表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
17/20

第十六章 エレノア編:私が一日聖女を務めるですって!? これでエレノア様が本物の女神になりますわああああああああああああああああ!!!!

 これは、マリベルがアメリス王女の臨時護衛として王城へ赴き、エレノアのそばを離れていた頃の話である。


「私が一日聖女を務めるですって!?」


 エレノア・アルヴァインは、応接室を訪れた聖女リリアーナを見つめた。


「はい。お願いしますわ!」


 リリアーナは胸の前で両手を組み、期待に満ちた青い瞳を輝かせている。

 その隣では、大神殿の神官長が疲れ切った顔で立っていた。


「リリアーナ様、私は聖女ではないのよ?」

「存じておりますわ!」

「治癒の力も、神託を受ける力もないわ。それでも務まるのかしら」

「もちろんですわ! エレノア様は、そこにいらっしゃるだけで人々をお救いになりますもの!」

「大袈裟だわ。それに、聖女のお仕事とは違うでしょう?」

「細かいことは、神官長が何とかしてくださいますわ!」

「勝手に私に押しつけないでください」


 神官長が即座に否定した。

 リリアーナが訪ねてきてから、まだ大して時間は経っていない。それにもかかわらず、神官長の顔にはすでに半日分ほどの疲労が浮かんでいた。どうやら一日聖女の話は、エレノアのもとへ来る前から大神殿でもひと騒動を起こしてきたらしい。


 事情を聞くと、王都から馬車で半日ほど離れた場所にある礼拝堂で、聖なる泉が突然濁ったそうだ。

 人々の飲み水として使われている泉ではないため、すぐに健康被害が出るわけではない。しかし、周囲の畑を害虫から守る祝福に用いられており、放置すれば秋の収穫に影響が出る可能性がある。

 そのため、聖女であるリリアーナが、聖獣アルシオンに乗って急遽そちらへ向かわなければならなくなったのだ。

 ところが、その日は大神殿で月に一度行われる相談日だった。すでに地方から多くの相談者が訪れており、ここで日を改めれば、再び王都まで来られない者も出てくる。かといって、聖女が不在だからと全員を帰すわけにもいかず、大神殿は対応に困っていた。


「治癒や祝福が必要な方は、神官たちが対応いたします。ですが、生活上の悩みや誰に頼ればよいか分からない問題については、聖女様がお話を伺うことになっておりまして」


 神官長が説明した。


「それを、私が?」


 エレノアが確認するように自分を指すと、神官長は答えるより先にリリアーナへ視線を向けた。決定したのは自分ではないと、せめてそこだけは明らかにしておきたいらしい。


「はい!」


 案の定、答えたのはリリアーナだった。


「エレノア様でしたら、わたくしの百倍は見事に務めてくださいますわ!」

「リリアーナ様、ご自身の価値を勝手に百分の一まで下げないで」

「では、千倍ですわ!」

「増やせばいいという話ではないわ」


 その訂正にも、リリアーナは少しも堪えた様子を見せなかった。本人の中では、百倍でも千倍でも、エレノアが聖女より上であるという結論さえ変わらなければよいのだろう。

 エレノアは小さく息を吐いた。

 普段なら、半歩後ろに控えているマリベルがリリアーナの暴走を止めるか、むしろ別の方向へ加速させるかしていたところである。どちらに転ぶかは分からないが、少なくともリリアーナの勢いを一人で受け止めずに済んだ。

 だが、現在マリベルは王女アメリスの臨時護衛を務めている。

 その姿は、エレノアの後ろにはない。

 少しだけ寂しく感じたことを悟られないよう、エレノアは膝の上で指を重ねた。


「今日いらした方々は、もう大神殿で待っているのね?」

「はい。何日もかけて王都へいらした方もおられますわ」


 リリアーナの答えを聞き、エレノアはしばらく考えた。

 聖女の代わりなど務まるはずがない。

 それでも、話を聞くことならできる。


「……分かったわ」


 エレノアは膝の上で重ねていた指をほどいた。


「うまくできるか分からないけれど、私でよければ」

「やりましたわ!」


 リリアーナが両手を高く掲げる。


「これでエレノア様が本物の女神になりますわああああああああああああああああ!!!!」


 歓喜の絶叫が、アルヴァイン公爵邸の応接室を揺らした。

 廊下に控えていた使用人たちが、一斉に扉を振り返る。


「リリアーナ様、私は以前から女神ではないわ」

「エレノア様は以前から本物の女神様ですわ!」

「では、何が『これで』なの?」

「一日聖女を務めれば、世間の皆様もようやく真実を認めざるを得ませんもの!」

「一日聖女を務めた方を、女神として認定する制度はございません」


 神官長が冷静に指摘する。


「でしたら、本日作りましょう!」

「絶対に作らないで!」


 神官長へ向き直ろうとしたリリアーナの袖を、エレノアは慌てて掴んだ。ここで手を離せば、本当に今日中に女神認定の制度案が作られかねない。神官長も同じ危険を感じたらしく、静かに一歩下がって巻き込まれない位置を確保していた。



 ***



 エレノアが大神殿の相談室へ着くと、ほどなくして最初の相談者が通された。

 五十代ほどの女性だった。質素な服は丁寧に手入れされており、胸元には古びた布袋を抱えている。エレノアの前まで来ると、緊張した様子で深く頭を下げた。


「本日は、よろしくお願いいたします」

「どうぞ、お掛けください」


 エレノアは向かいの椅子を勧めた。

 ここは普段、聖女リリアーナが相談を受けている小部屋である。窓辺には白い花が飾られ、卓上には温かな茶が用意されていた。

 聖女の席にはエレノアが座っている。その後ろには神官長が控え、少し離れた場所では二人の神官が相談内容を書き留める準備をしていた。


「私は聖女ではありませんので、神託をお伝えしたり、治癒を施したりすることはできません。それでもよろしければ、お話を伺います」

「はい。お話を聞いていただけるだけで……十分でございます」


 女性は椅子へ腰を下ろしたものの、布袋を抱えた手には力が入ったままだった。ここまで来る間に、何度も話す内容を考えてきたのだろう。それでも、見知らぬ相手に胸の内を明かすのは容易ではない。

 エレノアは問いを重ねて急かすことを避け、女性が呼吸を整えるのを待ってからゆっくりと口を開いた。


「それで、どのようなご相談でしょうか」

「……実は、家を出ようかと思っているんです」


 女性の声は小さかった。


「今は、息子夫婦と孫と暮らしております。夫が亡くなったあと、息子が一緒に暮らそうと言ってくれまして」

「ご家族との間に、何か問題があるのでしょうか」

「いいえ。何もないんです」


 女性は慌てたように首を横へ振った。


「あの子も、お嫁さんも、本当によくしてくれます。孫も毎日のように私の部屋へ来て、今日あったことを話してくれて……」


 そこで女性は言葉を切った。

 エレノアは急かさず、続きを待つ。


「だから、なんです」

「だから?」

「これ以上、迷惑をかけたくなくて」


 布袋を抱える指に、さらに力が入った。


「私はもう、昔のようには働けません。食事も洗濯も、今ではほとんどお嫁さんに任せてしまっています。最近は膝まで悪くなって、階段を上がるだけでも時間がかかるようになりました」


 女性は俯いた。


「息子夫婦は、まだ子育ての途中です。それなのに、私の世話までさせていたら……いつか、本当に重荷になってしまうんじゃないかと」

「家を出たあとは、どうなさるおつもりですか?」

「神殿の共同宿舎に入ろうと思っています。まだ一人で動けるうちに出た方が、あの子たちも困らずに済むと思ったんです」

「息子さんご夫婦には、もうお話しになったのですか?」

「いいえ、まだです」

「なぜでしょう」

「きっと、引き止めるからです」


 女性は、そう答えたあとで目を伏せた。


「引き止められたくないのですか?」

「……分かりません」


 しばらくして、掠れた声が返ってくる。


「本当は、出ていきたくありません。孫が大きくなるところも、そばで見ていたいんです。でも、私のせいで、あの子たちの暮らしが苦しくなるのは嫌で……」


 家を出たいのではなく、自分が家族の負担になることを恐れているのだ。けれど、その結論を出すまでに、女性は自分が家族から受け取っているものばかりを数えて、自分が与えているものについては考えられなくなっている。

 エレノアは、女性が先ほどから胸元へ抱き締めている布袋へ目を向けた。


「そちらは?」

「ああ、これは……孫が作ってくれたものです」


 女性は袋の口を少し開いた。

 中には、色も形も不揃いな小さな布の花が入っていた。子どもの手で縫ったのだろう。縫い目は曲がり、糸もところどころ飛び出している。


「私が花を好きだからって、一生懸命作ってくれたんです」


 女性の口元に、一瞬だけ笑みが浮かぶ。

 だが、すぐにその笑みは消えた。


「私が家を出ると知ったら、あの子はきっと泣きます。ですから、何も言わずに出た方がよいのではないかと……」

「それでは、お孫さんは理由も分からないまま、大切な方がいなくなってしまうのですね」


 女性が顔を上げた。


「そうですけど、話せばきっと困らせてしまいます」

「何も話さずにいなくなれば、困らせないのでしょうか」

「それは……」

「ご家族は、あなたを迷惑だとおっしゃったのですか?」

「いいえ。一度もありません」

「家を出てほしいと?」

「そんなこと、言われたこともありません」


 女性は答えたあと、初めてその事実に気づいたように瞬きをした。

 エレノアは膝の上で両手を重ねる。


「でしたら、ご自身だけでご家族のお気持ちを決めてしまう前に、一度きちんとお話ししてはいかがでしょうか」

「話し合って、今は大丈夫だと言われても、いつかは重荷になってしまうじゃないですか」

「人と暮らせば、誰かに何かをしてもらうことはあります。反対に、あなたもご家族へ何かを与えているのではありませんか?」

「私が、ですか?」

「お孫さんは、なぜその花を作ってくださったのでしょう」


 女性は布袋の中を見つめた。


「……私に、喜んでほしかったから」

「息子さんが一緒に暮らそうとおっしゃったのも、義務だけだったのでしょうか」

「いえ、違うと思います」


 女性は小さく首を振った。


「あの子は昔から、優しい子でした。夫を亡くした私を一人にしておけないと、何度も迎えに来てくれて……」

「あなたがご家族を大切に思っているように、ご家族もあなたを大切に思っているのではないでしょうか」


 エレノアは静かに続ける。


「それでも共同宿舎へ移りたいと、ご自身でお決めになるのであれば私は止めません。ですが、ご家族の気持ちまで先に決めて、何も知らせずにいなくなることだけはお勧めできません」

「私は、あの子たちのためだと思っていました」

「迷惑をかけたくないというお気持ちは、優しさだと思います。けれど、その優しさのために大切な方から選ぶ機会まで奪わないでください」

「選ぶ機会……」

「あなたとこれからも一緒に暮らしたいのか、それとも別の暮らし方を探すのか。ご家族にも、あなたとどう暮らしていきたいのかを伝える権利があるのではないでしょうか」


 女性は、布袋を胸元へ抱き寄せた。


「……帰ったら、話してみます」


 その声には、先ほどまでとは違う力があった。


「ちゃんと、あの子たちの顔を見て、私が考えていたことを話します」

「ええ。そうしてみてください」

「はい。何も言わずにいなくなるのは、やめます」


 決意を口にした女性の腕から、ようやく余計な力が抜けた。布袋はもう、何かから守るように抱き締められてはいない。孫の待つ家へ持ち帰る大切な贈り物として、膝の上へそっと置かれていた。

 エレノアは穏やかに頷いた。


「よいお話し合いになることを願っております」


 女性は椅子から立ち上がると、目元を拭った。


「ありがとうございます。女神様……」

「違います」


 間を置かない返答だった。

 女性は何度も頭を下げて部屋を出ていく。

 扉が閉まったあと、記録係の神官が紙へ何かを書き加えた。


「今、何を書いたのですか?」

「相談者一名、エレノア様を女神と認定、と」

「その記録は必要ありません」

「しかし、聖女様から人数を正確に記録するよう命じられております」

「何の人数を?」

「エレノア様が一日で何人の信者を獲得なさるか、でございます」


 エレノアは無言で神官長を見た。

 神官長は静かに目を逸らした。


「リリアーナ様は、いつそのような命令を?」

「本日の夜明け前でございます」

「ずいぶん早くから何をしているのよ……」


 エレノアは額へ指を添え、小さく息を吐いた。



 ***



 二人目の相談者は、二十歳前後の青年だった。

 部屋へ入ってからも落ち着かない様子で、何度も上着の裾を整える。エレノアの前へ進むと、ぎこちなく頭を下げた。


「本日は、どのようなご相談でしょうか」

「それが……父が営む紙問屋で働いているのですが、最近、店を継ぐように言われているんです」


 青年の家は、祖父の代から続く紙問屋だという。

 父親は数年後に店を譲るつもりでおり、すでに取引先にも息子が跡を継ぐと話していた。青年に相談するより先に周囲へ話が広まってしまったことで、本人も、もう引き返せない道の上へ立たされたように感じているらしい。


「お店を継ぎたくないのですか?」

「嫌なわけではありません。子どもの頃から手伝ってきましたし、父の仕事も、店で働いている人たちも好きです。ただ……」


 青年は膝の上で両手を組み、言いよどんだ。


「本当は、製本職人になりたいんです」

「本を作る職人ですか?」

「そうです」


 製本の話になった途端、青年の声が弾んだ。


「幼い頃、店で売れなくなった紙をもらって、自分で糸を通したことがあるんです。ひどい出来でした。紙の端は揃っていないし、開いたらすぐに糸が切れてしまって」


 恥ずかしそうに笑ったあと、その表情が少し曇った。


「それでも、一枚ずつだった紙が本の形になったとき、すごく嬉しかったんです。それからずっと、自分の手で本を作る仕事がしたいと思っていました」


 青年の目には初めてはっきりとした熱が宿っていた。家業について話しているときには言葉を選び続けていたが、製本のことだけは迷わず口にできる。その望みが一時の思いつきではないことは、エレノアにも伝わった。


「そのお気持ちは、お父様へお話しになったのですか?」

「話しました。ですが、店を捨てるつもりかと叱られました」


 青年は膝の上で拳を握る。


「捨てたいわけではないんです。父が大切にしてきた店ですし、私が継がなければ働いている人たちも困るかもしれません。でも、このまま諦めたら……」

「後悔すると?」

「はい。それに、いつか父のせいだと思ってしまいそうで」


 青年の声に、悔しさが滲んだ。


「そんなふうに、父を恨みたくないんです」


 夢を選べば父と店を裏切り、店を選べば夢を捨てる。青年はそう思い込んでいるようだった。

 エレノアは、本当に二つのうち一つしか選べないのかを確かめることにした。


「お父様から、店を継ぐか、製本職人になるか、どちらか一方を選ぶよう言われたのでしょうか」

「いえ、そこまでは言われていません」


 青年は戸惑ったように言葉を詰まらせる。


「ですが、店を継ぐなら職人になるのは無理だと思います」

「なぜですか?」

「なぜって……」


 すぐには答えが浮かばなかったらしい。青年は眉を寄せたまま、言葉を探した。


「店の仕事をしながら製本を学びたいと言っても、父が認めてくれるはずがないですし」

「実際に尋ねたのですか?」

「……いえ、聞けていません」


 青年は気まずそうに視線を落とす。


「でしたら、まだ断られてはいないのですね」

「ですが、店を捨てるなと言われていますし」

「お店を捨てずに、製本を学ぶ方法はないのでしょうか」


 青年が目を瞬いた。


「店を続けながら、ですか?」


 思いもよらなかったことを聞いたように、青年はエレノアを見つめた。


「紙を扱うお店と、その紙を本にする職人であれば、まったく関係のない仕事ではないように思います」

「それは、そうですが……」

「たとえば、ご実家で扱っている紙を使って、ご自身で一冊の本を作ることはできませんか?」

「店の紙で……」


 青年はその言葉を確かめるように、ゆっくりと繰り返した。紙問屋で働く自分と、製本職人を目指す自分は、これまで彼の中で互いを邪魔する存在だったのだろう。だが、店の紙を自分の手で本にする光景を思い浮かべた瞬間、その二つは初めて同じ場所へ並んだ。


「まずは形にして、お父様へ見ていただくのです。あなたが店を捨てたいのではなく、店の紙を別の形で生かしたいのだと伝わるかもしれません」

「もし、うまく作れなかったら」

「そのときは、もう一度作ればよいのではありませんか?」


 青年の眉間に寄っていた皺が、わずかにほどけた。


「一度失敗しただけで、諦めなければならないのでしょうか」

「……そう、ですよね」


 青年はしばらく考え込み、やがて何かを思い出したように顔を上げた。


「知り合いの製本工房があります。以前、教えてほしいと頼もうとしたのですが、怖くなって何も言わずに帰ってしまって……」

「もう一度、訪ねてみるのですか?」

「はい。まずは、店の仕事が終わったあとだけでも教えてもらえないか、聞いてみます」


 その声は、先ほどよりもずっと確かだった。


「それから、父の店の紙で一冊作って、きちんと本の形にできたら父に見てもらいます」

「お父様にも、あなたの本気が伝わるかもしれませんね」

「認めてもらえるかは分かりません。でも、何もしないまま諦めるよりは、ずっといいですよね」


 先ほどまで握られていた拳は、いつの間にか開かれていた。


「ありがとうございます。今日、ここへ来てよかったです。女神様」

「違います」


 青年は深々と頭を下げた。部屋へ入ってきたときには何度も整えていた上着の裾へ、もう手を伸ばすことはない。認めてもらえる保証を得たわけではないが、何を試すべきかは見つけられたのだろう。来たときよりもまっすぐな足取りで、相談室を出ていった。

 その背を見送る間もなく、記録係の神官が再び紙へ何かを書き加えた。


「今度は何を書いたのですか?」

「二人目でございます」

「数えなくて結構です」

「聖女様のご命令ですので」

「リリアーナ様は今ここにいないでしょう?」

「戻られた際に正確なご報告が必要となります」


 エレノアは神官長へ視線を向けた。


「止めていただけませんか?」

「聖女様は、エレノア様に関する記録だけは後ほど必ずご自身で確認なさいます」

「神官長も諦めているのですね」

「長い戦いでございました」


 神官長は遠い目をした。



 ***



 三人目の相談者が部屋へ入ってきたとき、エレノアはすぐに異変に気づいた。

 十七、八歳ほどの令嬢だった。

 淡い緑色のドレスには目立った乱れこそないものの、袖口には何度も握り締めたような深い皺が残っている。

 付き添いの侍女もおらず、髪を留めた飾りも片方が外れかけていた。

 令嬢は扉が閉まったことを確認してから、ようやく息を吐く。その息は安堵というより、ここまで張り詰めていたものが一瞬だけ緩んだような浅いものだった。廊下から足音が聞こえるたび、細い肩がわずかに強張っている。


「ルチア・ベルノーと申します」

「どうぞ、お掛けください」

「ありがとうございます」


 ルチアは椅子へ座ったが、何度も扉を振り返っている。


「どなたかに追われているのですか?」


 エレノアが尋ねると、ルチアは息を詰めた。


「叔父が……私を連れ戻しに来るかもしれません。大神殿へ向かうところを、使用人に見られてしまったので」

「どうして、叔父様から逃げてきたのですか?」

「半年前に両親を亡くしてから、父の弟である叔父が男爵位を継ぎ、私の後見人になりました。その叔父に……結婚しろと言われているんです」

「お相手は?」

「バルガス伯爵です。奥様を亡くされた方で……私の父よりも、ずっと年上です」


 エレノアは、すぐには言葉を返さなかった。

 相手が亡き父よりも年上だというだけで、その縁談の是非を決めるつもりはない。大切なのは、ルチア自身がどう思っているかだ。

 俯いたルチアは、膝の上で両手を固く組んでいた。指先が白くなるほど力がこもり、かすかに震えている。


「あなたは、その結婚を望んでいないのですね?」

「……はい」


 声は小さかったが、返事ははっきりしていた。


「一度もお会いしたことがないんです。どのような方なのかも知らないのに……来月には結婚するのだと決められていて。父が遺した財産も叔父が管理しており、私には何も知らされていません」

「叔父様には、断りたいとお伝えになったのですか?」

「嫌だと何度も伝えました。でも叔父は神がお決めになった縁談なのだから、私に断る権利はないと……」

「神が?」


 ルチアは胸元から、折り畳まれた羊皮紙を取り出した。

 金色の紐で結ばれ、表には大神殿の紋章が描かれている。その下には公印が押され、書状を管理するための番号も記されていた。


「これが、その神託だと言われました」


 隣に控えていた神官長が、ルチアの手元へ目を留めた。

 エレノアは受け取ろうとした手を止める。


「確認していただけますか?」

「承知いたしました」


 神官長は手袋を着け、慎重に羊皮紙を受け取った。書状を開いて文面へ目を走らせ、下部に記された日付と管理番号を確かめる。部屋には紙の擦れる音だけが響き、読み進めるにつれてその表情が厳しくなった。


「このような神託を、大神殿が出すことはございません」


 ルチアが顔を上げる。


「では……これは、偽物なのですか?」

「断定するには、大神殿に保管されている記録を確認する必要がございます。しかし、大神殿では特定の男女に婚姻を命じる神託を認めておりません」

「ですが叔父は、神殿から正式に受け取ったものだと……」


 神官長は書状の下部を示した。


「正式に発せられた神託には、すべて管理番号が与えられます。日付、内容、受取人とともに、大神殿の記録へ残される決まりです」


 神官長が記録係の一人へ指示を出すと、ほどなくして分厚い記録簿が運び込まれる。

 受け取った記録簿の九か月前の頁を開き、書状と同じ管理番号を探す。該当する記録へ目を通した神官長は、静かに顔を上げた。


「この番号は、確かに九か月前に使用されております」


 ルチアが息を呑んだ。


「ですが、記録されているのは、北部の村の井戸を清めるために出された神託です。ルチア・ベルノーという名も、婚姻についての記述もございません」

「それでは、この書状は……」

「実在する神託の管理番号だけを写し、内容を書き換えたものと考えられます」


 ルチアの唇が震えた。


「叔父は、父が生きている間に授けられた神託だと言っていました。父も、この結婚を望んでいたのだと……」


 両親を失った少女にとって、亡き父の意思だという言葉は強い鎖になったはずだ。しかも、そこへ神の名まで使われている。


「私、ずっと……父の最後の望みに逆らおうとしているのだと思っていました」


 ルチアの目から、涙が落ちた。


「神様にも背こうとしている、悪い娘なのだと……」

「あなたは悪くありません」


 エレノアは、迷わず告げた。


「まだすべてが明らかになったわけではありません。ですが、この書状を、お父様の最後の望みだと信じる必要はありません。まして、神に背いたとご自身を責める必要もありません」

「でも、叔父が来たら……私はまた、屋敷へ連れ戻されてしまいます」

「戻りたいのですか?」

「いいえ」


 ルチアは涙を拭い、エレノアを見た。


「戻りたくありません」


 先ほどまで震えていた声が、その一言だけは明瞭だった。叔父の言葉や神託の真偽については迷い続けていても、自分が何を望んでいないのかだけは、ルチアの中ですでに決まっている。

 エレノアは、その答えを曖昧な慰めで覆わないよう、まっすぐに受け止めた。


「でしたら、まずはそのお気持ちを大切にしてください」


 エレノアは神官長へ向き直る。


「神官長。この方を、調査が終わるまで大神殿で保護していただくことはできますか?」

「可能でございます。神託の偽造は、大神殿の権威を利用した重大な罪です。九か月前の記録に触れた者と、公印の保管室周辺で当直を務めた者をすぐに調べます」

「ありがとうございます」

「それと、公爵家からも王宮へ連絡をお願いいたします。後見人の変更には、正式な手続きが必要となりますので」

「すぐに使いを出します」


 エレノアが記録係の神官へ指示しようとした、そのときだった。

 廊下から、荒々しい声が響いた。


「ルチア! ここにいるのだろう!」


 ルチアの顔から血の気が引く。


「叔父です……」


 扉が激しく叩かれ、卓上の茶がかすかに波打った。室内にいる者たちが、一斉に扉を振り返る。ルチアは椅子の背へ身を寄せ、逃げ道を探すように窓へ目を向けた。

 扉の向こうから、再び叔父の怒声が響く。


「ルチア! 私に黙って神殿へ駆け込むとは、何を考えている! 今すぐ出てきなさい!」


 エレノアは椅子から立ち上がった。無意識に、半歩後ろへ視線を向ける。

 そこには誰もいない。

 普段なら、黒い侍女服をまとったマリベルが立っている。

 エレノアが何かを命じるより早く扉の前へ進み、鉄扇を開いていたことだろう。

 だが、今ここにマリベルはいない。

 エレノアは視線を前へ戻した。


「神官長。扉を開けてください」

「よろしいのですか?」

「はい。ただし、大神殿の護衛を呼んでください」


 神官長は扉脇にある呼び鈴の紐を引いた。非常時に護衛を呼ぶための鋭い鐘の音が、廊下の向こうへ響いていく。

 ほどなくして複数の足音が近づき、扉の外で叔父と言い争う声が聞こえた。

 エレノアは、相談内容を書き留めていた二人の神官へ告げる。


「これから交わされる言葉も、すべて記録してください」

「承知いたしました」


 護衛が到着したことを確認してから、神官長は扉を開ける。

 廊下には、ルチアの叔父であるベルノー男爵が二人の従者を従えて立っていた。怒りに任せて踏み込もうとした男爵の行く手を、護衛が腕を差し出して塞ぐ。男爵は不満そうに鼻を鳴らしたものの、さすがに大神殿の護衛を押しのけてまで進もうとはしなかった。

 その隣には、灰色の神官服を着た若い男もいた。周囲の者と目を合わせようとせず、袖の中で指を落ち着きなく動かしている。


「ルチア!」


 ベルノー男爵は部屋の中にいる姪を見つけると、怒りに顔を歪めた。


「勝手に屋敷を抜け出すとは何事だ! すぐに帰るぞ!」

「お待ちください」


 エレノアがベルノー男爵の前へ進む。


「あなたが、ルチア様の叔父様でいらっしゃいますか?」

「そうだが……あなたは?」

「エレノア・アルヴァインと申します。本日、聖女リリアーナ様の代理として、皆様のご相談を伺っております」


 アルヴァイン公爵家の名を聞き、ベルノー男爵の表情がわずかに強張った。

 しかし、すぐに取り繕うような笑みを浮かべる。


「これは、公爵令嬢殿。姪がご迷惑をおかけしたようで、申し訳ございません。両親を亡くしてから心が不安定になっておりましてな。ときおり、ありもしない不安を口にするのです」

「ありもしない不安?」

「結婚を強要されているなどと申しているのでしょう。ですが、あの縁談は神のお導きによって決まったものなのですよ」

「こちらの書状ですね」


 神官長が羊皮紙を掲げた。

 男爵は一瞬だけ書状へ視線を走らせたが、すぐに堂々と胸を張る。それとは対照的に、隣に立つ若い神官は、書状を見ようともせずに顔を伏せていた。


「そのとおりです。そちらにいる神官殿から、正式に受け取ったものです」

「この神託は、偽造された可能性があります」


 エレノアは神官長の手にある羊皮紙へ一度目を向け、それからベルノー男爵をまっすぐに見返した。

 男爵の笑みが消える。


「何を根拠に、そのようなことを」

「この書状に記された管理番号は、九か月前に北部の村へ発せられた神託と同じものです」


 神官長が説明する。


「管理番号は、一件の神託につき一つだけ与えられます。しかし、大神殿に保管されている記録によれば、この番号の神託は井戸の清めに関するものです。ルチア・ベルノーという名も、婚姻についての記述もございません」

「記録の誤りではないのか!」

「大神殿に保管されている書状の控えにも、同じ内容が記されております。単なる記録の誤りでは説明できません」

「そんなはずはない! そこにいる神官が、本物だと証明しているだろう!」


 全員の視線が、若い神官へ集まった。


「あなたのお名前は?」


 神官長が尋ねる。


「……西地区礼拝堂所属の、ダリオと申します」

「神託を授かった時期と場所をお答えください」

「それは……九か月前、西地区礼拝堂にて授かりました」

「立ち会った神官は?」

「私一人です」

「では、この管理番号について説明してください」


 ダリオは黙った。視線が床をさまよい、唇だけが何度か動く。


「この番号は、同じ日に北部の村へ発せられた神託に使用されています。西地区礼拝堂で神託を授かったというあなたの書状に、なぜ同じ番号が記されているのですか?」


 追及されたダリオは、縋るように隣のベルノー男爵へ顔を向けた。だが、男爵は庇うどころか、役に立たない証人でも見るように眉をひそめた。

 重くなった沈黙に耐えきれず、ベルノー男爵が苛立たしげに舌打ちをする。


「細かな手続きなど、どうでもよい! 私はルチアの後見人だ。婚姻相手を決める権利がある!」

「それならば、なぜ神託が必要だったのですか?」


 エレノアが尋ねると、ベルノー男爵は言葉に詰まった。


「後見人として正当な判断だとお考えなら、ご自身の責任でルチア様を説得なさればよかったはずです。亡くなられたお父様と、神のお名前を使わなければ、従わせられなかったのではありませんか?」

「小娘に何が分かる!」


 ベルノー男爵が怒鳴る。廊下に控えていた大神殿の護衛たちが、一斉に身構えた。


「貴族の娘は、家のために結婚するものだ! 本人が嫌だと言ったからといって、すべて聞き入れていては家が立ち行かん!」

「では、バルガス伯爵との婚姻によって、誰にどのような利益があるのでしょうか」

「それは……領地の安定のためだ」

「具体的にお答えください」

「貴様に説明する必要はない!」

「記録係。今の発言も、すべて記録してください」

「承知いたしました」


 神官が素早く筆を動かす。乾いた筆記音が、怒鳴り声の消えた室内へはっきりと響いた。

 ベルノー男爵はそこでようやく、自分の発言が大神殿の正式な記録として残されていることに気づいたらしい。威圧するように張っていた肩が、わずかに落ちた。


「やめろ! これは我が家の問題だ!」

「神託を偽造した疑いがある以上、ベルノー家だけの問題ではございません」

「偽造などしていない!」


 ベルノー男爵は隣にいたダリオへ詰め寄った。


「そうだろう! 貴様が神から授かったと言ったのだ!」

「私は……」


 ダリオの顔から汗が流れる。


「言え!」

「申し訳ございません!」


 ダリオがその場に膝をついた。膝が床を打つ音にルチアが身を震わせ、ベルノー男爵は目を見開く。ダリオはもはや言い逃れを考える余裕もないほど青ざめていた。


「神託など、授かっておりません!」

「貴様!」

「借金を肩代わりしてくださると……過去の神託の管理番号を使い、公印を押せばよいと言われたのです!」


 男爵の顔が歪んだ。


「黙れ!」

「書状を書いたのは私です! 以前、応援として大神殿へ派遣され、記録整理を手伝った際に北部の村へ出された神託を見つけました。その日付と管理番号を写し、婚姻を命じる内容へ書き換えたのです!」

「公印は、どのように使用したのですか?」

「大神殿の当直を務めた夜、保管室へ忍び込んでその場で押印しました……」


 ダリオの告白が終わるより早く、ベルノー男爵が彼へ掴みかかろうとした。口を塞ぐつもりだったのか、裏切りへの怒りをぶつけるつもりだったのかは分からない。

 だが、ダリオへ伸ばした腕は大神殿の護衛によって即座に押さえられた。もう一人の護衛がダリオとの間へ入り、二人を引き離す。先ほどまでベルノー男爵の後ろに控えていた従者たちも、今は巻き込まれることを恐れるように壁際へ退いていた。


「離せ! 私はベルノー家の当主だぞ!」

「関係ございません。現在は、神託偽造への関与が疑われておりますので」


 神官長の声は冷たかった。


「王宮へ報告し、正式な取り調べを受けていただきます」

「こんなことが許されると思っているのか!」


 ベルノー男爵はエレノアを睨みつけた。


「公爵令嬢だからといって、余計なことに首を突っ込みおって! あの恐ろしい侍女がいなければ、何もできない小娘のくせに!」


 部屋の空気が張り詰めた。

 ルチアが息を呑む。

 神官長も記録係も、エレノアの反応を窺う。

 エレノアはすぐには答えなかった。

 胸の奥が冷えるような恐怖はあった。護衛に腕を押さえられてなお暴れようとする男を前にすれば、鉄扇も剣も持たない自分が無力であることを嫌でも思い知らされる。

 それでも視線だけは逸らさず、エレノアは静かにベルノー男爵を見返した。ここで怯えた顔を見せれば、ルチアまで再び自分の言葉を飲み込んでしまうように思えたのだ。


「マリベルは、私の代わりに考えるために、そばにいるのではありません」

「何だと?」

「私が自分で考え、選んだことを、最後まで支えてくれるためにいるのです」


 マリベルがそばにいない今、怖くないはずがなかった。

 今も、目の前の男が何をするか分からない。

 もし護衛を振り切ってルチアに手を伸ばしたなら、自分には止める力がない。

 それでも、後ろへ下がるつもりはなかった。

 マリベルはエレノアを閉じ込めて守るために、半歩後ろへ立っているのではない。エレノアが前へ進むと決めたとき、決して一人にしないために立っているのだ。


「今ここにマリベルはいません。それでも、私がすべきことは分かっています」


 エレノアはルチアへ目を向けた。


「ルチア様、叔父様と一緒に屋敷へ戻ることを望みますか?」


 ベルノー男爵が叫ぶ。


「余計なことを言うな、ルチア!」


 少女の肩が震えた。

 けれど、今度は俯かなかった。


「戻りません」

「ルチア!」

「私は、屋敷へ戻りません!」


 ルチアは椅子の肘掛けに手を置き、震える足に力を込めて立ち上がった。叔父の怒声にさらされながら、エレノアの背後に隠れることはしない。

 涙の跡を残したまま、自分を縛ってきた叔父を正面から見つめた。


「バルガス伯爵とは結婚しません。それから……叔父上のもとへも戻りません。後見人を代えていただけるよう、私からお願い申し上げます」


「恩知らずめが!」


 ベルノー男爵の怒声に、ルチアは一瞬だけ息を詰めた。


「両親を亡くしたあと、私の後見人となってくださったことには感謝しております。ですが、私の財産も人生も、叔父上の思いどおりにすることまで許したつもりはございません」


 声は震えていた。途中で息が詰まり、最後の言葉はかすかに掠れたが、ルチアは一度も叔父から目を逸らさなかった。最後まで言い切ったのだ。

 その瞬間、エレノアは自分がルチアの代わりに戦ったわけではないと分かった。立ち上がり、叔父を拒んだのはルチア自身だった。


 エレノアは静かに頷いた。


「神官長。ルチア様を安全な部屋へご案内いただけますか?」

「承知いたしました」

「それから、公爵家から王宮へ使いを出し、後見人変更の手続きと、財産管理についての調査を依頼します。ルチア様には、公爵家の法務官をお付けいたします」

「そこまでしていただいて、よろしいのでしょうか……」


 ルチアが驚いたようにエレノアを見る。


「ご自身だけですべてを証明するのは難しいでしょうし、必要な手助けを受けることは恥ずかしいことではありません」

「……はい」


 ルチアは唇を噛み、深く頭を下げた。


「私の話を信じてくださって、ありがとうございました。女神様……」

「違います」


 本日三度目となる即答だった。

 記録係の神官が、再び紙へ何かを書き加える。


「書かなくて結構です」

「正確な報告が必要ですので」

「事件の記録を優先してください」

「どちらも記録しております」


 ベルノー男爵が護衛に連れていかれ、ダリオも神官たちに囲まれてその場を離れた。

 ルチアは女性神官に付き添われ、安全な部屋へ案内される。

 扉が閉まると、相談室にはようやく静けさが戻った。

 エレノアが椅子に座り直すと、途端に全身から力が抜けそうになった。


「お疲れでございますか?」


 神官長が尋ねる。


「少しだけ」


 エレノアは椅子の背へ身を預けた。


「マリベルがいれば、神託の偽造が明らかになった時点で、ベルノー男爵は正座していたでしょうね」

「おそらくは」

「ダリオ神官もでしょうか」

「間違いなく」

「バルガス伯爵も、事情を知っていたと分かれば正座でしょうね」

「否定できませんね」


 エレノアは小さく笑った。


「ですが、今日はマリベルがいなくても、ルチア様を守り通すことができてよかったです」

「と、申しますと?」

「ルチア様がご自分の言葉で叔父様を拒むまで、屋敷へ連れ戻させずに済みましたから」


 エレノアは、ルチアが座っていた空の椅子へ目を向けた。震えながらも立ち上がり、叔父をまっすぐ見返した少女の姿が、まだそこに残っているように思えた。


「エレノア様」


 神官長が、穏やかな声で呼ぶ。


「聖女様が、あなたへ代理をお願いした理由が少し分かったように思います」

「リリアーナ様は、私を女神にするつもりだっただけでしょう?」

「それだけではないと、私は思いますよ」


 神官長はそう言ったが、エレノアには、リリアーナがそこまで考えていたとは思えなかった。

 リリアーナなら、本当にそれだけの理由で頼みかねないからだ。


 その後もエレノアは、家族や仕事について悩む者たちの話を一人ずつ聞き続けた。相談を終えた者が部屋を出るたび、記録用紙には『エレノア様を女神と認定』の一文が書き加えられていった。



 ***



 夕刻。

 聖なる泉を清め終えたリリアーナが、大神殿へ戻ってきた。


「エレノア様ああああああああああああああああ!!!!」


 遠くから聞こえた声に、神官長が額を押さえる。

 やがて相談室の扉が勢いよく開き、旅装のままのリリアーナが飛び込んできた。外套の裾には道中の土が残り、長い移動の疲れもあるはずなのに、青い瞳だけは朝よりもさらに輝いている。泉を清めた報告より先に、エレノアの一日聖女の成果を確かめるつもりらしい。


「ただいま戻りましたわ! 一日聖女はいかがでしたの!?」

「どうにか終わったわ」

「信者は何人増えましたの!?」

「増えていないわ」


 記録係の神官が、そっと紙を差し出した。


「本日の相談者八名、全員がエレノア様を女神と認定なさいました」

「報告しなくていいのに」


 リリアーナは紙を受け取ると、目を見開いた。


「全員ですの!?」

「相談にいらした方が、感謝の言葉としておっしゃっただけよ」

「エレノア様が一日聖女を務めただけで、相談者全員が信者になりましたのね!」

「なっていないわ」

「八人の相談者のうち八人! 信者獲得率百パーセントですわ!」


 リリアーナは記録用紙を胸元へ掲げ、偉大な神託でも授かったような顔をしている。横から内容を確認した神官長は、何も言わずに目を閉じた。止める言葉を探しているのではなく、もう諦めたのだろう。


「そのような計算をしないで」

「やはり、わたくしの考えは正しかったのですわ!」


 リリアーナは両手を胸の前で組んだ。


「これでエレノア様が本物の女神になりますわああああああああああああああああ!!!!」

「朝も聞いたわ」

「朝は予定でございましたが、今は確定ですわ!」

「確定していないわ」

「明日から、大神殿の正面へエレノア様の像を建てましょう!」

「建てないで」

「相談室の椅子も、女神の玉座として保存いたしますわ!」

「明日も使うのでしょう?」

「では、誰も座れないよう縄を張りますわ!」

「相談室として使えなくなるでしょう」

「それ以上はお止めください、聖女様」


 神官長が止めても、リリアーナの勢いは衰えない。像を建てる場所も、椅子を保存する方法も、本人の中ではすでに実行段階へ入っているらしく、指を折りながら必要な手順を数え始めている。エレノアは、その計画が大神殿の職人へ伝わる前に止めなければならないと、改めてリリアーナへ向き直った。


「本日の御言葉も、すべて教典へ追加いたしますわ!」

「相談内容を勝手に公開してはいけないわ」

「では、エレノア様の御言葉だけを!」

「それでも駄目よ」

「なぜですの!?」

「相談された方々は、ご自分の悩みを教典に載せてほしくて話したわけではないでしょう?」


 リリアーナは言葉を止める。


「救われた言葉を多くの方へ広めることは、よいことだと思いますわ」

「そうね。けれど、誰かの悩みを勝手に使ってよい理由にはならないわ」

「……はい」


 リリアーナは少しだけ肩を落とした。


「では、ご本人の許可をいただけた言葉だけにいたしますわ」

「教典へ載せることは諦めないのね」

「もちろんですわ!」


 エレノアは困ったように笑った。

 それを見たリリアーナが、再び目を輝かせる。


「やはり女神様ですわ……」

「違います」


 今日初めて、エレノアの否定に疲れた響きが混じった。



 ***



 翌朝。

 王城でアメリスの護衛を続けていたマリベルのもとへ、アルヴァイン公爵邸から一通の手紙が届いた。

 マリベルは差出人の名を確かめると、すぐに手紙を受け取った。


「エレノア様からですの?」


 向かいの長椅子に座っていたアメリスが、身を乗り出した。


「お嬢様からでございます」

「何が書いてありますの?」

「姫殿下には関係ございません」

「少しくらい教えてくださってもよいでしょう!」

「お嬢様から私宛ての手紙でございますので」

「あなた、わたくしの手紙は勝手に読もうとしたのではありませんの!」

「安全確認でございます」

「今の手紙も安全確認が必要ですわ!」

「不要でございます」


 マリベルは封を開き、便箋へ目を落とした。見慣れた筆跡を追い始めると、アメリスの追及も耳に入らなくなったらしい。読み進めるうちに、普段は張り詰めている目元が少しずつほどけていく。


 そこには、前日にエレノアが一日だけ聖女の代理を務めたことが書かれていた。

 八人の相談を聞いたこと。

 偽造された神託によって、望まぬ結婚を強いられていた令嬢がいたこと。

 その後見人と、偽造へ加担した神官が拘束されたこと。

 令嬢が自分の言葉で縁談を拒絶したこと。

 そして最後には、こう記されていた。


『ひとまず解決しましたので、帰ってきたあとに、その方々を捜し出して正座させてはいけませんよ』


 その一文へ辿り着いたところで、マリベルの手の中の便箋がわずかに震えた。怒りではない。自分が何をするつもりだったのか、遠く離れたエレノアにすっかり見抜かれていたことへの感動を抑えきれなかったのだ。


「どうしましたの?」

「お嬢様は、私の行動を正確に予測しておられます」

「正座させようとしたのですわね」

「まだ何もしておりません」

「思った時点で同じですわ」


 マリベルは否定せず、手紙の続きを読んだ。


『マリベルがいなくて、少しだけ不安でした。でも、あなたが姫殿下を守っていると思えば、私も逃げずに立つことができました』


 続く言葉に、便箋を持つマリベルの指がそっと緩んだ。

 そばにいなかったことを詫びる必要はない。すぐに駆け戻らなければならないとも思わなかった。離れていても、自分の役目を果たすことがお嬢様の支えになったのなら、それはマリベルが望んでいた主人と侍女の在り方そのものだった。


『こちらのことは心配しないでください。私は大丈夫です。ですから、もうしばらく姫殿下をお願いします』


 マリベルは便箋を丁寧に折り畳んだ。


「エレノア様は、何と?」

「姫殿下を守るように、と」

「それだけですの?」

「十分でございます」


 アメリスは不満そうに頬を膨らませたが、やがて小さく笑った。


「エレノア様は、あなたがいなくても大丈夫なのですわね」

「はい」

「寂しくありませんの?」

「寂しくないとは申しません」


 マリベルは迷わず答えた。


「お嬢様が私のいない場所でも、ご自分の意思で立たれたことを、誇らしく思っております」


 アメリスは意外そうに目を瞬いた。マリベルならば、自分がいない間に危険へ立ち向かったエレノアを心配し、今すぐ城を飛び出しかねないと思っていたのだろう。

 だが、手紙を持つマリベルの顔に浮かんでいるのは、不安でも焦りでもなかった。滅多に表へ出さない、穏やかな喜びだった。


「では、嬉しいのですの?」

「はい」


 お嬢様が自ら考え、自ら選び、誰かを守った。

 マリベルがそばにいない場所で、それでも逃げずに立った。

 ならば、今日の戦も勝利である。


「ところで、今朝から王城でも噂になっておりますけれど、エレノア様が一日聖女を務めたということは、聖女になったのですの?」

「なっておられません」

「エレノア様を女神と呼ぶ者までいるそうですわよ」

「お嬢様は女神ではございません」

「ずいぶんきっぱり否定しますのね」

「女神よりも、お嬢様の方が上でございます」

「神官たちには絶対に聞かせられませんわね!」

「事実でございますので」


 マリベルはそう言って、エレノアからの手紙を大切に胸元へしまった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
一日署長みたいな事で女神様扱い……何処までこの信仰?は上がるのでしょうか。本当の神様がいたらどんな答えをするのか、気になります。 お家での居場所相談からお家乗っ取り事件までを解決しているんだから、聖…
 エレノアさまカウンセラーとして、とても優秀ですね~。視野が広いからちょっとした仕草から心情を洞察し、話させることで心の凝りを解く。  今回はリリアーナさまの企みで1日聖女でしたが、心療相談室作ったら…
今回は思ったより静かな話でした。 やっぱりエレノアだけだと静かだねw 叫ぶ人がいないからw
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ