第十七章 お嬢様のお兄様が帰ってくるですって!? 愛しの妹たち、ただいま!
「お嬢様のお兄様が帰ってくるですって!?」
公爵家の廊下に、侍女マリベルの声が響き渡った。
悲鳴ではない。
歓声でもない。
長らく屋敷を離れていた人物の帰還を知らされ、これまで保たれていた平穏が終わることを察した者の声である。
「マリベル。そこまで嫌そうな顔をしなくてもいいでしょう?」
隣を歩いていたエレノアが、困ったように笑った。
「嫌そうな顔などしておりません」
「しているわ。眉間に少し皺が寄っているもの」
指摘され、マリベルは眉間へ指を添えた。すぐにいつもの涼やかな表情へ戻したものの、玄関広間へ向かう足取りは、普段よりほんのわずかに重い。
アルヴァイン公爵家の嫡男、レオルス・アルヴァイン。エレノアの兄であり、国外での仕事を任されていた人物である。
穏やかで、人当たりがよく、家族思い。それだけを聞けば、非の打ち所のない兄だった。
ただし、家族への愛情が少々重い。
実の妹であるエレノアだけでなく、幼い頃から同じ屋敷で育ったマリベルまで、自分の妹だと言っているのだ。
「お兄様が帰っていらっしゃるのは、嬉しくないの?」
「お嬢様がお喜びになるのであれば、私も嬉しく存じます」
「あなた自身は?」
「……ご無事で何よりでございます」
エレノアはマリベルの横顔を見つめる。
「ずいぶん慎重に言葉を選んでいるわね」
「気のせいでございます」
玄関広間に着くと、扉の向こうから馬車が止まる音が聞こえた。
老執事が一歩前へ進み、若い従僕が荷物を受け取るために玄関脇に立つ。
エレノアの表情が明るくなり、マリベルはその半歩後ろへ控えた。
玄関の扉がゆっくりと開く。
「愛しの妹たち、ただいま!」
長い旅を終えて帰ってきたレオルス・アルヴァインは、入ってくるなり両腕を大きく広げた。
「お帰りなさい、お兄様」
「正座を」
実の妹からは笑顔で迎えられ、もう一人の妹からは帰宅直後に正座を命じられた。
レオルスは両腕を広げたまま、ゆっくりとマリベルを見る。
「まだ何もしていないよ?」
「抱きつこうとなさいました」
「兄妹の再会だよ」
「お嬢様へのご挨拶と同時に、私にも腕を広げられましたので」
「二人とも僕の妹だからね」
「私は妹ではございません」
「僕にとっては妹だよ」
「では、距離が近うございます」
「理由が変わったね」
レオルスは困ったように笑いながら、旅装のまま玄関広間の絨毯へ膝をついた。
慣れた正座だった。背筋も伸びている。
どうやら長く屋敷を離れていても、マリベルに正座を命じられた際の所作までは忘れていなかったらしい。
「相変わらず厳しいね、マリベル」
「必要な教育でございます」
「久しぶりに会った兄に、もう少し優しくしてくれてもいいんじゃないかな」
「正座を」
「もうしているよ」
エレノアは口元へ手を添えた。
「お兄様、玄関で正座していないで立ってください。せっかく帰っていらしたのに、使用人たちが荷物を運べないわ」
「エレノアは優しいね」
「お嬢様は常にお優しいお方でございます」
「僕には?」
「正座を」
「だから、しているよ」
やがて、エレノアは耐えきれなくなったように笑った。
その声を聞いたレオルスは、正座したまま目を細める。
「元気そうで安心したよ、エレノア」
「お兄様も」
エレノアがレオルスの前に歩み寄る。
レオルスは一瞬だけ両腕を広げかけたが、マリベルの視線に気づいて、すぐに下ろした。
「抱き締めるのも駄目かな?」
「まずはお着替えをなさってください。長旅でお疲れでしょう?」
「そうだね。まずは着替えてこよう」
レオルスは立ち上がると、今度はマリベルへ顔を向けた。
「マリベルも元気そうだね」
「おかげさまで」
「少し背が伸びたんじゃないかな?」
「そのような年齢ではございません」
「では、美しくなった」
「正座を」
「今、立ったばかりなんだけど?」
「お早く」
レオルスは再び膝をついた。
老執事は、その一連のやり取りを見届けてから若い従僕に告げる。
「レオルス様のお部屋に、お荷物を」
「公爵様へ、先にご帰還の報告をしなくてもよろしいのでしょうか」
「正座が終わってからでよかろう」
若い従僕は納得したように頷いた。
***
着替えと公爵への挨拶を終えたレオルスは、エレノアのために用意された居間を訪れた。
卓上には紅茶と焼き菓子が並び、部屋の壁際には、旅先から持ち帰った大きな箱がいくつも積み上げられている。
「お兄様、これは何ですか?」
「二人へのお土産だよ」
「少し多すぎないかしら」
「長い間、帰れなかったからね。少しずつ選んでいたら、この量になったんだ」
レオルスは楽しそうに箱を開けていく。
異国の言葉で書かれた本。
香りのよい茶葉。
見たことのない形の菓子。
繊細な刺繍の入った布。
宝石を控えめにあしらった白い髪飾り。
どれも、エレノアの好みをよく知る者が選んだ品だった。
「エレノアには、まずこれを」
レオルスは一冊の本を差し出した。
「向こうで出版されたばかりの旅行記だよ。以前、読んでみたいと言っていただろう?」
「覚えていてくださったの?」
「妹の言葉を忘れる兄がいるものか」
エレノアは本を両手で受け取り、嬉しそうに表紙を眺めた。
「ありがとう、お兄様。大切に読むわ」
「喜んでもらえてよかった」
レオルスは満足そうに頷いたあと、別の細長い箱を持ち上げる。
「それから、マリベルにはこちらを」
「不要でございます」
「まだ開けてもいないよ?」
「お気持ちだけ頂戴いたします」
「中身を見てから決めてもいいんじゃないかな」
「結構でございます」
レオルスが箱の蓋を開ける。
中には、黒い金属の板と、いくつかの細かな金具が収められていた。光を受けても派手に輝かず、黒塗りの鉄扇とよく似た重い光沢を帯びている。
マリベルの視線が止まった。
「向こうで採れる黒鉄だそうだよ。軽いわりに強度があり、薄く加工しても割れにくいと聞いた」
「加工を担当できる職人は?」
「紹介状も用意してある」
「熱への耐性は?」
「一般的な鉄より高いそうだ」
「詳しくお聞かせくださいませ」
レオルスが笑みを深めた。
「受け取ってくれるんだね」
「お嬢様をお守りするために有用でございますので」
「僕からの贈り物としては?」
「正座を」
「まだ何もしていないよ?」
「話しかけられましたので」
「ついに会話だけで正座になったね」
それでもレオルスは嬉しそうだった。
マリベルは黒鉄を手に取り、指先で厚さと重さを確かめる。拒絶する言葉とは裏腹に、品物の扱いは丁寧だった。
その様子を眺めていたエレノアが、小さく笑う。
「気に入ったのね、マリベル」
「実用性を確かめているだけでございます」
「素直ではないね」
「レオルス様」
「なんだい?」
「正座を」
「分かったよ」
レオルスは正座しようと椅子から腰を浮かせたが、ふと思い出したように動きを止めた。
「そうだ。二人に相談したいことがあるんだ」
再び椅子へ座ると、懐から丁寧に折り畳まれた紙を取り出し、卓上へ広げる。
「これは何かしら?」
「僕が帰ってから、二人と過ごすための予定表だよ」
紙には、帰国後の予定が細かな文字で書き込まれていた。
明日の朝は、三人で朝食。
午前は、エレノアと庭園を散歩。
昼食後は、マリベルも連れて街へ買い物。
翌日は三人で観劇へ行き、その次の日には異国の料理を出す店を訪れる。
さらに、その次の日、そのまた次の日まで、予定は隙間なく並んでいた。
「ずいぶん先まで決めてあるのね」
「長い間、何もしてあげられなかったからね。帰る途中で考えたんだ」
エレノアは予定表へ目を落とし、小さく息をつく。
「気持ちは嬉しいけれど、私にも予定があります」
「もちろん、エレノアの予定に合わせるよ」
「私にも勤務がございます」
マリベルが淡々と告げる。
「父上には、君の休暇を認めてもらえるよう頼むつもりだよ」
「お断りいたします」
「まだ頼んでもいないよ?」
「私の予定を、私より先にお決めにならないでくださいませ」
レオルスが目を瞬く。
「でも、たまには兄妹で出かけてもいいだろう?」
「私は妹ではございません」
「その話はさっきもしたね」
「解決しておりませんので」
エレノアは予定表から顔を上げた。
「お兄様。私と過ごす予定も、マリベルと過ごす予定も、先に私たちに聞いてから決めてください」
「嫌だったかい?」
「嫌ではありません。だからこそ、勝手に決めずに誘ってほしいの」
レオルスはしばらくエレノアを見つめたあと、予定表へ視線を戻した。
「分かったよ。では、この予定は二人に聞いてから組み直そう」
「ええ。それなら楽しみにしています」
エレノアは微笑みながら予定表を手に取り、書き込まれた内容に改めて目を通す。最後の一行を読んだところで、表情が固まった。
「お兄様」
「何だい?」
「この『本日中、セドリック・ラングレーを処刑』という予定は何ですか?」
「書いてあるとおりだよ」
「買い物や観劇と同じように予定に入れないでください」
「僕にとっては、帰国後に済ませるべき大切な用事だからね」
レオルスは予定表の下から、一通の傷んだ書状を取り出した。
何度も開かれたらしく、折り目は白く擦れ、一部が破れかけている。
「この知らせを受け取った日に、帰国の準備を始めたんだ」
それは、セドリックがエレノアを裏切り、二人の婚約が解消されたことを伝える書状だった。
遠い国にいたレオルスへ一刻も早く知らせるため、詳しい事情は省かれて要点だけが記されている。
「それでは、ちょっと出てくるよ」
レオルスは何でもないことのように立ち上がった。
エレノアが目を瞬く。
「お兄様、どこに行かれるのですか?」
「ちょっとセドリックを処刑しにね」
「そんな軽い用事のように言わないでください」
「安心して。夕食までには戻るよ」
「時間の問題ではないわ」
レオルスが壁際に掛けられていた外套へ手を伸ばす。
マリベルはすぐに外套を取り、レオルスの背後へ回った。
「ありがとう、マリベル」
「馬車も手配いたします」
「手際がいいね」
「私も参りますので」
マリベルはレオルスの外套の襟を整えながら、扉のそばに控えていた老執事へ顔を向けた。
「騎士団詰所まで、最も早い馬車を」
「承知いたしました」
「承知しないで、二人とも座りなさい」
エレノアの声が部屋へ落ちた。
マリベルの手が止まり、レオルスは外套を着せられたまま振り返る。
「エレノア」
「お嬢様」
「二人ともです」
レオルスは外套を脱ぎ、絨毯へ正座した。
マリベルも一礼すると、その隣に正座した。ただし、右手は黒塗りの鉄扇から離していなかった。
「本人の話も聞かずに処刑しては、公平ではないだろう?」
「処刑すること自体をやめてほしいのだけれど」
「では、騎士団を通して正式に呼び出そう」
「なぜ呼び出す方向へ進むのですか?」
「当事者から事情を確認するためだよ」
「そのあと処刑するつもりでしょう?」
「話を聞いてから決める」
「決める権利はお兄様にはありません」
エレノアは卓上の予定表を取り、最後に書かれた一行に横線を引いた。
「この予定は中止です」
「では『セドリック本人から話を聞く』へ変更しよう」
「なぜ会う方向へ進むのですか?」
「届いた書状だけでは、詳しい事情が分からなかったからね。彼が今、何を考えているのかも確認したい」
「確認して、そのあとどうするおつもりですか?」
「処刑かな?」
「結局、何も変わっていないわね。処刑は禁止よ」
「分かったよ」
返事が早すぎる。エレノアは疑わしげに兄を見つめてから、隣で正座しているマリベルへ目を向けた。
「マリベルも、異論はないわね」
「ございません。お嬢様のご判断に従います」
「では、もう戻っていいわ」
「承知いたしました」
マリベルは立ち上がり、エレノアの半歩後ろへ戻る。右手は、黒塗りの鉄扇を握ったままだった。
「お兄様は、本当に分かっているの?」
「もちろん」
「目を逸らさないでください」
レオルスは窓の外からエレノアへ視線を戻した。
「正式な面会を申し込む。それならいいだろう?」
エレノアは返事をためらった。
今さら会いたいとは思わない。セドリックとの関係は、すでに終わっているのだ。
だが、自分の知らないところでレオルスとセドリックを会わせる方が、はるかに危険だった。
「……私も同席します」
「エレノア、君は会わなくていい」
「それを決めるのは私よ、お兄様」
レオルスは一瞬、息を止めた。
「セドリック様に会うかどうかを判断するのは私です。今回は、私も同席します」
「君を守るために、僕が話をするんだよ」
「でしたら、私の意思も尊重してください」
レオルスは何も答えなかった。
しばらくして、正座したまま小さく笑う。
「本当に、変わったね」
「そうかしら」
「僕の知らない顔をするようになった」
その言葉に、寂しさが混ざっていた。
エレノアは膝の上で重ねた手に、わずかに力を込める。
「お兄様が知らないだけで、以前からこうだったかもしれないわ」
「それは、兄として少し悔しいな」
「では、これから知ってください」
レオルスは目を見開いた。
やがて、柔らかく目を細める。
「分かったよ」
その日のうちに、騎士団を通じてセドリックへ面会を求める書状が送られた。
***
翌日。
アルヴァイン公爵邸の応接室には、いつもより重い空気が流れていた。
エレノアは長椅子へ腰かけ、その半歩後ろにはマリベルが控えている。向かい側では、壁の肖像画や古い武具を背に、レオルスが椅子に座っていた。
腰に剣はない。
エレノアが、面会前に置いてくるよう命じたためである。
「お兄様、本当に何もしないでくださいね」
「信用がないね」
「信用される行動をなさっていないでしょう」
「まだ何もしていないよ」
マリベルが鉄扇を開いた。
「今後もお願いいたします」
「マリベルも同席するのかい?」
「昨日、私も参ると申し上げましたので」
「そうだったね。君は僕の味方だった」
「お嬢様のご命令ですので、現在は止める側でございます」
「さっそく裏切られたね」
マリベルは返事の代わりに、レオルスを見返す。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「どうぞ」
エレノアが答えると、老執事が廊下側から扉をわずかに開いて室内へ一礼した。
「王都騎士団長ヴィクター様、ならびにセドリック・ラングレー様がお見えでございます」
「お通しして」
「かしこまりました」
老執事は扉を大きく開き、二人を招き入れるように脇へ退いた。
先に入ってきたのはヴィクターだった。その後ろに、セドリックが続く。
以前よりも表情は硬く、かつて夜会で令嬢たちに向けていた軽い笑みはない。応接室へ入ると、エレノアへ一度だけ視線を向けてすぐに深く頭を下げた。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます」
エレノアの胸に、過去の記憶が浮かぶ。
自分がもっと可愛らしければ。
もっと優しければ。
もっと彼を癒せる女であれば。
そんなことばかり考えて、一人で泣いた夜があった。
けれど、その記憶には以前のような鋭い痛みはない。もう、目の前にいる男との将来を考えることはないのだ。自分の人生の外にいる人だった。
「お掛けください」
エレノアが告げると、ヴィクターが一礼して腰を下ろし、セドリックももう一度頭を下げてその隣へ座った。
ヴィクターはレオルスを見る。
「面会の前に、一つ確認しておく」
「何かな」
「セドリックは無事に騎士団へ連れ帰る。それが今回の面会条件だ」
「もちろんだよ」
「帰るときにも、意識と四肢が正常であることを求める」
「ずいぶん細かいね」
「レオルス殿とマリベルが揃っているからな」
「私は何もしておりません」
「そのまま何もするな」
マリベルは何も答えずに鉄扇を閉じる。ヴィクターはそれを了承したものと受け取った。
「では、始めてくれ」
レオルスがセドリックへ向き直る。
その顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「初めまして。エレノアの兄、レオルスだ」
「セドリック・ラングレーです」
「君が何をしたかは、遠い国まで届いた書状で知っているよ」
「……はい」
「エレノアと将来を約束しながら、別の令嬢へ心を移し、その責任をエレノアへ押しつけた男だね」
セドリックの指が、膝の上で動いた。
「そのとおりです」
「否定しないのかい?」
「できません。事実ですから」
レオルスは笑みを崩さず、セドリックを見つめる。
「では、なぜ裏切った?」
「……俺が弱かったからです」
「便利な言葉だね」
レオルスの声は穏やかだ。
それだけに、部屋の空気が冷える。
「弱かったと言えば、何をしても説明できる。もう少し具体的に答えてくれるかな」
セドリックはしばらく黙った。
「……ロザリンド嬢に好意を向けられて、浮かれていたんです」
「浮かれていた?」
「はい。俺には婚約者がいるのに、自分を慕ってくれる令嬢がいることが嬉しかった。それで、距離を取るどころか、俺の方から近づいた」
「そのために、エレノアとの縁談を冷たいものだったと話したのかい?」
「……はい。俺が浮気をしているんじゃなくて、仕方なく決められた婚約から、本当に好きな相手を選んだんだと思いたかったんです」
「エレノアが冷たかったからではないのかい?」
「違います」
「可愛げがなかったからでも?」
「それも違います。エレノア嬢に足りないものがあったんじゃない。自分に都合のいい理由を作って、俺が裏切っただけです」
レオルスの笑みが薄くなる。
「ずいぶん立派な答えを用意したんだね」
「そう思われても仕方ありません……でも、嘘じゃないです」
「今は反省していると?」
「しています。でも、それで許されるとは思っていません」
「許してほしい?」
セドリックはすぐには答えなかった。
「……許してほしいです。でも、エレノア嬢に許してくれとは言えません」
「復縁は?」
「そんなことを言える立場じゃありません」
レオルスの指が、椅子の肘掛けを軽く叩いた。
「なるほど、よく分かった。では、未練もないようだし――」
レオルスは立ち上がり、壁に飾られていた儀礼剣へ手をかける。
あまりにも唐突な行動に、セドリックは椅子から転げ落ちた。床に尻をついたまま、慌てて片手をレオルスへ突き出す。
「ま、待ってくれ! どうしてそうなるんだ!」
その隣でヴィクターも即座に立ち上がり、レオルスを警戒するように身構えた。
エレノアの目がすっと細くなる。
「お兄様」
「少しだけだよ」
「人の命に『少しだけ』はありません」
「……分かったよ」
レオルスは名残惜しそうに剣から手を離す。
「……これも没収です」
レオルスは渋々、元の椅子へ戻った。
ヴィクターもそれを見届けて腰を下ろし、セドリックは床から立ち上がって椅子に座り直した。
マリベルは、閉じた鉄扇を手にセドリックを見ていた。
正座を命じることもない。
レオルスが、それに気づいた。
「マリベル」
「はい」
「なぜ彼を正座させないんだい?」
「必要ございませんので」
「君ほど彼を憎んでいた者はいないだろう?」
「現在も好意はございません」
セドリックの口元が引きつる。
「ならば、なおさら正座させるべきじゃないかな」
「ですが、セドリック様とお嬢様の関係は、すでに終わっております」
マリベルは淡々と告げた。
「私がこの方に正座を促す理由は、もうございません」
セドリックが顔を上げる。
マリベルの視線は冷たかった。だが、そこにかつてのような激しい怒りはなかった。
「お嬢様の人生に、この方の反省を待つ時間は、もう必要ございませんので」
セドリックの顔から、血の気が引く。罵倒されるよりも、その言葉の方が深く刺さったのだろう。
エレノアはマリベルを振り返る。マリベルはいつものように、半歩後ろへ立っていた。
今も、セドリックを許したわけではない。
それでも、目の前の男へ怒りをぶつけるより、エレノアがすでに前へ進んでいることを優先してくれているのだ。
エレノアはセドリックへ向き直った。
「私からも、一つだけお伝えします。あなたがご自分のなさったことを認めていることは分かりました。ですが、それによって以前の関係に戻ることはありません」
「分かっています」
「私も、あなたに戻ってきてほしいとは思っていません」
セドリックは何かを言いかけたが、結局、口を閉じた。
「それだけです」
セドリックは立ち上がり、深く頭を下げる。
「エレノア嬢。本当に、すまなかった」
その謝罪に、エレノアは返事をしなかった。
拒絶でも、許しでもない。ただ、その言葉を受け取った。
ヴィクターも立ち上がる。
「それでは、我々はこれで失礼する」
「もう帰るのかい?」
レオルスが尋ねると、ヴィクターは無表情のまま答えた。
「これ以上長居をすれば、無事に連れ帰れなくなりそうなのでな」
「心配しすぎだよ」
「詰所へ戻るまでは安心できん」
セドリックは最後に一度だけエレノアへ頭を下げ、ヴィクターとともに応接室を出ていった。
扉が閉じる。
廊下を遠ざかる二人の足音が聞こえなくなっても、レオルスは扉を見つめたままだった。先ほどまで浮かべていた穏やかな笑みは、もうない。
「お兄様」
エレノアが呼びかける。
「あれで、終わりなのかい?」
「ええ」
「でも、君は泣いたんだろう」
エレノアは、すぐには答えなかった。
レオルスの声には、もう冗談めいた軽さがない。
「ええ。泣きました」
否定せずに答えると、レオルスの指先がゆっくりと丸まった。
「僕は、そのときそばにいなかった。報告を受けた日に、すぐ帰ろうとしたんだ」
レオルスは笑おうとした。けれど、その笑みは形にならなかった。
「でも、僕が抜ければ止まる仕事があった。途中で放り出せば、交渉に関わっていた者たちだけでなく、その向こうで暮らす人たちにも影響が出る。引き継ぎを整えて、できる限り急いだつもりだった」
膝の上で握られた手に、力が入る。
「急いだつもりだったんだよ」
声が、わずかに掠れた。
「でも帰ってきたら、すべて終わっていた」
エレノアが泣いたときも。
マリベルが一人で騎士団へ乗り込んだときも。
エレノアが自分の言葉で関係を終わらせたときも。
レオルスは、そこにいなかった。
「君が傷ついたとき、僕は何もできなかった」
レオルスはマリベルへ視線を向ける。
「マリベルが一人で君を守っていたときも、僕は何もできなかった」
「お兄様が謝ることではないわ」
「でも、僕は兄だ」
「兄だから、すべての出来事に間に合わなければならないの?」
「それは……」
「私は、あのとき確かに傷つきました」
エレノアは、レオルスから目を逸らさなかった。
「でも、それはお兄様がいなかったからではないわ。セドリック様が、私との約束より、ご自分に向けられた好意を選んだからです」
「エレノア」
「私は、自分であの方との関係を終わらせました。マリベルが代わりに決めたのでも、お父様が決めたのでもありません」
レオルスの顔に、痛みのようなものが浮かんだ。
「お兄様が今からセドリック様を処刑したら、私が自分でつけた決着をお兄様が上から塗り替えることになるわ」
「そんなつもりは」
「分かっています。私を守ろうとしてくださったのでしょう?」
エレノアは、膝の上で握られていたレオルスの手に、自分の手を重ねた。
「でしたら、私が選んだ結末を守ってください」
レオルスは重ねられた手を見下ろした。
小さかった妹の手。
かつて、自分の後ろをついて歩いていた少女の手。
だが今、その手は誰かに導かれることを待たず、自分の意思で兄へ伸ばされている。
「僕がいない間に、強くなったんだね」
「以前から、それほど弱かったつもりはないわ」
「そうだったね」
レオルスは、今度こそ少しだけ笑った。
「僕が、気づいていなかっただけだ」
レオルスは、エレノアの半歩後ろに控えるマリベルに目を向ける。
「マリベル。君にも謝らなくてはいけないね」
「必要ございません」
「僕が帰れなかったせいで、君一人にエレノアを守る責任を負わせた」
「違います」
マリベルは、迷わず否定した。
「私は、レオルス様に代わってお嬢様をお守りしたつもりはございません」
「でも」
「私は、私の意思でお嬢様のおそばにおります」
マリベルの声は、いつもと変わらず静かだった。
「レオルス様がお戻りになれなかったことを、私への負い目になさる必要はございません」
レオルスは、しばらくマリベルを見つめた。
それから、ゆっくりと息を吐く。
「君は昔から、優しいことを怖い顔で言うね」
「正座を」
「今のは褒めたんだけど?」
「必要以上に話しかけないでくださいませ」
「少しくらい、兄を慰めてくれても」
「正座を」
「分かったよ」
レオルスが絨毯の上へ座ろうとすると、マリベルが一歩前へ出た。
「姿勢が違います」
「まだ座りきってもいないよ?」
「膝の間隔を狭く」
「厳しいね」
「お嬢様がお決めになった結末を、勝手に変更しようとなさいましたので」
「セドリックより、僕の方が反省すべきだと?」
「現在、この屋敷で最もお嬢様のお言葉に従っておられないのは、レオルス様でございます」
「正論が痛いね」
「正座も、間もなく痛くなります」
「それは知っているよ」
マリベルはレオルスの姿勢を確認すると、満足したようにエレノアの半歩後ろへ戻った。
レオルスは正座したまま、エレノアを見上げる。
「エレノア」
「何ですか、お兄様」
「少しだけ、抱き締めてもいいかな」
帰ってきたときのように、勝手に両腕を広げることはしなかった。
エレノアは一瞬だけ目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。
「ええ。改めて、お帰りなさい、お兄様」
レオルスが立ち上がる。
今度はエレノアの方から一歩近づいた。
レオルスは妹の身体を、壊れ物に触れるようにそっと抱き締める。
「ただいま、エレノア」
短い言葉だった。
それだけで、離れていた時間が少しずつ埋まっていくようだった。
やがてレオルスはエレノアから離れると、期待に満ちた目でマリベルを見る。
「マリベルも、少しだけどうかな?」
「お断りいたします」
「先に尋ねたことは評価してくれないのかい?」
「正座にお戻りくださいませ」
「せめて、マリベルからも『お帰りなさい』くらい聞きたいな」
「ご無事のご帰還、何よりでございます」
「もっと妹らしく」
「正座を」
「戻るよ」
レオルスは素直に絨毯へ膝をついた。
その姿を見て、エレノアはとうとう声を立てて笑った。
セドリックと向き合っていたときの硬い表情は、もうどこにもない。
お嬢様が笑った。
ならば、今日の戦も勝利である。
***
その日の夕方。
正座から解放されたレオルスは、卓上で帰国後の予定表を書き直していた。
「明日の朝食は、三人でどうかな?」
「私はお嬢様の給仕がございます」
「では、給仕をしながら僕の隣へ座ればいい」
「それは給仕ではございません」
「家族の朝食なのだから、構わないだろう?」
「私は妹ではございません」
「まだ認めてくれないのかい?」
「正座を」
「なぜ!?」
レオルスは思わず声を上げたが、すぐに腕を組んで考え込んだ。
やがて、名案を思いついたように顔を上げる。
「そうだ。僕の妹になれば、エレノアの姉になれるよ」
マリベルは答えなかった。
「マリベル?」
エレノアは不思議そうにマリベルに顔を向ける。
普段ならば、即座に否定するはずだった。
だが、返事が来るまでにほんの少しだけ間があった。
「……正座を」
「今、少し迷ったね?」
「正座を」
「迷ったんだね?」
「お早く」
レオルスが嬉しそうに絨毯へ膝をついたところで、老執事が一通の書状を持って部屋へ入ってきた。
「レオルス様。王宮より、明朝からの出仕を求める書状が届いております」
「帰ってきたばかりなのだけれど」
「国外任務の報告と、今後の外交業務についてお話があるとのことでございます」
エレノアは少し残念そうに兄を見た。
「また、しばらくお忙しくなるのですね」
「国外へ戻るわけではないよ。今度はきちんと帰ってくる」
レオルスはそう言ってから、エレノアとマリベルを順に見た。
「だから二人とも、僕がいない間に無茶をしないように」
「私たちが望んで無茶をしているわけではないわ」
「お嬢様を害そうとする者へお伝えくださいませ」
「では、その者たちを先に処刑しておこうか?」
「明日のご用意をなさってください、お兄様」
帰ってきた兄の過保護が治るまでには、まだ少し時間がかかりそうであった。
***
「レオルス様が私を妹だと言いふらしているですって!? ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!!!!」
三日後。
公爵家の廊下に、マリベルの絶叫が響き渡った。
エレノアが居間へ駆けつけると、マリベルは王宮から届いた書状を手にしていた。
差出人は、レオルスとともに働くことになった王宮の文官である。
「マリベル、何があったの?」
「レオルス様が、王宮中の方々に『自分には可愛い妹が二人いる』と話しておられるそうでございます」
「お兄様……」
エレノアは額へ手を添えた。
「しかも、私のことを『少々素直ではない妹』と紹介なさっているそうです」
「完全にマリベルのことね」
「行ってまいります」
「どこへ?」
「王宮へ」
「待ちなさい、マリベル」
エレノアが止めるより早く、マリベルは黒塗りの鉄扇を手に扉へ向かった。
ちょうどそのとき、廊下の向こうから老執事が歩いてくる。
「マリベル。もう一通、レオルス様から伝言が届いている」
「何と?」
「『迎えに来てくれるなら、兄として嬉しく思う』とのことである」
「馬車を」
「すぐに用意しよう」
「走っていかないの?」
「今回は、お嬢様に関わる緊急事態ではございませんので」
「基準はそこなのね……」
やがて、屋敷の前に王宮へ向かう馬車が用意された。
「マリベル、本当に行くの?」
「訂正していただくだけでございます」
「鉄扇を置いていってはどうかしら」
「訂正に必要でございます」
「何を訂正するつもりなの?」
「私が妹ではないという事実を」
マリベルは馬車へ乗り込もうとして、足を止めた。
「ただし――」
振り返ったマリベルは、エレノアをまっすぐに見つめる。
「お嬢様の姉になれるというお話については、引き続き検討いたします」
そう告げると、今度こそ馬車へ乗り込んだ。
エレノアは目を瞬いたあと、堪えきれずに笑い出す。
その日、王宮では、外交官レオルス・アルヴァインが廊下を全力で逃げ、その後ろを鉄扇を手にした侍女が追いかけるという珍しい光景が目撃された。
「妹が迎えに来てくれたよ!」
「ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!!!!」
なお、この一件により、王宮では二人が仲のよい兄妹であるという認識がさらに広まった。




