最終章 お嬢様の侍女を辞めてもいいですって!? 絶対にお断りいたしますわああああああああああああああああ!!!!
「お嬢様の侍女を辞めてもいいですって!?」
アルヴァイン公爵家の朝を、侍女マリベルの声が揺らした。
廊下で銀盆を運んでいた使用人が足を止め、窓を磨いていた下働きが反射的に壁際へ寄る。庭では剪定ばさみを持っていた庭師が顔を上げた。
「絶対にお断りいたしますわああああああああああああああああ!!!!」
窓が震える。
若い従僕は銀盆を抱え直すと、隣に立っていた老執事を見た。
「馬車を?」
「今回はいらん」
「よろしいのですか?」
「どこにも行かん」
「では、公爵様へのご報告は?」
「ああ。しておきなさい」
「いや、その必要はない」
背後から声がした。
振り返ると、アルヴァイン公爵とレオルスが廊下の向こうから歩いてくる。
老執事は黙って一礼した。
公爵は居間の扉へ目を向ける。
「私も聞いた」
中から再び、今度はやや低く抑えたマリベルの声が聞こえた。
「どういうことでございますか、お嬢様」
先ほど屋敷を揺らした絶叫が嘘のような声だった。
レオルスが苦笑する。
「先ほどとの落差がすごいね。落ち着いたのかな?」
老執事は居間の扉を見たまま、少し考えた。
「窓から離れておきなさい」
「はい」
若い従僕は素直に下がった。
***
居間では、エレノアが長椅子に腰掛けていた。
向かいには、国外から戻ったばかりの母クラリス。その半歩後ろにはリゼットが控えている。
そしてエレノアの前には、黒塗りの鉄扇を手にしたマリベルが向かい合うように立っていた。扇面には、金文字で『お嬢様第一』と刻まれている。
「お嬢様」
「なあに?」
「先ほどのお言葉を、もう一度お願いいたします」
「あなたは、私の侍女を辞めてもいいのよ」
やはり聞き間違いではなかったらしい。マリベルの眉間に、はっきりと皺が寄る。
「訂正をお願いいたします」
「どうして?」
「辞める予定がございませんので」
即答だった。
エレノアは困ったように口元を緩める。
「だから、そうではなくて」
「私に何か至らぬ点がございましたか」
「え?」
エレノアが目を瞬いた。
「紅茶でしょうか。今朝もいつもどおりお淹れしたつもりでございますが、温度に問題がございましたか」
「ないわ」
「昨日お出しした夜着は」
「いつもどおりよ」
「髪を整える際に、引っかかる箇所がございましたか」
「マリベル」
「はい」
「一度止まって」
「かしこまりました」
ぴたりと止まる。エレノアは息を吐いた。
「あなたを辞めさせたいわけではないの」
「では、なぜそのようなお話に」
「それを説明したかったのよ」
そこへ扉が開き、公爵とレオルスが入ってくる。
「エドルス、ちょうどよかったわ」
クラリスが、夫であるアルヴァイン公爵へ顔を向けた。
「エレノアが、マリベルに妙なことを言い出したの」
「分かっている。廊下まで聞こえていた」
エドルスは妻の隣へ腰を下ろし、レオルスも空いている椅子に座って、エレノアとマリベルを見比べた。
「返事はもう出ているようだけれど?」
「まだよ」
エレノアは首を横に振る。
「マリベルは何も考えずに答えたもの」
「考える必要がございません」
「ほら」
マリベルは不服そうだった。エレノアは膝の上で両手を重ねる。
「今日で、ちょうど十年なの」
鉄扇を握る指が、わずかに強張った。
「あなたが私の侍女になってくれた日から」
「覚えております」
忘れるはずがなかった。
あまりにも濃かった紅茶も、庭で交わした言葉も。まだ今ほど背の高くなかった少女が、うまくできないことに悔しそうな顔をしながら、それでも自分の半歩後ろへ立とうとしていたことも。
そして、あの日の言葉も。
『私が、お嬢様を選びました』
「あのとき、あなたは自分で決めてくれたでしょう?」
「はい」
「誰かに命じられたからではなく、私の侍女になると」
「当然でございます」
「でも、十歳のあなたが選んだことだけで、その後の人生まで全部決まってしまっていいのかしら」
マリベルはすぐには返さず、鉄扇に刻まれた金文字へ一度だけ視線を落とした。
「後悔はしておりません」
「知っているわ」
エレノアは迷わず答える。
「あなたが嫌々そばにいたなんて、一度も思ったことはないもの」
「でしたら」
「だからこそ、今のあなたにもう一度選んでほしいの」
レオルスの顔から軽い笑みが消えた。クラリスもエドルスも口を挟まない。
「十年前のあなたではなく、今のあなたがどうしたいのか。ちゃんと考えてほしいの」
「答えは変わりません」
「それを決めるのは、考えてからでも遅くないでしょう?」
マリベルは黙った。
「私は、あなたにいてほしいわ」
エレノアはそこをごまかさなかった。マリベルが顔を上げる。
「これからも、そばにいてほしいと思っている。でも、私がそう望んだからという理由だけで、あなたのこれからまで決めたくないの」
マリベルの唇が動きかけるが、言葉にはならなかった。
「今日はお休みにして」
「必要ございません」
「マリベル」
「はい」
「お願い」
命令ではなかった。
そのせいか、マリベルは余計に困った顔をした。
「お嬢様が、本日はお休みを取るようにとおっしゃっています」
リゼットが静かに口を開く。
「お母様」
「お従いなさい」
「ですが」
「まだ、ご自分で考えてもいないのでしょう?」
その一言で、マリベルの反論が止まる。
リゼットはそれ以上何も加えなかった。自分で考えろと言っている相手へ、答えまで与えるつもりはないらしい。
エレノアが立ち上がる。
「明日の朝、聞かせて」
「……本当に、辞めてほしいわけではございませんか」
思いがけない問いだった。エレノアは一瞬だけ目を見開き、すぐに真正面からマリベルを見た。
「違うわ」
「左様でございますか」
「私に何か不満があるなら言って、という話でもないのよ?」
「承知いたしました」
「本当に?」
「はい」
それでもマリベルの表情には緊張が残っている。
十年前から、当然のようにそばにいた。明日も、その次の日も同じだと、いつしか二人とも疑わなくなっていたのだ。
だからこそ、もう一度選びたかった。
選んでもらいたかった。
「行ってらっしゃい、マリベル」
長い間を置いてから、マリベルは鉄扇を閉じて深く一礼した。
「……行ってまいります」
***
休暇とは、存外難しいものである。少なくともマリベルにとってはそうだった。
昼前の王都を歩きながら、何をすればよいのか分からない。仕事も買い出しもなく、エレノアの昼食を確かめる必要もなければ、午後の予定を頭へ入れておく必要もない。
好きな場所へ行き、自分のために時間を使えばいい。ただそれだけのことが、妙に難しかった。それでも、ひとまず王都の通りを歩いてみることにした。
最初に立ち寄った茶葉店では、店主が春摘みの茶葉を勧めてきた。
「香りが軽いので、若い方にも人気ですよ」
「お嬢様は、もう少し落ち着いたものを好まれます」
口にしたところで、マリベルは止まった。
店主が首を傾げる。
「贈り物ですか?」
「……いいえ」
「でしたら、ご自分のお好みで選ばれては?」
「私の」
棚へ目を向ける。
茶葉の種類も香りもさまざまだが、どれを見ても最初に浮かぶのは、エレノアが好むかどうかだった。
「お好きな香りはございますか?」
答えられない。これまで茶葉を選ぶときは、いつだって主人のためだった。
「本日は結構でございます」
一礼して店を出た。
少し歩いた先で、今度は喫茶店へ入ってみる。一人で席に着き、運ばれてきた紅茶へ手を伸ばしかけたところで、また動きが止まった。
無意識のうちに、湯気の立ち方と香りを確かめ、どの程度の温度になっているかを考えている。
自分の紅茶なのに。
マリベルはしばらくカップを眺めたあと、いつもより熱いうちに口をつけた。
「……熱いですね」
当然である。けれど、不思議と嫌ではなかった。
次に入った菓子店でも、自分の好みを選ぶつもりで棚を眺めた。
最初に目を引かれたのは、木の実を練り込んだ焼き菓子だった。
エレノアが好みそうな菓子だ。
ならば別のものをと、蜂蜜をたっぷり使った菓子を見るが、お嬢様には甘すぎる。果物を焼き込んだものも、朝食のあとにお出しするには少し重い。
いつの間にか、また主人に出すつもりで選んでいた。
結局、何も買わずに店を出る。
「難題でございますね」
通りを歩きながら、一人呟いた。
自分が何を好きで、何をしたいのか。考えたことがないわけではない。
けれど十年の間に、自分の好みとエレノアの好みは随分と重なっていた。
エレノアが好きだったから、自分も好きになったものがある。喜んでもらえたから、もっと上手になろうと覚えたことも多い。
紅茶を淹れることも、髪を整えることも、似合う装飾品を探すことも。危険を見つけ、暴漢を制圧することまで一般的な侍女の仕事に含まれるかは疑問だったが、必要だったので仕方がない。
マリベルは歩きながら、腰に差した鉄扇に目を落とした。
やがて、小さな花屋の前で足が止まる。店先には白薔薇が並んでいた。
「一本いかがですか?」
店主に声をかけられる。
「本日は、自分のための買い物でございます」
「でしたら、お好きなものをどうぞ」
マリベルは白薔薇から、赤や紫、黄色、薄桃色の花へ順に目を移した。どれも美しい。それでも最後には、白へ戻ってしまう。
「……こちらを」
「白薔薇ですね」
「はい」
一本だけ受け取る。
誰かに頼まれたわけではなく、自分で選んだ。それなのに、手の中にあるのはエレノアが好む花だった。
マリベルは白い花弁へ目を落とす。
主人だから。
守るべき相手だから。
侍女だから。
それだけで説明できるのなら、きっとこんなに考える必要はなかった。
もっと単純な答えが、別のところにある。そんな気がした。
その正体を掴みかけたところで、通りの向こうが騒がしくなった。
***
同じ頃。
エレノアは別の通りを、馬車で王都の中心部へ向かっていた。
今日はマリベルはいない。
代わりに、公爵家の侍女と護衛が同行している。
朝食のあとには、いつもの癖で名前を呼びかけそうになった。部屋を出るときも、半歩後ろに誰もいないことが妙に気になった。
寂しくないと言えば嘘になる。
けれど、自分で考え、自分で動くことはできる。それはもう、何度も確かめてきた。
「ちゃんと休んでいるかしら」
窓の外を眺めながら呟くと、向かいに座る侍女が微笑んだ。
「お嬢様からお願いされたのでしたら、きっと」
「そうだといいのだけれど。働いていないか心配なの」
「それは……」
侍女が返答に困った。
エレノアはその様子に苦笑する。
「やっぱり心配よね」
今日の用事は大したものではない。注文していた本を受け取り、帰国した母への小さな贈り物を選ぶだけだ。
そのはずだった。
ところが、大通りへ入る少し前で馬車が止まった。外から慌ただしい足音が聞こえる。
「何かあったの?」
護衛の一人が先に降り、ほどなく戻ってきた。
「王立救済局の王都相談所で、男が立てこもっております」
「人質は?」
「職員が中に残されています」
エレノアの表情が引き締まる。
「怪我人は?」
「今のところは」
窓から覗くと、相談所の前を騎士たちが囲んでいた。その中心にいるのは、見覚えのある長身の男。王都騎士団長ヴィクターだった。
エレノアは馬車を降りる。
「お嬢様」
「近くから事情を聞くだけよ」
護衛を伴い、ヴィクターのもとへ向かった。
「ヴィクター様」
「……エレノア嬢」
ヴィクターが眉を寄せる。
「なぜこちらに?」
「通りかかりました。何があったのですか?」
ヴィクターは相談所へ目を戻した。
「ダニエルという元役人が、刃物を持って中へ立てこもっている。救済局が王家の管理下へ移される前は、ここで働いていた」
「要求は?」
「手元にあるものを、救済局と関係のない第三者に見せろと言っている」
「何を持っているの?」
「役人の不正を示す証拠だそうだ」
「主張?」
少し離れた場所から声が飛んだ。
「証拠などではありません! 偽物です!」
声の主は、救済局王都相談所の所長だった。
身なりの整った中年の男が、苛立った様子で近づいてくる。
「エレノア様、この件は騎士団にお任せください。あの男は以前から、根も葉もない話を繰り返しているんですよ」
「どんな話を?」
相談所長が吐き捨てるように答えた。
「くだらない逆恨みです」
「私が説明する」
ヴィクターは相談所長を遮ってエレノアに向き直ると、ダニエルが相談所を去るまでの経緯を語り始めた。
当時、ダニエルは困窮者に紹介される仕事や住居が、相談者の事情だけでなく、役人の都合にも左右されていることに気づいていた。一部の商人や有力者から贈り物を受け取った者が、その関係者を優先していたのだ。
そのため、本来支援を必要としていた者が後回しになっていた。それを問題視したダニエルは直属の上司に抗議したのだ。
だが、取り合われなかった。
さらにその上へ訴えたものの、そこでも話は止められてしまう。最後にはダニエル自身が問題を起こす職員として扱われ、相談所を去ることになったのだ。
それは、救済局で大規模な不正が発覚し、王家の管理下へ移される前のことである。
「そのダニエルが相談所長から直接渡されたものを持ってきたと言っていた。証拠として確認してほしいそうだ」
「私が渡しただって?」
相談所長が声を荒らげた。
「そんな馬鹿な話があるか!」
直後、相談所の窓が勢いよく開き、男が顔を出した。その手には、一通の書状が握られている。
「俺を信じろなんて言ってねぇ!」
ダニエルは吐き捨てるように言うと、握っていた書状を持ち上げた。外にいる者たちの視線がそこへ集まる。
「俺の話が嘘かどうかじゃない! この書状が偽物かどうかだけ確かめろ! 相談所長の署名も印もある!」
室内から別の声が続いた。
「ダニエル、頼む! 刃物を置いてくれ!」
「置いたらまた証拠を取り上げるだろうが!」
ヴィクターの顔が険しくなる。
相談所長がすぐに口を開いた。
「これ以上付き合う必要はない。突入させろ!」
「中に職員がいる」
「このまま待っていても危険だぞ!」
ヴィクターは動かなかった。
エレノアが相談所を見る。
「ダニエル様」
呼びかけると、中の声が止まった。
「私はエレノア・アルヴァインと申します」
「アルヴァインって……公爵家か?」
「はい」
「救済局の人間か?」
「違います」
「王宮の役人か?」
「それも違います」
「なら何だ」
「たまたま通りかかりました」
扉の向こうが妙に静かになる。
「……何だそれ」
「あなたが、救済局とは関係のない者に見てほしいとおっしゃっていると聞きました」
「見てくれるのか」
「見ます」
相談所長が声を上げる。
「エレノア様!」
エレノアは振り返らなかった。
「ただし、あなたの言うことを最初から信じるとは申しません」
ダニエルが低い声で返した。
「……結局、同じじゃねぇか」
「いいえ」
エレノアはダニエルと向き合ったまま続けた。
「私はあなたを知りません。だから、あなたの言葉だけで決めることも、最初から嘘だと決めることもしません」
わずかに間を置き、ダニエルが手にしている書状に目を向ける。
「見せてください」
しばらく沈黙したあと、ダニエルが低い声で答えた。
「書状は外へ出さねぇ」
「どうして?」
「一度外へ出して、握り潰された。もう役人にも騎士にも渡さねぇ。見るなら、あんた一人で中へ来い」
長い沈黙のあと、扉が細く開けられる。
「入れ」
エレノアが足を踏み出すと、背後からヴィクターの声がかかった。
「入るつもりか」
「ええ」
「危険だ」
「分かっています」
「分かっていても行くと言うのか?」
「はい」
ヴィクターの眉間に皺が寄る。
「入口には護衛を残します。ヴィクター様も、何かあればすぐ動ける場所にいてください」
「それで安全になるわけではないぞ」
「そうですね」
「なら――」
「それでも、行かせてください」
ヴィクターは口を閉じた。
しばらくエレノアを見たあと、相談所の扉へ目を向ける。
「止めても、行くのか」
「行きます」
「……そうか」
短く息を吐く。
「異変があれば、すぐに入る」
「お願いします」
ヴィクターはそれ以上何も言わなかった。
エレノアは一人で扉の向こうへ進んだ。
***
室内には職員たちが一か所に集められていた。手足は縛られてはいないが、一人が青ざめた顔で壁にもたれている。
その少し離れた場所にダニエルが立ち、手には短い作業用の刃物を握っていた。
「そこで止まれ」
エレノアは言われたとおり、その場で足を止めた。
「怖くねぇのか」
「怖いわ」
即答すると、ダニエルが目を瞬く。
「でも、あなたが書状を見てほしいと言ったのでしょう?」
「……ああ」
「なら、見せて」
ダニエルは持っていた書状をエレノアに差し出した。
「これだ」
エレノアが受け取る。
その書状は正式な命令書ではなく、個人的に渡された短い私信だった。
特定の商会から紹介された者については、従来どおり優先して取り扱うこと。
担当外の判断へ口を挟まないこと。今後も独断が続くようなら、配置の見直しもあり得る。
末尾には、相談所長の署名と蝋印があった。
「これを上に持っていった」
ダニエルが目を伏せたまま続けた。
「そしたら、ろくに確認もせずに偽物だって言われたんだ」
「そう」
「あいつ本人にも突きつけた。直接渡されたものなのに、そんなものは書いてない、俺がでっち上げたんだってよ」
エレノアは蝋印に目を凝らす。見覚えがあった。
救済事業に関するやり取りで、相談所長からアルヴァイン公爵家へ届いた書状に目を通したことが何度かある。
紋だけではない。外周の一部に残る、ごく小さな欠けまで同じだった。
筆跡にも覚えがある。特に、文末の文字をやや強く跳ね上げる癖。
「少なくとも、私には偽物とは思えません」
ダニエルが固まった。
「……なに?」
「アルヴァイン家にも、同じ方から書状が届いています。この印にも筆跡にも、私が見たものと共通する特徴があります」
「分かるのか?」
「断定はできません。ですが、正式に調べるだけの理由はあります」
刃物を持つ手から力が抜けかけた。
「俺は」
声が掠れる。
「ちゃんと持っていったんだ」
「ええ」
「何度も話した」
「そうでしょうね」
「それなのに、誰もちゃんと見てくれなかった」
エレノアは私信を持ったまま答える。
「だから、私はきちんと確かめます」
ダニエルが俯いた。
しかし、すぐに顔を上げる。
「でも外へ出したら、また握り潰される」
「これが?」
「あいつらならやる」
「なら、私が預かります」
「公爵令嬢だからって、取り上げられないと思ってるのか?」
「いいえ」
エレノアは首を横へ振った。
「そんなことは思っていませんし、あなたの許可なく誰かに渡すつもりもありません。最後まで責任を持ちます」
ダニエルはしばらく彼女を見ていた。
「本当に最後まで見るのか」
「ええ」
「俺が捕まったあとも?」
「あなたが捕まったあとも、この書状の真偽はきちんと調べます」
ダニエルの眉が動く。
「片方を理由に、もう片方までなかったことにはしません」
ダニエルは何も返さなかった。
そのとき、エレノアの視界の端で人影が揺れる。
目を向けると、先ほどから青ざめていた職員が壁へ手をついていた。
「気分が悪いの?」
「だ、大丈夫です」
「大丈夫には見えないわ」
エレノアはダニエルへ向き直った。
「この方を外へ出してください」
「駄目だ」
「代わりに私が残ります」
「何?」
「一人出して、私がここにいます。それならいいでしょう?」
「何でそこまでする」
「あなたのお話を聞くと決めたからよ」
「俺は人質を取ってるんだぞ」
「ええ」
エレノアは否定しない。
「それについては、あとでお話しします。今は、この方を外へ」
ダニエルは迷った。
刃物を握る指へ力が入り、また緩む。
やがて扉を顎で示した。
「……一人だけだからな」
「ありがとう」
体調を崩した職員が外へ出される。
***
解放された職員から話を聞いていたヴィクターが、ふと顔を上げた。
通りの向こうから、黒い人影が凄まじい勢いでこちらへ近づいてくる。
ヴィクターは眉間へ指を当てた。
「来たか」
「団長?」
そばにいた騎士が振り返る。
「道を空けろ」
「ですが」
「空けた方がいい」
直後。
「ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!!!!」
聞き覚えのある声が王都へ響き渡り、騎士たちは黙って左右へ分かれた。
その間を駆け抜け、マリベルが相談所の前までやってくる。
手にはもう白薔薇がない。花屋へ預けてきたようだ。
「お嬢様は?」
「中だ」
「連れ込まれたのでございますか」
「いや」
ヴィクターが答える。
「ご自身で入られた」
「……お嬢様のご意思で?」
「そうだ」
「お怪我は」
「今のところない」
マリベルはほんの一瞬だけ目を閉じた。
「承知いたしました」
「承知したのか?」
ヴィクターが意外そうに尋ねる。
「はい」
「以前なら扉ごと入っていただろう」
「昔の話でございます」
「そうか」
それ以上は言わなかった。
そこへ相談所長が割って入る。
「君が侍女か。ちょうどいい、すぐにエレノア様を連れ戻せ!」
「なぜでございますか」
「あの男の話を聞くと言って、自分から中へ入ったんだぞ!」
「お嬢様が?」
「人質が一人解放されたのに、まだ中に残っているのだ!」
鉄扇を握る指が動く。
そのとき、開いた窓の向こうにエレノアの姿が見えた。
「お嬢様!」
マリベルの声に、エレノアが振り向く。
「マリベル?」
「はい、お嬢様! ただいま参ります!」
「だめ! そこで待っていて」
足が止まった。
扉の向こうには、刃物を持った男がいる。
距離は近いが、踏み込めば届く。制圧することは難しくない。頭の中ではすでに、いくつもの動きが組み上がっていた。
それでも。
「……かしこまりました」
マリベルは一歩、後ろへ下がった。
エレノアが窓の奥に消える。
相談所長が声を荒らげた。
「何をしている! 主人が中にいるのだぞ!」
「存じております」
「なら助けに行け!」
「お嬢様がお待ちになるよう仰せですので」
それだけだった。
マリベルは相談所へ踏み込まず、耳を澄ませながら周囲の状況を確かめる。
騎士の配置。
窓と裏口。
建物から出られる場所。
中で、硬いものが何かへ触れたような音がした。
靴が半歩前へ出る。鉄扇もわずかに開いた。
「行かないのか」
隣でヴィクターが低く尋ねた。
マリベルは閉ざされた扉を見る。
昔なら、もう中にいただろう。エレノアの言葉を聞くより先に、危険から遠ざけることだけを考えていた。
「お嬢様がお待ちになるよう仰せですので」
半歩進んだ足を戻す。
ヴィクターが横目で彼女を見た。
「怖くないのか」
「怖うございます」
返事は短かった。
「ですが、待ちます」
ヴィクターは何も言わない。
マリベルが再び周囲へ注意を向けると、その視界の端で、相談所長が右手へ触れた。
薬指には、大きな印章指輪がある。
先ほどから落ち着かない様子で、その指輪を何度も回していた。やがて近くに控えていた部下を呼び寄せると、指輪を外して背後でその手に握らせる。
「そちらの方」
マリベルが声をかけると、部下の肩が跳ねた。
「右手を」
「何だと?」
「開いてくださいませ」
「関係ない!」
「では、騎士団長様。お願いいたします」
ヴィクターが部下に近寄る。
「手を開けろ」
「しかし」
「開けろ」
観念したように指がほどかれると、掌には金の指輪があった。
相談所長の顔色が変わる。
「それは私のものだ。返せ!」
マリベルは相談所長の右手を見る。
「先ほどまではめておられましたね」
「外しただけだ!」
「この状況で?」
「指輪を外すくらい自由だろう!」
「左様でございますか」
マリベルはヴィクターへ向き直った。
「お預かりいただけますか」
「ああ」
ヴィクターが指輪を受け取ると、相談所長が一歩詰め寄った。
「勝手なことを――」
「下がれ」
ヴィクターの一言で止まる。マリベルはそれ以上追及しなかった。
また扉へ目を向ける。中にいるのはエレノアだ。自分ではない。
だから、今は待つ。
***
室内では、ダニエルが少しずつ口を開き始めていた。
「俺だけじゃなかった」
エレノアは急かさず聞く。
「同じことに気づいた奴もいた。でも、みんな黙ったんだ。家族がいる奴もいたし、職を失ったら困る奴もいた」
「でも、あなたは黙らなかった」
「違う。黙れなかっただけだ」
ダニエルは苦い顔をする。
「正しいことをしたかったなんて、格好いい話じゃねぇ。目の前で追い返された奴らを見てたら、気分が悪かったんだよ」
「それで十分ではありませんか?」
「十分?」
「嫌だったから、止めようとしたのでしょう?」
ダニエルがエレノアを見る。
「理由は、それでいいと思います」
「……あんた、変わってるな」
「よく言われます」
職員の一人が、こんな状況にもかかわらず小さく笑った。
ほどなく、外からヴィクターの声が届く。
「エレノア嬢。相談所長の印章指輪をこちらで確保した」
エレノアが顔を上げた。
「見せていただけますか?」
扉が少し開き、騎士から指輪が渡される。エレノアは私信の蝋印と見比べ、外周へ目を凝らした。
「紋だけでなく、外周にある印の欠けまで一致しています」
ダニエルが息を呑む。
エレノアは扉の外へ向けて言った。
「ヴィクター様。この私信を、調べもせず偽物として退けることはできません」
「承知した」
相談所長が外で叫ぶ。
「似せたのだ! その男なら私の印を見る機会くらいあった!」
「印だけではありません」
エレノアは扉の近くまで歩く。
「筆跡にも覚えがあります」
「そんなもの――」
「アルヴァイン家にいただいた書状と同じ癖があります」
相談所長の声が止まった。
「私は、ダニエル様がおっしゃっていることが、すべて事実だと断言しているのではありません」
手元の紙へ目を落とす。
「ですが、これはきちんと調べる必要があります。最初から偽物だと決めることはできません」
外が静まり返った。
ダニエルが俯く。
「……やっとか」
「え?」
「やっと、まともに見てもらえる」
長く張りつめていたものが、その声から抜けていく。
「これで、俺だけがおかしかったことにはならねぇんだな」
「ええ」
「俺が全部作った話じゃないって」
「少なくとも、この証拠についてはですが」
「……十分だ」
エレノアは刃物へ目を向ける。
「では、今度はあなたの番です」
「何がだ?」
「終わらせてください」
ダニエルの顔が硬くなる。
「置いたら捕まる」
「そうでしょうね」
「俺の言ってたことは本当だったんだぞ」
「調べる必要があることは分かりました」
「なら!」
「それと、今日あなたがしたことは別です」
エレノアは声を荒らげずに続けた。
「ここにいる方々を閉じ込めました。刃物も向けた」
「誰も怪我させてねぇ」
「怪我をさせていなくても、皆さんが怖い思いをしたことに変わらないでしょう?」
ダニエルが黙り、壁際にいる職員たちを見た。
まだ身体を強張らせている者もいる。
「……そうだな」
「ええ」
エレノアは頷いた。
「あなたが不当に扱われたことと、今日あなたがしたこと。その両方を、別々に考えなくてはいけないと思います」
「分かってる」
「なら、ご自分で置いてください」
長い沈黙が続いた。
その間も、外の騎士たちは無理に踏み込もうとはしない。
扉のすぐ向こうには、マリベルもいる。
けれど誰も、ダニエルから最後の選択を奪わなかった。
「外へ出たら、本当に調べるんだな」
「私も最後まで確認します」
「約束できるのか」
「私にできる範囲で」
「公爵家の力で全部どうにかしてやる、とは言わねぇんだな」
「そんな約束はできませんもの」
ダニエルが一瞬ぽかんとし、それから疲れたように笑った。
「本当に容赦ねぇな」
「できない約束をしても仕方がないでしょう?」
「……そうだな」
刃物を握っていた指が、ゆっくりと開いた。
金属が床へ落ち、乾いた音が一度だけ室内へ響く。
「これで終わりだ」
「はい」
「最初から、誰かが見てくれてりゃよかったんだ。俺も、こんなことしなくて済んだ」
エレノアは目を伏せたあと、静かに顔を上げた。
「そうかもしれません」
そして続ける。
「でも、今日あなたがしたことについては、きちんと責任を取らなくてはいけません」
「……ああ、分かってる」
扉が開いた。
***
ダニエルは、外で待っていた騎士たちに自ら両手を差し出した。
ヴィクターが部下へ目配せする。
「乱暴に扱うな。だが、刃物を持って立てこもった事実は変わらん。気を抜くな」
「承知しました」
続いてエレノアが外へ出る。
マリベルがすぐに近づいた。
「お怪我は」
「ないわ」
「本当に?」
「本当に」
肩から腕、顔色、歩き方まで一息に確かめ、ようやくマリベルの表情から力が抜けた。
「心配をかけたわね」
「はい」
エレノアが目を丸くする。
「そこは否定しないのね」
「大変、心配いたしました」
「ごめんなさい」
「中で物音がした際には、扉を破る寸前でございました」
「破らなくてよかったわ」
「私もそう思います」
「本当に?」
「今は」
エレノアの口元が緩む。
「待っていてくれて、ありがとう」
マリベルが一度だけ瞬いた。
「お嬢様がお待ちになるよう仰せでしたので」
「それでもよ」
返事はない。ただ、鉄扇を握っていた指から力が抜けた。
そんな中、通りの向こうから地面を力強く蹴る音が響いてくる。
次第に大きくなるその音に、人々が振り返った。
白銀の巨体が、こちらへ向かって駆けてくる。狼にも獅子にも似た聖獣アルシオンだ。
その背には、白い聖衣をまとったリリアーナがいた。
「エレノア様ああああああああああああああああ!!!!」
アルシオンが騎士たちの前で止まる。
リリアーナは背から飛び降りるなり、エレノアへ駆け寄った。
「救護要請を受けて参りましたわ! エレノア様、ご無事ですの!?」
「聖女様」
マリベルが一歩前へ出る。
「はい、マリベル様!」
「先に、解放された方々をお願いいたします」
リリアーナの表情がすぐに引き締まった。
「承知しましたわ」
リリアーナは名残惜しそうにエレノアを一度振り返ってから、職員たちのもとへ走る。
「お怪我のある方はいらっしゃいませんか? 外傷がなくても、気分が悪い方は我慢なさらないでくださいませ!」
アルシオンもその後ろをついていった。
さらに王城側から馬車が到着する。
馬車が完全に止まるより早く扉が開き、アメリスが姿を見せた。
「エレノア様!」
「姫殿下、お待ちくださいませ」
その後ろからセラも降りてくる。
「まず状況をお聞きください」
「分かっていますわ!」
そう言いながら、アメリスはもうエレノアのところまで来ていた。
セラが追いつき、静かに隣へ立つ。
「お怪我はございませんか」
「大丈夫です」
「本当に?」
「ええ」
アメリスが安堵の息を吐く。だが、騎士に囲まれた相談所長を見つけた途端、表情が変わった。
「相談所長まで、何があったのですの?」
「説明します」
エレノアが答えようとしたところへ、別の馬車が止まる。
「アメリス!」
降りてきたアルベルトは妹の姿を見つけるなり、足早に歩み寄った。
「なぜお前の方が先に着いている!」
「わたくしは、一刻も早く来ようとしただけですわ!」
「だからといって――」
「お兄様も、馬車が止まるまで待っていなければよかったのです!」
「王太子が馬車から飛び降りられるか!」
その後ろからユリウスが降りる。
「姫殿下も、本来は飛び降りるべきではございません」
「飛び降りておりませんわ!」
「完全に停止する前に扉を開けておられました」
「細かいですわ!」
「姫殿下、お静かに」
セラがアメリスへ視線を向ける。
「……はい」
アメリスは素直に口を閉じた。
アルベルトがヴィクターを見る。
「状況を」
「立てこもっていた男は、すでに投降しております」
「人質は?」
「全員無事です」
「相談所長は?」
「不正への関与を疑うに足るものが出ました」
それまで状況を確認していたアルベルトの表情が変わり、相談所長へ向けていた視線をエレノアへ移した。
「エレノア嬢が確認したのか?」
「はい」
問われたエレノアは一歩前へ出る。
「書状には、正式に調べるだけの根拠があります。ですが、それだけでダニエル様のお話がすべて正しいとは決められません」
「分かった」
アルベルトは相談所長とダニエルを順に見やり、わずかに考えたあとで口を開いた。
「では、分けて扱う」
周囲が黙って次の言葉を待つ。
「相談所長の件は調べる。だが、ダニエルが立てこもったことは別だ。不問にはできん」
「妥当かと存じます」
ユリウスの返答を聞き、アルベルトはそのまま指示を続けた。
「関係者を互いに接触させるな。話を合わせられては困る」
「すでに手配しております」
「……早いな」
「殿下がお決めになるまで、何もせず待つ必要はございませんので」
「相変わらずだな、お前は」
「お褒めの言葉として受け取っておきます」
そんな二人のやり取りのあいだも、アメリスは相談所長から目を離していなかった。
「……きちんと調べなくてはいけませんわね」
その声には怒りが滲んでいたが、以前のように感情のまま飛び出そうとはせず、隣に立つセラが声をかけると、アメリスは小さく息を整えた。
「姫殿下」
「分かっていますわ」
そして改めて相談所へ目を向ける。
「王立救済局は、もう一度確認します。この相談所だけではありません。同じように声を潰された方がいないかも調べますわ」
その言葉に、アルベルトが妹へ目を向けた。
「一人で行くなよ」
「行きませんわ!」
「本当だろうな」
「セラもおります!」
「はい」
すぐに応じたセラは、アメリスの隣でいつもどおり落ち着いた様子を崩さない。
「必要な際は、必ずお止めいたします」
「なぜ止めることが前提ですの!?」
「これまでの経験でございます」
その答えに、今度はユリウスまで当然のように頷いた。
「適切な判断ですね」
「ユリウスまで!」
アメリスが不満そうに唇を尖らせる。
その少し向こうから、治療を終えたリリアーナがこちらに向かって走ってきた。
「エレノア様!」
「リリアーナ様。皆さんはもう大丈夫なの?」
「はい! 気分を悪くされていた方も、もう落ち着いていらっしゃいますわ」
「そう。よかったわ」
「それよりエレノア様ですわ! 中へ入られたと聞いて、どれほど心配したと思っていらっしゃいますの!」
「ごめんなさい。心配をかけたわね」
「本当ですわ!」
そのやり取りを聞いていたアメリスが、ふとリリアーナを見る。
「……今、わたくしと同じ話し方をしませんでしたの?」
「わたくしは昔からこの話し方ですわ!」
「わたくしもですわ!」
「ですわ!」
「ですわ!」
「お二人とも」
マリベルが割って入る。
二人が同時に振り向いた。
「どちらが先でも、よろしいのではございませんか」
「よくありませんわ!」
「よくありませんわ!」
ぴたりと声が重なった。
二人が顔を見合わせる。
「……今のは偶然ですわ」
「ええ。偶然ですの」
「左様でございますか」
マリベルはそれ以上何も言わなかった。
エレノアが耐えきれず笑う。
張りつめていた空気が、ようやく緩んだ。
その一方で、騎士たちはダニエルを連れていく。相談所長のもとにも騎士の一人が近づいた。
「相談所長殿。あなたにもお話を伺います」
「待て、私は何も認めていないぞ! 公爵令嬢が中であの男と口裏を合わせたのではないのか? 何を話していたのか、外にいた者には分からないだろう!」
黒塗りの鉄扇が、音を立てて大きく開く。
相談所長の声が止まった。
マリベルはエレノアを見る。
「お嬢様」
「口裏を合わせてはいないわ。書状を見せてもらって、話を聞いただけよ」
「承知いたしました」
マリベルが相談所長へ向き直る。
「とのことでございます」
「本人がそう言っているだけではないか!」
「はい。ですので、その点も含めてお調べになればよろしいかと」
相談所長が言葉に詰まる。
「ダニエル様のお話を退けた件についても、これから王家と騎士団がお調べになります」
マリベルの言葉を受け、アルベルトが頷く。
「ああ。そのつもりだ」
「では、それまで」
マリベルの鉄扇が地面を指した。
「正座を」
「なぜだ!」
「お待ちいただく姿勢でございます」
「そんなものがあるか!」
「ある」
ヴィクターが口を挟んだ。
相談所長が目を見開く。
「騎士団長!?」
「逃げ回られるよりはいい」
「公的に認めるのですか!?」
「私は座っていろと言っただけだ」
「正座とは言っていないではないか!」
ヴィクターがマリベルを見る。
「姿勢は任せる」
「承知いたしました」
「任せるな!」
しばらくして。
相談所長は騎士たちに囲まれながら、背筋を伸ばして座っていた。
「膝を揃えてくださいませ」
「なぜ私が……」
「背筋を」
「はい……」
アメリスが感心したように眺める。
「相変わらず見事ですわね」
「姫殿下も?」
「いたしませんわ!」
リリアーナが首を傾げた。
「ですが、祈る姿勢として――」
「あなたまで入り込まないでくださいませ!」
「まだ何も申し上げておりませんわ!」
アルベルトが額を押さえた。
「なぜ事件が終わった後の方が騒がしいのだ」
ユリウスが淡々と答える。
「いつものことでございます」
「否定してくれ」
***
ひと通りの後処理が始まった頃。
アメリスが思い出したようにマリベルを見る。
「そういえば、マリベル」
「はい」
「今日はどうして、エレノア様と別々にいらしたのですの?」
「本日はお休みをいただいておりましたので」
「お休み?」
「私がお願いしたのよ」
エレノアが答えた。
「これからも私の侍女を続けたいか、一度ちゃんと考えてもらいたくて」
アメリスがマリベルを見る。
「そうですの……では、もし辞めるのでしたら、わたくしの――」
「お断りいたします」
「最後まで言っておりませんわ!」
「必要ございません」
「そこは昔から変わりませんのね!」
すると、リリアーナも勢いよく手を上げた。
「でしたら、エレノア様は大神殿へ――」
「なんで私が?」
「よい機会かと思いまして!」
「何の機会なの?」
エレノアが額へ手を添えた。
「二人とも、勝手に私たちの行き先を決めないでくれる?」
アメリスとリリアーナが揃って口を閉じる。
少しして、アメリスがエレノアを見た。
「……では、マリベルがほかへ行くのは嫌ですの?」
エレノアはすぐには答えなかった。
マリベルも口を挟まない。
「嫌よ」
はっきりと言う。
マリベルがエレノアを見る。
「とても嫌」
今度は柔らかく笑う。
「でも、それとマリベルが自分で決めることは別でしょう?」
アメリスは目を瞬いたあと、小さく頷いた。
「そうですわね」
リリアーナも、珍しく何も付け足さなかった。
マリベルだけが、エレノアの横顔を見つめていた。
***
夕暮れ。
アルヴァイン公爵家へ戻ったあと、エレノアとマリベルは庭へ出た。
昼前に花屋へ預けていた白薔薇は、帰りに受け取っている。
「それ、どうしたの?」
「本日、購入いたしました」
「私に?」
「最初は、そのつもりでございました」
「最初は?」
「自分のために選び直しました」
エレノアが白薔薇を見る。
「結局、同じなのね」
「はい」
マリベルも花へ目を落とした。
「どうやら、私はこれが好きなようでございます」
「白薔薇が?」
「お嬢様がお好きですので」
エレノアの口元が緩む。
「それは、あなたが好きということになるのかしら」
「なったようでございます」
「そう」
二人は庭を歩く。十年前にも通った場所だ。
あの頃より木々は育ち、植えられた花も増えた。それでも、こうして並んで歩くと昔のことを思い出す。
「マリベル」
「はい」
「今日、私が中に入ったと聞いたとき……怖かった?」
「怖うございました」
迷いのない返事だった。
エレノアが振り向く。
「そうなの?」
「はい」
「あなたなら、平気だと思っていたわ」
「私のことであれば、もう少し平気でございました」
「それは平気とは言わないと思うけれど」
「左様でございますか」
「ええ」
エレノアは笑ったあと、表情を改めた。
「扉の前で待つの、つらかった?」
マリベルは手にした白薔薇を見る。
「お嬢様が、お待ちになるよう仰せでしたので」
「それだけ?」
少し意地悪な問いだった。
マリベルは今度こそ、きちんと考えてから答えた。
「……それだけではございません」
エレノアは続きを待つ。
「お嬢様なら、ご自身でお決めになったことを途中で投げ出されないと存じております」
「うん」
「本当に危険だとお考えになれば、助けをお求めになります」
「そうね」
「私をお呼びになれば、すぐに参ります」
「ええ」
マリベルは庭の先へ視線を向けた。
「ですから、待つことができました」
エレノアは何も言わなかった。
十年前のマリベルなら、守るために自分の言葉さえ無視しかねなかった。
今は、守りたい気持ちを抱えたまま任せることができる。
心配していても、相手を信じて待てる。
「考えられた?」
エレノアが尋ねる。
「はい」
「今日のことも含めて?」
「はい」
二人は立ち止まった。
マリベルは白薔薇を持ったまま、主人を見る。
「お嬢様は、私がおそばにいなくとも、ご自身でお考えになれます」
エレノアは静かに続きを待つ。
「ご自身でお決めにもなれます」
「ええ」
「本日も、そうでした」
マリベルは目を伏せた。
「私は外で待っておりました」
「待たせてしまったわね」
「大変長うございました」
「ごめんなさい」
「ですが」
再び顔を上げる。
「分かりました」
「何が?」
「お嬢様に私が必要だから、おそばにいるのではございません」
エレノアの瞳が揺れた。
マリベルがいなければ、何もできない。
そんな自分ではなくなった。
それでも。
「私が、お嬢様のおそばにいたいのでございます」
声は大きくなかった。
王都中へ響かせる必要などない。
この言葉は、たった一人へ届けばいい。
「十年前と同じでございます」
「同じ?」
「私が、お嬢様を選びました」
エレノアはしばらく黙っていた。
あの日、自分を選んだと言ってくれた少女を思い出す。
傷ついた日も、互いに間違えた日も、離れてそれぞれの役目を果たした日もあった。
それでも、十年後の今日。もう一度、同じ場所を選んでくれた。
「なら、私も言うわ」
「何をでございますか?」
「私も、あなたにそばにいてほしい」
マリベルの目が開く。
「あなたがいないと何もできないからじゃないわ。守ってもらわなければ立っていられないからでもない」
「はい」
「マリベルがいいの」
白薔薇を持つ指へ、わずかに力が入る。
「……お嬢様」
「これからも、私の侍女でいてくれる?」
十年前は、マリベルが頼んだ。
『私を、お嬢様の侍女にしてくださいませ』
今度は、エレノアが尋ねる。
「もちろんでございます」
十年前と同じようでいて、あの頃よりずっと確かな声だった。
「ありがとう」
マリベルが白薔薇を差し出す。
「こちらを」
「自分のために買ったのでしょう?」
「はい」
「なら、あなたが持っていなさい」
「ですが」
「あなたが好きな花なのでしょう?」
マリベルは手元の白薔薇を見る。
「……はい」
「では、今日はあなたのものよ」
「承知いたしました」
少し困ったように花を持ち直すマリベルを見て、エレノアは笑った。
***
翌朝。
家族用食堂には、久しぶりに家族が揃っていた。
クラリスの半歩後ろにはリゼット。
エレノアの半歩後ろにはマリベル。
いつもの場所だった。
「答えは出ましたか」
リゼットが娘へ尋ねる。
「はい」
「そうですか」
それだけ。
しかし、リゼットは娘の立ち姿を確認してから続けた。
「十年前よりは、少し侍女らしくなりましたね」
「少し、でございますか」
「ええ」
「長くお仕えしておりますが」
「まだ改善すべき点はございます」
「お母様」
クラリスが小さく笑う。
「リゼット、そのくらいにしてあげなさい」
「事実でございます」
「あなたは本当に変わらないわね」
「奥様も」
エドルスがカップを置いた。
「答えは変わらなかったようだな」
「いいえ、お父様」
エレノアが父を見る。
「少し変わったわ」
エドルスは娘と、その後ろの侍女へ目を向けた。
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
レオルスがマリベルを見る。
「では、これからも妹が二人――」
「それは別問題でございます」
「まだ最後まで言っていないよ?」
「必要ございません」
「昨日も同じことを言っていたそうだね」
マリベルの目が細くなる。
「なぜご存じなのでございますか」
「アメリス殿下から聞いたよ」
「正座を」
「朝食中だよ?」
「食後でも結構でございます」
「予約制になったんだね」
エレノアが笑う。
「お兄様、諦めた方がいいと思います」
「エレノアまで」
「十年言っても駄目だったのでしょう?」
「なら、これからも言い続けるよ」
「正座を」
「はいはい」
食卓へ笑い声が広がった。
***
朝食のあと、エレノアはいつもの廊下を歩いていた。
朝の光が窓から差し込み、磨かれた床へ伸びている。
その半歩後ろを、マリベルが歩く。
十年前。
初めてこの位置へ立った頃は、近すぎると直され、離れすぎれば呼び戻された。
今ではもう、考える必要もない。
エレノアが歩けば歩き、止まれば止まる。振り返れば、そこにいる。
「マリベル」
「はい、お嬢様」
返事がある。
十年前、自分で選んだ呼び方。
そして昨日、もう一度選んだ場所。
「今日もよろしくね」
「もちろんでございます」
「それと」
「はい」
「昨日の分まで働こうとしないでね」
返事が遅れた。
「……承知いたしました」
「今、間があったわ」
「気のせいでございます」
「本当に?」
「はい」
エレノアが振り返った。
そして、笑った。
お嬢様が笑った。
それだけで、今日の戦は勝利である。
最後までお読みくださり、本当にありがとうございました!
『お嬢様ああああああああああああああああ!!!!』は、今回をもちまして、ひとまず本編完結となります。
そして本日9月25日、書籍版も発売となりました!
書籍版には、Web版に加えて書き下ろしのお話も収録されています。
マリベルとエレノアの新しいお話も楽しんでいただけましたら嬉しいです。
Web版はここで一区切りとなりますが、また書きたい番外編ができましたら、そのときは連載を再開するかもしれません。
最後まで二人を見守ってくださり、本当にありがとうございました!




