは動かなかった。
ただ、その言葉だけが胸の奥へ落ちてくる。
「私が……?」
「そ、そう見えました。遠くからでしたけれど、たしかに淡い青の……」
クラリスの声は震えていた。
嘘をついているというより、見たものに怯えているようだった。
そこへ、濃い紫のドレスをまとった令嬢が一歩前に出た。
ヴィオレッタ・レンブラント子爵令嬢。
先ほど、伯爵と柱のそばで話していた令嬢である。
「わたくしも見ましたわ」
ヴィオレッタは胸元に手を当て、青ざめた顔で言った。
「伯爵様のいた柱の陰から、エレノア様が出てくるのを」
「私は行っていません」
エレノアは静かに言った。
だが、ヴィオレッタは首を振る。
「いいえ。確かに見ました。淡い青のドレスの方が、伯爵様のそばから離れていくところを」
ざわめきが広がる。
「淡い青……」
「エレノア様のドレスと同じ色だわ」
「さっき、伯爵と話していたわよね」
「まさか……」
「でも大丈夫かしら? あの方はマリベル様の主よ、証拠もなく疑うなんて正座では済まなくてよ」
最後の囁きが、ひどく鋭く刺さった。
それはエレノアを信じる言葉ではない。
ただ、マリベルを恐れているだけの言葉だった。
エレノアは、ゆっくりと周囲を見回した。
つい先ほどまで笑顔を向けていた人々が、今は距離を取っている。
誰も、はっきりと断罪してはいない。
だが、疑いの目は向けられていた。
胸の奥が冷える。
足元から、大理石の冷たさが這い上がってくるようだった。
それでも、エレノアは逃げなかった。
「私は、伯爵を殺していません」
声は震えていなかった。
震えないように、喉の奥に力を込めた。
「ならば、なぜ伯爵様はあなたと話した直後に亡くなったのです!」
ヴィオレッタが叫ぶ。
「それに、現場にはこれが落ちておりましたわ!」
彼女が震える指で床を指した。
衛兵が視線を落とし、伯爵の倒れているすぐそばに落ちていたものを拾い上げる。
淡い青のリボンだった。
エレノアのドレスと、よく似た色の。
大広間の視線が、再びエレノアへ集まる。
エレノアはそのリボンを見た。
自分のものではない。
だが、この場の誰が、それを即座に証明できるのだろうか。
手袋の中で、指先が冷たくなる。
そのとき、広間の外へ一人の従僕が走っていった。
控えの間へ。
公爵令嬢の侍女が待機している場所へ。
大広間には、まだ楽団の弦がかすかに震える音だけが残っていた。
そして、エレノアは疑いの中心に立っていた。
***
「エレノアお嬢様が、人を殺したと……?」
控えの間で、マリベルは静かに聞き返した。
声は荒れていなかった。
鉄扇も開いていなかった。
ただ、手元にあったエレノアの外套を、いつもより丁寧に畳んでいた。
それを見て、控えの間にいた他家の侍女たちは一斉に黙った。
まずい。
この静けさは、まずい。
報せに走ってきた主催家の従僕は、青ざめた顔で頷いた。
「え、ええ。実際に目撃者がいたそうで……エレノア様が、ベルンハルト伯爵を殺したと……」
「目撃者」
マリベルは外套を畳み続ける。
ひと折り。
もうひと折り。
皺ひとつない。
その所作は、すごく美しかった。
だからこそ、恐ろしかった。
「お嬢様が」
マリベルは、預かっていた替えの手袋を箱へ戻した。
「殺人事件の犯人にされたですって……?」
ぱちり。
黒塗りの鉄扇が開いた。
黒い扇面に、金文字が輝く。
『お嬢様第一』
控えの間の空気が凍った。
公爵令嬢エレノア様に何かあれば、例の侍女が来る。
そして、最後には誰かが正座している。
そんな噂だけは、王都の屋敷勤めの者なら誰でも知っている。
けれど目の前のマリベルは、怒鳴りもせず、取り乱しもせず、ただ静かに鉄扇を開いていた。
その静けさが、かえって恐ろしかった。
「事実確認に参ります」
静かな声だった。
会場付きの従僕は、思わず息を呑んだ。
「マリベル様……どうなさるおつもりで……」
マリベルは、にっこり微笑んだ。
「事実確認に参ります」
「事実確認、ですか」
「はい」
マリベルは黒塗りの鉄扇を閉じ、丁寧に胸元へ添えた。
「殺人事件でございますので。お嬢様に、これ以上余計な疑いが向くような真似はいたしません」
その言葉遣いは、あまりにも穏やかだった。
だからこそ、控えの間にいた者たちは誰も動けなかった。
マリベルは一礼し、音もなく控えの間を出る。
会場へ続く廊下を、黒い侍女服の裾が静かに進んでいく。
案内していた会場付きの従僕は、何度も口を開きかけたが、何も言えなかった。
その後ろで、マリベルが小さく呟く。
「……ぶっ殺してやりますわ」
従僕は、足を止めかけた。
だが、すぐに何も聞かなかった顔で歩みを進めた
長く勤める者ほど、生き残る判断が早い。
***
大広間では、すでに現場確認が始まっていた。
衛兵が人々を下がらせ、倒れたベルンハルト伯爵の周囲を囲んでいた。床には、ほどけたリボンと割れたグラスが落ちている。
エレノアは逃げずにその場に立っていた。
疑いの視線が、何本も彼女へ向けられている。
その時だった。
「失礼いたします」
騒然とした大広間に、場違いなほど礼儀正しい声が響いた。
人々が振り返る。
黒い侍女服。
白いエプロン。
きっちり結われた髪。
そして、右手には黒塗りの鉄扇。
公爵家侍女、マリベルである。
彼女は大広間の入口で完璧に一礼した。
「お嬢様の身支度係として、同席させていただきます」
衛兵が慌てて前に出る。
「ここは殺人事件の現場だ。侍女は下がれ」
「殺人事件の現場だからこそ、侍女が必要でございます」
「なぜだ?」
マリベルは、床に落ちた淡い青のリボンを見た。
「そのリボンが、お嬢様のものかどうかを確認できる者が必要ですので」
大広間が静まり返る。
マリベルは微笑んだ。
「そして結論から申し上げます」
黒塗りの鉄扇が、静かに開く。
「それは、お嬢様のものではございません」
ヴィオレッタが声を上げた。
「そんなはずありません! 色もエレノア様のドレスと同じですわ!」
「似ているだけでございます」
マリベルは即答した。
「お嬢様の本日のドレスに使われているリボンは、南方産の絹糸を使用しております。光に当たると青ではなく、わずかに銀を含んで見える。対して、こちらは染めが浅く、端の処理も甘い。お嬢様の衣装に、このような雑な仕立ての品を使うことはございません」
「雑……?」
衛兵がリボンを見る。
分からない、という顔だった。
マリベルは続けた。
「さらに、そのリボンには折り癖がありません。つまり、先ほどまで結ばれていたものではなく、畳まずに持ち込まれて現場に落とされたものです」
「なぜそこまで分かる」
「侍女ですので」
大広間の誰も、反論できなかった。
侍女なら仕方ない。
最近の王都では、そういう空気が生まれつつあった。
マリベルはエレノアのそばへ歩み寄った。
「お嬢様」
「マリベル……」
「ご無事ですか」
「ええ」
「お怪我は」
「ありません」
「怖い思いを、なさいましたか?」
「少しだけ」
その言葉に、マリベルの鉄扇が、かすかに鳴った。
ぱき。
だが、開かなかった。
振るわなかった。
マリベルは、ただ深く頭を下げた。
「遅くなりました」
「いいえ。来てくれてありがとう」
マリベルの肩が、ほんの少し震えた。
だが耐えた。
侍女なので。
衛兵隊長が咳払いをする。
「侍女マリベル。勝手な発言は控えてもらう」
「承知いたしました」
マリベルは微笑んだ。
「では、確認だけをいたします」
「それを発言と言うのだが」
「必要な確認でございます」
衛兵隊長は一瞬だけ迷った。
だが、周囲の貴族たちの視線が集まっている。
ここでマリベルを無理に追い出せば、公爵家が証拠確認を妨害されたと言い出しかねない。
いや、言い出すのは公爵家ではない。
侍女だ。
それが一番怖い。
「……確認を許可する。ただし、現場には触れるな」
「承知いたしました」
マリベルは床に散った割れたグラスを見た。
次に、ベルンハルト伯爵の胸元の赤い染みを見る。
それから近くの卓上に置かれた葡萄酒の瓶へ視線を移した。
「伯爵様は、この葡萄酒を召し上がったのですね」
「そう見られる」
衛兵隊長が答える。
「医師を待っているが、毒の疑いもある」
大広間がざわめいた。
「毒……」
「では、殺した者はグラスに毒を?」
「それは、まだ分からない」
衛兵隊長が言う。
そのとき、ヴィオレッタが再び声を張り上げた。
「わたくしは見ました! 淡い青のドレスの方が、伯爵様にグラスを渡していたのを!」
視線がエレノアに集まる。
マリベルはゆっくりとヴィオレッタを見た。
「淡い青のドレスの方が?」
「ええ。エレノア様ですわ!」
「おかしいですね」
マリベルは静かに言った。
「お嬢様は、本日一度も葡萄酒の卓へ近づいておりません」
「そんなこと、どうして分かるのです!」
「お嬢様の手袋に、葡萄酒の香りがございませんので」
マリベルは、エレノアの手元へ目を向けた。
「お嬢様の手袋は、白薔薇の香油で整えております。葡萄酒に触れれば香りが混ざります。ですが今は白薔薇の香りだけ。つまり、お嬢様はグラスにも瓶にも触れておりません」
「香りだけで……?」
「侍女ですので」
ヴィオレッタの表情が、ほんの少し引きつる。
かなり引いていた。
マリベルは次に、現場近くの床へ視線を落とす。
「それから、こちらの床」
「床?」
「葡萄酒の飛び散り方が不自然です」
衛兵隊長が眉をひそめる。
「どういう意味だ」
「グラスが倒れたなら、液体は外側へ広がります。ですが、この染みは一度布で押さえたように、端が不自然に薄い」
マリベルは膝をつかず、視線だけで確認する。
「誰かが、こぼれた葡萄酒を布で拭おうとしたのでしょう。けれど途中でやめた」
「なぜ」
「布に毒が移ることを恐れたからでは?」
大広間が静まり返る。
ヴィオレッタは、扇で口元を隠した。
「そ、それが何だというのです。犯人がエレノア様なら、そうしたのでしょう」
「いいえ」
マリベルは、すぐに否定した。
「お嬢様が床の汚れを中途半端に拭うなど、あり得ません」
衛兵隊長は、一瞬だけ返す言葉を失った。
それは推理なのか、主への信仰なのか、判断がつかなかったのだ。
しかし、マリベルは真顔だった。
「お嬢様は、なさるなら最後までなさいます」
「マリベル」
エレノアが困ったように呼ぶ。
「そこは推理として通るのかしら」
「私にとっては最重要でございます」
「でしょうね」
衛兵隊長が額を押さえた。
「だが、布で拭った痕跡があるとして、その布はどこにある」
「犯人が持っています」
マリベルは静かに言う。
その瞬間、大広間の空気が変わった。
衛兵隊長が目を細める。
「犯人が、だと?」
マリベルは微笑んだ。
「ええ。それに、犯人はすでに分かっております」
広間中が息を呑んだ。
「犯人はどこにいる?」
「そちらに」
マリベルが、鉄扇の先をゆっくりと向けた。
全員が振り返る。
そこには、ヴィオレッタ・レンブラント子爵令嬢がいた。
正座姿で。
濃い紫のドレスの裾をきちんと整えられ、背筋を伸ばし、両膝を揃えた美しい正座である。
その膝の前には、淡い青の薄布と、葡萄酒の染みがついた手袋が置かれていた。
「いつの間に!?」
ヴィオレッタが叫んだ。
「いつ捕まえた!?」
衛兵隊長も叫んだ。
マリベルは涼しい顔で答える。
「確認の途中に、でございます」
「確認の途中で犯人を正座させるな!」
「密かに逃亡を図っておられましたので」
「逃げようとしただけで正座になるのか!?」
「逃げるには姿勢が悪うございました」
「そこではない!」
ヴィオレッタは青ざめた顔で立ち上がろうとした。
しかし、なぜか立てない。
ドレスの裾が、いつの間にか細いリボンで整えられている。
「なぜ、わたくしのドレスが……!」
「走ると裾を踏まれますので」
「親切なのか拘束なのか分かりませんわ!」
「両方でございます」
マリベルは、膝の前に置かれた淡い青の薄布を見た。
「その薄布を、肩にかけていらしたのでしょう」
「何のことですの」
「淡い青の布。遠目には、お嬢様のドレスと同じ色に見えます」
マリベルは正座したヴィオレッタを静かに見下ろした。
「あなたは柱の陰でそれをまとい、伯爵様のそばから離れる姿をクラリス様に見せた。クラリス様がご覧になった淡い青のドレスの方は、お嬢様ではございません」
黒塗りの鉄扇の先が、ヴィオレッタへ向く。
「お嬢様に見えるよう装った、あなたでございます」
「そうおっしゃるなら、証拠はございますの!?」
「ございます」
マリベルは、ヴィオレッタの膝の前に置かれた薄布を指した。
「その布には、葡萄酒の染みがございます。そしてヴィオレッタ様の手袋にも同じ染み。さらに、手袋の指先には細かな硝子片が付いております。割れたグラスを処理しようとしたのでしょう?」
衛兵隊長が手袋を確認する。
確かに、指先に細かな硝子片が光っていた。
「それだけでは……!」
ヴィオレッタは叫ぶ。
「それだけでは、わたくしが伯爵様を殺したことにはなりません!」
「では、もう一つ」
マリベルは、静かに続けた。
「あなたは先ほど、伯爵様にグラスを渡していたとおっしゃいました」
「ええ、そうですわ! エレノア様が――」
「先ほど、ヴィオレッタ様は【柱の陰から淡い青のドレスの方が離れるのを見た】と証言なさったそうですね」
ヴィオレッタの口が止まる。
「離れるところを見た者が、なぜグラスを渡す場面まで見ているのでしょう」
「あ……」
「それに、あの柱の位置からは卓上の葡萄酒は見えません。見えるのは柱の反対側にいた者だけ。つまり、あなたは見たのではなく、知っていたのです」
大広間の空気が凍る。
エレノアは静かにヴィオレッタを見た。
「ヴィオレッタ様。今のマリベルの指摘は、事実ですか?」
その声は、責めるために荒げられてはいなかった。
だが、逃げ道はなかった。
ヴィオレッタの唇が震える。
「……あなたが」
小さな声だった。
「あなたが、全部奪ったのよ」
エレノアは眉を寄せる。
「私が?」
「王国裁判で、エレノア様を陥れようとした者たちがいたでしょう? 偽の証言を用意し、王国訴追官まで巻き込み、公爵家ごと失脚させようとした。けれど、失敗した」
彼女は唇を噛んだ。
「あの裁判のあと、ダルガン侯爵と関わりのあった家は次々に疑いの目を向けられるようになったのよ。わたくしの家もそうだった。父が反公爵派の貴族と付き合いがあったというだけで、社交界で避けられ、婚約の話も消えた。伯爵は言ったの。エレノア様さえ失脚させれば、流れは変わると」
ヴィオレッタは、床に視線を落とした。
「でも、今夜になって伯爵は怖気づいた。もうやめると言った。わたくしを切り捨てるつもりだったのよ」
「だから、殺したんですか?」
エレノアの声は静かだった。
ヴィオレッタは顔を上げる。
目には涙が浮かんでいた。
「あなたに罪を着せれば、すべて戻ると思ったのよ! あなたの侍女が暴れれば、今度こそ公爵家は終わる。そう思ったのに……!」
マリベルは、黙っていた。
鉄扇を握る手だけに、力がこもっている。
エレノアが一歩前に出た。
「ヴィオレッタ様」
「何よ」
「私を、憎んでいたのですね」
エレノアは、静かに言った。
ヴィオレッタの目が揺れる。
「怖かったことも、追い詰められていたことも……きっと、本当なのでしょう」
何も言えなかった。
エレノアは、少しだけ目を伏せる。
「でも、だからといって、私の大切な人たちまで傷つけないでください」
その声は小さかった。けれど、はっきりしていた。
「私に罪を着せれば終わる。そう思われたのなら……それは、悲しいです」
ヴィオレッタの唇が震えた。
「……そんな顔、しないでください」
絞り出すような声だった。
「わたくしは、あなたを憎んでいたはずなのに……そんなふうに言われたら、何を憎めばいいのか、分からなくなってしまうじゃない……」
ヴィオレッタは顔を伏せた。
衛兵隊長が頷き、部下へ合図を送る。
ヴィオレッタは拘束された。
だが、なぜか正座の姿勢は崩れなかった。
「あれ……? なんで、立てないの?」
ヴィオレッタが戸惑った声を上げると、マリベルは微笑んだ。
「反省が終わりましたら、お解きいたします」
「いつ終わるのよ!?」
「それは法が決めることでございます」
「急に厳正になりましたわね!」
衛兵隊長は、咳払いをした。
「ヴィオレッタ・レンブラント子爵令嬢を、ベルンハルト伯爵殺害および公爵令嬢エレノア様への罪のなすりつけの疑いで連行する」
衛兵たちが動き出すと、見守っていた貴族たちの間に小さなざわめきが広がった。
先ほどまでエレノアへ向けられていた視線は、今度はヴィオレッタへと移っていく。
「……どうか、罪と向き合ってください」
エレノアは、最後まで目を逸らさずにそう告げる。
ヴィオレッタは一瞬、言葉を失った。
そして自分の膝を見下ろした。
「それならまず、この拘束を解いてくれない!? 罪と向き合う以前に、歩けないわよ!」
エレノアは、少し考え込んだ。
「……では、向き合うのは到着してからでもよいのではないでしょうか」
「そこを譲歩されても困るんだけど!?」
マリベルは、深く頷いた。
「さすがお嬢様。たいへん慈悲深いご判断でございます」
「慈悲の方向がおかしい!」
衛兵たちが、困ったように顔を見合わせた。
「……このまま連れていくのか?」
「はい。反省の姿勢を崩さずにお願いいたします」
「お願いいたしますではないわよ!」
ヴィオレッタが正座のまま、じり、と後ずさろうとした。
すぐにマリベルの視線が落ちる。
「逃亡の意思あり、と」
「ありません! 移動の意思です!」
エレノアは心配そうに眉を寄せた。
「マリベル、床で膝を痛めてしまわないかしら」
「お嬢様……なんと慈悲深い」
ヴィオレッタの目がわずかに潤んだ。
「でしたら、座布団を」
「優しさの使いどころが違う!」
そうしてヴィオレッタは、最後まで見事な正座の姿勢を保ったまま、衛兵たちに連行されていった。
大広間に、なんとも言えない沈黙が残る。
先ほどまでエレノアを疑っていた者たちは、気まずそうに目を伏せ、ある者は扇で口元を隠した。
エレノアはヴィオレッタが出ていった扉のほうをじっと見ていた。
責めるでもなく、許したふりをするでもなく、ただ静かに。
マリベルは、その隣に立つ。
黒塗りの鉄扇を閉じたまま。
「お嬢様」
「マリベル」
「お疲れではありませんか」
「少しだけ」
「では控えの間へ」
「ええ」
エレノアは歩き出した。
その背中は、来たときと同じようにまっすぐだった。
だが、ほんの少しだけ、歩幅が小さい。
マリベルはそれに気づき、何も言わずに半歩後ろに寄り添う。
人々が道を開けた。
今度は疑いではなく、敬意と気まずさを含んだ沈黙で。
「いつから、ヴィオレッタが犯人とわかったの?」
半歩後ろを歩いていたマリベルが、静かに顔を上げた。
「お嬢様への忠誠心でございます」
「忠誠心……?」
「はい。私の忠誠心が、証拠品より先に犯人へ辿り着きました」
「忠誠心の使い方がおかしいわ」
「おかしいでしょうか」
「忠誠心は、証拠品を追い越すものではないと思うの」
「では次から、証拠品と並走いたします」
「並走もしなくていいわ」
「善処いたします」
「する気のない顔ね」
そのいつも通りのやり取りに、張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
エレノアはそのまま控えの間へと歩みを進めた。
半歩後ろを、マリベルが静かについていく。
黒塗りの鉄扇は、閉じたまま。
***
控えの間へ戻ると、エレノアは椅子に腰を下ろした。
マリベルは何も言わずに温かい紅茶を淹れる。
白い湯気が夜会の騒ぎから切り離された小さな部屋にゆっくりと立ち上った。
「マリベル」
「はい、お嬢様」
「今日は、叫ばなかったわね」
マリベルの手が、ほんの少し止まった。
「殺人事件でございますので」
「ええ」
「私が叫べば、お嬢様が不利になります」
「そうね」
「ですので、叫びませんでした」
エレノアはカップを受け取った。
指先に、ようやく温かさが戻ってくる。
「よく我慢しました」
その一言で、マリベルは崩れ落ちそうになった。
だが耐えた。
侍女なので。
「もったいなきお言葉でございます」
エレノアは、少しだけ笑った。
マリベルはその笑顔を見て胸の奥が温かくなる。
お嬢様が笑った。
ならば、今日の戦も勝利である。
***
後日。
王都警備局には、新たな注意書きが掲げられた。
一つ。
『目撃証言は重要である。ただし、叫んだ者が真実を述べているとは限らない』
一つ。
『リボンは証拠ではない。畳み方、折り癖、染め、端の処理を確認すること』
一つ。
『公爵令嬢エレノア・アルヴァイン様を疑う場合、まず証拠を確認すること』
一つ。
『侍女マリベルを捜査現場に入れる場合、犯人がいつの間にか正座している可能性がある』
一つ。
『正座は自白ではない。ただし、自白前に発生しやすい』
警備局長は最後の二文を消そうとした。
だが、事件現場にいた衛兵たちが一斉に首を横に振った。
消してはならない。
これは規則ではなく、安全対策である。
***
そして今日も、公爵家のどこかで彼女の声が響く。
「お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」
屋敷中の使用人が、一斉に手を止めた。
老執事は何も聞かず、ただ静かに頷く。
「馬車を用意しなさい。あと、公爵様にご報告を」
そばにいた従僕が、震える声で尋ねる。
「今回は、何をお持ちすれば……」
「替えの手袋と外套を」
「はい」
「それと……」
老執事は、そこでわずかに考えた。
「それから、証拠品袋を一つ」
「証拠品袋、でございますか」
「念のためだ」
「かしこまりました」
従僕は一礼し、駆け出した。
屋敷の空気が、静かに変わっていく。
お嬢様が呼ばれた。
ならば、戦である。
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次回は7月11日18時ごろに投稿予定です!
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