第十八章 お嬢様のお誕生日をささやかに祝うですって!? 絶対に宴ですわああああああああああああああああ!!!!
「お嬢様のお誕生日をささやかに祝うですって!?」
アルヴァイン公爵家の居間に、侍女マリベルの声が響き渡った。
誕生日を忘れていたわけではない。当然である。エレノアが生まれた日をマリベルが失念するなど、屋敷の使用人たちにとっては、明日の朝から太陽が西より昇ると言われた方がまだ信じられるほどだった。
彼女を驚かせたのは、数日後に迫った誕生日について、エレノアがあまりにも控えめな希望を口にしたことだった。
「そんなに驚くことかしら」
長椅子に腰かけたエレノアは、半歩後ろで硬直しているマリベルを振り返った。
「今年は、家族や屋敷のみんなと静かに過ごしたいの。大勢の方をお招きする必要もないし、大掛かりな催しもいらないわ」
向かいにはレオルスが座っていた。妹の言葉を聞いた彼は一瞬だけ意外そうな顔をしたものの、すぐに手にしていたカップを受け皿へ戻す。
「本当にそれでいいのかい、エレノア?」
「ええ。私のお誕生日なのだから、私が決めてもいいでしょう?」
「もちろんだよ」
レオルスは穏やかに笑った。
「エレノアがそうしたいなら、まずはその希望を聞かないとね」
その言葉に、エレノアもほっと息をついた。
問題は、もう一人だった。
マリベルは黒塗りの鉄扇を胸元に構えたまま、先ほどから一言も発していない。表情こそ普段と変わらないものの、扇を握る指先には明らかな力がこもっている。
「マリベル?」
「お嬢様」
ようやく返事があった。
「なあに?」
「本当に、ささやかなお祝いをご希望なのでございますね?」
「ええ」
「お嬢様がお生まれになった、年に一度の尊き日に?」
「私のお誕生日なのだから、そうでしょう?」
マリベルの眉がわずかに寄った。
「……許しません」
「何を?」
「お嬢様がお生まれになった日を、ささやかに済ませるなど――」
勢いよく顔を上げる。
「絶対に宴ですわああああああああああああああああ!!!!」
絶叫が屋敷を揺らした。
廊下を歩いていた使用人たちが一斉に足を止め、紅茶を運んできた老執事だけが何事もなかったように新しいポットを卓上へ置く。
そして、次の瞬間、マリベルは走った。
「マリベル?」
黒い侍女服が扉の向こうへ消える。
あまりに迷いのない疾走だったため、エレノアもレオルスも一拍ほど反応が遅れた。
やがて、廊下の遥か向こうから声が響いてくる。
「料理長おおおおおおおおおおおお!!!!」
エレノアは勢いよく立ち上がった。
「待ちなさい、マリベル!」
急いで追いかける。
その背中を見送り、レオルスは紅茶を一口飲んだ。
「相変わらず速いね」
呆れた様子ながらも、レオルスは止める気配を見せずに、遠ざかっていく足音へ耳を傾けていた。
***
「料理長、お嬢様のお誕生日でございます!」
「知っている! 毎年祝っているだろう!」
「今年は、家族と屋敷の者だけで過ごされたいとのことでございます!」
「なら、ささやかに用意すればいいんだな?」
「いいえ!」
間髪入れず、マリベルが鉄扇を突きつけた。
「宴です!」
「ささやかに用意するんじゃないのか!?」
「ささやかな宴でございます!」
「その二つは両立するのか!?」
厨房へ到着するより先に、エレノアの耳へ料理長の叫び声が届いた。
中へ入ると、普段なら昼食の仕込みで忙しいはずの料理人たちが、揃って手を止めていた。その中央では、マリベルと料理長が向かい合っている。
作業台の上には、いつの間に用意したのか紙と筆まで広げられていた。
「普段より少しだけ手をかけて、お嬢様のお好きなお料理を何品かお出しすればよいのだろう?」
料理長が作業台の紙へ目を落としながら確認するように尋ねると、エレノアはようやくまともな案が聞こえてきたことに安堵し、二人の間へ割って入る。
「ええ。それくらいでいいの」
エレノアが言うと、料理長が目に見えてほっとした。
しかし、マリベルは違う。
「すべて、でございます」
「何が?」
「お嬢様のお好きなお料理を、すべてでございます」
料理長が遠い目をした。
「食卓に乗らんぞ」
「増設を」
「しなくていいわ」
エレノアが即座に止める。
マリベルはしばらく沈黙したあと、料理長へ向き直った。
「では、厳選いたしましょう」
「最初からそうしてくれ」
料理長が額の汗を拭った。
ひとまず料理については収まりそうだとエレノアが胸を撫で下ろしたところで、菓子職人がおずおずと手を上げる。
「ケーキはいかがいたしましょう」
「三段で」
マリベルが即答した。
エレノアがすぐさま訂正に入る。
「一段で十分よ」
「……承知いたしました」
あまり承知した顔には見えなかったが、マリベルは一応頷いた。
エレノアは念を押すように料理長を見る。
「いつもの食事より、少しだけ特別なくらいでお願いします」
「お任せください、お嬢様」
料理長の返事を確認し、これで一件落着と思った。
ところが、振り返った先にマリベルがいない。
「……マリベル?」
開いたままの裏口から、黒いスカートの裾が一瞬だけ見える。
「次でございます!」
「まだあるの!?」
エレノアは再び走った。
***
裏口を抜けた先は庭だった。マリベルはすでに庭師長を捕まえていた。
長年アルヴァイン公爵家の庭園を任されてきた老庭師は、剪定ばさみを片手にしたまま、黒い鉄扇で示される範囲を目で追っている。
「お嬢様がお通りになる場所を、花で飾ってくださいませ」
「どの辺りまででしょう」
「すべてです」
庭師長が広大な敷地を見渡した。
「すべて、と申しますと」
「お嬢様がお歩きになる可能性がある場所すべてでございます」
「マリベル!」
エレノアがようやく追いついた。
「可能性で決めたら庭中になるでしょう!」
「お嬢様がいつ、どちらへお進みになっても、美しい花々が道しるべとなるようにと」
「そこまでしなくても、私は庭で迷子にならないわ!」
庭師長は笑いを堪えるように俯く。
そこへ、遅れてレオルスが姿を見せた。
「朝から賑やかだと思ったら、今度は庭かい?」
エレノアは救いを求めるように兄を見る。
「お兄様、マリベルを止めてください!」
「何を始めたんだい?」
「庭を花で埋め尽くそうとしているの!」
「正確には、お嬢様がお歩きになる可能性がある場所すべてでございます」
「それを庭中と言うのよ!」
レオルスは二人を見比べると、マリベルへ困ったような笑みを向けた。
「マリベル。エレノアは大掛かりな祝いは望んでいないと言っていただろう?」
「承知しております」
「承知している人はあんな指示しないわ!」
エレノアの指摘に、マリベルは返事をしなかった。
レオルスは庭師長が用意していた花の候補へ目を落とす。その中に白い薔薇を見つけると、懐かしそうに目を細める。
「エレノアは昔から白薔薇が好きだったよね」
「好きだけれど、それがどうかしたの?」
「なら、白薔薇を中心にするのはどうかな。庭全部でなければ、綺麗だと思うよ」
マリベルがすぐに庭師長へ向き直った。
「レオルス様、素晴らしいご提案です」
「おや、珍しく褒めてもらえたね」
「意見が一致するのは大変不本意でございますが」
「僕は嬉しいけどね」
「お兄様までマリベルを勢いづかせないで!」
先ほどまで止める側だった兄が、早くも怪しくなっていた。しかも本人には暴走している自覚がない。
「正面庭園だけならどうかな?」
「それくらいなら……」
エレノアも白薔薇自体は嫌いではない。むしろ好みを覚えていた兄の言葉が嬉しくて、つい頷いてしまった。
するとレオルスが中庭へ視線を向ける。
「でも、食堂からは正面庭園が見えないね」
マリベルも続けた。
「それなら中庭にも必要かと」
「待って」
「では、正面庭園と中庭の二か所で」
「増えているわ」
「二か所のみでございます」
マリベルの声は真剣だった。
レオルスも考え込む。
「白だけだと少し寂しいかな。エレノアの好きな色を混ぜても――」
「増やさなくて結構です」
エレノアが言い切ると、レオルスは残念そうに肩をすくめ、マリベルは口を閉ざした。
だが次の瞬間、マリベルが踵を返して走り出す。
「では、次へ行って参ります」
「ちょっと、まだあるの!? いい加減、待ちなさい!」
エレノアも慌てて、その背を追いかけた。
***
次にマリベルが向かったのは、衣装部屋だった。
「マリベル、わざわざ新しいドレスを仕立てる必要はないわ!」
息を切らして追いついたエレノアが言うと、マリベルは衣装を選ぶ手を止めて振り返る。
「新しいドレスは必要ないと?」
「ええ。私はいつものドレスでかまわないわ。だから、わざわざ豪奢にしなくてもいいの!」
「……かしこまりました。ドレスは新調いたしません」
意外にも、マリベルはそれ以上食い下がらなかった。
「では、お持ちのドレスからお選びいたしましょう」
そう言って、マリベルは衣装係に何着か用意するよう頼んだ。ほどなくして、数着のドレスが運ばれてくる。その中には、エレノアが以前から持っている淡い青色のドレスもあった。華美な装飾はなく、これまでに何度も袖を通したことがある一着だ。
「こちらでしたら、よろしいでしょうか」
「ええ。それなら構わないわ」
今度こそ話が通じたと思い、エレノアは乱れた呼吸を整える。
ところが、マリベルはドレスを衣装係へ預けると、そのまま飾り棚の前へ移動した。並んだ小箱をいくつか確かめ、その中から白い花をあしらった小ぶりな髪飾りを取り出す。
「髪飾りはこちらでいかがでしょう」
「髪飾りも替えるの?」
「ドレスは新調いたしませんので、せめてこの程度は」
差し出された品は確かに控えめだった。普段使っているものより少し華やかではあるが、誕生日の装いとして目くじらを立てるほどでもない。
エレノアは差し出された髪飾りへ目を落とす。
「……それくらいなら、いいわ」
その様子を、庭からそのままついてきたレオルスも後ろから覗き込んでいた。
「ああ、それなら、この前渡したものもあっただろう?」
レオルスが思い出したように声を上げる。
「国外から持ち帰った髪飾りだよ。あれなら、そのドレスにも似合うと思うけど」
「そうかしら」
エレノアが首を傾げる横で、マリベルがすぐさま頷いた。
「私も、そちらがよろしいかと存じます」
「マリベルまで?」
「お嬢様によくお似合いになりますので」
レオルスも期待するようにエレノアを見ている。二人に揃って勧められると、エレノアも強くは断りづらかった。
何より、その髪飾りは兄が旅先で自分のために選んでくれた品でもある。
「……では、それを使おうかしら」
その一言がいけなかった。
髪飾りが変わるなら、それに合わせて髪型も整えた方がよいとマリベルが言い出したのだ。衣装係がエレノアの髪を軽くまとめてみると、レオルスが鏡越しに首を傾げる。
「その髪型なら、いつもの靴よりこっちの方が合うんじゃないかな」
示されたのは、淡い色の飾りがついた靴だった。それも新しく用意したものではなく、以前からエレノアが持っている品である。
「靴まで替えるの?」
「お持ちのものを合わせるだけだよ」
「……それなら、まあ」
エレノアが許すと、マリベルが手袋を二組取り出した。
「こちらはいかがでしょう」
「手袋まで?」
「髪飾りと靴を替えるのでしたら、お手元も合わせた方がよろしいかと」
一組はドレスに近い淡い青、もう一組は髪飾りに合わせた白だった。マリベルがそれぞれをドレスの上へ重ねて見せる。
レオルスも二組を見比べた。
「白の方がいいんじゃないかな」
「私も白がよろしいかと存じます」
「どうして二人ともそんなに真剣なのよ……」
エレノアが選ぶまでもなく、手袋は白に決まった。
そこから先は早かった。
髪型を変えたことで首元がどこか寂しく見えると言われ、衣装係が装飾品を持ってくる。レオルスが候補を選べば、マリベルが別の品を並べて比較し、どちらがより似合うか衣装係まで加わって検討を始めた。
新しいものは何一つない。それぞれを見れば、どれも大した変更ではない。だからこそ、エレノアも途中まで気づかなかった。
やがて、一通り候補が決まると全体を確認することになった。
エレノアは選んだ品を身につけ、鏡の前で自分の姿を上から下まで眺める。
いつものドレス。
けれど、髪飾りが違う。
髪型も違う。
靴も手袋も、首元の飾りまで変わっている。
エレノアはしばらく鏡を見つめた。
「……新しく作っていないだけで、ほとんど全部変わっていない?」
室内が静かになった。
マリベルがそっと目を逸らす。レオルスも、なぜか窓の外へ視線を向けた。
「お兄様」
「うん」
「どうして目を逸らすの?」
「僕も途中から楽しくなってしまってね」
「マリベル」
「最もお似合いになる組み合わせを検討した結果でございます」
「二人とも、少し減らしてください」
「すべて戻すのかい?」
「全部とは言っていないわ。お兄様は極端なのよ」
「お嬢様、減らすのは一部だけでよろしいかと」
「マリベルも交渉しないで!」
結局、最初に選んだドレスとレオルスから贈られた髪飾りだけを残し、それ以外の品は順に片づけられていった。
衣装については、ようやく収まった――そう思ったのだが、それは楽観的すぎた。
***
昼を過ぎる頃には、屋敷の者たちからも「自分たちに何かできないか」という声が上がり始めた。
料理人たちからは、それぞれ一皿ずつ、祝いの料理を作りたいという申し出があった。
庭師たちは、飾りつけとは別に、今いちばん綺麗に咲いている花を少しだけ贈らせてほしいと願い出た。
若い侍女たちは、仕事の合間に小さな飾りを作るつもりらしい。
老執事まで、屋敷を代表して祝いの言葉くらいは述べたいと言い出した。
どれも派手ではない。
誰も勝手な宴を開こうとはしていない。
自分のために何かをしたいと言ってくれる、その気持ちを無下にはしたくなかった。
だから、それぞれの話を聞いているうちに、結局どれも断りきれなかった。
「一皿だけなら」
「少しのお花ならいいわ」
「仕事に支障が出ない程度にしてくださいね」
「短いご挨拶なら、もちろん」
許可をもらった者たちは、顔を明るくして持ち場へ戻っていく。その姿を見れば、断らなくてよかったと思う。
ただしエレノアは、この時点ではまだ気づいていなかった。
一つひとつが小さくても、全部を一か所へ集めればどうなるのかを。
***
その日の午後。
マリベルが誕生日の準備で席を外している間に、廊下の向こうから軽快な足音が聞こえてきた。
「エレノア様!」
白い聖衣を揺らしながら現れたのは、聖女リリアーナだった。その後ろには、すでに疲れた表情を浮かべた神官長が続いている。
「リリアーナ様?」
「お誕生日のお祝いについてお話し合いをなさっていると伺いましたわ!」
「どこから聞いたの?」
「わたくしには分かりますわ!」
「答えになっていないわ」
リリアーナはまるで気にせず、胸の前で両手を組んだ。
「もちろん、大神殿も準備を進めております!」
エレノアの動きが止まる。
「大神殿も?」
「はい!」
「何を準備しているの?」
リリアーナは待っていましたとばかりに胸を張った。
「大神殿の暦に印をつけてまいりましたわ!」
「何の印?」
「エレノア様御生誕記念日ですわ!」
「勝手に宗教行事を増やさないで」
「勝手ではございませんわ! エレノア様がお生まれになった日ですもの!」
「理由になっていないわ」
エレノアが額を押さえたところで、リリアーナの背後から神官長の声がした。
「聖女様、先ほど暦に書き加えたものを消しておいてください」
リリアーナが勢いよく振り返る。
「なぜですの!?」
「なぜではございません」
「エレノア様のお誕生日ですわよ!?」
「存じております」
「でしたら!」
「消してください」
「横暴ですわ!」
「どちらがですか」
神官長は少しも譲らなかった。
リリアーナは助けを求めるようにエレノアを見る。
「エレノア様!」
「消してきてください」
「エレノア様まで!?」
「大神殿の暦は、あなたの予定帳ではないでしょう?」
「でしたら、大神殿の記録簿に残すだけでも!」
「駄目です」
「では、神官たちの共有予定表に!」
「それも駄目よ」
「せめて毎年、わたくしが皆様へお知らせするくらいは――」
「しなくて結構です」
「では! わたくしの予定帳へ書くことは!?」
エレノアは一瞬だけ黙った。
「……それはお好きになさって」
「ありがとうございますわ!」
リリアーナの顔がぱっと明るくなる。
「では、大きな花で囲みますわ!」
「好きにしてください」
「金色のインクも使いますわ!」
「それも好きになさって」
「ありがとうございます、エレノア様!」
「なぜ勝ち誇っているの?」
話が通じたのか、通じていないのか分からない。神官長だけが、深く疲れた息を吐いていた。
「それで、当日はどのような式典になさいますの?」
「式典はしません」
エレノアが即答すると、リリアーナが目を見開く。
「なさいませんの?」
「ええ。特別な式典はせず、屋敷で過ごすつもりなの」
リリアーナは何かを言いかけたものの、エレノアを見て口を閉じた。
「……そうですの」
「残念?」
「少しだけですわ」
正直な答えだった。
それでも、すぐにいつもの明るさを取り戻す。
「では、わたくし個人としてお祝いに伺いますわ!」
「それならいいわ。ありがとう」
「必ず伺いますわ!」
神官長は複雑そうにリリアーナを見ていたが、エレノアは気づかなかったことにした。
***
その夜。
エレノアはレオルスとマリベルを前に、予定が増えていないか、一つずつ確認した。大神殿まで巻き込まれかけたので、警戒したのだ。
屋敷の外から祝いに来るのは、リリアーナだけ。
楽団もいない。
式典もしない。
新しいドレスも作らない。
料理は大幅に削った。
花も庭全体には飾らない。
リリアーナが大神殿の暦に何を書こうが、明日には消されているはずである。
これだけ確かめれば、さすがに大丈夫だろう。
「これで全部よね?」
エレノアが念を押すと、マリベルは迷いなく頷いた。
「はい、お嬢様」
レオルスも穏やかに微笑む。
「僕から勝手に何か増やすこともないよ」
「では、安心ね」
エレノアは肩の力を抜いた。
その判断が間違いだったと知ったのは、誕生日前日の夕方である。
***
「最終確認をお願いいたします」
マリベルにそう言われ、エレノアは屋敷の中広間へ向かった。
当初は家族用の食堂だけを使う予定だったが、屋敷の者たちが短時間ずつ祝いに顔を出すことになったため、隣接する中広間も開けておくと聞いていたのだ。
それくらいなら仕方がないと思っていた。扉の前にはレオルスもいる。
「僕も完成したところを見るのは初めてなんだ」
「お兄様も?」
「途中までは見ていたけれどね」
その言葉に、わずかな不安がよぎった。
マリベルが扉を開いたので、エレノアは中を見る。
そして、黙った。
まず目に入ったのは花だ。
庭いっぱいに飾ることは止めたはずの白薔薇が、中広間へ集中していた。壁際や窓辺、卓上にまで配置され、庭師たちが持ち寄った別の花まで加わったことで、室内だけ季節が一つ増えたようだった。
次にケーキ。
確かに一段だった。段数だけは、きちんと守られている。
ただし、大皿いっぱいに広がるほど大きい。
その横に置かれた献立表には、料理人たちが「一皿だけ」と申し出た料理の名がずらりと並んでいた。
食卓から視線を上げれば、壁には侍女たちが作った小さな飾りが連なっている。さらに広間の端には、老執事が祝いの言葉を述べるための小さな演台まで用意されていた。
どれも、もとを辿れば心当たりがある。エレノアが「それくらいなら」と許したものに、マリベルの都合のいい解釈まで重なった結果だった。
だからこそ、すぐには何も言えなかった。
マリベルが胸を張る。
「可能な限り、ささやかにいたしました」
エレノアはゆっくりと彼女を見た。
「……マリベル」
「はい、お嬢様」
「最初に何と叫んだか覚えている?」
マリベルの視線が、ほんのわずかに泳いだ。
「『宴ですわ』だったわよね?」
「……はい」
エレノアはもう一度、中広間を見渡した。
「叶っているじゃない」
沈黙。
その横からレオルスが口を挟んだ。
「でも、屋敷の外から来るお客様はリリアーナ嬢だけだよ」
エレノアが兄を見る。レオルスの笑みが引きつっていた。
「お兄様」
「はい」
「マリベル」
「はい、お嬢様」
エレノアは中広間の絨毯を指した。
「二人とも、そこへ」
レオルスは反射的に膝をつき、正座する。あまりにも所作が滑らかだった。
その隣でマリベルだけが立っている。
「マリベル?」
「……かしこまりました」
黒いスカートを整え、マリベルも正座した。
二人並んで背筋を伸ばす姿を確認してから、エレノアは腰へ手を当てる。
「お説教です」
「はい、お嬢様」
「うん」
「長いお説教です」
「はい」
「覚悟しておくよ」
「反省してる?」
マリベルが顔を上げた。
「お嬢様のお誕生日をお祝いしようとしたことについては、反省いたしかねます」
「そこではありません」
予想通りだった。
隣のレオルスも申し訳なさそうに続ける。
「僕も、エレノアを祝いたかったこと自体は後悔していないかな」
「お兄様も同じ逃げ方をしないでください」
「でも、少しは抑えたんだよ?」
「どこを?」
レオルスが指を一本立てる。
「花火は止めた」
エレノアが固まった。
「候補にあったの!?」
マリベルが小さく咳払いをした。
「夜空へ『祝・お嬢様御生誕』の文字を――」
「マリベル」
「不採用となりました」
「当然です!」
「僕が止めたんだよ」
なぜかレオルスが誇らしげだった。
「お兄様も褒めません!」
「残念だな」
「それからマリベル」
「はい」
「一段にしたら大きさは自由、なんて一言も言っていません」
「段数については、厳守いたしました」
「そこだけ守らないで!」
説教されている二人は、反省しているのかしていないのか分からない。
エレノアは眉間を押さえたまま、ふと中広間へ目を向けた。
白薔薇、ケーキ、手作りの飾り。
どれも、自分を喜ばせようとして用意されたものだった。
腹が立っているわけではない。
むしろ、嬉しい。
だからこそ、ここだけはきちんと伝えておきたかった。
「……でも、ありがとう」
正座していた二人が同時にエレノアを見る。
エレノアは表情を緩めた。
「こんなにお祝いしようとしてくれた気持ちは、ちゃんと伝わっているの。屋敷のみんなが色々考えてくださったことも、お兄様が私の好きなものを覚えていてくださったことも」
レオルスも笑みを収める。
マリベルも真剣に耳を傾けていた。
「でも、私が欲しかったのは、立派なお誕生日会ではないの」
エレノアは二人を見渡し、続ける。
「お父様やお兄様、マリベル、それから屋敷のみんなと、いつもより少しだけ楽しく過ごしたかっただけ。私のお祝いのために、みんなが朝から晩まで走り回ってしまったら、それは私が望んでいた一日とは違うでしょう?」
マリベルの視線が下がった。
しばらく何も言わず、エレノアの言葉を受け止めていた。
「……申し訳ございません」
「謝らなくていいわ」
エレノアは首を横へ振った。
「元に戻しましょう」
一拍置いて、マリベルが深く頭を下げる。
「かしこまりました」
レオルスも頷いた。
「僕も手伝うよ。エレノアの誕生日なんだから、最後はエレノアが決めるべきだ」
「ありがとうございます。お兄様」
話がまとまると、真っ先に動いたのはマリベルだった。
「では、花を半分にいたします」
「まだ多いわ」
「三分の一」
「もう少し」
「四分の一」
「あとちょっと」
「では、すべて下げましょうか?」
「どうして急に全部になるの!?」
極端だった。レオルスも負けていない。
「こっちも飾りを全部外そうか」
「だから全部とは言っていません!」
「難しいね、ささやかというのは」
「普通でいいのよ!」
「普通ってなんだろうね」
「急に哲学に走らないで!」
こうして、膨らませるとき以上の勢いで縮小作業が始まった。
***
誕生日当日。
夕食は、いつもの家族用食堂で始まった。
卓上には庭で摘まれた花が控えめに飾られ、料理長が用意した料理も、普段よりほんの少し華やかな程度に収まっている。
だが巨大なケーキだけはそのままだった。ひときわ目立ってはいたが、屋敷の者たちも一緒に祝うとなれば、このサイズがちょうどよかったのだ。
食事がひと段落したところで、公爵とレオルスから誕生日の贈り物が渡された。
エレノアがそれぞれの贈り物を手に取り、二人へ礼を告げる。その様子を見届けた公爵が、もう一つあると言うように一通の封筒を差し出した。
「これはクラリスからだ」
「お母様から?」
エレノアは封筒を受け取り、封を開いた。
そこには、見慣れた母の筆跡が並んでいる。誕生日を祝う言葉とともに、直接会えないことへの心残りや、帰国した際にはゆっくり話したいという思いが綴られていた。
エレノアは最後まで読み終えると、便箋を丁寧に畳んだ。
「……お母様らしいわ」
自然と口元が緩む。
遠く離れていても、こうして自分を想って手紙を送ってくれる。それだけで十分に嬉しかった。
エレノアは便箋を封筒へ戻し、手元にそっと置く。
それから食事を再開すると、贈り物をきっかけに、話題はいつしかレオルスが国外にいた頃の思い出へ移った。エレノアも料理を口に運びながら耳を傾ける。
「そういえば、向こうの市場で言葉を一つ間違えてね。欲しかったものとはまったく違う品を山ほど勧められたことがあったよ」
「お兄様でも、そんな間違いをするのね」
「するとも。あのときは断るだけで大変だったよ」
エレノアはそのときの兄を想像して、くすりと笑った。
何も特別な余興はない。誰かが楽器を演奏することも、立派な祝辞を読み上げることもない。
けれど、父がいて、帰ってきた兄がいる。遠くにいる母の気持ちも届いている。
自分が望んでいたのは、まさにこういう誕生日だったのだ。
ふと横を見ると、マリベルがいつもと同じ場所に立っていた。
エレノアの半歩後ろ。給仕のために控え、こちらが何かを求めるより早く気づける距離。
「マリベル」
「はい、お嬢様」
「座って」
マリベルが目を瞬いた。
「……私が、でございますか?」
「ほかにマリベルはいないでしょう?」
「ですが、私は侍女でございます」
「知っているわ」
「でしたら、給仕を」
「今日はほかの方にお願いして」
マリベルは困ったように沈黙する。
エレノアは隣の空いている椅子へ手を置いた。
「私、最初に言ったでしょう? 家族や屋敷のみんなと過ごしたいって」
「はい」
「あなたも、その中に入っているのよ」
マリベルの瞳が、わずかに揺れた。
「だから、今日くらい一緒に座って」
公爵は何も言わずに二人を見守っていた。
レオルスも口を挟まない。
やがてマリベルは、小さく息を吐いた。
「……かしこまりました」
椅子を引き、エレノアの隣へ腰を下ろす。
背筋はまっすぐに、手は膝の上。
どう見ても、食事を楽しむ人間ではなく、これから何かの審査を受ける者の姿勢だった。
それを見たレオルスが、からかうように声をかける。
「この前は僕が誘んでも断ったのにね」
「お嬢様のご命令でございますので」
「それでも、ちょっと嬉しいよ」
「レオルス様」
「なんだい?」
「正座を」
「今は食事中だよ?」
「では、後ほど」
「予約されたね」
エレノアはとうとう堪えきれず、声を立てて笑った。マリベルも、ほんの少しだけ口元を緩める。
「来年は、もう少し盛大にいたしましょう」
「マリベル」
「冗談でございます」
あれほど騒いだ誕生日だったのに、最後にはこうして同じ食卓を囲んでいる。
それでよかった。
そう思った、そのときだった。
「エレノア様ああああああああああああああああ!!!!」
玄関の方から、聞き覚えのある絶叫が響いた。
食堂にいた全員が扉を見る。
ほどなくして、白い聖衣をまとったリリアーナが、両腕いっぱいの巨大な花束を抱えて飛び込んできた。
花が大きすぎて、本人の顔がほとんど見えない。
「お誕生日、おめでとうございますわああああああああああああああああ!!!!」
リリアーナの絶叫とともに、色とりどりの花が視界いっぱいに広がった。
それまで控えめだった花の量が、ここへ来て一気に何十倍にもなっている。
マリベルが椅子から立ちかけたが、エレノアはそれを手で制し、巨大な花束の向こうから必死にこちらを覗こうとしているリリアーナを見る。
散々膨れ上がった祝いを小さくし、ようやくささやかな誕生日を終えられると思っていたのに、その最後の最後でこれである。
「……もう、ささやかではなくなったわね」
呆れたような声とは裏腹に、エレノアの口元には笑みが浮かんでいた。
花束を抱えたリリアーナも、それを見て顔をほころばせる。
お嬢様が笑った。
ならば、今日の戦も勝利である。




