第二十章 私がエレノアの侍女になるですって!? 絶対にお断りいたしますわああああああああああああああああ!!!!
これは十年前。マリベルがまだエレノアを『お嬢様』と呼んでいなかった、十歳の頃のことである。
「私がエレノアの侍女になるですって!?」
アルヴァイン公爵家の使用人棟に、少女の声が響き渡った。
まだ現在ほどの迫力はない。
窓も震えない。
銀盆も落ちない。
廊下を歩いていた使用人たちも、少し驚いて振り返っただけである。
だが、本人としては最大限の抗議だった。
「絶対にお断りいたしますわああああああああああああああああ!!!!」
侍女見習いの制服をまとったマリベルが、両手で机を叩く。
その向かいに立っていたリゼットは、娘の絶叫を真正面から受けても眉一つ動かさなかった。
「声が大きいですね」
「今は声量の話ではございません!」
「廊下まで聞こえております」
「聞かせているのでございます!」
「迷惑です。おやめなさい」
「……はい」
マリベルは素直に声を落とした。母には逆らえない。
これまで何度挑んでも、母に勝てたことがない。礼儀作法でも、家事でも、護身術でも、鉄扇の扱いでも、結果は同じだった。
リゼットは卓上に置かれていた見習い用の帳面へ視線を落とした。
「もう一度申し上げます。明日から、あなたにはエレノア様のおそばで侍女見習いとして務めていただきます」
「ですから、なぜ私がエレノアのもとへ?」
「侍女見習いだからです」
「答えになっておりません」
「十分な答えです」
マリベルは唇を引き結んだ。自分が将来、侍女になることに不満があるわけではない。
むしろ、その逆だった。
マリベルにとって、侍女とは最も誇るべき仕事である。
主人の身の回りを整え、必要なものを誰より早く察し、危険があれば守り、間違っているならそれを指摘する。
それをすべて当然のようにこなす母の姿を、マリベルは幼い頃から見てきた。
いつか自分も、リゼットのような侍女になる。それだけは決めていたのだが。
「私は、誰にでも仕えるつもりはございません」
マリベルは胸を張った。
「主人は、自分で選びとうございます」
「そうですか」
「はい」
あまりにもあっさり肯定され、マリベルの方が拍子抜けする。
だが、次の言葉は甘くなかった。
「でしたら、まず主人を選べるだけの侍女になりなさい」
「……」
「今のあなたは見習いです」
「承知しております」
「給仕も、衣服の管理も、護衛も、まだ一人では任せられません」
「……はい」
「そのあなたが、仕える相手だけは一人前に選ぶのですか?」
「それは……」
言葉に詰まる。
リゼットは娘の返事を待たず、机の上に置かれていた白い手袋を手に取った。
「エレノア様をお好きになる必要はありません」
「え?」
思わぬ言葉に、マリベルが顔を上げる。
「主人と侍女である前に、人と人です。合う方もいれば、合わない方もおります」
「では、なぜ」
リゼットは手袋の指先に残っていた小さな皺を伸ばす。
「エレノア様をよく見なさい」
「エレノアを……?」
「話しなさい。ご自分の目で確かめなさい」
「私自身で、ですか?」
「そのうえで、あなた自身が判断すればよいでしょう」
マリベルはしばらく黙ったあと、渋々と頷いた。
「承知いたしました」
「それと」
「まだございますか?」
「机を叩いた際、右袖がずれています」
「あっ……」
マリベルは慌てて袖を直した。
「明日からエレノア様のおそばへ立つのであれば、もう少し侍女らしくなさい」
「侍女見習いでございます」
「それを言い訳にするうちは見習いのままですね」
ぐうの音も出なかった。
***
翌朝。
マリベルは、アルヴァイン公爵家の庭園に立っていた。朝露の残る芝生の向こうでは、白い薔薇が咲いている。
その近くに、一人の少女がいた。
エレノア・アルヴァイン。この頃、まだ八歳だった。
公爵家の令嬢。
マリベルがこれからしばらくそばで仕えることになった相手である。
淡い青のドレスを着て、庭師が切ってくれたらしい白薔薇を一輪、両手で大切そうに持っていた。
その隣にはクラリス。少し離れたところには、エレノアの兄であるレオルスもいる。
そして当然、クラリスの半歩後ろにはリゼットが控えていた。
「マリベル」
母に呼ばれ、マリベルは前へ進む。
「本日より、エレノア様のおそばで務めなさい」
「承知いたしました」
マリベルが一礼すると、エレノアがこちらを見た。
「あなたがマリベルなのね」
「はい」
「お母様から聞いているわ。よろしくね」
にこりと笑う。
それを見て、マリベルは思った。
やはり、苦手だ。
何も知らない顔、何の苦労もなさそうな笑顔。周囲から守られ、大切にされることが当たり前の少女。自分が失敗したところで、きっと困ることなどない。次の侍女を呼べば済むのだから。
「……よろしくお願いいたします」
必要な礼だけを返した。その短い返事に、クラリスがわずかに目を向ける。
しかし、何かを言うより早くレオルスが二人の間へ顔を出した。
「妹が二人になったみたいだね」
マリベルは即座にレオルスを見る。
「私は妹ではございません」
「でも、ずっと同じ屋敷で育ってきたじゃないか」
「それとこれとは別でございます」
「僕にとっては妹みたいなものだよ」
「迷惑でございます」
「手厳しいね」
レオルスは少しも傷ついた様子を見せず笑っている。
「では、マリベル。エレノアをよろしくね」
「まだ私の主人ではございません」
「そうなの?」
「私は見習いとして、そばへつくだけでございます」
レオルスは興味深そうに目を細めた。
「では、そのうち本当にエレノアの侍女になるかもしれないんだ?」
「なりません」
間髪入れずに答える。
すると、エレノアが小さく笑った。
マリベルは眉を寄せる。
「何がおかしいのですか」
「ごめんなさい。あまりにも迷いがなかったから」
「笑うところではございません」
「そうね」
エレノアは怒らなかった。そのことが、なぜか余計に気に入らなかった。
「エレノア」
クラリスが静かに娘を呼ぶ。
「マリベルは今日からあなたのおそばで学びます。けれど、まだ見習いなのだから、無理なことまで頼んではいけませんよ」
「分かっています」
エレノアは頷き、マリベルを見る。
「マリベル」
「はい」
「私の侍女になりたくないなら、ならなくてもいいのよ」
マリベルが目を瞬いた。
クラリスも、少し意外そうに娘を見る。
「エレノア」
「だって、お母様」
エレノアは手にした白薔薇へ一度目を落としてから続ける。
「誰に仕えたいかは、マリベルが決めることでしょう?」
マリベルは何も答えなかった。そんな言葉が返ってくるとは思っていなかったのだ。
「……私がお断りすれば、本当に別の方を選ばれるのですか」
「ええ」
マリベルの問いに、エレノアは少しも迷う様子を見せなかった。
「もちろん、今すぐ決めなくてもいいでしょう? まだ一緒に過ごしたこともほとんどないもの」
「そうですが……」
「私だって、マリベルのことをまだよく知らないわ」
当たり前のことを言っているだけである。それなのに、マリベルの胸の中にあった反発が、行き場を失った。
もっと傲慢で、自分に仕えられることを当然のように受け止めていると思っていた。
そんな相手なら、心置きなく嫌えたのに。
クラリスは娘をしばらく見つめていたが、やがて小さく微笑んだ。
「そうね。あなたの言うとおりだわ」
「奥様?」
今度はマリベルが驚く。
「わたくしたちが先に決めることではなかったわね」
クラリスはリゼットを見る。
「リゼットも、そのつもりなのでしょう?」
「もちろんでございます」
リゼットは平然としていた。
「私はマリベルへ、エレノア様の専属侍女になれとは一度も申し上げておりません」
「……そうですけれど」
何となく負けた気がする。何に負けたのかは分からないが。
「では、ひとまず今日一日、よろしくね。マリベル」
エレノアが笑う。
「……承知いたしました」
マリベルはもう一度頭を下げた。
***
最初の失敗は、朝の紅茶だった。
茶葉の量。
湯の温度。
蒸らす時間。
すべて、教えられたとおりにした。それなのに、エレノアが一口飲んだ瞬間、マリベルには分かった。
わずかに濃い。
リゼットなら、口をつける前に香りだけで気づいただろう。
悔しさに奥歯を噛む。
「お取り替えいたします」
すぐにティーカップへ手を伸ばした。
「待って」
エレノアが止める。
「飲めるわ」
「ですが、普段より濃くなっております」
「そうなの?」
「……お気づきではなかったのですか」
マリベルは思わず聞いてしまった。エレノアはカップの中を覗き込む。
「少し濃いとは思ったけれど、これくらいなら大丈夫よ」
「失敗したものをお出しするわけにはまいりません」
「でも、捨ててしまうのでしょう?」
「はい」
「それなら、私はこれを飲むわ」
マリベルの眉が寄る。
「私へお気遣いなさっているのでしたら不要でございます」
「気を遣っているわけではないの」
「では、なぜ」
「飲めるからよ」
エレノアは不思議そうに答えた。
「マリベルが納得できないなら、次はもう少し薄くしてもらえる?」
「……次?」
「ええ」
失敗したのだから、別の侍女に代えられると思っていた。
しかし、エレノアはそんなことを考えていないらしい。
「それでいいのですか」
「何が?」
「失敗したのでございますが」
「次に直せばいいでしょう?」
あまりにも簡単に言われ、マリベルは返す言葉を失った。
「リゼットなら、もっと上手に淹れるのでしょうけれど」
エレノアが続ける。
「でも、マリベルはリゼットではないもの」
マリベルは思わずエレノアを見た。
また母と比べられるのだと思っていた。
リゼットの娘なら、きっと優秀な侍女になる。
リゼットの娘なら、これくらいできて当然。
リゼットなら失敗しない。
そんな言葉なら、これまで何度も聞いてきた。
けれど、エレノアは違った。
「……当然です」
「だから、マリベルができるようになればいいのでしょう?」
エレノアは紅茶をもう一口飲む。
「私は待てるわ」
その言葉を聞いた瞬間、マリベルは妙な居心地の悪さを覚えた。
褒められたわけでもない。慰められたわけでもない。ただ、自分ができるようになるまで待つと、当然のように言われただけだ。
見限られなかったことが、思いのほか胸に残った。
「次は、失敗いたしません」
「楽しみにしているわ」
エレノアは笑った。
マリベルは無言で茶器を整えた。
***
二つ目は、昼前に起こった。
若い下働きの少女が、廊下で花瓶を落としたのだ。高価なものではなかったが、公爵家の紋章が入った古い品だった。
派手な音が響き、近くにいた使用人たちが集まる。
「申し訳ございません!」
少女は青ざめ、床へ膝をついた。
「本当に、申し訳ございません……!」
侍女頭が割れた花瓶を見て眉を寄せる。
「どうしてこのようなことを」
「私が、手を滑らせて……」
「廊下を急いでいたのでしょう?」
「それは……」
叱責が始まりそうになったところで、エレノアが足を止めた。
「待って」
マリベルは半歩ほど離れた場所から、その様子を見ていた。エレノアは割れた花瓶ではなく、少女の足元を見る。
「怪我は?」
「ございません!」
「本当に?」
「はい」
それを確認してから、床に散った破片へ視線を落とした。
「どうして落としたの?」
「ですから、手を滑らせて」
「それは分かったわ」
エレノアが首を傾げる。
「どうして手を滑らせたのかしら」
少女は戸惑った。
「それは……」
言いよどみ、やがて自分の右手を見る。指に、薄い布が巻かれていた。
「昨日、厨房で少し火傷をいたしまして」
「火傷?」
「たいしたことはございません」
エレノアの表情が曇る。
「痛むのでしょう?」
「少しだけ……ですが、仕事はできます」
「だから、いつもと同じように花瓶を運んだの?」
「はい」
侍女頭も少女の手を見て、眉間の皺を深くした。
「なぜ報告しなかったのです」
「忙しい時間でしたので……」
エレノアは割れた花瓶を見た。
「なら、この方だけのせいではないでしょう?」
「エレノア様?」
「怪我をしたまま働いていたことに、誰も気づかなかったのでしょう?」
少女が慌てる。
「違います! 私が言わなかっただけで――」
「それなら、言わなかったことはあなたの反省するところね」
エレノアは少女へ向き直った。
「でも、花瓶を落としたことまで全部あなた一人の責任にするのは違うと思うの」
侍女頭は少し考えたあと、頭を下げた。
「おっしゃるとおりでございます。私も確認が足りませんでした」
「そうね。これからは、いつもと様子の違う方がいないか、少し気にかけてあげてください」
それから、エレノアは少女の右手へ目を向けた。
「ではまず、その手を診てもらってください」
「ですが、仕事が」
「怪我を悪くして、もっと長く働けなくなったら困るでしょう?」
少女はなおも迷うように侍女頭へ視線を向けた。侍女頭が小さく頷く。
「……はい」
そう答えながらも、少女の視線は床に散らばった破片へ向いたままだった。
「花瓶のことは?」
「壊れてしまったものは元には戻らないもの」
エレノアは床へ目を落とした。古くから屋敷にある花瓶ではあるが、そのために少女が怪我を悪くする方が、よほど困る。
「どうしてこうなったのか分かったなら、次に同じことが起きないようにすればいいでしょう?」
マリベルは、先ほどの紅茶を思い出した。次に直せばいいと、同じことを言っている。
エレノアは少女を庇ったわけではない。報告しなかったことは注意した。侍女頭の確認不足も指摘した。
ただ、エレノアは花瓶を割ったという結果だけで少女を責めなかった。どうしてこんなことになったのか、その事情まで確かめようとしただけだ。
「……変な方」
口にしてから、マリベルはわずかに眉を寄せる。
嫌いだと言い切るより先にそんな言葉が出てきたことが、少しだけ気に入らなかった。
***
昼食後。
エレノアは庭の東屋で本を読んでいた。その少し後ろに、マリベルが立つ。
何もすることがない。
エレノアは本を読む。
マリベルは立つ。
ときどき風が吹く。
また本を読む。
そして立つ。
マリベルにとって、ひどく退屈な時間だった。
「マリベル」
「はい」
ようやく呼ばれた。
「そこの本を取ってもらってもいい?」
小さな卓の端に別の本が置かれている。マリベルはそれを手に取った。
「こちらでしょうか」
「ええ。ありがとう」
本を渡す。それだけで終わった。
マリベルはそのまま元の位置へ戻る。
「一つ、よろしいでしょうか」
「なあに?」
「なぜ、先ほどお願いなさったのですか」
「本を?」
「はい」
エレノアは手元の本から顔を上げた。なぜそんなことを尋ねられたのか分からないらしく、マリベルの顔を不思議そうに見る。
「取ってほしかったからだけれど」
「そうではございません」
マリベルは少し言葉を選んだ。
「私に命じればよろしいのでは?」
「取ってきなさい、と?」
「はい」
「お願いしても取ってくれるのでしょう?」
「当然でございます」
「それなら同じではなくて?」
「違います」
迷いのない返事に、エレノアは意外そうな顔をした。頼んでも命じても結果は同じなのに、マリベルにとっては明確な違いがあるらしい。
「命令は、従うものでございます」
「嫌でも?」
「侍女であれば」
エレノアは手元の本へ視線を落とした。嫌でも従わなければならないという言葉が、どうにも腑に落ちないようだった。
「では、私がとても嫌なことを命じたら?」
「内容によります」
「何でもいいわ。たとえば……」
周囲を見回し、エレノアは近くにある薔薇の茂みを指す。
「あの薔薇を全部抜いてきなさい、と言ったら?」
「理由を伺います」
「理由がなくても?」
「必要性を確認いたします」
「では、マリベルも何でも言うことを聞くわけではないのね」
「当然でございます」
マリベルは胸を張った。侍女とは主人の命令にただ従う者ではない。それだけは、見習いである今の自分にもはっきりと言える。
「主が誤ったことをなさろうとした場合、それをお止めすることも侍女の務めでございますので」
エレノアはすぐには返事をせず、目の前の少女をじっと見つめた。自分よりずっと立場の低い侍女見習いでありながら、主人が間違えば止めるのだと、マリベルは少しも迷わず言い切ったのだ。
「それなら、私もお願いする方がいいわ」
「なぜでございますか」
「マリベルが考えて答えてくれるから」
予想していなかった答えに、マリベルは言葉を返せなかった。
「何も考えずに言うことを聞いてほしいわけではないもの」
エレノアは読みかけの本に視線を戻した。特別なことを言ったつもりなどないらしく、その横顔にはいつもの穏やかさしかない。
「それに、嫌なら嫌と言ってもらった方が分かりやすいでしょう?」
マリベルは返事をしないまま、その横顔を見つめた。やはり、この少女は少しおかしい。
公爵令嬢なのだから、命じれば大抵のことは通る。それなのに、仕える側のマリベルが何を考え、何を嫌がるのかまで、いちいち確かめようとする。
「エレノア」
「なあに?」
思わず名前を呼んだものの、何を聞きたかったのか、自分でもうまく言葉にできなかった。
「……何でもございません」
「そう?」
エレノアは無理に聞き出そうとはせず、そのまま本の続きを読み始めた。
***
その日の夕食前、マリベルは廊下を歩いているところをレオルスに呼び止められた。
「どうだった?」
「何がでございますか」
「エレノアと一日過ごしてみて」
「特に何も」
「本当に?」
「はい」
「エレノアのこと苦手かい?」
マリベルは眉を寄せた。なぜか、すぐには答えが出てこなかった。
「まだ、よく分かりません」
「朝はあんなに嫌そうだったのに?」
マリベルは返事に詰まった。
「……それを決めるほど、まだエレノアのことを知りませんので」
答えてから、自分の口から出た言葉にマリベル自身が少し驚いた。
朝なら、迷わず嫌いだと言い切っていた。それなのに今は、少なくともそう判断するには早いと思っている。
レオルスも、その変化に気づいたらしい。
「へえ」
「何でございますか」
「何でもないよ」
いかにも面白そうに笑われ、マリベルはむっとした。
「その顔をおやめくださいませ」
「どんな顔?」
「私がエレノアの侍女になると思っている顔でございます」
「なったら嬉しいと思っている顔だよ」
「同じでございます」
「違うと思うけどなあ」
そこに、廊下の向こうからリゼットが歩いてくるのが見え、マリベルは反射的に背筋を伸ばした。
「お母様」
「マリベル」
リゼットは娘の姿を上から下まで一度確認しただけで、すぐに乱れを見つけた。
「立ち姿が崩れています」
「どこがでございますか」
「左肩」
指摘された方の肩を直すと、今度は足元へ視線が落ちる。
「足も開きすぎです」
「これくらいでございますか」
「狭すぎます」
言われるたびに微調整するマリベルを見て、レオルスが横で笑いを堪えていた。
「レオルス様」
「僕は何も言っていないよ」
「顔がうるそうございます」
「そんな言い方、初めて聞いたな」
「マリベル」
静かな声で名を呼ばれた瞬間、マリベルはレオルスへ向けていた視線を戻した。
「はい」
「勤務中に、主家のご子息へそのような顔を向けない」
「……申し訳ございません」
レオルスが慌てて手を振る。
「僕は気にしていないよ、リゼット」
「レオルス様がお気になさるかどうかの問題ではございません。侍女としての問題でございます」
「厳しいね」
「当然でございます」
リゼットはそれだけ告げると、何事もなかったように歩き去っていった。
その背中が廊下の角へ消えてから、マリベルはようやく肩の力を抜く。
「やっぱりリゼットはすごいね」
「当然でございます」
「マリベルも、ああなりたいの?」
「はい」
その問いにだけは、一瞬の迷いもなかった。
「お母様より優れた侍女になります」
「超えるつもりなんだ」
「当然でございます」
大真面目に言い切るマリベルを見て、レオルスは楽しそうに目を細めた。
「では、そのとき誰の後ろに立っているのか楽しみだね」
「レオルス様ではございません」
「残念だな」
「妹にもなりません」
「そっちはまだ聞いていないけど?」
「念のためでございます」
***
それから数日が過ぎ、マリベルもエレノアのそばで過ごすことにだいぶ慣れていた。
最初の日には濃くなってしまった紅茶も、今では以前より安定して淹れられる。エレノアが本を読み終える頃を見計らって次の一冊を用意し、窓辺で刺繍をしているときも、陽が傾けば言われる前に椅子の位置をずらすようになった。
もちろん、まだリゼットには遠く及ばない。自分では先回りしたつもりでも、リゼットから見れば、まだ後手に回っているらしい。
「気づくのが遅いですね」
「今、気づきました」
「今では遅いのです」
「では次は」
「次に同じことをしないのは当然です」
リゼットから褒められることはほとんどなかったが、できることは確実に増えていた。そして、その変化を真っ先に口にするのは、意外にもエレノアだった。
「今日はちょうどいいわ」
「何がでございますか」
「紅茶」
「当然でございます」
何でもないことのように返したものの、胸の奥には小さな満足感が残った。
「この前よりおいしい」
「当然でございます」
「二回言ったわね」
「大切なことでございますので」
エレノアが楽しそうに笑う。
少し前までなら、その笑顔を見るだけでも何となく気に入らなかったはずなのに、今はもう、そこまで腹が立たない。
その変化を自分で認めることの方が、マリベルには少々気に入らなかった。
***
そんなある日、アルヴァイン公爵一家は王都郊外にある別邸へ向かうことになった。
目的は避暑ではない。別邸近くの村で橋の修繕が終わり、公爵がその仕上がりを確認することになっていたのだ。仕事を終えたあとは、家族で昼食を取る予定になっている。
同行するのは、アルヴァイン公爵、クラリス、レオルス、エレノア。そしてクラリス付きのリゼットと、エレノアのそばで修業中のマリベルだった。ほかにも数名の護衛が騎馬で同行する。
玄関前には二台の馬車が並んでいた。この日の乗車位置はあらかじめ決められており、公爵夫妻とレオルス、それにリゼットが先の馬車、エレノアが後ろの馬車へ乗ることになっている。
「では、わたくしはお父様と先の馬車へ乗るわね」
クラリスがそう告げて、レオルスへ目を向けた。
「レオルスも予定どおりこちらでいいのね?」
「うん。僕は先の馬車でいいよ」
続いてマリベルへ視線が向けられる。
「マリベルはエレノアと一緒に乗りなさい」
「私が、でございますか」
「今日はエレノア付きでしょう?」
そう言われれば断る理由はない。マリベルは一瞬だけ間を置き、頭を下げた。
「……承知いたしました」
エレノアが先に馬車へ乗り込み、マリベルも向かいの席へ腰を下ろす。扉が閉まりかけたところで、レオルスが外から顔を覗かせた。
「マリベル」
「何でございますか」
「エレノアをよろしくね」
「本日の役目ですので」
「うん。頼りにしているよ」
「……承知いたしました」
いつもの軽口とは違う言い方に、マリベルは少しだけ返事を遅らせる。
やがて扉が閉まり、二台の馬車は公爵邸を出発した。
***
馬車が王都を離れるにつれて、街道沿いの景色は少しずつ変わっていった。石造りの建物が減り、窓の外には畑や林が広がっていく。
向かいに座るエレノアは、しばらく窓の外を眺めていたが、やがて道沿いに咲く小さな花へ目を留めた。
「きれいね」
「左様でございますか」
「マリベルは花に興味がないの?」
「ございません」
「本当に?」
「はい」
「白薔薇も?」
「花でございます」
「全部同じなのね」
あまりにも身も蓋もない返事に、エレノアは困ったように笑った。
「何でございますか」
「別に。ただ、いつか好きな花ができるといいわね」
「必要ございません」
「そう?」
エレノアはそれ以上勧めることもなく、再び窓の外へ目を向ける。
少し前、後方についていた二人の護衛が、街道脇に倒れている男を見つけて馬を止めていた。先を行く馬車との距離も開いており、今だけはエレノアたちの馬車だけが街道に取り残される形になっている。
やがて馬車が緩やかな坂へ差しかかった。
車輪が石畳を踏む音と、馬の蹄、御者が手綱を操る気配。それまで一定の調子で続いていた音の中にほんの一度だけ、異質な金属音が混じった。
マリベルが顔を上げる。
次の瞬間、馬車が大きく傾いた。
「きゃっ!」
座席から投げ出されかけたエレノアへ、マリベルは反射的に手を伸ばして腕を掴んだ。
「エレノア!」
続けざまに激しい音が響き、車輪が跳ねる。馬車は左右へ大きく振られ、窓の外から馬の嘶きが聞こえた。
「何が――」
「掴まって!」
今度は敬語さえ飛んだ。
マリベルは片手で座席の縁を掴みながら、もう一方の腕でエレノアを自分の側へ引き寄せた。
「車輪が!」
前方から御者の怒声が聞こえる。
片側の車輪が外れかけ、坂を下る馬車はさらに大きく傾いた。このままでは横転する。
窓の外を確認すると、右側には斜面が続き、左側には低い茂みが広がっている。
「御者様! 左へ!」
「ですが、茂みに突っ込みます!」
「横転するよりましです!」
御者が強く手綱を引いた。馬が進路を変え、馬車は街道を外れて茂みへ突っ込む。
枝が窓へ激しくぶつかり、ガラスに亀裂が走った。マリベルは咄嗟にエレノアを抱え込むように身体を丸め、何度も襲ってくる衝撃に耐える。
車体は大きく揺れながら茂みの中を進み、枝や低木に勢いを削がれていった。やがて車輪の音が鈍くなり、最後にもう一度大きく傾いてから、馬車はようやく止まる。
急に静かになった車内には、二人の荒い呼吸だけが残った。
「……エレノア」
マリベルは抱えていた身体から少し離れ、顔や手足に目立った傷がないか確かめた。
「怪我は?」
「大丈夫……マリベルは?」
「私は――」
答えようとした瞬間、右肩に鋭い痛みが走った。先ほど座席へ打ちつけたらしい。
「平気です」
「本当に?」
「はい」
隠したつもりだったが、エレノアはマリベルの顔をじっと見た。
「痛そうな顔をしているわ」
「しておりません」
「しているわ」
「気のせいでございます」
「後で見せて」
「必要ございません」
「必要かどうかは、怪我を見てから決めるわ」
言い返そうとしたマリベルだったが、今は自分の傷より外の安全を確かめる方が先だと思い直した。
歪んだ扉は力を入れれば何とか開いた。
「ここでお待ちください」
「私も出るわ」
「危険かもしれません」
「馬車の中にいた方が安全なの?」
返す言葉がなく、マリベルは少しだけ眉を寄せた。
「私から離れないでください」
「分かったわ」
二人で外へ出ると、御者も地面へ座り込んでいた。腕を擦りむいているものの、大きな怪我はなさそうだった。
「申し訳ございません、お嬢様!」
「謝らないで。あなたも怪我をしているでしょう?」
エレノアが御者へ近づこうとしたため、マリベルが先に前へ出た。
「私が確認いたします」
しゃがんで腕の傷を確かめる。血は出ているが深くはない。
「大きな傷ではなさそうです」
「助かります……急に車輪が外れて」
その言葉を聞き、マリベルは傾いた馬車へ目を向けた。外れかけた車輪の近くに、金属の留め具が落ちている。
拾い上げて断面を確認すると、完全に折れているわけではなかった。端には何度も細い刃物を当てたような、浅く不自然な筋が残っている。
「マリベル?」
後ろから呼ばれても、すぐには答えなかった。
車軸の近くにも同じような傷がある。自然に摩耗したものではない。誰かが壊れやすくなるよう、意図的に細工をしたのだ。
なぜ事故が起きる前に、この異変へ気づくことはできなかったのか。
そんな考えが頭をよぎったが、マリベルはすぐに振り払った。今は後悔している場合ではない。
「マリベル。何か分かったの?」
近づいてきたエレノアへ、マリベルは拾った留め具を見せた。
「こちらをご覧ください」
「傷?」
「はい。何度も刃を入れた跡がございます」
エレノアの表情が、わずかに強張った。
「これは……」
「はい。偶然壊れたのではございません」
マリベルは周囲を見回す。
風に木々が揺れるだけの静かな林。先を走っていた公爵たちの馬車は、もう見えない。こちらが遅れていることに気づけば戻ってくるはずだが、それまでどれほど時間がかかるのか分からなかった。
背筋を冷たいものが這う。
「エレノア」
先ほどまでとは違う声音に、エレノアも何かを察したらしく顔を上げた。
「街道から見えにくい場所へ移動してください」
「どうして?」
「こちらへ」
マリベルはエレノアの手首を取り、車体の陰へ移動させた。馬車の細工をした者が様子を確かめに来るなら、まず街道から近づいてくるはずだと考えたのだ。
「御者様もこちらへ」
戸惑う御者も呼び寄せてから、腰へ手を伸ばす。
そこには、見習い用として持たされている小ぶりの鉄扇があった。護身術の稽古では何度も使っているが、実際に人へ向けたことは一度もない。
柄を握った手のひらに、じっとりと汗が滲んだ。
「……何かいるの?」
背後から尋ねられ、マリベルは分からないまま強がることをせず、正直に答えた。
「分かりません。ですが、馬車へ細工をした者が、お嬢様の様子を確かめに来る可能性がございます」
口にした直後、自分の言葉に引っかかった。
お嬢様。
違う。
まだ、そうではない。
「……エレノアの様子を、確かめに来る可能性がございます」
言い直したマリベルの横顔を、エレノアは何も言わず見つめる。
そのとき、林の奥で枝の折れる音がした。風とは違う。
マリベルは即座に鉄扇を構えた。
「下がって」
木々の間から、一人、二人と人影が現れる。さらに奥にもいた。来るなら街道側からだと考えていたマリベルにとって、完全に予想外の方向だった。
全員が顔を布で隠し、手には剣を持っている。どう見ても偶然通りかかった者ではない。先頭の男は無傷で立っているエレノアを見るなり、忌々しそうに舌打ちした。
「生きていたか」
その一言で、狙いがはっきりした。
馬車への細工も、この男たちがここにいることも、すべてエレノアを殺すためだったのだ。
先頭の男が剣を構え、静かに言った。
「公爵令嬢を殺せ」
背後でエレノアが息を呑み、マリベルは鉄扇を握る指に力を込めた。
怖い。
訓練とは違う。相手の剣は途中で止まってくれない。当たれば怪我では済まない。それでもマリベルは、エレノアを隠すように一歩前へ出た。
「エレノア。私の後ろから、動かないで」
男たちが一斉に動き出す。
最初に来た男が正面から剣を振り下ろした。
マリベルは鉄扇で刃を受け流す。
甲高い金属音が響いた。
重い。
稽古で母の攻撃を受けるときとはまるで違う。相手は止めるつもりで振っているのではなく、本当に自分を斬るつもりなのだ。
恐怖で身体が固まりそうになるのを堪え、そのまま鉄扇の先で手首を打つ。
「ぐっ!」
剣が落ちた。
すかさず膝裏を打つと、男が地面へ崩れる。これでまず一人倒した。
しかし、安堵する暇もなく、右から二人目が迫る。
「マリベル!」
エレノアの声に反応して身体を沈めると、頭上を剣が通り過ぎる。あと少し遅ければ顔を斬られていた。
喉がひどく乾く。それでも鉄扇を握り直した。
「前へ出ないで!」
「分かっているわ!」
二人目が剣を返す。
一度、二度、三度。
受けるたびに右腕が痺れた。力では勝てない。ならば、まともに受けなければいい。振り下ろされた刃の軌道を外して懐へ潜り込み、鉄扇の柄をみぞおちへ叩き込む。
「がっ……!」
息を詰まらせた男の足を払い、地面へ倒した。
二人目。
顔を上げると、まだ三人いる。いや、木立の奥にも一人いる。
先ほど倒した二人を含めれば、六人だ。
「……多すぎるでしょう」
思わず漏れた声に、エレノアが背後から問いかける。
「逃げられないの?」
「探しております」
街道へ戻れば囲まれる。林の奥へ逃げれば、土地勘のないエレノアと負傷した御者を連れて走ることになる。馬車は使えない。
先を行った公爵たちが異変に気づけば戻ってくる。
それまで持ちこたえるしかなかった。
「御者様」
「は、はい!」
「エレノアから離れないでください」
「分かりました!」
「マリベルは?」
エレノアに尋ねられ、マリベルは男たちを見据えたまま答えた。
「この方々とお話ししてまいります」
「その扇で?」
「はい」
「お話に使うものではないと思うわ」
「本日より、その用途も加わりました」
自分でも何を言っているのか分からなかったが、背後からエレノアが小さく息を吐く気配がした。
「……気をつけて」
その一言が、妙に耳へ残った。
直後、二人が同時に襲いかかってくる。
片方の剣を鉄扇で受け流した瞬間、もう一人の蹴りが脇腹へ入った。
「っ!」
息が止まり、視界が大きく揺れた。
倒れるわけにはいかない。
歯を食いしばり、蹴ってきた男の足首へ鉄扇を打ち込む。体勢が崩れたところで肩を押し、もう一人へぶつけた。
二人がもつれた隙に、片方の剣を蹴り飛ばし、もう一人の顎へ閉じた鉄扇の柄を当てる。
男が仰向けに倒れた。
三人目。
だが、剣を蹴り飛ばされた男はすぐに体勢を立て直した。
速い。
構え直すより先に剣先が左腕を掠め、制服の布が裂けた。
「っ……!」
傷口から熱いものが流れる。
「マリベル!」
「大丈夫!」
叫び返しながら、自分に言い聞かせる。
傷を見るな。見れば怖くなる。見るべきなのは相手だ。
肩。肘。足。視線。
母はいつも言っていた。武器だけを見るな。武器を動かす人間を見なさい、と。
男の右肩がわずかに動く。
今度は分かった。振られた剣をかわし、手首へ鉄扇を打ち込む。落ちた剣を遠くへ蹴り、そのまま胸元を押して地面へ倒した。
四人目。
息が苦しい。
肺が焼けるようで、右腕も重い。左腕からは血が滲み続けている。
これだけ戦っても、まだ終わらない。自分が思っていたより、ずっと力が足りない。その事実だけが、容赦なく突きつけられていた。
「子どものくせに……!」
残った男の一人が吐き捨てる。
「邪魔だ、どけ!」
マリベルは答えず、鉄扇を構え直した。
「そいつさえ殺せば終わるんだ!」
男の視線が、自分の後ろへ向いた。
その瞬間、胸の奥に恐怖とは違う、熱く鋭い何かが湧き上がった。
「……そいつ?」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「今、エレノアを、そのように呼びましたか?」
「だから何だ!」
男が踏み込むと同時にマリベルも前に出た。
振り下ろされた剣を鉄扇で受ける。腕が悲鳴を上げ、押し負けそうになる。
「マリベル!」
さらに力を込められ、鉄扇が軋んだ。
これ以上は持たない。
押し切られる寸前、マリベルは支えていた力を抜いた。
「なっ――」
突然支えを失い、男が体勢を崩す。
その横へ身体をずらし、隙だらけの懐へ潜った。
鉄扇を男の脇へ差し込み、全身を使って押し上げる。
「ぐあっ!」
そのまま男は剣を落としながら気を失う。
マリベルは地面に転がった剣を、すぐに蹴り飛ばした。
五人目。
「……あと、一人」
荒い息の合間に呟き、木立の奥にいた最後の男を見る。
動かない。
逃げるつもりなのかと思ったが、違う。
男は最初からマリベルを見ていなかった。その視線の先にいるのはエレノアだ。
「エレノア、下がって!」
叫んだ瞬間、男が走った。マリベルを避けるように進路を変える。
追おうとしたマリベルの足がもつれ、膝が地面についた。連戦でとうに限界を迎えている。身体が、もう思うように動かない。
「マリベル!」
エレノアがこちらへ駆け寄ろうとする。
「来ないで!」
男が剣を振り上げ、エレノアへ踏み込んだ。
マリベルは止めようと身を起こす。だが、右足に力が入らない。
間に合わない。
それでも無理やり地面を蹴り、エレノアとの間へ身体を割り込ませようとした。
その瞬間、振り下ろされる刃の軌道にマリベルが入る。
「危ない!」
エレノアがマリベルの腕を掴み、力いっぱい引いた。剣先が、ほんの少し前まで肩のあった場所を通り過ぎる。
二人はそのまま地面へ倒れ込んだ。
「何をしているの!」
マリベルは痛みも忘れて叫んだ。
「あなたに剣が――」
「私は侍女見習いよ!」
腕を押さえながら立ち上がる。
「あなたを守る側でしょう!」
「……だからって」
エレノアも立ち上がった。
「マリベルが斬られてもいいの?」
「よくありません!」
「なら、同じでしょう?」
「同じではございません!」
「何が違うの?」
「私は――」
侍女だから。
そう言おうとした言葉が、喉の奥で止まった。エレノアはまっすぐマリベルを見つめている。その表情には怒りが浮かんでいたが、身体はわずかに震えていた。
怖いのだ。それでも、マリベルが傷つくのを見過ごすことはできなかったのだろう。
「私は、私のためにマリベルが怪我をするのは嫌よ」
そんなことを言われたのは初めてだった。
侍女は主人を守る。
主人の安全が何より優先される。
それが当然だと思っていた。
では、その主人から、自分の安全まで願われたとき、侍女はどうすればいいのだろう。
「話は終わったか?」
男の声で現実へ引き戻された。まだ終わっていない。
マリベルは再びエレノアの前へ出る。
残った男は一人。いや、先ほど倒した一人も、よろめきながら起き上がっている。
二人。
右腕は痺れ、左腕には傷があり、足にも十分な力が入らない。
鉄扇を握る手まで震えていた。
「もう終わりだ。小娘」
男の一人が笑う。
「……まだです」
「何?」
「まだ、エレノアは無事でございます」
それだけでいい。まだ守れている。ならば、終わっていない。
一人が剣を振り下ろす。マリベルは鉄扇で刃を弾いたが、もう反撃へつなげるだけの余力がない。そこへ、起き上がったもう一人が横から踏み込んできた。
避けるより早く、脇腹へ拳が叩き込まれる。
「っ……!」
息が詰まり、マリベルの身体が地面へ転がった。
「マリベル!」
「来ないで!」
立ち上がる。
痛い。怖い。逃げたい。
それでも、もう一度エレノアの前へ戻った。
拳を振り抜いた男もマリベルを追おうとしたが、一歩踏み出したところで大きくよろめき、膝をついた。先ほど受けた一撃から、まだ完全には立ち直っていないらしい。
「しつこいガキだな。どうしてそこまで庇う?」
もう一人の男が吐き捨てる。
マリベル自身にも分からなかった。数日前まで、気に食わないと思っていた少女だ。
何も知らず、周囲から守られて当然だと思っている公爵令嬢だと決めつけていた。
けれど、実際は違った。
失敗しても次に直せばいいと言った。
誰か一人へ責任を押しつけなかった。
侍女に命令するのではなく、自分で考えてほしいと言った。
そして自分が斬られそうになれば、危険も顧みず腕を引いた。
自分が思っていた人ではなかった。
「……分かりません」
「は?」
「私にも、分かりません」
それでも一つだけ、はっきりしている。
この場所を譲りたくない。エレノアの前から退きたくない。
「そこをどけ!」
「お断りいたします!」
男が襲いかかってくる。
剣を受けた瞬間、鉄扇が手から弾かれた。
「あっ――」
小ぶりの鉄扇が宙を舞い、遠くへ落ちる。
空になった右手へ意識が向いた、その一瞬を突かれた。
拳が肩へ入り、マリベルは地面へ倒れる。
今度はすぐに起き上がれない。
「マリベル!」
エレノアが駆け寄ってくる。
「来ては――」
声に力が入らない。胸が苦しく、右腕も上がらない。
男は剣を握り直すと、マリベルではなくエレノアを見た。
「終わりだ」
「……逃げて」
「え?」
「エレノア、逃げて……!」
初めて、自分では守れないと認めた。それが何より悔しかった。
しかしエレノアは首を横に振る。
「マリベルを置いていけないわ」
「何を言って――!」
男が走り出したので、マリベルは立とうとする。
立てない。
鉄扇もない。
間に合わない。
剣がエレノアへ向けられる。
その瞬間、考えるより先に身体が動いた。
「エレノア!」
残っていた力を振り絞って地面を蹴り、エレノアへ飛びつく。
「きゃっ!」
細い身体を両腕で抱き締め、頭を自分の胸元へ押し込む。
そして背中を男へ向けた。
刃が来る。分かっていた。きっと痛いのだろう。怖い、怖くないはずがない。それでも、腕を緩めようとは思わなかった。
せめて、この子だけは傷つけさせない。
「マリベル……?」
腕の中でエレノアが震える。マリベルは目を閉じた。
刃が振り下ろされる。
その寸前、甲高い金属音が響いた。
覚悟していた痛みはない。代わりに、男の呻き声が聞こえる。
「ぐっ……!」
恐る恐る目を開けると、目の前に黒い鉄扇があった。自分のものではない。使い込まれた、古い鉄扇だ。
その扇が、男の剣を完全に受け止めている。
「最後まで」
聞き慣れた声がした。
「よく頑張りましたね」
マリベルは息を呑んだ。
「……お母様」
そこに立っていたリゼットは、呼吸一つ乱していなかった。後続の馬車が来ないことに気づくなり護衛の馬を借り、引き返す一行より先に駆け戻ってきたのだ。
「な、何だ、お前は!」
男が力を込めても、リゼットの腕はわずかにも動かない。
「ただの侍女でございます」
「嘘をつけ!」
リゼットが手首を返しただけで、男の剣が大きく弾かれた。
「なっ――」
次の瞬間には、男は地面へ膝をついていた。
「正座なさい」
「は?」
「聞こえませんでしたか? 正座なさい」
男が立ち上がろうとしたため、リゼットは鉄扇を肩へ軽く触れさせた。
それだけで身体が沈み、両膝が地面へ揃う。
「な、何を……」
「姿勢が崩れております」
「何で俺が正座を――」
「お黙りなさい」
「はい」
男は黙った。
残った一人が逃げようと背を向ける。
リゼットは振り返ることさえせず、手にしていた鉄扇を投げた。
黒い扇が回転しながら飛び、男の足元へ突き刺さる。
「ひっ!」
「どちらへ?」
「……」
「まだ、お話は終わっておりません」
逃げ道を塞がれた男は、足元の鉄扇を見て顔を引きつらせた。それでも諦めきれないのか、近くに落ちていた剣を拾い上げる。
「女一人で――」
その言葉が終わる前に、リゼットの姿が消えたように見えた。
マリベルが次に母を捉えたときには、男の剣は地面へ落ち、本人はなぜか正座していた。
自分があれほど苦戦した相手だというのに、母は難なく制圧している。何度も刃を受け、腕も足も動かなくなるまで戦った自分とは、まるで違った。
遠い。
あまりにも遠い。
「マリベル」
名前を呼ばれて、ようやく我に返る。
「はい……」
「まず、腕を離しなさい」
「え?」
そこで初めて、自分がまだエレノアを全力で抱き締めていることに気づいた。
「あっ……申し訳ございません!」
慌てて腕を離すと、エレノアは何度か瞬きをしたあと、小さく首を振った。
「大丈夫よ。マリベルのおかげで怪我をしなかったもの」
そう言われても、マリベルは素直に受け取れなかった。
違う。
自分では守れなかった。母が来なければ、どうなっていたか分からない。
「リゼット!」
街道の向こうからクラリスの声が響いた。
戻ってきた公爵家の馬車が止まり、公爵とレオルスも次々に降りてくる。
「エレノア!」
「お母様!」
クラリスは娘のもとへ駆け寄ると、その身体を強く抱き締めた。
「怪我は?」
「私は大丈夫」
「本当に?」
「ええ」
顔、腕、衣服と順に確かめ、ようやく大きな傷がないと分かってから、クラリスは長く息を吐く。普段の穏やかな表情に戻るまでには、しばらく時間がかかった。
「よかった……」
「心配をかけてごめんなさい」
「あなたが謝ることではないわ」
クラリスが娘の頬へ手を添えている間に、公爵は周囲の状況を確認し、同行していた護衛たちへ素早く指示を出した。
「全員、生け捕りにしろ。馬車への細工も調べる。誰の命令か、必ず突き止めるんだ」
「承知いたしました」
レオルスは妹へ向かいかけた途中で、泥と血にまみれたマリベルの姿に気づき、足を止めた。
「マリベル。怪我をしているじゃないか」
袖は裂け、左腕から血が滲み、顔色もすっかり失われている。
「問題ございません」
「それを問題ないとは言わないよ」
レオルスは眉を寄せた。
「僕の妹たちが二人ともこんな目に――」
「私は妹ではございません」
反射的に返した声には、さすがにいつもの勢いがなかった。それでもレオルスは、その返事を聞いて表情を緩める。
「そこは言えるんだね」
「当然でございます」
「それなら少し安心したよ」
クラリスもようやくマリベルの傷に気づいた。
「マリベル」
「はい、奥様」
姿勢を正そうとした途端、足が震えた。
倒れかける前に、リゼットがすぐ腕を支える。
「無理に立つ必要はありません」
「ですが」
「座りなさい」
「……はい」
素直に地面へ腰を下ろすと、クラリスも目線を合わせるようにその前へしゃがんだ。
「エレノアを守ってくれたのね」
クラリスの言葉に、マリベルは視線を落とした。
「……申し訳ございません」
「何について謝っているの?」
「私は、エレノアを、お守りできませんでした」
エレノアが口を開きかけたが、クラリスの方が先だった。
「エレノアを狙ったのは、あなたではないでしょう」
「ですが、私はそばにおりました」
「ええ」
「それなのに……」
最後は母が助けた。自分は途中までしか守れなかったのだ。そう言おうとしたマリベルへ、クラリスは静かに声をかける。
「あなたがどれだけエレノアを守ろうとしたかは、その姿を見れば分かります」
マリベルが顔を上げた。
「あなたがいなければ、エレノアはもっと早く危険にさらされていたでしょう。ありがとう」
思いがけない礼に、どう答えればいいのか分からなくなった。
結局、マリベルは深く頭を下げる。
「……もったいなきお言葉でございます」
クラリスは立ち上がると、リゼットへ目を向けた。
「リゼット。マリベルの怪我を見てあげて」
「承知いたしました」
そしてエレノアへ手を差し出す。
「こちらへいらっしゃい。あなたもきちんと診てもらいます」
「私は本当に怪我はないわ」
「それを決めるのは、診てもらってからにしましょう」
「……はい」
母とともに歩き出したエレノアは、数歩進んだところで足を止めた。
「マリベル」
呼ばれて顔を上げる。
「あとで、お話ししましょう」
「……はい」
それを確認すると、エレノアは今度こそクラリスとともに馬車へ向かった。
***
刺客たちは全員捕らえられた。
事件の背景が明らかになるのは、もう少し先のことである。
後の調査では、公爵が以前摘発した横領事件に関係する一派が、公爵への報復としてエレノアの殺害を企てていたことが判明した。一派は公爵家の行程と乗車予定を事前に調べ、エレノアが乗る馬車へ細工を施していたようだ。街道脇で倒れていた男も彼らの仲間であり、護衛を足止めする役目だった。
馬車の事故に見せかけてエレノアを殺害し、それに失敗した場合は待機していた者たちが直接襲う。最初から、そういう計画だったのである。
もちろん、このときのマリベルはまだ何も知らない。
別邸へ到着して手当てを受けたあと、彼女は一人で庭の端に立っていた。
左腕には包帯が巻かれ、肩にも湿布が貼られている。少し動かすだけでも痛んだが、じっとしている方が耐えられなかった。
目の前にある一本の木へ向かって鉄扇を構え、振る。
遅い。
もう一度、鉄扇を振り上げると、肩に痛みが走る。それでも振り下ろそうとしたところで、背後から声がした。
「何をしているのですか」
その一言だけで誰なのか分かり、マリベルは鉄扇を下ろした。
「……お母様」
「怪我人が稽古をするものではありません」
「ですが」
「休みなさい」
「できません」
いつになく強く拒んだ娘を見て、リゼットの目がわずかに細くなる。
「なぜですか」
「私は……弱すぎます」
「そうですね」
迷いなく肯定され、マリベルは思わず母を見た。
「否定なさらないのですか」
「事実ですので。今のあなたでは、私には遠く及びません」
容赦のない言葉だった。けれど、不思議と腹は立たない。自分でも嫌というほど分かっている。
「私は、エレノアを守れませんでした」
「いいえ」
今度は、はっきり否定された。
「あなたは最後まで逃げませんでした」
「ですが――」
「ご自分にできることは、すべてなさいました。そして最後には、武器を失ってもエレノア様の前へ立った」
リゼットの視線が、包帯の巻かれた左腕へ落ちる。
「よく頑張りましたね、マリベル」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
幼い頃から、礼儀も料理も掃除も護身術も、母から何度となく教えられてきた。鉄扇の扱いだって毎日のように稽古している。
それでも今日ほど、母からその一言を聞きたいと思ったことはなかった。
「……ありがとうございます」
何とか返した声は少し掠れていた。けれど、リゼットの話はそこで終わらなかった。
「ですが」
やはり来た。
マリベルは自然と背筋を伸ばす。
「足りませんでしたね」
「……はい」
今度は迷わず認める。
「私は、もっと強くなります」
「力だけ、ですか?」
思いがけない問いに、マリベルは母を見る。
「今日、馬車へ細工がされていることに気づいたのは、いつでしたか」
「事故のあとでございます」
「出発前に気づいていれば?」
「……事故そのものを防げました」
「刺客の数は、最初からすべて把握できましたか」
「いいえ」
「最後に起き上がった者には?」
「気づくのが遅れました」
リゼットは娘の答えを一つずつ確認するように聞いたあと、静かに告げた。
「腕力だけでは、主を守れません」
「……はい」
「見なさい」
「はい」
「聞きなさい」
「はい」
「考えなさい」
「はい」
そこから先は、いつもの稽古以上に真剣な声だった。
「衣服を見れば、その者がどのように動いたか分かります。足音を聞けば、体格や疲労の程度も推測できます。呼吸、姿勢、匂い、部屋の乱れ。危険は、刃が向けられてから始まるのではありません」
マリベルは一言も聞き逃さないよう、母の顔を見つめた。
「そして、主のお言葉を聞きなさい」
戦い方の話だと思っていたマリベルは、意外そうに母を見る。
「今日、エレノア様はあなたへ何とおっしゃいましたか」
「……私が傷つくのは嫌だと」
「では、それも覚えておきなさい」
「ですが、侍女は主を――」
「主を守るためなら、主のお心を無視してよいのですか?」
言葉が止まった。
「忠誠心は大切です。ですが、それだけで一流の侍女にはなれません」
マリベルは手の中にある鉄扇へ目を落とした。
ただ強くなればいいと思っていた。
母のように戦えれば、今日のように追い詰められることはないと思っていた。
だが、それだけでは足りないのだ。
「……では、すべて教えてください」
「すべて?」
「お母様が知っていることを。私にできないことを、一つずつなくします」
「ずいぶん大きく出ましたね」
「はい」
「なぜ、そこまで?」
そう問われると、答えはすぐに出なかった。
数日前まで、エレノアなど気に食わないと思っていた。
今だって、何もかも好きになったわけではない。白薔薇の良さは分からないし、本を読んでいるだけの時間は退屈だ。頼み事をするたび、命じるのではなくお願いされるのも、やはり少し変だと思う。
それでも、刃がエレノアへ向けられた瞬間、自分の身体は勝手に動いた。
「……分かりません」
「そうですか」
リゼットは理由を無理に聞き出そうとはしなかった。
「では、分かるまで考えなさい。ただし、本日は休みなさい」
「ですが」
「返事は?」
「……はい」
逆らえない声音に、マリベルは渋々鉄扇を下ろす。
リゼットが背を向けて数歩進んだところで、マリベルは呼び止めた。
「お母様」
振り返った母へ、マリベルはまっすぐ告げた。
「私、必ず、お母様より優れた侍女になります」
リゼットはしばらく娘を見つめてから、いつもと変わらない調子で返した。
「まずは、怪我人が勝手に稽古をしない程度の判断力を身につけなさい」
「……はい」
それだけ言って歩いていく。
けれど、ほんの一瞬だけ母の口元が緩んだように見えた。
見間違いだったのかもしれないが。
***
夕方。
別邸の廊下を歩いていたマリベルは、窓辺に一人で立っているエレノアを見つけた。
「エレノア」
名前を呼ぶと、エレノアはすぐにこちらへ振り返った。
「マリベル。もう歩いて大丈夫なの?」
「はい」
「本当に?」
「……ほどほどには」
「それならいいわ」
エレノアの表情が、ようやく緩んだ。
以前なら、そんな変化を見ても何とも思わなかったはずなのに、今は胸の奥に小さな熱が残った。
「マリベル」
「はい」
「明日からは、もう私のそばにいなくてもいいのよ」
「……はい?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「どういうことでございますか」
「今日、怖かったでしょう?」
「それは……」
怖かった。
否定することはできない。
「それに、怪我までしたわ」
「この程度――」
「この程度ではないでしょう?」
エレノアは眉を寄せた。
「私のせいで傷ついた人に、この程度なんて言ってほしくないわ」
「あなたのせいではございません」
考えるより先に言葉が出た。エレノアが意外そうに目を見開き、言った本人も気づく。先ほどクラリスから言われたことを、そのまま返しているのだ。
「悪いのは、あなたを襲った者たちでございます。ですから、あなたが気に病む必要はございません」
「でも、私がいなければ、マリベルがこんな怪我をすることもなかったでしょう?」
「それでも、エレノアのせいではございません」
マリベルがきっぱりと言い切ると、エレノアはしばらく黙った。
「……そうね」
エレノアは目を伏せて、改めてマリベルを見る。
「でも、それとマリベルが私の侍女になるかどうかは別でしょう?」
「そうですが……」
「最初にも言ったわ。誰に仕えるかは、マリベルが決めることよ」
窓の外へ視線を向けながら、エレノアは静かに続けた。
「今日助けてくれたからって、私のそばにいなければならないわけではないの。嫌なら、嫌と言っていいのよ」
数日前にも、同じことを言われた。そのときは、誰に仕えるかを周囲に勝手に決められるのではなく、自分で選んでいいのだと認めてもらえたことが嬉しかった。
なのに今は、同じ言葉が妙に胸へ引っかかる。
「……エレノア」
「なあに?」
名前を呼んだ。
これまでそう呼んできたはずなのに、今だけはどこか違うように感じた。
マリベルは一度目を閉じ、母から教わったとおりに姿勢を整えた。
背筋を伸ばし、足を揃え、両手を前へ置いて一礼する。
「……いいえ」
顔を上げる。
「お嬢様」
エレノアの目が見開かれた。
今度は、言い直さなかった。自分で選んで口にしたその呼び方は、不思議なほど自然だった。
「私を、お嬢様の侍女にしてくださいませ」
「……私の?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「リゼットに言われたからではなく?」
「違います」
「お母様やお父様に言われたからでも?」
「違います」
そこにはもう、迷いなどなかった。
「私が、お嬢様を選びました」
エレノアはしばらく何も言わなかった。やがて、ほんの少し困ったように笑う。
「どうして?」
「分かりません」
「分からないの?」
「はい」
「そこは何か言うところではなくて?」
「嘘を申し上げるわけにはまいりませんので」
エレノアがとうとう吹き出した。
「マリベルらしいわね」
「ですが、一つだけ決めました」
「何を?」
「私は、まだ未熟でございます」
傷ついた左腕へ目を落とす。
「本日は、最後までお嬢様をお守りすることができませんでした」
「そんなこと――」
「いいえ。できませんでした」
そこだけは譲れなかった。
「ですから、学びます。見ます。聞きます。考えます。それから、もっと鍛えます」
今日、母から教わったことを一つずつ胸に刻むように言葉にしていく。
「侍女としてできることを、一つずつ増やします。そしていつか、お嬢様のおそばに立つにふさわしい侍女になります」
エレノアはマリベルを見つめたあと、不思議そうに笑った。
「私は、もうふさわしいと思っているけれど」
「私が納得いたしません」
「そう」
「はい」
「では、仕方ないわね」
エレノアが手を差し出す。
「これからよろしくね、マリベル」
その小さな手を見つめ、マリベルはそっと自分の手を重ねた。
「はい、お嬢様」
***
翌朝。
朝食室へ向かうエレノアの半歩後ろを、マリベルが真剣な顔で歩いていた。
「マリベル」
廊下の途中でリゼットに呼び止められる。
「はい」
「近すぎます」
慌てて少し下がる。
「遠すぎます」
今度は少し前へ出る。
「まだ遠いですね」
「……半歩とは、これほど難しいものなのでございますか」
「あなたが未熟なだけです」
何度も位置を調整するマリベルを見て、エレノアはとうとう小さく笑った。
「そんなに気にしなくてもいいのよ」
「なりません」
「どうして?」
「お嬢様の侍女でございますので」
胸を張ったところへ、向こうからレオルスがやってきた。
「おはよう、エレノア。マリベル」
「おはようございます、お兄様」
「おはようございます、レオルス様」
レオルスは二人の位置関係を見比べ、すぐに事情を察したらしい。
「本当にエレノアの侍女になったんだね」
「はい」
「では、やっぱり僕の妹が二人に――」
「なりません」
「即答だね」
「私は妹ではございません」
「でも昨日まで、エレノアの侍女でもなかったよ?」
「昨日と本日は違います」
変わらない態度に、レオルスは楽しそうに笑った。
「では今日からよろしくね、マリベル」
「はい」
「エレノアを頼むよ」
昨日までなら、「本日の役目ですので」と一言添えていただろう。
けれど今度は、役目だからとは言わなかった。
半歩前を歩く少女を見る。
「承知いたしました」
声が聞こえたのか、エレノアが振り返った。
「マリベル?」
「はい、お嬢様」
その呼び方を聞いて、エレノアは嬉しそうに笑った。
お嬢様が笑った。
その笑顔を見て、マリベルは思った。
この方のおそばにいたい。
この方を、守れる侍女になりたい。
まだ、その想いを何と呼べばよいのかは分からなかった。
ただ一つ、分かっていることがある。
今日から、彼女はマリベルのお嬢様になった。
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