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第十九章 お嬢様が誘拐されたですって!? ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!!!!

「今日は、工房へ行ってきて」


 朝食を終えたエレノアがそう告げると、マリベルは間を置かず首を横に振った。


「お断りいたします」

「どうして?」

「本日は、お嬢様も王都へお出かけになるご予定でございますので」


 マリベルは今日、レオルスが国外から持ち帰った黒鉄を王都の工房へ運ぶことになっていた。

 軽く、強く、薄く加工しても割れにくい。熱にも強いというその素材を、普段使っている鉄扇へどう生かせるのか。レオルスから紹介された職人に相談するためである。

 ところが、同じ日にエレノアも書店へ出かけると知った途端にマリベルは予定を延期すると言い出したのだ。


「私は書店へ行くだけよ」

「お供いたします」

「だから、今日は工房へ行ってきて」

「職人の方には、改めて日程を調整していただきます」

「駄目よ」


 エレノアが紅茶のカップを置いた。


「せっかくお兄様が紹介してくださった方なのでしょう? 職人の方にも予定があるのだから、こちらの都合で何度も変えていただくのはよくないわ」

「ですが、お嬢様の外出がございます」

「護衛の方も一緒よ。侍女も同行してくれるわ」


 それでも納得していないらしいマリベルに、エレノアは少しだけ困ったように笑った。


「マリベル」

「はい」

「私は、あなたがいなければ屋敷から一歩も出られないわけではないのよ?」


 マリベルが黙った。

 エレノアには、その沈黙の意味が分かっていた。心配なのだ。

 だからといって、その気持ちだけを理由に、マリベルが自分の予定まで変えることを認めるつもりはなかった。

 しばらくして、マリベルが小さく息を吐く。


「……承知いたしました」

「ええ。行ってらっしゃい」

「可能な限り早く戻ります」

「急がなくていいの」

「善処いたします」

「絶対に急ぐつもりでしょう」

「お気になさらず」

「気にするわよ」


 エレノアが呆れたように笑う。

 その日の外出には、アルヴァイン家の侍女一人と護衛騎士二人が同行することになっていた。

 王都の書店へ行き、帰りに菓子店へ立ち寄る。普段と何も変わらない、短い外出になるはずだった。


 だがそれが、その日マリベルが見た、最後のエレノアの笑顔になった。



 ***



 数刻後。

 工房での打ち合わせが終わりかけた頃、扉が勢いよく開いた。


「マリベル様!」


 その声に振り向くと、アルヴァイン家の若い従僕が息を切らして立っていた。青ざめた顔を見た瞬間、マリベルは手にしていた黒鉄を卓上へ戻す。


「何がございましたか」

「お、お嬢様の馬車が……」


 マリベルの表情が消える。


「お嬢様が、何でございますか」


 静かな声だった。工房にいた職人たちが、知らず背筋を伸ばす。


「帰路で襲われました」

「護衛のお二人は?」

「街道沿いで発見されました。眠らされていたようですが、命に別状はございません」

「同行していた侍女は」

「同じく無事です」


 一つ確認するたび、声が低くなっていく。


「お嬢様は」


 従僕が息を呑んだ。

 言いにくそうにしている時間そのものが、すでに答えだった。


「……連れ去られました」


 沈黙。

 若い従僕が、責められているわけでもないのに視線を泳がせる。

 マリベルから放たれる圧が、どんどんと膨れ上がり、そして弾けた。


「お嬢様が誘拐されたですって!?」


 工房の窓が震え、職人たちが一斉に作業の手を止める。

 いつの間にか、マリベルの手に使い慣れた黒塗りの鉄扇が収まっていた。


「ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!!!!」


 絶叫とともに走り出す。


「マ、マリベル様!」


 従僕が慌ててあとを追った。


「旦那様より、まずは屋敷へ戻るようにと!」

「承知いたしました!」


 返事だけは冷静だが、足取りはまったく冷静ではなかった。

 必死に追いかける若い従僕をはるか後方に置き去りにして、マリベルはそのまま工房を飛び出した。



 ***



 アルヴァイン公爵邸へ戻ると、応接室には普段と違う緊張が満ちていた。

 大卓には王都周辺の地図が広げられ、公爵と老執事、それに騎士団から派遣された者たちが集まっている。

 王宮から急いで戻ってきたらしいレオルスも、その場にいた。


「マリベル」


 扉が開くなり、レオルスが立ち上がる。


「状況をお願いいたします」


 マリベルは挨拶も省き、卓上の地図へ近づいた。

 公爵が街道の一点を指す。


「エレノアの馬車はここで襲われた」

「御者は?」


 続いて老執事が説明する。


「途中で別人と入れ替わっていた可能性がございます」

「途中で?」

「往路では間違いなく公爵家の者でした。帰路、立ち寄った店で馬車を離れた際に眠らされ、店の裏手で発見されております。その間に入れ替わったものかと」


 マリベルは地図へ目を落とした。

 エレノアの予定を知っていたとしたら、偶然の犯行ではない。自分のいない日を狙ったうえに、護衛を一度に無力化する準備まで整えていたあたり、これは計画的な誘拐である。


「最初から、お嬢様が目的でございますね」

「私もそう考えている」


 公爵の声音は落ち着いていたが、地図の端へ置かれた手には強く力が入っていた。


「僕も行く」


 レオルスが腰に差した剣の柄を強く握りしめて言う。その表情にはいつもの笑みがなかった。


「レオルス様」

「エレノアが攫われたんだ。屋敷で待ってはいられないよ」

「王宮へお戻りくださいませ」


 マリベルが即座に返すと、レオルスの眉が寄った。


「何だって?」

「今回の者たちは、お嬢様の予定だけでなく、私が同行しない日も把握しております。これほど手際がよい以上、今回が初めてとは限りません」

「王宮の記録を調べろと?」

「はい。近頃、貴族や富裕商人を狙った誘拐事件がなかったか。似た手口が使われていないか。身代金の受け渡し場所や、疑われている集団についての記録がございましたら、確認をお願いいたします」


 レオルスはすぐには答えなかった。

 今すぐ妹を捜しに行きたいというその思いは、強張った手を見れば分かる。

 それでも、しばらくして指の力を抜いた。


「……分かったよ」


 レオルスがマリベルに視線を向ける。


「僕は王宮を当たる。何か分かったら、すぐに知らせる」

「お願いいたします」


 落ち着いたのか、レオルスの表情が少しだけ緩んだ。


「マリベルも、見つけたら知らせてくれるね?」

「もちろんでございます」

「エレノアを頼む」


 マリベルは深く頭を下げた。


「必ず、お嬢様と一緒に帰ってまいります」


 顔を上げる。表情はいつもと変わらないが、マリベルの目には明確な怒りが宿っていた。犯人にだけではない。その怒りの一部は自分自身に対しても向けられていた。


 自分がおそばにいれば。


 その考えが浮かばなかったわけではない。だが、今さら考えても何一つ変わらない。ましてや、自分が工房へ向かったことを悔やんでいると知れば、エレノアはきっと、そんな思いをさせてしまったことまで気に病むだろう。それだけはしたくなかった。


「後悔は」


 鉄扇を開く。黒塗りの扇面には、金文字でこう書かれていた。


『お嬢様第一』


 マリベルはその言葉を心の中に刻み込んで、宣言する。


「お嬢様をお連れして、帰ってからにいたします」


 マリベルは屋敷を出た。



 ***



 同じ頃。

 エレノア・アルヴァインは、見知らぬ部屋で目を覚ました。

 最初に感じたのは、手首の違和感だ。縄が巻かれていた。強く締めつけられてはいないものの、両手を自由に動かすことはできない。


 石造りの薄暗い部屋。

 高い位置にある小さな窓。

 使い込まれた木製の机と椅子。


 扉の近くには、四十歳ほどの男が一人立っていた。

 短く切られた黒髪には白いものが混じり、頬には古い傷が走っている。大柄な体つきには威圧感があったが、身なりは荒れていない。

 エレノアが身を起こすと、男も壁から背を離した。


「起きたか」


 口の中が乾いていた。

 すぐには答えず、まず周囲を確かめる。


 窓の外はまだ明るい。

 扉の向こうからは、何人もの足音が聞こえてくる。

 男の腰には短剣。

 自分がどこにいるのかは分からない。


「……ここは、どこですか?」

「それを教えるほど親切じゃねえ」

「そう」

「ずいぶん落ち着いてるな」


 落ち着いているわけではなかった。心臓は普段より速く打っている。指先も冷えていた。

 見知らぬ場所で、知らない男に監視され、そばにはマリベルもいない。

 怖くないはずがなかった。


「落ち着いて見えるだけです」


 エレノアが隠さずに言うと、男の眉が持ち上がった。


「怖いのか?」

「ええ」

「そうは見えねえな」

「怖がっていれば帰してくださるの?」

「いや」

「でしたら、今はあなたのお話を聞く方がよいと思っただけです」


 男が返答に詰まり、やがて鼻を鳴らす。


「ガレスだ」

「お名前?」

「黒鴉団の団長。あんたを攫った責任者でもある」

「そう」


 エレノアは膝の上で、縛られた両手を重ねた。緊張で汗が滲んでいる。


「身代金が目的なの?」

「そうだ。話が早くて助かる」


 ガレスの口元が歪む。どうやら、今すぐ自分に危害を加えるつもりはないらしい。そう判断したエレノアは、気がかりだったことを尋ねた。


「一緒にいた侍女と護衛の方、それから御者は?」

「眠らせただけだ。死んじゃいねえ」

「お金を受け取れば、私は帰していただける?」

「ああ」

「では、その代わりにこれ以上、屋敷の者には危害を加えないでください」

「……交渉できる立場だと思ってんのか?」

「いいえ」


 首を横に振る。


「お願いしているだけです」


 ガレスは眉間へ皺を寄せた。


 泣き叫ぶわけでもなく、身分を振りかざして命令するでもない。かといって、自分が被害者であることを忘れている様子もない。

 その落ち着きが、妙に引っかかった。


「変な令嬢だな」

「最近、よく言われるわ」

「本当か?」

「ええ」


 ガレスは何とも言えない顔になった。


「金さえ届けば余計なことはしねえ。食事も出す。妙な真似をせず大人しくしてろ」


 それだけ話すと、ガレスは扉へ向かう。

 エレノアは、その背中を呼び止めた。


「一つだけよろしい?」

「何だ」

「マリベルが来ると思います」


 足が止まる。公爵令嬢に手を出した者を正座させる侍女のことだろう。王城の兵器を使っても止められなかったと、若い奴が騒いでいたのを耳にしたことがある。さすがに誇張された馬鹿らしい話だが。


「マリベルが来るだと?」

「ええ。私の侍女です」

「噂には聞いてる」


 その返事を聞いたエレノアは、少しだけ表情を曇らせた。


「でしたら、早めに私を帰した方がよいと思うわ」


 ガレスが呆れたようにため息を吐く。その程度のうわさ話で解放するとでも思っているのだろうか。


「脅してんのか?」

「忠告です」

「たかが侍女一人だろ」

「それを説明すると長くなるので」

「ずいぶん信用してるんだな」

「ええ」


 そこには迷いがなかった。それどころか、こちらを心配している気配さえあった。まるでガレスがこの後にとんでもなく不運な目に遭うことが分かっているような面持ちだ。


「とても」


 エレノアの言葉に、ガレスは首を傾げたまま、部屋を出ていった。



 ***



 しばらくすると、二十歳を少し過ぎたくらいの若い男が食事を運んできた。

 無造作に切った茶色の髪に、落ち着かない目つき。人質を前に、怖そうな顔を作ろうとしているようにも見えた。

 木盆には硬めのパンと、湯気の立つスープが載っている。


「食え」


 机の上に木盆が乱暴に置かれた。スープが少しこぼれる。


「ありがとう」


 エレノアが答えると、男の手が止まった。


「……何で礼なんか言うんだ?」

「食事を持ってきてくださったでしょう?」

「俺、あんたを攫った側だぞ」

「それについては怒っています」

「怒ってんの?」

「当然でしょう?」


 エレノアは怒っていると伝えるために、わざと眉を寄せた。


「私は自分からここへ来たわけではないもの」

「ああ……まあ」

「でも、食事を運んでくださったことまで無かったことにはならないでしょう?」


 若い男の表情から、作っていたらしい険しさが消える。


「変な人だな」

「ガレスにも言われたわ」

「あの団長が?」


 男は思わず笑った。先ほどとは違い、年相応に見える。いつもはこのような顔をするのだろう。


「珍しいな。あの人、人質とはろくに話さねえのに」

「あなたのお名前は?」

「ニルス」

「ありがとう、ニルス」

「だから礼を言うなって」


 口調とは裏腹に、声はすっかり柔らかくなっていた。

 エレノアがスープへ口をつける。少し塩気が強い。

 それでも、温かなものが喉を通ると、張りつめていた身体がわずかにほぐれた。


「美味しいわ」


 部屋を出ようとしていたニルスが振り返る。


「それ、俺が作ったんじゃねえぞ」

「では、作った方へ伝えてください」

「何を?」

「美味しかったと」


 ニルスはしばらく彼女を眺め、それから頭を掻いた。


「……分かったよ」


 扉が閉まる。

 一人になると、急に部屋が広く感じられた。

 相手がいる間は、話を聞くことに集中していればよかったのだが、静かになると、それまで考えずに済んでいたことまで頭へ浮かんでくる。

 エレノアは縄の巻かれた手首へ視線を落とした。

 マリベルは今頃どうしているだろう。

 きっと、自分を捜している。そして――自分がそばを離れたせいだと考えているかもしれない。


「……それは違うのに」


 誰に聞かせるでもなく呟いた。

 工房へ向かうよう言ったのは自分だ。だからといって、その選択が間違っていたとは思わない。

 マリベルがそばを離れたことと、自分を攫った者がいることはまったく別の話なのだから、そこを混同してはいけない。

 エレノアは窓へ目を向けた。今すぐ逃げ出そうとはしなかった。

 場所も分からない。外に何人いるのかも知らない。森の中へ飛び出して迷えば、かえって危険になる。

 侍女や護衛、それに御者が無事だと分かったことだけは、救いだった。

 まずは、自分の置かれている状況を知る。無茶をしない。それが今、自分にできることだった。

 マリベルは絶対に来る。

 ならば、それまで自分の役目を果たせばいい。そう考えると、冷えていた指先が少しだけ温かさを取り戻した。



 ***



 夕方になると、別の男が部屋を訪れた。


「本当に、美味いと言ったのか?」


 無精髭を生やした三十代の男だった。エレノアを怪しむように見ているが、どこか不安そうにしていた。


「スープのこと?」

「ああ」

「ええ。美味しかったわ」

「塩は?」


 妙に真剣だったので、エレノアは目を瞬く。


「少し濃かったかしら」

「やっぱりな」


 男は失敗を確信したように、額に手を当てる。


「ニルスの馬鹿が火を弱めるのを忘れたんだ」

「あなたが作ったの?」

「ああ」

「料理人なのね」

「……昔はな」


 その一言だけ、声が少し沈んだ。

 男は黙ったまま壁へ寄りかかったが、やがて自分から口を開いた。


「店を持ってたこともある」

「そうなの?」

「潰したけどな」


 笑い方には苦味があった。


「借金だけ残った。どこも雇ってくれなくなって、行く場所もなくなった。そこを団長に拾われたんだ」

「そう」

「同情するか?」


 エレノアは言葉を選んだ。


「お店を失ったことについては、お気の毒だと思うわ」

「へえ」

「でも、それと誘拐をしてよいかどうかは別でしょう?」


 男の目が丸くなり、そのあとに肩を震わせた。


「容赦ねえな」

「私、誘拐されているもの」

「そりゃそうだ」


 とうとう声を上げて笑った。先ほどまでエレノアを探るようだった視線からも、いつの間にか警戒の色が薄れている。


「オーウェン」

「なあに?」

「俺の名前だよ」

「そう。よろしく、オーウェン」

「誘拐犯と人質がする挨拶じゃねえだろ」


 そう言いながら、先ほどより機嫌よく部屋を出ていった。



 ***



 翌朝。

 運ばれてきたスープは、前日より明らかに味が整っていた。

 パンまで温かく、ふんわりとしている。スープを一口飲むと、エレノアの目元が自然と和らいだ。


「昨日より好きだわ」

「だろ?」


 木盆を運んできたニルスが、なぜか自分の手柄のように胸を張った。


「オーウェン、朝から何度も味を見てたからな」

「そうなの?」

「塩がどうとか香草がどうとか、ずっとうるさかった」

「あとでお礼を言わないと」

「自分で言えば?」

「会えるの?」

「呼べば来るだろ」


 この辺りから、人質への扱いとして何かがおかしくなり始めていく。

 食事にも変化が現れ、部屋へ来る者たちも、少しずつエレノアの様子を気にするようになっていった。



 ***



 昼前。

 ガレスよりもさらに大柄な男が部屋に入ってきた。片手に一枚の紙を持っている。


「これ、読めるか」


 唐突に差し出され、エレノアは男と紙を交互に見た。目的が分からない。


「私が?」

「そうだ」


 受け取って目を通す。そこに書かれていたのは、アルヴァイン公爵家へ身代金を要求する文面だった。


「これを読み上げればいいの?」

「頼む」


 妙な頼みだとは思ったが、エレノアは書かれている文章をそのまま読み上げた。


「――指定した場所へ金貨を運ぶこと。従わなければ、人質の安全は保証しない……以上よ」


 紙から顔を上げると、大男は難しい表情をして黙り込んでいた。


「どうかした?」

「……本当にその内容であってるんだな?」

「ええ。書いてある通りよ。どうしたの?」


 そこで男は口を閉ざす。やがて、諦めたように頭を掻いた。


「俺、字が読めねえんだ」


 エレノアは一度だけ目を瞬く。そのあと、納得したように頷いた。


「そうなのね」

「……笑わねえのか」

「どうして?」

「字も読めねえのかって、馬鹿にするだろ。普通は」


 エレノアは手元の紙に視線を落とす。特に難しい言葉は使われていない。文字を教えるのにちょうどいい文面だった。


「文字が読めないことと、頭が悪いことは同じではないでしょう?」


 男が黙る。先ほどまでエレノアへ向けられていた警戒が、ほんの少しだけ薄れた。


「それに、読めないことで困っているのなら、覚えることもできるわ」

「……俺が?」

「覚えたいのであれば」


 男は答えず、エレノアの手にある紙を見つめていた。


「今さらだろ」

「今さらではいけないの?」


 その言葉に、男は視線を落とす。しばらくして顔を上げ、意を決したようにエレノアを見た。


「……教えられるのか?」

「簡単なものからなら」


 大男はエレノアのそばへ寄り、太い指で紙に書かれた一文字を指す。


「これは?」

「『金』よ」

「金」


 つぶやきながら、今度はその隣を指した。


「これは?」

「『貨』よ。『金』と合わせて『金貨』ね」

「二つで一つの言葉になるのか……」

「そう難しく考えないで。一つずつ覚えればいいでしょう?」


 男は『金』の文字をじっと睨んだあと、もう一度小さく口にした。


「……金」


 そのとき、扉が開いた。

 目を向けるとガレスが立っていた。彼はそのまま部屋の中を見回す。


 エレノア。

 大男。

 机代わりの木箱。

 その上に広げられた身代金要求書。


「……何をしてる」


 誰もすぐに返事をしなかった。ガレスは眉間に皺を寄せてもう一度聞く。


「何をしてると聞いている」

「文字を教えてもらってます」


 大男が姿勢を正し、慌てて答えた。


「誰に」

「人質に」


 ガレスの眉が跳ねた。


「なんで人質に文字なんか教わってんだ」


 エレノアは首を傾げる。


「覚えたいそうだから」

「人質から読み書きを習う誘拐犯がどこにいる!」


 大男が自分を指した。


「ここ」

「お前まで答えるな!」


 ガレスは大げさにため息を吐いた。


「ブラム。出ろ」

「でも、まだ続きが」

「後にしろ!」


 大男ことブラムは不満そうだったが、紙だけは丁寧に畳んだ。


「エレノア様。また後で」

「ええ」

「ちょっと待て、今『様』付けしたか!? いつの間にそこまで懐いて――」


 ブラムはガレスを無視して出ていく。残されたガレスは額に手を当てたまま、エレノアに顔を向ける。


「……あんた」

「なあに?」

「何しに来た」

「誘拐されたのだけれど」

「そうだったな! 俺が連れてきたんだった!」


 ガレスは頭を抱えてその場にうずくまった。



 ***



 その日の午後。

 エレノアの手首から縄が消えた。


「誰が外した!」


 ガレスの怒声が廊下を走る。騒ぎを聞きつけて何人かの団員が集まってきた。


 ニルス。

 オーウェン。

 ブラム。

 ほかにも、まだ名前を知らない者が数人。


 全員が微妙に団長から目を逸らしている。


「誰だ!」


 しばらくして、ニルスが気まずそうに手を上げた。


「俺です」

「何でだ!」

「手首が赤くなってたんで」

「人質だぞ!」

「でも、逃げそうにないし」

「人質を信用するな!」


 そのとき、部屋からエレノアが顔を出した。


「逃げないわ」

「ほら!」

「『ほら』じゃねえ!」


 ガレスが即座に振り返る。


「何で逃げない!」


 エレノアが廊下の窓から外を眺めると、遠くまで木々が続いていた。方角すら分からない。


「ここがどこかも分からないもの。一人で逃げて森の中で迷う方が危険でしょう?」


 ガレスの口が止まる。


「それに」

「まだあるのか」

「マリベルが来ると思うから」


 団員たちが一斉に彼女を見る。マリベルのことはすでに全員が噂で知っていた。


「本当に来るんですか?」


 ニルスが恐るおそる尋ねた。


「ええ」

「場所も分からないのに?」

「見つけるわ」

「絶対に?」

「絶対に」


 根拠を説明しろと言われても困る。それでも、そこだけは疑っていなかった。

 いつも半歩後ろにいた人が、今度はどれだけ離れていても自分のところまで来る。そう思えたのだ。


 団員たちが顔を見合わせるなかで、ガレスだけが鼻を鳴らした。


「来られるわけねえだろ」

「そうかしら」

「そうだ」

「では、待ちましょう」

「何であんたが一番落ち着いてんだ!」


 エレノアは考えた。けれど、いい答えは見つからない。


「私にも分からないわ」

「それが一番怖えよ!」



 ***



 その日の夕方。

 一人の女がエレノアの部屋を訪れた。

 見た目は三十歳ほどで、栗色の髪を後ろで束ね、鋭い目つきをしていた。

 廊下ですれ違うことはあったが、これまで話しかけてきたことはなかったので、何かあったのだろう。


「少しいいかい」

「私?」

「あんた以外に誰がいるんだ」

「そうね。どうぞ」


 女は中へ入ったものの、椅子には座らなかった。壁際に立ち、値踏みするようにエレノアを眺めている。


「貴族ってのは」

「はい」

「みんな、自分が正しいと思ってるのかい?」


 唐突な問いだった。エレノアは少し考える。


「少なくとも私は、自分がいつも正しいとは思っていないわ」

「公爵令嬢なのに?」

「公爵令嬢でも間違えるでしょう?」


 女は鼻で笑う。その笑い方には棘があった。


「……じゃあ、あんたならどうする?」

「何を?」

「自分の屋敷で、侍女が盗みをしたと言われたら」


 エレノアはすぐには答えなかった。女が冗談で尋ねているわけではないと、その目を見れば分かったからだ。


「何があったの?」


 女の表情から、わずかに刺々しさが薄れた。


「私は昔、貴族の屋敷で侍女をしていたことがあるのさ。そこである日、主人の娘が高価な首飾りをなくしたんだ。それで、私が盗んだことにされた」

「あなたは?」

「盗んでない」

「そう」

「信じるのか?」

「分からないわ」


 女の目が細くなる。


「……何だって?」

「私はその場にいなかったもの。あなたが盗んでいない証拠も、盗んだ証拠も見ていないわ」

「じゃあ、疑ってるのかい?」

「今の私には判断できないと言っているの」


 しばらく沈黙が続いた。女は身構えるように腕を組みながら、エレノアの続きを待つ。


「でも」


 エレノアは慎重に続けた。


「証拠もないまま、あなたが盗んだと決めつけたのなら、その扱いは正しくないと思うわ。まずは、きちんと調べるべきだったでしょうね」


 女の視線が揺れる。先ほどまでの体の強張りが、わずかにほどけた。


「……変な貴族だね」

「今日は何度も言われているわ」

「数えてるのかい?」

「もう分からなくなってきたけれど」


 そこで初めて、相手が自然に笑った。それまでの棘のある笑い方とは違い、今は柔らかな顔つきだった。


「ミレイだ」

「よろしく、ミレイ」

「人質のくせに律儀だね」


 そう言って部屋を出た彼女は、その夜からエレノアの部屋の前に座るようになった。

 本人は見張りだと言い張ったが、別の団員が交代しようとすると、私の出番だと追い返していた。

 夜が冷え込むと、部屋へ追加の毛布まで持ってくる。


「見張りにしては親切なのね」

「風邪を引かれて身代金が下がったら困るんだよ」


 もっともらしい理由だったので、エレノアは、あえて何も言わなかった。



 ***



 二日目の終わりには、黒鴉団の内部で明らかな変化が起きていた。

 最初の頃は、廊下を歩けば遠巻きに監視されていたが、今ではすれ違うたびに『エレノア様』と呼ばれて頭を下げられる。


 食事を運んできたニルスは、妹へ送る手紙について相談しに来た。

 オーウェンは次の食事に何を作るか尋ねるようになった。

 ブラムは覚えた文字を紙へ書き、一文字増えるたび見せに来る。

 ミレイは相変わらず愛想がなかったものの、汚れた靴のままエレノアの部屋へ入ろうとする者を叱るようになっていた。


 エレノア自身は、誰かを味方につけようとした覚えなどなかった。聞かれたことに答えただけだ。分からないことは分からないと言っただけだ。

 それでも、これまで誰にも真面目に話を聞いてもらえなかった者たちにとっては、思いのほか大きかったらしい。

 そして、その変化によって最も追い詰められている人物が一人いた。


 団長である。



 ***



 三日目の朝。

 ガレスは食堂へ入ったところで足を止めた。中央の席にエレノアが座っている。その周囲には、黒鴉団の者たちが集まっていた。どうやら朝食の最中らしい。

 エレノアの前には、紅茶と焼きたてのパン。さらには、手の込んだ卵料理まで並んでいる。


「……何だ、これは」


 ニルスがパンをちぎりながら振り返った。


「朝飯です」

「見れば分かる!」


 ガレスは中央の席を指す。


「何で人質が俺の席にいる!」


 エレノアが椅子を見下ろした。


「ここ、ガレスの席だったの?」

「そうだよ!」

「ごめんなさい。知らなかったわ」


 すぐに立とうとするが、ガレスが手で制した。


「待て」

「なあに?」

「……もういい」


 ガレスは端の空いている椅子へ座る。

 エレノアが来るまでは、自分が食堂へ入れば、誰かしらが姿勢を正した。

 だが今は違う。

 最初に確認されるのは、エレノアのカップが空になっていないか、次にパンが冷めていないか、そして最後に、団長の席が残っているかどうかだった。


 組織の長としては由々しき事態である。


「オーウェン」

「何だ?」

「俺の飯は?」

「そこ」

「エレノアのより少なくないか?」

「エレノア様は人質だからな」

「人質の方を豪華にする理屈が分からねえ!」


 オーウェンは平然と鍋へ戻った。ガレスだけが納得していなかった。



 ***



 昼頃には、さらに状況が進んでいた。

 誰かが困りごとを抱えると『エレノア様に聞いてみろよ』という言葉が自然に出るようになっていたのだ。

 もちろん、エレノアにすべてを解決できるわけではない。仕事を用意できるわけでもないし、借金を消すこともできない。やれることと言えば、考えるきっかけを示すことくらいだった。


 ニルスが妹に金をもっと送りたいと相談しに来た時も、尋ねたことは一つだけだ。


「妹さんに、それが何をして得たお金か話せる?」


 どこへ行っても雇ってもらえないとこぼす者がいれば、その理由を確かめた。


「本当にすべて断られたの? それとも、断られるのが怖くて最初から諦めてはいない?」


 また別の団員が、ガレスへの恩があるから抜けられないのだと話したときには、エレノアは首を傾げた。


「恩があることと、一緒に間違い続けることは同じなのかしら」


 エレノアは誰にも答えを押しつけることはしない。ただ、その人自身が見ないようにしていたものに目を向けただけだ。

 すると彼らは勝手に悩み、勝手に考え、時間を置いてまた何かを話しに来る。

 気づけば食堂の一角には、エレノアを囲むように何人もの団員が集まっていた。


「待て!」


 とうとうガレスが声を上げた。

 集まっていた団員たちが一斉に振り返る。


「何です、団長」

「俺に聞け!」


 ニルスが首を傾げた。


「団長に?」

「ああ!」

「でも団長『知らん、自分で考えろ』って言うじゃないですか」

「自分で考えるのも大事だろうが!」

「そうだけどさ、エレノア様はどう思います?」

「それはガレスのおっしゃるとおりだと思うわ」


 エレノアが頷く。


「ほら見ろ!」


 ガレスが胸を張る。しかし、続く言葉までは読めなかった。


「でも、本当に困っているなら、一緒に考えるくらいはしてもよいのではなくて?」

「結局そっちか!」


 ガレスは力なく肩を落とした。

 団員たちの視線には、わずかに同情が混じっていた。



 ***



「頼むから、人質らしくしてくれ」


 その日の午後。

 ガレスはとうとう、エレノア本人へ懇願した。


「人質らしく?」

「ああ」

「例えば?」

「泣くとか」

「今は泣いていないわ」

「怖がるとか」

「怖いとは最初に言ったでしょう?」

「帰せと喚くとか!」

「帰していただけるの?」

「それは身代金が――」

「でしたら、今言っても仕方がないでしょう?」

「そういうところだよ!」


 ガレスは机を叩きかけ、途中で手を止めた。大きな音を立てれば、エレノアが驚くかもしれない。

 いつの間にか、自分までそんなことを気にするようになっていたのが腹立たしい。


「俺の部下を返せ」

「私は何も取っていないわ」

「だったら、何で全員あんたの味方になってんだ!」

「皆さんに聞いてみたら?」

「怖くて聞けねえんだよ!」


 エレノアは思わず口を閉じた。

 団長として、それはどうなのだろうと思ったが、さすがに本人に言うのはやめておいた。



 ***



 同じ頃。マリベルは王都北部の山道まで来ていた。

 黒塗りの鉄扇の先が、土へ触れる。マリベルは膝を折り、残された車輪の跡を調べていた。

 王都を離れてから、何度も痕跡は分岐している。


 わざと目立つ位置へ残された蹄の跡。

 途中で不自然に途切れている車輪の跡。

 別の道へ誘導するように折られた枝。


 それらは追跡者が現れることを前提に残されたものだ。

 マリベルは目立つ手がかりそのものではなく、それを残した者が隠そうとしたものを拾っていった。

 そこへ、王宮から遣わされた騎士が馬を走らせてくる。


「マリベル殿!」


 手綱を引き、紙片を差し出した。


「レオルス様より伝言です。近年起きた身代金目的の誘拐事件を調べたところ、同じように護衛を眠らせ、馬車の御者を途中で入れ替える事件が三件ございました」

「場所は?」

「いずれも王都北部です。過去の捜査では、北の山間にある旧関所跡付近まで追跡されましたが、そこで痕跡が途切れ、捜索が打ち切られています」


 マリベルは地図を受け取ってすぐに場所を確認する。現在地からそう離れてはいなかった。


「ありがとうございます」


 使者に王都騎士団への連絡を頼んだあと、マリベルは再び周囲に目を向けた。

 街道脇の茂みの枝に、淡い青の細い糸が引っかかっている。攫われた日に、エレノアが着ていたドレスと同じ色だった。


 指先で摘まみ、糸の質を確かめる。胸の奥に焦りが込み上げてきたが、すぐに押さえ込んだ。


 顔を上げ、木々の向こうを見る。

 遠くに、砦のような古い石壁が覗いていた。地図に記されていた旧関所跡だ。


「お嬢様」


 マリベルは鉄扇を握り直す。


「お待たせいたしました」


 黒い侍女服が、森の奥に消えた。



 ***



 黒鴉団の見張りが異変に気づいたのは、その日の午後だった。


「団長!」


 一人の男が食堂へ転がり込む。


「何だ!」

「誰か来ます!」

「何人だ!」

「一人です!」

「一人だと?」


 ガレスが眉を寄せた。


「侍女の格好をした女です!」


 食堂から音が消えた。団員たちの視線が、一斉にエレノアへ向く。

 彼女は紅茶のカップを受け皿へ戻した。


「マリベルね」


 ニルスの顔色が変わる。


「本当に来た……」

「言ったでしょう?」


 ブラムがガレスを見る。


「団長」

「何だ」

「抵抗しない方がいいんじゃないか?」

「二十人近くいるんだぞ! 相手は一人だ!」


 誰も賛同しなかった。全員、絶妙に視線を逸らす。


「何だ、その反応は!」


 ミレイが腕を組んで、堂々と告げた。


「団長。悪いことは言わないから、やめときな」

「お前までどっちの味方なんだ!」

「エレノア様」

「即答するな!」


 その瞬間、砦の外から声が響いた。


「お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」


 古い石壁が震えると同時に、ガレスの肩も震える。


「……本当に侍女か?」


 答える暇はなかった。

 直後には、食堂の扉が勢いよく開いていたのだ。


 黒い侍女服。

 白いエプロン。

 一筋の乱れもなく結われた髪。

 右手には、金文字で『お嬢様第一』と刻まれた黒塗りの鉄扇。


 マリベルだった。


 廊下には、入口を守っていた者たちがすでに正座していた。


「お嬢様!」

「マリベル」


 その姿を見た途端、エレノアの身体から、自分でも気づかないほど小さく力が抜けた。

 怖くなかったわけではない。本当に来ると信じていても、顔を見るまでは安心できなかったのだ。

 口元から、細い息が漏れる。

 マリベルは一直線に主人のもとへ向かった。


「お怪我はございませんか!?」

「大丈夫よ」

「本当に?」

「ええ」


 返事だけでは終わらない。


 顔色、呼吸、姿勢、衣服の乱れ、首元、腕。最後に、手首へ目が止まる。縄の跡はかなり薄くなっていたが、それでもマリベルには十分だった。


「こちらは?」

「最初に縛られていたの」


 ぱちり。

 鉄扇が開く。

 団員たちが揃って一歩下がった。


「マリベル」

「はい、お嬢様」

「今はもう痛くないわ」


 視線が重なる。エレノアの目は止めなさいと言っていた。


「……承知いたしました」


 鉄扇が下がった。

 そこへ、ガレスが恐る恐る近づいてくる。


「あんたが……マリベルか?」


 マリベルが振り返る。


「左様でございます」


 そのとき、ガレスの顔がこの三日間で一番明るくなった。


「頼む!」

「はい?」

「早くこの人を連れて帰ってくれ!!!!」


 団長の絶叫が砦中へ響いた。マリベルが珍しく目を瞬く。

 エレノアまで驚いた。


「ガレス?」

「もう限界なんだよ!」


 ガレスがエレノアを指す。


「この女が来てから、俺の部下が一人ずつおかしくなってんだ!」

「おかしくなってません!」


 ニルスがすぐに反論した。


「エレノア様のおかげで、真人間になろうとしてるだけです!」

「それがおかしいって言ってんだ!」

「真人間になることは、よいことではないかしら」

「今あんたは黙っててくれ! また誰かが感化される!」


 マリベルが食堂を見渡す。


 エレノアの近くにはニルス。

 料理皿を持ったオーウェン。

 紙と炭筆を抱えたブラム。

 壁際にはミレイ。


 誰一人、人質を監視している顔をしていなかった。


「なるほど」


 マリベルの口元が、ほんのわずかに緩んだ。


「納得しないで、マリベル」

「失礼いたしました」


 ガレスが早くしてくれと言わんばかりに、マリベルへ近づく。


「とにかく、この女を――」


 その瞬間、鉄扇がガレスの胸元に差し込まれた。


「距離が近うございます」

「今そこ重要か!?」

「最重要事項でございます」

「分かった! 離れるから!」


 ガレスが慌てて三歩下がる。今度は鉄扇の間合いへ入らないよう気をつけながら、それでも必死にマリベルへ訴えた。


「だから早く連れて帰ってくれ!」

「もちろん、お嬢様にはお帰りいただきます」

「そうか、なら今すぐ――」


 ガレスがほっと息を吐く。これで無事に終わると、そう思ったのだろう。


「ただし」


 鉄扇が閉じられる。


「お嬢様を誘拐した件は別問題でございます」


 ガレスが固まった。

 マリベルは食堂にいる者たちへ視線を巡らせる。


「お嬢様の誘拐に関与された方は?」


 短い沈黙のあと、ニルスが手を上げる。

 続いてオーウェン。

 ブラム。

 ミレイ。

 ほかの者たちも、観念したようにそれに続いた。


「全員でございますね」

「……はい」


 マリベルは美しく微笑んだ。


「正座を」

「はい!」


 返事が揃う。誰一人逃げようとはしなかった。次々に床へ膝をつき、背筋を伸ばす。


「エレノア様、反省しております!」


 エレノアが目を瞬いた。


「私に報告しなくていいのだけれど」

「悪いことをしたんですから、きちんと反省します!」

「俺もです!」

「私も!」

「エレノア様、申し訳ありませんでした!」


 犯罪者たちが正座しているはずなのに、妙に晴れやかな空気が流れている。

 マリベルがわずかに眉を上げた。


「……たいへん素直でございますね」

「エレノア様のおかげです!」

「俺たち、やり直します!」

「まだ、そこまでのお話はしていないでしょう?」


 エレノアが困ったように眉を下げる。ガレスはもう何度目か分からないほど、疲れた顔になった。


「だから何で俺の部下が人質に教育されてんだ……」

「ガレス」


 エレノアが静かにガレスの名を呼ぶ。


「何だ」

「あなたもよ」


 間髪入れず、マリベルも告げる。


「正座を」

「断る!」


 数秒後。

 ガレスは正座していた。


「くそ……」

「言葉遣いがよろしくございません。それに、膝も揃っておりませんね」

「何で俺だけ膝まで直されるんだ!」


 隣に座ったブラムが小声で指摘する。


「団長。ちゃんと話は聞かないと」

「お前は黙れ!」


 鉄扇の先が膝の外側へ触れる。ガレスはヒュッと息を呑み、慌てて両膝を揃えた。


「反省中に口答えはなりません」

「厳しすぎるだろ!」


 ほどなく。

 黒鴉団は団長を含め、見事な正座へ整えられた。



 ***



 全員が落ち着いたところで、マリベルは手にした鉄扇を下ろした。


「お嬢様。これよりお屋敷へ戻りましょう」

「ええ。そうね」


 エレノアは頷き、それから正座しているガレスを見た。


「でも、その前に少しだけいい?」

「もちろんでございます」


 マリベルは止めなかった。エレノアが話したいのなら、その意思を尊重して見守ることにした。

 侍女なので。


 ガレスが訝しげにエレノアを見る。


「まだ何かあるのか」

「あなたは、どうしてこの人たちを手放せないの?」


 ガレスの表情が変わった。


「皆さんから、少しずつ聞いたわ。あなたに助けられたと」

「余計なことまで喋りやがって」


 誰も言い返さない。

 しばらくの沈黙のあと、ガレスが舌打ちをして口を開いた。


「……昔は護衛をやってた」

「護衛?」

「小さな商家でな。主人が死んで店が潰れた。そこで働いてた奴らも、俺も、まとめて放り出されたんだ」


 床へ目を落とす。


「仕事は探したさ。荷運びでも護衛でも、食えるなら何でもやった」

「それでも足りなかった?」

「ああ」


 自嘲するように口元が歪む。


「路地で倒れてる奴を拾った。借金取りから逃げてきた奴もいた。どこにも雇ってもらえねえ奴もいた」


 周囲の団員たちは黙って聞いている。


「最初は普通に働いて食わせてた。でも人数が増えて、金が足りなくなったんだ」

「だから、人を誘拐したの?」

「金持ちを一人攫えば、全員が何か月も食えたからな」


 エレノアはすぐには答えなかった。

 ガレスのしたことを肯定する気はない。だが、そこにあった気持ちまで同じものとして扱うつもりもなかった。


「皆さんを助けたかった気持ちは、本当なのね」

「綺麗に言うな」


 声が荒くなる。


「俺は人攫いだぞ」

「ええ」


 即答だった。ガレスがエレノアを見る。


「私も誘拐されました」

「……容赦ねえな」

「そこを曖昧にしてはいけないと思うわ」


 エレノアは視線を逸らさない。ガレスをまっすぐ見たまま続けた。


「皆さんを助けたかったことと、ほかの誰かを犠牲にしてよいことは別でしょう?」

「分かってる」

「本当に?」

「分かってるよ!」


 ガレスの声が食堂へ響いた。


「だったら、どうしろって言うんだ!」


 団員たちが驚いてガレスを見る。


「こいつらには行く場所がねえ! 俺が始めたんだ! 俺が今日からやめるって言ったら、こいつらはどうなる!」


 エレノアは声を重ねなかった。ガレスの言葉が途切れるまで待つ。


「それを」


 少ししてから尋ねた。


「皆さんに聞いたことはあるの?」

「……何?」

「この人たちが、本当にこれからも誘拐を続けたいのか」

「そんなの――」

「では、聞いてみましょう」


 エレノアは正座している団員たちへ向き直る。


「これからも、誰かを誘拐して暮らしたい方は?」


 誰の手も上がらなかった。衣擦れの音すらしない。

 ガレスがゆっくり周囲を見る。


「……お前ら?」


 ニルスがおずおずと口を開いた。


「俺……辞めたいです」

「は?」

「妹に仕送りするためにやってたんですけど」


 ニルスは一度エレノアを見た。


「エレノア様に聞かれたんです。妹に、それが何をして得た金なのか話せるかって」


 ガレスは何も言えなかった。


「考えたら、たぶん、ぶん殴られます」


 オーウェンも続いた。


「俺もだ」

「お前まで?」

「もう一度、料理人をやってみたい」


 ブラムが頷く。エレノアとの勉強に使っていた紙を取り出して告げる。


「俺はもっと字を覚えたい」


 ミレイは一度床へ目を落とし、それから顔を上げた。


「私は、いつまでも誰かを恨んで生きるのに疲れた」


 ほかの者からも、ぽつぽつと声が上がり始めた。


「俺も辞めたい」

「まともに働けるなら、その方がいい」

「また追い出されるのが怖かっただけなんです」


 ガレスは呆然としている。

 自分が守らなければ生きていけないと思っていた者たちが、知らないうちに先へ進もうとしていた。


「お前ら……」

「でも」


 一人が続ける。


「団長を置いていくのは嫌だったんです」


 ガレスの目が止まった。


「何だって?」

「団長が拾ってくれなかったら、俺は死んでました」

「俺もです」

「自分たちだけ足を洗います、あとは知りませんってのは違うと思ってた」


 ニルスが照れくさそうに鼻を擦る。


「だから、団長が続けるなら俺たちも残るつもりでした」


 ガレスの顔から怒りが抜け落ちる。


「……馬鹿どもが」

「はい」


 ニルスが笑った。それにつられるように、他の者たちも照れくさそうに口元を緩めた。


「団長に似たんです」

「そこは否定しろ」


 声に先ほどまでの勢いはなかった。

 エレノアは、ガレスと団員たちを交互に見る。


「あなたが皆さんを見捨てられなかったように」


 ゆっくり言葉にした。


「皆さんも、あなたを見捨てたくなかったのね」


 ガレスが目を伏せる。


「でしたら、今度は一緒に別の道へ進めばよいのではないかしら」

「簡単に言うな」

「簡単だとは言っていません」


 エレノアはきっぱりと言った。


「これまでしたことは消えないわ。誘拐された方々へ謝罪して、返せるものは返して、受けるべき処分も受けなくてはならないでしょう」

「……ああ」

「それでも」


 エレノアはガレスを見つめる。


「間違ったことをした人は、もう二度と正しいことをしてはいけないの?」


 ガレスが顔を上げた。


「あなたは、この人たちを守りたかったのでしょう?」

「ああ」

「でしたら、これからは犯罪ではない方法で守ってください」


 静寂が落ちた。

 マリベルは半歩後ろで、その様子を見守っていた。自分なら、この場にいる者を全員捕らえることはできる。だが、腕力で押さえつけても、その先の生き方まで変えることはできないのだ。


 エレノアは誰かの代わりに答えを決めているわけではない。ただ、本人たちが選ぶための言葉を渡しているだけである。

 団員たちが自分の意思で答えを出そうとする姿を見て、マリベルの表情がほんのわずかに和らいだ。


「……分かった」


 ガレスが深く息を吐いた。長い間、背負っていたものをようやく下ろしたような声だった。


「今日で黒鴉団は終わりだ」

「団長!」

「誘拐もやめる」


 団員たちの顔が一気に明るくなる。


「やった!」

「団長!」

「エレノア様のおかげだ!」


 一人が勢い余って立ち上がりかけた。


 ぱちり。

 鉄扇が開く。


「正座中でございます」

「失礼いたしました!」


 即座に座り直した。


「エレノア様、反省しています!」

「だから、私へ報告しなくてもいいのよ」


 その横から、別の男が声を上げる。


「では、これからはエレノア様についていきます!」

「……どうして?」

「俺たちを立ち直らせてくださった方ですから!」

「私は何もしていないわ」

「では、新しい団長はエレノア様で!」

「なりません」

「団長だと物騒なので、会長では?」

「呼び方の問題ではありません」

「名誉会長!」

「どうして何かの長にしたがるの?」


 そこでガレスが口を挟んだ。


「ちょっと待て」


 全員が不思議そうに団長を見る。


「俺は?」


 ニルスが考える。


「旧団長?」

「勝手に引退させるな!」


 エレノアは額へ手を添えた。横を見ると、マリベルまで真剣な顔で考えている。


「お嬢様が会長……」

「マリベル?」

「大変よくお似合いかと」

「あなたまで認めないで」

「失礼いたしました」


 表情を見る限り、まったく失礼とは思っていなさそうだった。



 ***



 その日の夕方。

 王都騎士団が古い砦へ到着した。

 先頭に立つヴィクターは、庭へ足を踏み入れたところで歩みを止める。

 二十人近い男女が、整然と正座していたのだ。

 その前にはマリベル。隣にはエレノア。


 ヴィクターはこれまでにも、マリベルが関わったあとに妙な光景を目にしたことがある。

 それでも、今回は少しばかり状況を整理する時間が必要だった。


「……説明してもらえるか」

「誘拐団でございます」


 マリベルが答える。


「そこまでは分かる」

「全員、出頭の意思がございます」


 ヴィクターが訝しげにガレスへ視線を向ける。


「本当か?」

「ああ」

「余罪もすべて調べる」

「分かってる」

「これまでの被害について、返還や賠償も必要になるぞ」

「逃げねえよ」


 ヴィクターはしばらくガレスを見たあと、騎士たちへ合図を送った。


「では、連れていく」


 団員たちがそろって立ち上がったその瞬間だった。


「エレノア様!」


 全員が一斉にエレノアへ向き直る。


「反省してまいります!」

「それは騎士団の方へ言ってください」


 ヴィクターが眉間へ指を当て、それからエレノアを見る。


「……エレノア嬢」

「はい」

「誘拐されている間に、何をなさったのですか」


 エレノアは考えた。


 食事を食べた。

 話を聞いた。

 文字を少し教えた。


 それくらいしか思い当たらない。


「私にも分かりません」


 それが最も正確な答えだった。



 ***



 その後、黒鴉団は正式に解散した。

 ガレスたちは、今回の誘拐だけでなく、自分たちが関わった余罪についても包み隠さず話した。過去の事件で得た金品も、残っているものはすべて騎士団へ引き渡している。

 もちろん、エレノアと話したからといって罪が消えるわけではない。事件への関与について調査が行われ、被害を受けた者への返還や賠償も進められた。

 そして、処分や償いを終えた者たちは、それぞれ新しい仕事を始めた。


 オーウェンは、再び料理人として働き始めた。

 ブラムは時間を見つけては文字を学び続けている。

 ミレイは、もう一度侍女の仕事を選んだ。過去のことも隠さず話したうえで、それでも雇ってくれるという家を自分で見つけたらしい。

 ニルスは妹へ、初めて自分のしてきたことを隠さず手紙に書いた。返事には、かなり厳しい言葉が並んでいたようだ。


 こうして、黒鴉団として生きる者は、もう一人もいなくなった。



 ***



 ある日の午後。

 アルヴァイン公爵家の居間には、エレノアと、王宮から帰ったばかりのレオルスが向かい合って座っていた。エレノアの半歩後ろには、マリベルが控えている。

 そこへ、老執事が一通の書類を持ってきた。


「お嬢様。新たに設立された救援団体より、報告が届いております」

「まあ」


 エレノアは受け取り、表紙に目を落とす。そこには『王都民間救援会』と記されていた。


「思っていたより普通の名前ね」

「大変結構かと存じます」


 マリベルも頷く。エレノアはそのまま役員欄へ目を移し、最初に記された名前を見て手を止めた。


「代表がガレスですって!?」

「どうしたんだい?」


 レオルスが書類を覗き込む。

 エレノアは見間違いではないかと、もう一度そこを確かめた。


「……本当にガレスが代表なのね」

「あの団長か」


 レオルスも少し意外そうに眉を上げた。


「副代表、オーウェン」

「料理人ではなかったの?」

「店を切り盛りしていた経験を買われたそうでございます。炊き出しも担当なさっています」

「それなら分かるわ」


 さらに下へ読み進めたところで、エレノアの目が止まった。


「……マリベル」

「はい、お嬢様」

「これは何?」


 書類の最下部。そこには、妙に目立つ大きな文字があった。


『名誉会長エレノア・アルヴァイン』


 マリベルが横から確認し、納得したように頷いた。


「名誉会長でございますね。おめでとうございます。お嬢様」

「おめでたくありません!」


 レオルスも、その文字に目を留めた。


「似合っていると思うよ」

「お兄様まで」

「誘拐された先で誘拐団を解散させて、そのあと救援団体まで作らせたんだろう?」

「私は団体を作れとは言っていません」

「でも、会長らしいことはしているね」

「していません」


 エレノアはきっぱり否定し、老執事へ書類を返した。


「訂正をお願いしてください」

「かしこまりました」


 その横で、ぱちりと鉄扇が開く。


「勝手にお名前を載せた件は、正座でしょうか」

「まずは訂正だけでいいわ」

「承知いたしました」


 その三日後。

 修正された書類が届いた。

 嫌な予感を覚えながら開く。


『永久名誉会長エレノア・アルヴァイン』


「増えているわ」


 エレノアの声が居間へ落ちる。

 マリベルの鉄扇が開いた。


「行ってまいります」

「待ちなさい」

「訂正してまいります」

「鉄扇を置いて」

「必要でございます」

「何に?」

「訂正に」

「どのような訂正をするつもりなの?」

「役職名を」

「本当にそれだけ?」

「もちろんでございます」


 信用できない。エレノアがマリベルの袖を掴もうとした、そのとき。

 玄関広間の方から声が届いた。


「エレノア様!」


 聞き覚えのある大声だった。

 ガレスである。


「エレノア様! 昨日、行方不明になっていた子どもを無事に保護しました!」


 エレノアに対する口調がいつの間にか変わっていた。そこへ、別の声が重なる。


「エレノア様! 俺、一人で手紙を読めるようになりました!」

「新しい厨房でも働き始めました!」

「エレノア様!」

「エレノア様!」


 次々に飛んでくる報告に、エレノアは困ったように眉を下げた。

 勝手に会長へ据えられたことには、言いたいことがある。


 かなりある。

 けれど。


 かつて誰かを連れ去るために集まっていた者たちが、今は行方不明になった子どもを家族のもとへ連れ帰っている。その事実だけは、素直に嬉しかった。


「……ちゃんと、やっているのね」

「はい!」


 ガレスが素直に答えた。

 マリベルの声も、わずかに柔らかくなる。


「そのようでございます」


 エレノアは立ち上がった。


「では、これまでのお話を聞きましょうか」

「お嬢様」

「なあに?」


 マリベルはひと呼吸置いた。


「今後は、誘拐された先で犯罪組織の頂点に立つことはお控えくださいませ」

「私が望んで立ったわけではないわ」

「存じております」

「それに、私は会長ではありません」

「永久名誉会長とのことでございます」

「認めていません!」


 エレノアの声が居間へ響く。

 すると玄関の向こうから、ちょうどよくガレスの声が返ってきた。


「会長! 聞こえてますか!」

「会長ではありません!」


 即座に言い返す。


「すみません! 名誉会長!」

「そこではありません!」


 訂正をお願いしたはずなのに、どうやら意図までは伝わっていないらしい。

 エレノアは呆れて何か言おうとした。けれど、その前に笑いがこぼれた。

 マリベルも、その横顔を見て目元を和らげる。


 お嬢様が笑った。

 ならば、今日の戦も勝利である。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

次回は9月4日18時ごろに投稿予定です!


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嘘だろマリベルのガードを掻い潜ってエレノア嬢を誘拐するなんて…… って驚いてたら別行動中に誘拐されたのか。 それじゃ仕方ない…… 誘拐された後のマリベル、流石の判断力。 レオルスだって居ても立っても居…
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