第十五章 養護施設の子どもたちが食い物にされていたですって!? ぶっ殺してさしあげますわああああああああああああああああ!!!!
アメリス王女は、その朝だけで七度、窓の外を確認していた。
一度目は、朝食の前。
二度目は、紅茶が運ばれてきたとき。
三度目は、セラがカーテンを開けたとき。
四度目から先は、本人にも明確な理由がなかった。
窓の外には王城の中庭が広がり、朝露をまとった木々の間を使用人たちが行き交っている。その向こうに見える通用門から、一頭の馬が入ってきた。
アメリスは椅子から腰を浮かせる。
馬に乗っていたのは庭園に苗木を届けに来た商人だった。
アメリスは何事もなかったように座り直し、紅茶に口をつける。
「少々ぬるいですわ」
「姫殿下のお好みの温度でございます」
向かいに立つセラが答えた。
「今日は、もう少し熱いものを飲みたい気分ですの」
「かしこまりました」
セラは素直にカップへ手を伸ばした。
しかし、その隣に控えていたマリベルが先に口を開く。
「淹れ直す必要はございません」
「なぜですか?」
「使者が到着した際、すぐにお立ちになれるように少しずつ召し上がっておられましたので」
アメリスの指が止まった。
「使者など待っておりませんわ」
「左様でございますか」
「隣国から届く外交文書の状況を確認していただけですの」
「姫殿下個人へ宛てられたお手紙は、外交文書には含まれないかと」
「細かいことを気になさらないでくださいませ!」
アメリスはカップを持ち上げ、今度こそ紅茶を飲んだ。
顔合わせから十二日。
隣国へ帰った第二王子エリオットとは、すでに三度、手紙を交わしていた。
最初の手紙には、帰国の途中で立ち寄った町のことが書かれていた。
二通目には、王都で出されたスープより、帰路で食べた素朴な煮込み料理の方がおいしかったと書かれていた。
アメリスは、その感想に対して王城の料理人に失礼ではないかと三枚にわたって反論した。
最後の一枚では、なぜか煮込み料理に合う香草まで記していた。
決して返事を楽しみにしているわけではない。
友人として必要な意見を交わしているだけである。
「姫殿下」
セラが窓の外を見る。
「使者が到着したようでございます」
アメリスは勢いよく立ち上がった。
「どちらからですの!?」
セラは答えない。
アメリスは、はっとして椅子に座り直す。
「念のため確認しただけですわ」
「左様でございますか」
マリベルとセラの声が重なった。
「二人で同じ返事をしないでくださいませ!」
ほどなくして、隣国の紋章が入った封書が届けられる。
アメリスは使者に労いの言葉をかけ、扉が閉まるまで王女らしい微笑みを保つ。
廊下から足音が遠ざかったその瞬間、急いで封を切った。
「たいへん迅速でございますね」
「重要な外交文書ですので」
「先ほど、外交文書ではないと申し上げましたが」
「今から外交文書になりましたの!」
マリベルはそれ以上指摘せず、アメリスの半歩後ろへ控えた。
アメリスは手紙を開く。
最初の一文を読み、眉を寄せた。
『アメリス殿下へ。まず、手はきちんと洗っているかな。僕は毎日洗っているよ』
「誰のせいで、このような確認から始まりますの……」
アメリスは小さく呟いた。
セラが尋ねる。
「何と書かれているのでしょうか」
「何でもございませんわ」
続く文章には、隣国の王宮へ戻ったことや、兄王子から顔合わせの結果を詳しく聞かれたことが記されていた。
『君がどれほど変わった王女だったのかと尋ねられたので、秘密通路と窓の扱いに長けた人だと答えておいたよ』
「エリオット殿下……!」
「姫殿下?」
「何でもございません!」
紙を握る指に力が入る。
しかし、その次の段落へ目を移したところで、アメリスの視線が止まった。
文章の調子が変わっている。
『ここからは、少し真面目な話をするよ。国境に近い町で、君の国から運び込まれた品が売られているのを見つけた。子ども用の毛布と衣服、それから薬だ。どれにも王立救済局の印が残っていた』
アメリスの表情から、先ほどまでの浮ついた笑みが消えた。
子どもたちへ届けられるはずの品が、なぜ隣国で売られているのか。アメリスは続きを追う。
『商人は、救済局と取引のある者から買ったと話している。僕が品物について尋ねた翌日、君の国から来た男たちが、商人へ残っている品を処分するよう求めたそうだ。王立救済局のレオジステ伯爵に近い者たちが国境付近で動いている。偶然とは思えない。そちらでも、気をつけて調べてほしい』
アメリスは最後まで読み終えると、手紙を卓上へ置いた。
「セラ、お兄様とユリウスを呼んでくださいませ」
「かしこまりました」
「それから、王立救済局が管理する施設の一覧を」
「すでにご用意しております」
セラは書棚の前へ移動し、一冊の書類綴りを取り出した。
アメリスが目を瞬く。
「なぜ用意してありますの?」
「姫殿下は、前回の事件が終わっていないと考えておられましたので」
「わたくしが命じる前から?」
「専属侍女でございますので」
セラは穏やかに答えた。
アメリスは書類綴りを受け取り、胸元へ抱える。
「……ありがとう、セラ」
「はい」
マリベルは卓上の手紙へ視線を落とした。
「第二王子殿下は、こちらへ来られるのでしょうか」
「そのようなことは書かれておりませんわ」
アメリスは即答した。
少しだけ早かった。
「わたくしが、この国で調べるべきことですもの。殿下に頼るつもりはございません」
「頼ることと、いただいた情報を役立てることは別でございます」
「分かっておりますわ」
アメリスは手紙を丁寧に折り直した。
「ですから、きちんと役立てます」
先ほどまでの浮ついた様子は、もう残っていなかった。
***
王家の命による抜き打ち調査は、その日のうちに始まった。
アルベルトは王立救済局へ正式な通知を出すより先に、王都周辺の施設へ近衛兵と調査官を向かわせた。
事前に知らせれば、ひばり養護院と同じように、見せたくないものを隠される可能性がある。
ユリウスは王城へ届けられていた過去の報告を洗い直し、支援物資の発送先を確認することになった。
アメリス自身も施設へ赴くと主張する。
「今度は、窓から逃げ出したりしないだろうな」
アルベルトが念を押す。
「逃げる理由がございませんわ!」
「前回は逃げただろう!」
アルベルトの目が細くなる。アメリスは一瞬だけ視線を逸らしたものの、すぐに何事もなかったような顔で兄を見返した。
「あれは嘘の演説を読まされそうになったからですわ!」
「理由があれば逃げるということではないか! 今回は勝手に建物へ入るな!」
「調べに行くのに、建物へ入らず何を確認しますの!?」
「許可なく裏口や床下へ入るなと言っているのだ!」
「必要があれば入りますわ!」
「なぜ言うことを聞かない!」
兄妹の声が執務室へ響く。
ユリウスが書類から顔を上げた。
「殿下、姫殿下をお止めするよりも護衛を増やした方が早いかと」
「最初から諦めるな!」
「過去の記録から判断しております」
「どの記録だ!」
「屋根、食料庫、昇降機、馬車、植え込み、殿下の寝台の下でございます」
ユリウスが淡々と数え上げるたび、アルベルトの顔が険しくなっていく。対するアメリスは、なぜか実績を紹介されているような顔をしていた。
「読み上げるな!」
アルベルトが机を叩く。その隣で、アメリスは得意げに胸を張った。
「今回はマリベルもおりますもの。何も問題ございませんわ」
「その侍女がいるから、別の問題が起きそうなのだ!」
「アルベルト殿下」
マリベルが呼ぶ。
「何だ」
「護衛対象を危険な場所へ向かわせる以上、必要な処置は取らせていただきます」
「その必要な処置の範囲を、先に説明しろ」
「状況によります」
マリベルの返答には、迷いも冗談めかした響きもなかった。それだけに、アルベルトは最悪の状況をいくつも想像してしまったらしい。
「それが怖いと言っているのだ!」
結局、アルベルトは近衛兵を増員することを条件に、アメリスの同行を認めた。
命令が下ると、近衛兵と調査官たちは慌ただしく出発の準備に取りかかった。施設にいる子どもたちの状態も確認できるよう、王宮医師も一人同行する。さらに大神殿へも治癒師の派遣を要請し、王城とは別に直接施設へ向かってもらうことになった。
一刻後、アメリスたちを乗せた馬車は王城を出発し、まず王都西部にある養護施設へ向かった。
***
最初に訪れた施設には、王家からの要請を受けた大神殿の治癒師もすでに到着していた。
中庭には子どもたちが整然と並べられている。
全員が同じ形の新しい上着を身につけていた。
院長は突然の訪問に驚いた様子を見せながらも、すぐに柔らかな笑みを作る。
「姫殿下にお越しいただけるとは、光栄にございます」
「事前に知らせていないにもかかわらず、ずいぶん準備が整っておりますのね」
「日頃から、このように過ごしておりますので」
院長の答えには淀みがない。だが、その整いすぎた受け答えが、かえってアメリスの胸に小さな違和感を残した。
アメリスは並んでいる子どもたちへ目を向ける。
院長に言われたとおり笑っている子もいれば、俯いたまま身じろぎもしない子もいた。
以前のアメリスであれば、揃いの服を着た子どもたちを見て、きちんと世話をされているのだと安心していたかもしれない。
「皆様、普段どおりに過ごしてくださいませ」
「ですが、姫殿下の御前でございますので」
「わたくしへ見せるための姿ではなく、子どもたちが普段どのように暮らしているのかを確認しに参りましたの」
院長の笑みがわずかに固くなる。
王宮医師と治癒師は子どもたちの間へ入り、一人ずつ顔色や手足の状態を確認しながら、体調について尋ね始めた。
その様子を見ていたセラは、年長の少女が着ている上着の袖に目を留める。
「姫殿下」
「何ですの?」
「こちらの衣服は、子どもたち一人ひとりに合わせて用意されたものではないようです」
小さな子どもは袖から指先が出ておらず、反対に年長の子どもは手首が大きく露出している。
同じ寸法の上着を、無理に全員へ着せていたのだ。
「この上着は、いつから着ておりますの?」
アメリスが尋ねると、少女は院長の顔を窺った。
「姫殿下のご質問に、正直にお答えくださいませ」
マリベルに促され、少女は恐る恐る口を開く。
「……つい先ほどです」
「先ほど?」
「門番の方が王家の馬車を見つけてから、これを着るように言われました」
院長が慌てて口を挟む。
「姫殿下をお迎えするため、身なりを整えさせただけでございます。新しい衣服もちょうど届いたところでしたので」
「ずいぶん手際のよいお出迎えですこと」
アメリスは微笑んだ。
「わたくしたちが来る日に、ちょうど届いたのですか?」
「偶然でございます」
「では、それまで着ていた衣服も見せてくださいませ」
「洗濯中でございます」
「全員分が?」
アメリスは、袖口から指も出ていない幼い子どもと、手首の半ばまで露出した少女を順に見た。二人とも院長の説明を聞いていたが、頷くことはなかった。
「衛生管理のため、定期的にまとめて洗っておりますので」
院長は取り繕うように説明を続ける。
アメリスが何か言う前に、マリベルが建物の二階へ目を向けた。
「姫殿下」
「何ですの?」
「先ほどから、二階の窓より同じ方が三度ほどこちらを確認しておられます」
アメリスたちが窓を見ると、閉じかけたカーテンの隙間から人影が消えた。
「職員でございます。突然のご訪問に驚いているのでしょう」
「でしたら、ご挨拶いたしましょうか」
アメリスが建物へ向かって歩き出す。
「姫殿下、内部はまだご案内の準備が――」
「準備は不要ですわ」
アメリスは足を止めずに答えた。
「普段の様子を見せていただきますので」
二階の奥にある部屋には、古びた寝台が並んでいた。掛けられているのは薄い布が一枚だけで、毛布と呼べるものはない。
衣装棚へ押し込まれていた服は、どれも何度も繕われ、布地が擦り切れていた。
空になった薬箱も積まれている。
王宮医師が蓋を開き、中を確認した。
「この施設へは、先月だけで三箱の薬が支給されているはずです」
「使用したのでございます」
院長が答えると、アメリスは空になった薬箱へ目を落とした。
「使用した記録を確認させてくださいませ」
「そちらは、担当者が管理しておりますので」
「担当者はどちらに?」
「本日は休んでおります」
「ずいぶん都合よく、必要な方がおりませんのね」
アメリスの声が冷たくなる。
そのとき、廊下の奥から物音が聞こえた。
何か重い物を引きずっている。
「マリベル」
「はい」
アメリスが名前を呼んだときには、マリベルはすでに廊下の先へ向かっていた。
裏口の前で、二人の職員が木箱を荷車へ載せようとしている。
マリベルは二人と荷車の間へ立った。
「どちらへお運びになるのでしょうか」
「倉庫です」
「倉庫と記された扉は、反対側にございましたが」
「では、別の倉庫へ……」
「箱を置いてくださいませ」
「断る。さっさとそこをどいてくれ!」
一人がマリベルを押しのけようと手を伸ばす。
次の瞬間、その男は荷車の横で正座していた。
「なぜ!?」
「箱を置いてくださいませ」
もう一人は、抱えていた木箱を床へ置いた。
「よろしい判断でございます」
マリベルが蓋を開けると、中には王立救済局の印が入った未使用の薬と、新しい子ども用の衣服が詰められていた。
アメリスは、院長へ視線を向ける。
「使い切ったのではありませんの?」
「それは……余った物を別の施設へ回すためでございます」
「どの施設へ?」
「救済局から指定された場所です」
「指定したのは誰ですの?」
院長は答えなかった。
マリベルの鉄扇が開かれる。
「もう一度、お尋ねいたします」
声の調子は変わらなかった。だが、開かれた鉄扇の向こうで、院長の喉が大きく上下する。
「レ、レオジステ伯爵の側近です!」
院長は両手を上げた。
「長官の命令だと言われました! 逆らえば、来月から支援を止めると!」
「それで、子どもたちへ渡した物を取り上げたのですか?」
「支援をすべて止められるよりは、言うことを聞いた方がよいと思ったのです!」
アメリスは唇を引き結んだ。
院長のしたことは許されない。
だが、その背後には施設の存続そのものを人質に取った者がいる。
「箱はすべて、この場へ戻してくださいませ」
「はい……」
「それから、これまでに運び出した物と、命令を受けた日時を話してくださいませ」
「ですが、話せば伯爵に――」
「あなたと子どもたちは、王家が保護いたします」
院長が顔を上げる。
「もう、レオジステ伯爵の許可を得る必要はございませんわ」
アメリスは、子どもたちが待つ中庭の方を見た。
「隠すべきなのは子どもたちではなく、子どもたちを苦しめた者ですもの」
院長の肩から力が抜ける。
これまで子どもたちを苦しめてきた罪悪感と、もう命令に従って彼らを傷つけなくてもよいのだという安堵が、一度に押し寄せたのだろう。
その場に両膝をつくと、顔を覆い、声を押し殺すように泣き始めた。
***
その後に訪れた施設でも、同じような不正が次々と明らかになった。
支給されたはずの薬は保管庫から消え、冬用の毛布も監査が終わると同時に回収されていた。保存食の箱には別の商会へ運ぶための荷札が貼られ、物資を引き取りに来た馬車にはどれも王立救済局の許可証が掲げられていた。
救済局へ異議を申し立てた職員が、その翌日に解雇された施設もある。
さらに別の施設では、衰弱した子どもたちを監査の日だけ物置へ移し、王家の目から隠すよう命じられていたことまで判明した。
「なぜ、今まで誰も王家へ知らせませんでしたの?」
アメリスが尋ねると、年老いた職員は俯いた。
「救済局を通さず、王家へ声を届ける方法がございませんでした」
「直接、手紙を出すことは?」
「施設から王家へ送る書簡は、すべて救済局を経由する決まりでございます。職員が外部へ託そうとした手紙も、見つかれば取り上げられ、本人は厳しい処分を受けました」
「それでは、助けを求めることもできませんわね」
「申し訳ございません」
「あなたが謝ることではございませんわ」
アメリスは拳を握った。
ひばり養護院だけではなかった。
王家が調査を進めている間にも、レオジステ伯爵は各施設へ圧力をかけて逆らう者の口を塞ぎ、子どもたちを王家の目から隠し続けていたのだ。
「姫殿下」
セラが声をかける。
「大丈夫ですわ」
アメリスは顔を上げた。
「悔やむのは、すべてを終わらせてからにいたします」
調査を終えた一行は王城へ戻り、集めた証言と証拠を整理した。
***
三日後。
王城の会議室には、アルベルト、ユリウス、アメリス、セラ、マリベルが集まっていた。
ユリウスが調査結果を読み上げる。
「現在までに不正が確認された施設は七か所。いずれも王立救済局の管轄下にございます」
「支援物資は?」
アルベルトが尋ねた。
「衣服、毛布、保存食、薬の一部が、施設へ到着したあとに回収されております。回収には救済局の許可証を掲げた馬車が使用されていました」
「回収した物は、どこへ運ばれた?」
「王都西部の倉庫へ集められ、その後、複数の商会を通じて国外へ売却されたものと思われます」
ユリウスは卓上へ一枚の荷札を置いた。
エリオットが隣国で見つけた毛布に付いていたものと、同じ印が押されている。
アルベルトは荷札へ目を落とし、押し殺した声で尋ねた。
「子どもたちへ届けた物を取り上げて、売り払ったということか」
「はい」
ユリウスが短く答える。
それを聞いたマリベルの手の中で、黒塗りの鉄扇が軋んだ。
「養護施設の子どもたちが食い物にされていたですって!?」
いつもより低く始まった声は、最後には抑えきれない怒りを帯びていた。セラが息を呑む。
アメリスは机上の報告書を見つめる。
七つの施設。
なくなった毛布。
届かなかった薬。
減らされた食事。
寒さの中で、薄い布一枚にくるまっていた子どもたち。
誰かが困っていたから奪われたのではない。
初めから、金に換えるために取り上げられていた。
アメリスは勢いよく立ち上がる。
「ぶっ殺してさしあげますわああああああああああああああああ!!!!」
王城の窓が震えた。
廊下を歩いていた兵士が、反射的に膝へ手を置く。
会議室の中では、マリベルがわずかに目を見開いていた。
「姫殿下」
「何ですの!?」
「今のお言葉は、私の役目かと」
マリベルの目には驚きが残っていた。以前なら怒りに任せて飛び出していたアメリスが、今は調査結果をすべて聞いたうえで、その責任を引き受けようとしているのだ。
「今回は譲りませんわ!」
アメリスは報告書へ手を置く。
「子どもたちを食い物にした者へ、遠慮するつもりはございませんもの!」
マリベルは数秒だけアメリスを見つめた。
やがて、黒塗りの鉄扇を開く。
「承知いたしました」
「分かってくださいましたのね!」
「姫殿下には、レオジステ伯爵への処分をお決めいただきます」
扇面に刻まれた『お嬢様第一』の金文字が光る。
「制圧は、私が担当いたしますので」
「結局、マリベルが一番物騒ですわ!」
「役割分担でございます」
「感心してよいのか、止めるべきなのか分からん!」
アルベルトが叫んだ。
ユリウスは、記録用の紙へ何かを書き込んでいる。
「姫殿下、先ほどの『ぶっ殺してさしあげますわ』という発言は、正式な処分命令には含めない形でよろしいでしょうか」
「当然ですわ!」
ユリウスの確認に、アメリスは迷いなく答えた。アルベルトは堪えきれず、机を叩く。
「ならば、最初から物騒なことを叫ぶな!」
アメリスは兄の抗議を聞き流し、話を先へ進めた。
「ではお兄様、レオジステ伯爵を呼び出してくださいませ」
「待て、相手はこちらが調査していると知れば、証拠を消す可能性がある」
「では、こちらから参りましょう」
「待てと言っているだろう!」
アルベルトは机越しに身を乗り出した。その顔には、妹がまた何か余計なことを始めるのではないかという警戒が、ありありと浮かんでいる。
アメリスは、これなら文句はないでしょうとばかりに、兄をまっすぐ見返した。
「今回は正面から堂々と参りますわ!」
「だから、行くこと自体を止めているのだ!」
マリベルは鉄扇を閉じ、その先をアルベルトへ向けた。
「アルベルト殿下」
「何だ」
「正面からであれば、問題ございません」
「問題の基準がおかしい!」
それでも、レオジステ伯爵を放置する理由はなかった。
アルベルトは王立救済局本部への立ち入りを命じ、自らも同行することを決めた。
施設で子どもたちを診察した大神殿の治癒師も、必要に応じて子どもたちの状態を証言できるよう、同行することになった。
***
王立救済局本部は、王城から馬車で半刻ほどの場所にあった。
白い石造りの大きな建物の前には、子どもへパンを差し出す女性を象った像が置かれている。
慈善と救済を示すための像だった。
その背後にある建物から、子どもたちへ届けるはずの物が運び出されていた。
アメリスは像を見上げ、唇を引き結ぶ。
「姫殿下」
セラが声をかけた。
「大丈夫ですわ」
「まだ何も申し上げておりません」
「心配している顔でしたもの」
セラはわずかに微笑んだ。
「以前より、よくご覧になるようになりましたね」
「マリベルが何でも先に気づきますので」
「私のせいでございますか?」
「おかげと言っておりますの!」
アメリスは階段を上がり、王立救済局本部の正面玄関へ向かった。
アルベルトが王命による立ち入り調査を告げると、警備員たちは即座に扉を開ける。近衛兵の一部が入口と裏口を押さえ、残りはアルベルトたちの護衛として付き従った。本部の職員たちは突然のことに青ざめたものの、王太子を前に抵抗する者はいない。
「レオジステ伯爵はどちらにおりますの?」
「最上階の長官執務室に……」
受付の職員に案内され、一行は階段を上がる。
たどり着いた執務室では、レオジステ伯爵が一行を待っていた。
五十代ほどの男だ。
白髪の混じった栗色の髪を短く整え、目尻には人当たりのよさを思わせる深い皺が刻まれている。胸元には、救済事業への功績を示す勲章が下げられていた。
柔らかな物腰も、相手を安心させる声も、慈善家として人前に立つときと何ひとつ変わらない。
「王太子殿下、姫殿下。事前にお知らせいただければ、お迎えの準備を整えましたものを」
「準備を整えられては困るから、知らせなかった」
アルベルトはレオジステ伯爵を正面から見据えた。
「王立ひばり養護院に続き、救済局が管轄する施設で支援物資の横流しが確認された。今日は、その件について話を聞きに来た」
「これは異なことを」
レオジステ伯爵は、心外そうに眉を下げた。
「王立ひばり養護院の件を受け、私どももすでに各施設に対して厳しい指導を行っております」
「指導?」
アメリスが繰り返す。
「子どもたちへ届けられた毛布や薬を回収することが、あなたの指導ですの?」
レオジステ伯爵の笑みは崩れなかった。
「一部の施設で、物資が適切に管理されていなかったことは把握しております」
過失を認めているようで、誰の責任かは一言も口にしていない。アメリスは、その巧妙な言い回しを聞き逃さなかった。
「適切に管理されていなかった?」
「必要以上の物が配られていたのです。施設ごとの状況を確認し、再配分することは救済局の役目でございますので」
「再配分された先が、隣国の商会ですの?」
アメリスが荷札を差し出した。
レオジステ伯爵は荷札を一瞥しただけで、すぐにアメリスへ視線を戻す。
「これは嘆かわしい。商会が不正に転売したのでしょう」
「救済局の許可証を持った馬車が、各施設から物を運び出しておりますのよ」
「許可証が悪用された可能性もございます」
「七つの施設すべてで、同じように?」
「残念ながら、大きな組織には不心得者もおります」
すべての責任を部下へ押しつけるつもりらしい。
アメリスは、レオジステ伯爵の顔から目を逸らさなかった。
「子どもたちは、冬の毛布まで取り上げられていました」
「各施設の状況を見直し、余剰分を回収しただけでございます。限られた物資を、より必要な場所へ行き渡らせるためです」
「寒さに震えていた子どもたちの、どこに余剰がありましたの?」
「より多くの者を救うため、優先順位を定める必要があったのです」
レオジステ伯爵は、幼い子どもへ言い聞かせるように続ける。
「姫殿下は、救済というものを理想だけでお考えですね。すべての子どもへ同じだけ与えれば、予算はいくらあっても足りない。救える者と、そうでない者を選ばなければならないのですよ」
穏やかな口調だった。だからこそ、その言葉の冷たさが際立つ。レオジステ伯爵の中では、毛布を奪われた子どもも、薬を与えられなかった子どもも、初めから切り捨ててもよい存在でしかないのだ。
「救えるかどうかを、あなたが決めたのですの?」
「長官である私の役目です」
「違いますわ」
アメリスの声から、先ほどまでの勢いが消えた。
「あなたが決めたのは、どの子どもから奪えば利益が出るかです」
レオジステ伯爵の目が細くなる。
「言葉が過ぎますぞ」
「では、この建物にある保管庫を、すべて確認させてくださいませ」
ほんの一瞬、レオジステ伯爵の視線が扉の方へ動いた。
マリベルはそれを見逃さなかった。
「姫殿下」
「何ですの?」
「先ほどから、階下で荷車を急いで動かす音が続いております」
レオジステ伯爵の笑みが消えた。
「この建物は業務中です。荷物が動くこともございましょう」
「外へ運ぶには、少々急いでおられるようですが」
マリベルが扉を開く。
廊下の先で、職員が走り去る姿が見えた。
「止めろ!」
レオジステ伯爵が叫んだ次の瞬間、廊下の左右から武装した男たちが現れた。
救済局の警備兵ではない。胸元には、レオジステ伯爵家の紋章がある。
「王太子殿下と姫殿下をお守りしろ!」
近衛兵たちは剣を抜き、アルベルトとアメリスを囲むように陣形を組んだ。
「姫殿下、セラとともに、こちらへ」
近衛兵の一人が、アメリスに後方へ下がるよう促す。それと同時に、アルベルトも妹を庇うように前へ出た。
「お兄様も下がってくださいませ!」
「私が下がってどうする!」
「マリベルの邪魔になりますわ!」
「私の扱いが雑すぎないか!?」
マリベルは黒塗りの鉄扇を開く。
最初の男がマリベルに向けて剣を振り上げた。
ぱん、と乾いた音が響く。鉄扇が男の手首を打って剣が宙を舞った。
続けて扇の先で膝裏を払うと、男はその場へ崩れ落ちて両膝を揃えた。
「背筋を」
「なぜだ!」
マリベルが鉄扇で肩を押す。
男の背筋が伸びた。
「次の方」
「次の方ではない!」
二人目が横から斬りかかった。
マリベルは半歩身を引いて剣をかわすと、振り抜かれた腕をつかんでそのまま手前へ引く。
踏ん張りを失った男の足を払うと、今度は二人目が床へ両膝をついた。
「正座を」
「戦っている最中だぞ!」
「承知しております」
三人目、四人目、五人目と鉄扇が動くたびに床へ座る者が増えていく。
近衛兵は剣を構えたまま、加勢する隙を失っていた。
「我々は、何をすれば……」
「逃走者がいないか、ご確認くださいませ」
マリベルが私兵を正座させながら、近衛兵に告げる。
「は、はい!」
数人の近衛兵が建物内の見回りに向かう間にも、マリベルは残った私兵を次々と制圧して廊下へ一列に並べていく。
両膝を揃え、背筋を伸ばし、両手は膝の上。
戦闘ではなく、礼儀作法の講習にしか見えない。
アメリスが胸を張った。
「これがマリベルですわ!」
「なぜ、お前が誇らしげなのだ」
「今はわたくしの護衛ですもの!」
「一時的にでございます」
最後の一人を座らせながら、マリベルがアメリスに顔を向けて訂正した。
「今だけは、わたくしの護衛ですわ!」
正座していた私兵の一人がマリベルの注意が逸れたと思ったのか、そっと腰を浮かせる。
だが、マリベルはアメリスから視線を外さないまま、鉄扇の先を男に向けた。
「姿勢を崩さないでくださいませ」
「見ていないのに、なぜ分かる!」
「気配が乱れましたので」
私兵は再び正座する。
その頃には、レオジステ伯爵の顔から余裕が消えていた。廊下に並ぶ私兵たちへ向かって、苛立ちを隠さず声を荒らげる。
「何をしている! 立て! 相手は一人だぞ!」
「一人だから困っているんだ!」
私兵の一人が、その場に座ったまま叫び返した。
「伯爵様も一度やってみてください!」
「雇い主へ勧めるな!」
レオジステ伯爵が机の横にある呼び鈴へ手を伸ばす。
その前に、鉄扇の先が指に触れる。
「ひっ」
「レオジステ伯爵」
マリベルは微笑んでいた。
「正座を」
「私は王立救済局長官だぞ!」
「存じ上げております」
「伯爵でもある!」
「そちらも存じ上げております」
「ならば、この無礼が――」
「正座を」
レオジステ伯爵は後ずさったが、背後にあった長椅子へ足をぶつけ、体勢を崩した。
そのまま腰を下ろそうとした瞬間、マリベルが長椅子を横へ引く。
支えを失った伯爵は、床へ尻餅をついた。
「そこではございません」
「どこへ座れというのだ!」
「床でございます」
「嫌だ!」
ぱちん、と鉄扇が閉じられる。
数秒後。
レオジステ伯爵は、自分の私兵たちの先頭で正座していた。
「なぜ私まで……」
「指示を出しておられましたので」
「まだ何の罪も確定していない!」
「こちらは逮捕ではございません」
「では何だ!」
「反省のための姿勢でございます」
「何も違わん!」
アルベルトは額へ手を当てる。
「一応言っておくが、正式な拘束はこれからだ」
「王太子殿下! この侍女を先に捕らえてください!」
「私も以前、あの侍女を王城へ入れまいと、兵も雷鳴銃も爆裂玉も使ったことがある」
「殿下?」
「やめておけ。結果は見てのとおりだ」
アルベルトは遠い目をした。
***
地下倉庫からは、王立救済局の印が入った支援物資が大量に発見された。
毛布、薬、乾燥肉、穀物、子ども用の衣服。
箱には、翌朝までに王都の外へ運ぶよう記された荷札が付けられている。
救済局の職員数人も、運び出すよう命じられたことを認めた。
それでも、レオジステ伯爵は罪を認めなかった。
「地下倉庫の管理は、部下へ任せていた」
正座したまま、顔だけを上げる。
「私兵が勝手に武器を抜いたことは遺憾だ。だが、私が物資の横流しを命じた証拠にはならない」
「先ほど、ご自身で止めろと命じておられましたが」
ユリウスが指摘する。
「姫殿下へ危害が及ばぬよう、騒ぎを止めろという意味だ」
「ずいぶん都合よく意味が変わりますのね」
アメリスが睨む。
「何とでもおっしゃってください」
レオジステ伯爵は、少しずつ落ち着きを取り戻していた。
「各施設の院長が物資を横流しし、職員が倉庫へ運び、商会が国外へ売った。それだけのことです。長官である私が、すべてを把握することなどできるはずがない」
「七つの施設で同じことが起きていますのよ」
「現場の者たちが、互いに手口を教えたのでしょう」
「王家へ虚偽の報告をするよう求められたという証言もございます」
「自分の罪を軽くするため、私の名を使っているだけです」
レオジステ伯爵は、アメリスではなくアルベルトへ顔を向けた。
「王太子殿下、この件をどこまで広げるおつもりですか」
「どういう意味だ」
「王家は長年、私どもの報告を認めてきた。支援事業の成果を国民へ示し、救済局を称賛してきたのです」
口元へ、かすかな笑みが戻る。
「私の責任を問えば、同時に王家が何年も不正を見抜けなかったと認めることになります」
正座させられてなお、レオジステ伯爵は王家の弱みを正確に突いてきた。会議の場であれば、沈黙を選ぶ者が出てもおかしくない言葉だった。
アルベルトの表情が強張る。
「姫殿下は先日、国民の前で王家の責任を認められたばかり。ここで、これほど広範な不正まで明らかにすれば、王家への信頼は地に落ちるでしょう」
「だから、黙れとおっしゃいますの?」
アメリスが尋ねる。
「王族には、国を守る責任がございますのでね」
「子どもたちを見捨てることが、国を守ることですの?」
「時には、より大きなものを守るため、小さな犠牲へ目をつぶる必要もあるのです」
その言葉だけは、聞き流すことができなかった。
「小さな犠牲?」
「人数の話ではございません。国全体と比べれば――」
「一人でも、その子にとっては自分の人生のすべてですわ!」
アメリスの声が執務室へ響く。
「子どもたちが感じた寒さも、空腹も、痛みも、あなたには報告書に並ぶ文字でしかないのでしょう。ですが、あの子たちは、あなたに選別されるための存在ではありません。一人ひとり、自分の意思を持って生きているのですわ!」
ひばり養護院にいるミナの顔が浮かんだ。
ごはんが今日も届いたと、たどたどしい文字で知らせてくれた少女。
「王家が不正を見抜けなかったことは、わたくしたちの責任ですわ」
アメリスは一度息を吸った。
「だからこそ、目を逸らすつもりはございません。あなたが子どもたちから奪ったことも、すべて明らかにいたします」
「私が奪った証拠はないと申し上げている!」
「いいえ。あります」
騒がしかった執務室が、その一言で静まる。大きな声ではないが、室内の隅々まで届いた。マリベルだけは誰よりも早く、その声の主を理解していた。
マリベルが扉の方を振り返る。
「お嬢様……」
執務室へ入ってきたのは、エレノアだった。
淡い青のドレスをまとい、その手には公爵家の紋章が入った細長い書類筒を持っている。
王城へ証拠を届けたところ、アメリスたちが救済局本部へ向かったと聞き、そのまま後を追ってきたのだ。
後ろには、年老いた男性とアルヴァイン公爵家の護衛が控えていた。
エレノアはアルベルトとアメリスへ一礼してから、マリベルを見る。
「怪我はない?」
「はい、お嬢様」
「そう」
短い返事とともに、エレノアの肩からわずかに力が抜けた。
マリベルはいつもの位置へ戻りかけ、途中で足を止める。今はまだ、アメリスの護衛を任されているのだ。
エレノアはその迷いに気づいた。
「姫殿下をお願いします」
「はい、お嬢様」
マリベルがアメリスの半歩後ろに立ったのを見届けると、エレノアはレオジステ伯爵へ向き直る。
「各施設へ送られた指示書です」
エレノアは書類筒から一通の書簡を取り出し、卓上へ置いた。
レオジステ伯爵の顔から血の気が引く。
「偽造だ」
「あなたの署名と印章があります」
「その程度、写すことはできる」
「封蝋に混ぜられている青銀粉は、救済局長官の公文書にだけ使われるものです」
レオジステ伯爵の口が止まる。
エレノアは、後ろに控えていた老人へ視線を向けた。
「こちらは、北部の養護施設で施設長を務めている方です。指示書を受け取った本人でもあります」
「罪を逃れたい者の証言など、信用できるものか!」
「だから、この方は原本を残しました」
エレノアは書簡を開いた。
「この書簡には、読んだあとに焼却するよう記されています。ですが、受け取った施設長は、いずれ自分一人に罪を着せられると考え、保管していたそうです」
「私が書いたものではない!」
「それならば、署名と印章、長官専用の封蝋がすべて揃っている理由をご説明ください」
レオジステ伯爵は答えられなかった。
「該当する箇所を読み上げます」
エレノアは書簡へ目を落とす。
「王家から確認を受けた場合は、すべて現場の判断で行ったと答えること」
執務室が静まり返った。
エレノアは書簡から目を上げ、レオジステ伯爵を見る。
「現場の者が勝手に行ったのではありません。あなたが、そう答えるよう命じていたのですね」
「それは……」
「もう、誰か一人に罪を押しつけることはできません」
レオジステ伯爵の口から、それ以上の言葉は出なかった。
彼が積み上げてきた言い訳は、署名と印章、封蝋の残る原本によって完全に崩れたのだ。
アメリスはエレノアを見つめる。
マリベルが、なぜこの人を一番だと言うのか分かった気がした。
鉄扇を振るわなくても、怒鳴らなくても、逃げ道を残さず相手を止められる。そして、守るべき者のためなら、どれほど地位のある相手にも一歩も退かない。
だからマリベルは、あれほど誇らしげに彼女を『お嬢様』と呼ぶのだ。
「エレノア様」
アメリスが呼ぶ。
「証拠を届けてくださり、ありがとうございます」
「お礼なら、この方に。書簡を焼却せず保管し、アルヴァイン家まで持ってきてくださったのです」
老人は首を横に振った。
「私は、自分一人に罪を着せられるのが怖かっただけでございます」
「それでも、あなたが保管してくださらなければ、真実は明らかになりませんでしたわ。本当に、ありがとうございます」
アメリスが頭を下げると、老人も深く頭を下げた。エレノアはそれを見届けて小さく頷く。
そのとき、廊下の向こうから騒がしい足音が近づいてきた。
「第二王子殿下、お待ちください!」
「ここで合っていると思うよ」
扉が開く。
旅装のままのエリオットが、息を切らせた侍従と隣国の役人、それに一人の商人を伴って入ってきた。
「間に合ったかな」
長旅の疲れは隠しきれていなかった。外套の裾には土埃が付き、整えられているはずの髪も少し乱れている。それでもエリオットは、顔合わせの日と変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。
アメリスが目を見開く。
「エリオット殿下!?」
「手紙を出したあと、商人から詳しい証言を取ってこちらまで連れてきたんだ。王城で君たちがここへ向かったと聞いて、急いで追ってきた」
「なぜ、殿下ご自身がいらっしゃいましたの!」
「君が危ない場所へ行きそうな気がしたからね」
「わたくしを何だと思っておりますの?」
エリオットは執務室を見回した。
一列に正座する私兵。
その先頭で、顔色を失っているレオジステ伯爵。
黒塗りの鉄扇を持つマリベル。
「予想より、ずいぶん整っているね」
「そこを褒めないでくださいませ!」
エリオットはアメリスの前まで来ると、手にしていた包みを開いた。
中に入っていたのは、王立救済局の印が残る子ども用の上着だった。
「これを売った商人を連れてきた。王国から品物を持ち込んだ者についても、話してくれるそうだよ」
後ろにいた商人が、深く頭を下げる。
「それから、残っていた品は差し押さえた。毛布と薬も、国境で保管している」
隣国の役人が進み出て、押収品の目録と、商人の証言をまとめた書面をアルベルトへ差し出す。
アメリスは上着に触れた。
袖が小さい。子どもが着るために仕立てられた物だ。
「戻せますの?」
「本来の届け先が分かればね」
「必ず突き止めますわ」
「そう言うと思ったよ」
エリオットが笑う。
その傍らでは、ユリウスと調査官がエレノアの持参した書簡を確認し、アルベルトも卓上の署名と印章へ目を向けている。
室内の注意が証拠へ集まった、まさにその瞬間だった。
レオジステ伯爵は、そのわずかな隙を逃さなかった。
正座した姿勢から身を起こすと、執務机の下へ手を伸ばして天板の裏に隠していた細身の短剣を抜く。
「お前さえ!」
アメリスへ向かって踏み込む。
最も近くにいたエリオットが、アメリスの身体を横へ押した。
銀色の刃が、エリオットの肩に突き刺さる。
肩口の布が赤く染まった。エリオットに突き飛ばされ、床へ手をついたアメリスの目に、その光景が鮮明に焼きついた。
「エリオット殿下!」
エリオットがよろめいた拍子に、刃が肩から抜ける。
同時に、黒塗りの鉄扇がレオジステ伯爵の手首へ叩き込まれた。
短剣が床を滑る。
マリベルは伯爵の腕を取り、そのまま床へ伏せさせた。
よろめいたエリオットを、侍従が慌てて支える。
「姫殿下へ刃物を向けるとは」
マリベルの声は穏やかだった。
だからこそ、レオジステ伯爵の顔が引きつる。
「たいへん反省が必要なようですね」
「待て! すでに正座はした!」
「足りません」
「では、何をさせるつもりだ!」
マリベルはレオジステ伯爵を起こし、再び両膝を揃えさせた。
伯爵の背筋を先ほどよりも伸ばし、両手を正しい位置へ置かせる。
「先ほどと同じではないか!」
「姿勢が甘うございました」
「今はそれどころではないだろう!」
「だからこそでございます」
「何が、だからこそなのだ!」
レオジステ伯爵の抗議は、近衛兵によって両腕を拘束されたところで終わった。
アメリスはエリオットへ駆け寄る。
「肩を見せてくださいませ!」
「浅い傷だよ」
「浅いかどうかは、わたくしが決めますわ!」
「それは治癒師が決めることではないかな」
「治癒師、こちらへ!」
同行していた大神殿の治癒師が、すぐにエリオットの前へ膝をついた。
淡い光が傷口を包む。
「刃は深く入っておりません。すぐに塞がります」
その言葉を聞いて、アメリスはようやく息を吐いた。強く握っていた手を開く。
それでも、エリオットを睨んだ。
「なぜ、わたくしを庇いましたの!?」
「考える前に身体が動いたんだ」
「わたくしには、マリベルがおりましたのに!」
「そうだね」
エリオットはマリベルを見る。
「君の役目を取ってしまったかな」
「姫殿下をお守りいただき、感謝いたします」
マリベルが淡々と述べると、アメリスは思わず口元に手を当てた。
「マリベルが、ほかの方へお礼を言いましたわ……」
「必要がございましたので」
「そこまで珍しいことかな?」
「たいへん珍しいですわ!」
「姫殿下」
「何ですの?」
「第二王子殿下の治療中でございます。お静かに」
「わたくしだけ叱られますの!?」
エリオットが小さく笑った。
「元気そうで安心した」
「殿下は、もう少しご自身の心配をしてくださいませ!」
「君がしてくれているから、十分かな」
いつもの軽い調子なのに、アメリスはすぐに言い返せなかった。傷口を包む淡い光を見つめながら、胸の奥だけが落ち着かずに騒いでいる。
頬が熱くなった気がしたが、治癒の光のせいだと思うことにした。
***
レオジステ伯爵は、その日のうちに王国の拘置施設へ移された。
王立救済局の関係者だけでなく、各施設の院長と職員についても、脅迫の有無と不正への関与を分けて調査することになった。
地下倉庫から回収された物資は各施設へ戻され、不足する毛布や食料、薬は王家の備蓄から補われる。
王城へ戻ったアルベルトは、レオジステ伯爵の職務権限を停止し、救済局の業務を王家の管理下へ移す命令書に署名した。
その隣で、アメリスは新たな方針を書き出していく。
「今後、施設への監査を救済局だけに任せることはいたしません。王家直属の監査官と王宮医師も同行させますわ」
ユリウスが別紙に書き留める。
「大神殿にも、定期的な治癒師の派遣を要請しよう。事前に知らせる監査だけでは足りない。抜き打ちの確認も必要だな」
アルベルトが加えた。
「施設で働く者が、救済局を通さず王家へ知らせられる窓口も作りましょう」
アメリスは、さらに一文を書き足す。
「子どもたち自身が助けを求められる方法も必要ですわ。文字を書けない子でも使えるものを」
「王家の監査官だけが開けられる通報箱と、文字を書けない子でも使える絵札を用意してはいかがでしょう」
セラが提案する。
「それがよいですわ」
ユリウスが書類をまとめた。
「すべてを一度に整えるには、相応の人員と予算が必要になります」
「分かっております。ですから、優先順位を決めて、できるところから始めますわ」
アメリスはペンを置かなかった。
「難しいからと何も変えなければ、また権限を悪用する者が現れてしまいますもの」
アメリスは、改革案を並べるだけでは終わらせなかった。必要な人員と予算を書き出し、実現する順序まで一つずつ確かめていく。
アルベルトが妹を見た。
「アメリス」
「何ですの?」
「最後まで自分で考えるつもりか」
「当然ですわ。言い出したのは、わたくしですもの」
「屋根へ逃げる気配もないな」
「子どもたちに関わることから、逃げるわけがありませんわ!」
「ならば、最後まで付き合おう」
「お兄様も、以前より少しは立派になりましたわね」
「なぜ上からなのだ!」
ユリウスが眼鏡の位置を直す。
「お二人とも、過去との比較では目覚ましい成長かと」
「まとめて褒めないでくださいませ!」
「なぜ私まで、お前と同じ扱いなのだ!」
張り詰めていた空気が、ようやく緩んだ。
***
夕方。
王城の正面には、アルヴァイン公爵家の馬車が止まっていた。
レオジステ伯爵の事件に関する手続きを終えたエレノアは、玄関広間でマリベルを待っている。
玄関広間の端には、肩に包帯を巻いたエリオットと、その侍従が控えていた。
マリベルは、アメリスと向かい合う。
「姫殿下」
「何ですの?」
「姫殿下の安全は確保され、各施設への物資も返還されました。レオジステ伯爵も拘束されております」
「ええ」
「お嬢様より仰せつかった護衛の任は、果たせたかと存じます」
その言葉を聞いた途端、アメリスの胸に小さな穴が開いたような感覚が生まれた。
最初から分かっていた。マリベルは自分の侍女ではない。エレノアから、一時的に護衛を任されていただけである。
それでも、王城の朝にマリベルの声が聞こえることも、無茶をすれば即座に止められることも、いつの間にか当たり前になっていた。
「姫殿下?」
「……何でもございませんわ」
アメリスは背筋を伸ばした。
王女としてではない。
アメリス自身として、言わなければならない。
「マリベル」
「はい」
「これまで、わたくしを守ってくださり、ありがとうございました」
アメリスは、マリベルへ深く頭を下げた。
「姫殿下。王女が侍女へ頭を下げてはなりません」
「今だけは王女としてではなく、あなたに守っていただいた者としてお礼を申し上げているのですわ」
マリベルはすぐには答えなかった。
やがてアメリスよりも深く頭を下げる。
「もったいなきお言葉でございます」
アメリスは顔を上げた。
「何度も正座させられましたし、反省文も増やされましたし、窓から逃げることまで禁じられましたけれど」
「今後もお控えくださいませ」
「最後まで厳しいですわね!」
アメリスは笑った。
だが、続く言葉は真剣なものだった。
「マリベル。護衛の任は、これで終わりですわ」
「承知いたしました」
エレノアがマリベルへ視線を向ける。
「マリベル」
その一言で、マリベルの表情が変わった。
大きな変化ではないが、アメリスには分かるのだ。
鉄扇を握っているときとも、自分の半歩後ろへ立っているときとも違う。
帰る場所を見つけた者の顔だった。
「はい、お嬢様」
マリベルはアメリスの半歩後ろから離れた。
迷うことなくエレノアのもとへ歩き、その半歩後ろへ立つ。
あまりにも自然だった。初めから、そこにいたかのように。
アメリスは、その姿を見つめた。
「本当に、エレノア様が一番なのですわね」
「当然でございます」
マリベルは一切迷わず答える。
「わたくしの護衛をしていた直後くらい、少しは考えてくださいませ!」
「考える必要がございませんので」
「そこまで即答しなくてもよろしいですわ!」
エレノアが困ったように笑う。
「姫殿下、マリベルがお世話になりました」
「お世話になったのは、わたくしの方ですわ」
「それでも、少しはご迷惑をおかけしたでしょう?」
「少しではございませんわ!」
すぐに言い返せたことに、アメリスは救われた。真面目な別れの言葉だけを並べてしまえば、本当にマリベルが遠くへ行ってしまう気がしたのだ。
「ですが」
アメリスはマリベルを見る。
「楽しかったですわ」
口にしてから、アメリスは胸の奥に残っていた寂しさごと、その言葉が本心だったと気づいた。叱られたことも、追いかけられたことも、今ではすべて鮮やかに思い出せる。
マリベルの目元が和らいだ。
「私も、貴重な経験をさせていただきました」
「楽しかったとは言ってくださいませんの?」
「護衛任務でございますので」
「最後くらい、合わせてくださいませ!」
エレノアがマリベルを見る。
「少しは楽しかったでしょう?」
「……はい」
アメリスの顔が明るくなった。
「今、間がございましたわ!」
「気のせいでございます」
「気のせいではありませんわ!」
エレノアが小さく息を吐く。
「マリベル」
「はい、お嬢様」
「少しは素直になりなさい」
「善処いたします」
マリベルはエレノアの半歩後ろから進み出て、アメリスと正面から向き合った。
「姫殿下。お守りできたことを、嬉しく思っております」
それから深く一礼する。
「これにて失礼いたします」
「……ええ、またお会いしましょう、マリベル」
エレノアもアメリスへ一礼すると、出口へ向かって歩き出した。マリベルもそのあとに続く。
アメリスも二人を見送るために玄関前へ出た。エリオットも、そのそばへ歩み寄る。
寂しくないわけではなかった。けれど、マリベルがエレノアと一緒に帰ることを、自分の都合で引き止めたくはなかったのだ。
アメリスはエリオットを見る。
包帯を巻いた肩が痛々しい。自分を庇って負った傷だと思うと、簡単に目を逸らすことができなかった。
「殿下」
「何かな?」
「先ほどは、ありがとうございました」
「どういたしまして」
「ですが、次からは勝手に庇わないでくださいませ」
「難しいと思うよ」
「なぜですの?」
「君も、止められても危ない場所へ行くだろう?」
「わたくしは王女として必要な場所へ行っておりますの!」
「僕も王子として、必要だと思ったことをしただけだよ」
アメリスは言葉に詰まった。
エリオットが穏やかに笑う。
「次は、もっと上手に庇うことにするよ」
「庇わないという選択肢はございませんの!?」
「君に危険な場所へ行かないという選択肢がないなら、難しいかな」
「似た者同士だと言いたいのですか?」
「少しだけね」
「少しも似ておりませんわ!」
「では、かなり?」
「増やさないでくださいませ!」
アメリスの声が、王城の玄関前へ響いた。
馬車へ乗り込もうとしていたマリベルが振り返る。
「姫殿下」
「何ですの?」
「窓からの逃走は、お控えくださいませ」
「もういたしませんわ!」
「昇降機も」
「使いませんわ!」
「馬車の荷台も」
「隠れませんわ!」
「アルベルト殿下の寝台の下も」
「もう結構ですわ!」
マリベルは満足したように一礼し、馬車へ乗り込む。
扉が閉まり、馬車が動き出す。
アメリスは、遠ざかっていく馬車を見送った。
「寂しいのかい?」
隣から、エリオットの声がした。
「寂しくありませんわ」
「そう?」
「……少しだけ」
馬車から目を離さないまま、アメリスは小さく認めた。隣に誰かがいるからこそ、強がりを最後まで通す必要はないと思えたのだ。
「正直になったね」
「誰のせいだと思っていますの?」
「マリベルかな」
「殿下もですわ!」
アメリスは前を向いたまま、エリオットへ告げる。
「そこにいるなら、勝手にいなくならないでくださいませ」
命令のように言ったつもりだった。だが、声の最後だけはいつもの強さを保ちきれなかった。
エリオットの目がわずかに見開かれる。だが、返事は迷わなかった。
「分かったよ」
マリベルは、エレノアと一緒に帰っていった。いつものように、その半歩後ろを歩いて。
そしてアメリスの隣には、エリオットが立っている。
アメリスは、もう一人ではなかった。




