第十四章 お姫様が縁談の顔合わせに行きたくないですって!? 絶対に嫌われてやりますわああああああああああああああああ!!!!
隣国イシュベルドの第二王子との顔合わせを迎えた朝。
王女アメリスの寝室では、朝早くから支度が着々と進められていた。
窓から差し込む朝日。
鏡台の前に並べられた化粧道具。
寝台の上には、今日のために用意された淡い若草色のドレス。
真珠の首飾りも、髪に挿す花飾りも、すでに揃えられている。
ただし、肝心の王女だけが支度を始めていなかった。
「お姫様が縁談の顔合わせに行きたくないですって!?」
マリベルの絶叫が、王城の一角を揺らした。
廊下を歩いていた宮内官が書類を取り落とし、扉の前に立っていた近衛兵たちが反射的に背筋を伸ばす。
壁に掛けられた王家の肖像画が、わずかに傾いた。
「声が大きすぎますわ!」
寝台の上からアメリスが抗議した。寝間着姿のまま、枕を抱き締めている。
髪もまだ結っていない。
顔合わせまで、あと二刻。
王女として、たいへん危機的な状態である。
その傍らでは、マリベルがアメリスを静かに見下ろしていた。
黒い侍女服。
白いエプロン。
一筋の乱れもなく結われた髪。
腰には、黒塗りの鉄扇が差されている。
マリベルが王城に滞在してから、すでに一月ほどが過ぎていた。
本来ならアメリスの護衛は三日間で終わる予定だったが、養護院で発覚した不正の調査が長引いたため、任務が延長されたのである。
王城の者たちも、マリベルの絶叫と、その後に誰かが正座させられる光景にはすっかり慣れてきていた。
慣れたくはなかったが、慣れるしかなかったのだ。
「姫殿下」
マリベルは、寝台の上のアメリスを見据えた。
「顔合わせへ行きたくないとは、どういうことでございますか」
「言葉のとおりですわ」
アメリスは枕に頬を埋める。
「わたくしは最初からお断りすると申し上げておりますもの。なぜ、わざわざ会わなければなりませんの?」
「顔合わせを行うよう、国王陛下からご命令が出ております」
「お父様は娘の意思を何だと思っておりますの?」
「少なくとも、窓から逃げようとするものではないかと」
「今日はまだ逃げておりませんわ!」
「窓の留め具が外されております」
マリベルが窓辺へ目を向ける。
窓には、勝手に開けられないように新しい留め具が取り付けられていたが、いつの間にか外されて床に置かれていた。
「風通しをよくしようと思っただけですわ」
「工具までお使いになって?」
「指先の運動ですの」
「指先の運動で、逃走経路まで確保なさらないでくださいませ」
アメリスが不満そうに顔を背ける。
その横では、専属侍女のセラが寝台の上のドレスを整えていた。
落ち着いた色の侍女服。
後ろでまとめられた淡い茶色の髪。
今日も変わらず、穏やかな表情を浮かべている。
「姫殿下、まずはお着替えを」
「嫌ですわ」
「顔合わせに間に合わなくなります」
「それが狙いですの」
「遅れた場合でも、第二王子殿下にはお待ちいただくよう手配されております」
「何ですって?」
アメリスは枕から顔を上げ、逃げ道を探すように部屋の中へ視線を巡らせた。
セラは変わらぬ調子で続ける。
「窓の外には近衛兵が四名。廊下の左右には、アルベルト殿下の命を受けた騎士が配置されております」
「では、秘密通路を使いますわ」
「昨夜のうちに封鎖されました」
「衣装箱へ隠れますの」
「すべて別室へ運んでおります」
「でしたら侍女用の通用口から出ますわ」
「本日は施錠され、扉の外には侍女長が待機しております」
「なぜ、そこまで先回りしていますの!?」
「これまでの経験を生かしました」
「経験を生かさなくてよろしいのですわ!」
アメリスは、ほかに抜け出す手はないか必死に考えた。
どこを見ても使えそうな場所はすでに塞がれている。
念のため寝台の下を覗き込むと、そこにも隙間なく荷物が詰め込まれていた。
逃げ道は本当に一つも残っていなかった。
アメリスの視線が最後にマリベルへ向く。
「マリベル」
「はい」
「護衛として、わたくしをあの恐ろしい顔合わせから守ってくださいませ」
「第二王子殿下が危害を加えようとなさった場合は、お守りいたします」
「縁談そのものが、わたくしへの危害ですわ!」
「相手のお話も聞かずに、決めつけてはなりません」
「わたくしのお話は誰も聞いてくださいませんでしたのに……」
その一言だけ、いつもの勢いがなかった。
アメリスは父にも兄にも縁談を望んでいないと伝えている。
それでも顔合わせの日程は決められ、予定していた施設の視察まで動かされた。
不満を募らせるのも無理のないことだった。
「姫殿下」
マリベルは、寝台の上のアメリスから目を逸らさなかった。
「顔合わせへ出ることと、縁談をお受けすることは同じではございません」
「ですが、皆はそのつもりですわ」
「皆様が何を望んでいようと、最後に答えを出すのは姫殿下ご自身です」
「お父様が認めなければ?」
「何度でも、ご自身の言葉でお断りくださいませ」
「もう何度も申し上げましたわ!」
「でしたら、もう一度です」
「簡単におっしゃいますのね」
「簡単だとは申しておりません」
マリベルの声は静かだった。
それでも、譲るつもりがないことだけは明らかだった。
「先月、姫殿下は国民の前で、用意された嘘ではなくご自身の言葉をお話しになりました」
「覚えておりますわ」
「今回も第二王子殿下のお話を聞いたうえで、正直なお気持ちをお伝えくださいませ」
「正直にお断りしても、ここまで話を進められましたのに……」
「第二王子殿下には、まだ直接お話しになっておりません」
「それは、そうですけれど」
「お会いする前から、お相手を敵と決めつけてはなりません」
「敵ではございませんわ。縁談相手ですわ」
「では、なおさらでございます」
少しも逃げ道を残さない返答だった。
アメリスは枕から目だけを出し、マリベルを睨む。
「本当に、融通が利きませんわね」
「姫殿下が、それをおっしゃいますか」
「顔合わせへ出れば、満足なのですね?」
「まずは、お支度を整えてくださいませ」
マリベルはセラへ目を向けた。
「セラ殿、姫殿下をお願いいたします」
「承知いたしました」
「私は、顔合わせに使用する茶器と会場の安全を確認してまいります」
マリベルが寝室を出ていく。
扉が閉じると、アメリスはしばらく枕へ顔を埋めたまま動かなかった。
「姫殿下」
セラが若草色のドレスを手に取る。
「お着替えを始めてもよろしいでしょうか」
「……お願いしますわ」
アメリスは渋々、寝台から足を下ろした。
自分から断っても聞いてもらえない。逃げようとしてもすべて先回りされる。
それでも顔合わせへ行かなければならないというのなら――
アメリスの動きが止まった。
「そうですわ」
「姫殿下?」
「何でもございません」
アメリスは、先ほどまでとは打って変わって自分から立ち上がった。
「お着替えをお願いいたしますわ」
「……何をお考えですか?」
「顔合わせへ出る覚悟ができましたの」
「本当に、それだけでございますか?」
「もちろんですわ」
アメリスは、たいへん美しい笑みを浮かべた。
その笑顔を見たセラが、訝しむように目を細める。
「姫殿下」
「何ですの?」
「何もなさいませんね?」
「失礼ですわね。マリベルの言うとおり、正面から第二王子殿下とお話しいたしますわ」
嘘ではない、正面から話すつもりではある。ただし、何を話すかについては答えていなかった。
セラが髪飾りを取りに、鏡台の奥へ回る。その隙に、アメリスは枕を引き寄せた。
顔を押しつけ、声を殺す。
「絶対に嫌われてやりますわああああああああああああああああ!!!!」
誰にも聞こえない絶叫を飲み込んだ枕が、かすかに震えた。
***
二刻後。
顔合わせは、王城の庭園に面した小広間で行われることになっていた。
白い卓布を掛けた円卓。
季節の花を飾った花瓶。
磨き上げられた銀食器。
窓の向こうには、初夏の庭園が広がっている。
隣国から訪れた第二王子を迎えるため、部屋の隅々まで整えられていた。
それ以上に厳重だったのが、警備である。
窓の外に近衛兵。
庭園へ続く扉にも近衛兵。
廊下の両側には、王城の騎士。
アメリスが逃げられそうな場所は、すべて人で塞がれている。
「大げさですわ」
小広間へ向かう途中、アメリスが不満そうに言った。
「今朝、窓の留め具を外した者の言葉とは思えないな」
アルベルトが横から返す。
「風通しをよくしただけだと申し上げたでしょう?」
「工具を隠し持っていたではないか!」
「王女にも工作の知識は必要ですわ」
「何を作るつもりだったのだ!」
「自由への道ですわ!」
「逃走ではないか!」
アルベルトの隣では、ユリウスが記録帳へ文字を書き込んでいる。
「何を書いていますの?」
「姫殿下が、顔合わせ当日の朝にも逃走を試みた件について」
「試みておりませんわ!」
「窓の留め具を外した時点で、十分かと」
「消してくださいませ!」
「事実ですので」
アメリスは不満げに唇を尖らせた。
その半歩後ろにはセラが付き従っている。
さらに少し離れてマリベルが歩いていた。
マリベルの役目はアメリスの身辺警護である。
だが今日ばかりは、護衛対象が何を企んでいるのか見張る必要もあった。
小広間の前へ到着すると、ユリウスがマリベルへ一枚の書類を差し出した。
「隣国側から持ち込まれた贈答品について、最終確認をお願いいたします」
「承知いたしました」
そのやり取りを聞き、アメリスの足取りがわずかに軽くなる。
マリベルはその変化を見逃さなかった。
「セラ殿」
「はい」
「姫殿下のご発言には、十分ご注意くださいませ」
「承知いたしました」
「わたくしの言葉を、いちいち疑わないでくださいませ!」
「姫殿下が妙なことをおっしゃらなければ、疑う必要もございません」
セラはアメリスへ一礼した。
「おそばにおりますので、ご安心くださいませ」
「今はその言葉が少しも安心できませんわ!」
マリベルが別室へ向かう。
アメリスはセラを伴い、顔合わせの小広間へ入った。
***
イシュベルドの第二王子は、すでに小広間で待っていた。
名はエリオット。
アメリスが入室すると席を立ち、こちらへ向き直る。
アメリスより二つ年上で、灰色を帯びた金髪と、穏やかな茶褐色の瞳を持つ青年だった。
派手な装飾のない礼服を身につけている。
すらりとした立ち姿には王族らしい品格があったが、表情は堅苦しくない。
「初めまして、アメリス殿下」
明るく、よく通る声だった。
「イシュベルドの第二王子、エリオットです」
「初めまして、エリオット殿下」
アメリスも、王女として完璧な一礼を返す。
「遠路はるばる、ようこそお越しくださいました」
「こちらこそ。君に会えるのを楽しみにしていたよ」
尊大さを感じさせない爽やかな青年だった。
こちらを値踏みするような視線も向けてこない。
顔合わせを早く進めようと、強引に距離を詰めてくる様子もなかった。
アメリスにとっては、たいへん困った相手である。
失礼な人物であれば、嫌う理由にできた。
冷たい男であれば、遠慮なく破談を申し出られた。
しかしエリオットは、今のところ何一つ問題を起こしていない。
「どうぞ、お掛けください」
「ありがとうございます」
二人が円卓を挟んで腰を下ろす。
セラは、アメリスの斜め後ろへ控えた。
アメリスは膝の上で両手を重ね、目の前の王子をそっと窺う。
どうすれば、エリオットから確実に嫌われるのか。
どうすれば、結婚相手として相応しくないと思わせられるのか。
答えは簡単だ。一緒に暮らすことなど考えられないと思わせればいいのだ。
「エリオット殿下」
「何かな?」
「最初に、わたくしの生活習慣についてお話ししておきたいことがございますの」
「それは助かるよ。僕も君について知らないことが多いからね」
アメリスは王女らしく微笑んだ。
「わたくし、お手洗いのあとも手を洗いませんの」
エリオットが、わずかに目を見開く。
効いている。
アメリスがそう確信した直後、エリオットはにこやかに笑った。
「それは奇遇だね。僕も洗わないんだ」
「……え?」
今度は、アメリスの笑みが止まった。
「面倒だろう? どうせ、またすぐに汚れるからね」
「そ、そうですわね」
そんなわけがない。
手は洗うべきである。王女である以前に、人として当然の習慣だ。
けれど、ここで嫌そうな顔をすれば、自分の発言まで嘘だと疑われかねない。アメリスは胸の内に生じた拒絶を押し込み、どうにか微笑みを保った。
斜め後ろに控えるセラの指先が、わずかに動く。
「姫殿下」
「事実ですわ」
「毎回、きちんと――」
「セラ」
アメリスが振り返る。
「お茶の用意を確認してくださいませ」
「確認はすでに終えております」
「では、お菓子の方を」
「そちらも問題ございません」
「何か一つくらい、確認してきてくださいませ!」
笑顔ではある。
余計なことを言わないでほしいという意思だけは、十分に伝わった。
セラは一度口を閉じる。そのまま引き下がるかと思われたが、静かに言い切った。
「姫殿下は、お手洗いのあとには毎回きちんと手を洗っておられます」
「セラ!」
「虚偽に加担することはできません」
「マリベルの影響を受けすぎですわ!」
エリオットが一度だけ瞬く。
「君は手を洗っているんだね」
「……今日は洗いましたわ」
「今日だけ?」
「普段は洗いませんの」
「普段もお洗いになっております」
「セラは少し黙っていてくださいませ!」
「専属侍女として、姫殿下の名誉を守っております」
「今は守らなくてよろしいのですわ!」
自分の嘘は早くも崩れかけている。それなのに、エリオットは少しも動揺していなかった。
それどころか、手を洗っていると知って、わずかに残念そうに見える。
まさか、本当に洗っていないのだろうか。
アメリスは向かいに座る青年の手を見た。指先まで清潔で、爪も美しく整えられている。とても不潔な生活を送っているようには見えないが、王子であれば身支度を使用人に任せている可能性もある。
いや、相手の生活習慣を心配する必要などない。自分は、この縁談を断るために来たのだ。
「それだけではございませんの」
「まだあるのかい?」
「わたくし、お風呂にも入りませんのよ」
「僕もだよ。面倒だよね」
「は?」
思わず、王女らしからぬ声が出た。
「毎日入る必要はないと思っているんだ。月に一度で十分じゃないかな」
「月に一度!?」
「君も入らないんだろう?」
「も、もちろんですわ。わたくしも月に一度ですの」
「毎晩、ご入浴なさっております」
扉の方から、たいへんよく通る声がした。
アメリスの肩が跳ねる。
小広間の入口に、マリベルが立っていた。右手には閉じた鉄扇が握られている。
隣国から届いた贈答品を確認するため、しばらく席を外していたはずだった。
「公爵家侍女、マリベルでございます」
マリベルはエリオットへ完璧な一礼をした。
「現在、姫殿下の護衛を務めております」
「初めまして。エリオットです」
「存じ上げております」
挨拶を済ませると、マリベルはアメリスの半歩後ろへ移動した。
「なお、姫殿下は昨夜もご入浴なさいました」
「そこまで丁寧に訂正しなくてもよろしいですわ!」
「湯加減が整うまで、二度ほどお湯を足させておられます」
「細かいことまで話さないでくださいませ!」
「湯殿には半刻以上おられました」
「長風呂まで暴露しないでくださいませ!」
セラも穏やかに付け加える。
「髪に香油をなじませるのに、少々お時間がかかりました」
「セラまで続けなくてよろしいのですわ!」
エリオットが小さく笑う。
「君は毎晩入っているんだね」
「昨日は、たまたまですわ」
「一昨日もご入浴なさいました」
「セラ!」
「その前日も、その前の日もでございます」
「もう結構ですわ!」
アメリスはむっと口を結んだ。
しかし、自分のことばかり訂正されているのは不公平である。アメリスは姿勢を正し、今度はエリオットへ疑いの目を向けた。
「ところで、エリオット殿下」
「何かな?」
「先ほどのお話は、本当ですの?」
「手を洗わず、月に一度しか風呂へ入らない話かい?」
「大きな声で繰り返さないでくださいませ!」
「僕の生活習慣について尋ねたのは君だろう?」
「そうですけれど……」
「もちろん、本当だよ」
エリオットは、澄み切った笑顔で答えた。
その後ろに控えていた侍従の眉が動く。何か言いたそうに唇を開いたものの、エリオットが視線を向けると無言で口を閉ざした。
今の反応は何だったのか。
気にはなったが、アメリスには確かめる余裕がなかった。
胸の中に、言いようのない不安が広がっていたからである。
この縁談は、何としても断らなければならない。
先ほどまでとは、少し違う意味で。
***
昼餐が始まった。
最初に運ばれてきたのは、淡い色の根菜を使ったスープだった。
アメリスは卓上に並ぶ食器を見渡す。スープに使う匙の位置は当然知っていた。だからこそ、取り分け用の大きな匙へ手を伸ばす。
だが、触れるより早く、セラが正しい匙を差し出した。
「こちらでございます」
「今日は、大きな方を使いたい気分なのですわ」
「取り分け用でございますので」
「一度にたくさん飲めますでしょう?」
「一口の量を競う場ではございません」
マリベルに言い切られ、アメリスは渋々セラの差し出した匙を受け取った。
その向かいでは、エリオットが菓子用の小さな匙を手にしている。
「エリオット殿下、そちらは食後の菓子に用いるものでございます」
「僕は小さな匙で何度も飲むのが好きなんだ」
「作法に従ってくださいませ」
「僕まで注意されるのかい?」
「同じことをなさっておりますので」
マリベルがスープ用の匙を置くと、エリオットは素直に持ち替えた。その手つきに迷いはない。
作法を知らないわけではないようだ。
アメリスはその様子を訝しみながら、スープを普段より勢いよく口へ運ぼうとした。すると、エリオットが向かいから声をかけてきた。
「少し待った方がいいよ」
「何ですの?」
「まだ熱い。火傷をするよ」
「わたくしは、この程度の熱さなど平気ですわ」
「無理をして舌を火傷する必要はないだろう?」
アメリスの手が止まった。
「……何のお話でしょう?」
「違ったのかな?」
「違いますわ!」
「なら、ゆっくり飲めばいい」
エリオットは涼しい顔で、匙にすくったスープを口へ運ぶ。
見抜かれているのか。それとも、ただの偶然か。
アメリスは次に丸いパンを取り、切り分けずにかじろうとした。口へ届く直前、横から伸びたマリベルの手がパンを抜き取る。
「なぜパンが消えますの!?」
「切り分けて差し上げます」
「そのまま食べたかったのですわ!」
「おやめくださいませ」
抗議している間に、向かい側で、ぱり、とパンの皮が鳴った。
エリオットが自分のパンにそのままかじりついている。
「殿下!?」
「どうしたんだい?」
「パンを、そのまま召し上がるなんて……」
そこまで言って、アメリスは口を閉じた。
「君も同じことをしようとしていただろう?」
「わたくしは王女ですもの!」
「僕も王子だよ」
「でしたら、なおさらおやめくださいませ!」
マリベルはエリオットのパンも取り上げ、二人分を切り分け始めた。
「なぜ、わたくしと同じ扱いですの!?」
「同じことをなさいましたので」
「僕は公平だと思うよ」
「納得しないでくださいませ!」
昼餐が進むにつれ、二人の話はさらにひどくなった。
「わたくし、昼になるまで起きませんの」
「僕は夕方まで寝ているよ」
「夕方まで!?」
「今朝は日の出前に一度起き、窓の留め具を外しておられました」
セラが訂正する。
「それは、顔合わせから逃げる方法を考えていたからですわ!」
「理由までお話しになってよろしいのですか」
「……今のは忘れてくださいませ」
「難しいと思うよ」
「殿下に言われたくありませんわ!」
アメリスは胸を張り直した。
「それに、わたくしは公務の書類など一切読みませんの」
「僕も兄上に任せているよ。書類を見ると眠くなるんだ」
「それでは第二王子として務まりませんでしょう!」
「君も読まないんだろう?」
「わたくしは……読みませんわ!」
「今朝まで、養護院の支援計画書を確認しておられました」
後ろに控えていたセラが静かに口を挟む。
「それは公務ではなく、気になっていただけですわ!」
「右手に青いインクが残っているね」
エリオットの指摘に、アメリスは慌てて指先を隠した。
「これは、浪費したい品物の一覧を書いていたからですわ」
「少なくとも、インクはずいぶん浪費したようだね」
「そこだけ拾わないでくださいませ!」
次の肉料理が運ばれ、給仕が皿を並べていく。その間にもアメリスは新たな嘘を重ねた。
「わたくしは、たいへんな浪費家ですの。同じドレスは二度と着ませんわ」
「奇遇だね。僕も先月、馬車を三台注文した」
「三台も!? 身体は一つしかございませんでしょう!」
「どれに乗るか選ぶ楽しみがあるからね」
「国費を何だと思っていますの!」
「君も浪費家なんだろう?」
「そ、それは別ですわ!」
セラがアメリスの袖へ目を向ける。
「こちらは、三年前の祝賀会でお召しになったドレスを仕立て直したものでございます」
「セラ!」
「先月は装飾品の購入予算を減らし、その分を養護院の寝具代へお回しになりました」
セラの後にマリベルも続けた。
「わたくしが何を言っても、全部よい話へ変わってしまいますわ!」
「事実を申し上げておりますので」
アメリスは悔しそうにマリベルを睨みつけてから、肉を切り分けた。その動きは正確で、先ほどまで無作法を装っていた者とは思えない。
そして、それはエリオットも同じだった。
匙も刃物も迷いなく扱い、給仕の手から果実酒の瓶が滑りかけたときには、誰より早く手を伸ばして支えた。
「申し訳ございません、殿下」
「怪我はない?」
「はい」
「なら、気にしなくていいよ」
給仕が下がると、アメリスはエリオットを見つめた。
「使用人にはお優しいのですね」
「今のは忘れてくれるかな」
「なぜですの?」
「僕は使用人に横暴な王子ということになっているからね」
「初めて聞きましたわ!」
「これから話そうと思っていたんだ」
あまりにも堂々と言われ、アメリスは言葉を失った。
嫌われるために作戦を立てているのは、自分だけではない。
疑いは、ほとんど確信へ変わっていた。
***
食事を終えると、隣の応接室へ場所を移した。
若い二人だけで話す時間という名目だったが、アメリスの後ろにはセラ、少し離れた場所にはマリベルが立っている。エリオットにも侍従が付き、扉の外ではユリウスが待機していた。
二人きりとは呼びにくい。
アメリスは長椅子へ腰を下ろす。嫌われるどころか、相手の生活習慣と金銭感覚に不安を覚えたのは自分の方である。
ならば、使用人に横暴な王女だと思わせるしかない。
「セラ。お茶を淹れ直してくださいませ」
「何か問題がございましたか」
「気に入りませんの」
「先ほど、おいしいとおっしゃいました」
「急に気に入らなくなりましたわ」
「理由を伺っても?」
「……温度ですの」
「姫殿下のお好みどおりでございます」
「香りが気に入りませんわ」
「今朝、ご自身でお選びになった茶葉でございます」
「今日のセラは、ずいぶん反抗的ですわね!」
セラは反射的に頭を下げかけたが、途中で姿勢を戻した。
「理由のない淹れ直しは、お受けできません」
「以前は、もう少し優しかったですわ!」
「現在も、姫殿下を大切に思っております。ですからこそ、そのようなお芝居には加担できません」
穏やかな声だったが、セラは引かなかった。
アメリスは渋々カップを手に取る。
「……おいしいですわ」
「ありがとうございます」
「今はその返事も悔しいですわ!」
エリオットが笑いを堪えている。
「また笑いましたわね?」
「君の侍女は、いい人だと思って」
「それは、わたくしも知っていますわ!」
「なら、横暴な主人という話にも無理があるね」
「まだ何も申し上げておりませんのに!」
「嘘をつく前に、君は右手でドレスの裾を握る。それから、セラ殿の反応を確かめる」
アメリスは慌てて右手を開く。握り締めていた若草色の裾が、指の間からするりと落ちた。
「偶然ですわ!」
「そうかな?」
「そうですわ!」
「では、次は何を教えてくれるのかな」
完全に面白がられている。
だが、アメリスも黙ってはいられなかった。
「殿下こそ、先ほどからおかしいですわ。無作法を装っておられましたのに、本当は作法をご存じでした。給仕にもお優しかったでしょう」
「たまたまだよ」
「わたくしの『たまたま』は認めないのに、ご自分だけ認めさせるおつもりですの?」
「それは不公平だね」
「そうですわ!」
「では、僕も使用人へ厳しいところを見せよう」
エリオットは侍従を振り返る。
「お茶を淹れ直してくれるかな。この茶葉が気に入らない」
「殿下が出立前に、ご自身でお選びになった茶葉でございます」
「同じではありませんの!」
「偶然だよ」
「先ほど偶然ではないとおっしゃったでしょう!」
侍従は淡々と続けた。
「また、殿下は今朝、こちらの茶葉を楽しみにしていると三度おっしゃいました」
「三度もですの?」
「二度だったかもしれない」
「三度でございます」
「ずいぶん正確だね」
「殿下の名誉を守るためでございます」
「どこかで聞いた言葉ですわ!」
アメリスは立ち上がり、エリオットへ詰め寄った。
「殿下。わたくしに嫌われようとなさっていますわね?」
エリオットが初めて返答に詰まる。
「やはり!」
「そういう君も、僕に嫌われようとしていたんだろう?」
「質問に質問で返さないでくださいませ!」
「では、先に答えるよ。そうだ」
「なんて卑怯な作戦ですの!」
「君も同じことをしていたよ」
「わたくしの方が先に始めましたわ!」
「先に始めた方が正しいのかな?」
「少なくとも、真似をした殿下よりは――」
「真似ではないよ。僕も最初から、君に嫌われるつもりで来たんだ」
アメリスの口が止まった。
「手を洗わないというお話まで、同じことを考えていましたの?」
「手を洗わず、風呂にも入らない王子なら、君も結婚したくないと思うだろう?」
「まったく同じではありませんの!」
侍従が深く息を吐く。
「殿下。馬車を三台購入なさったというお話も、事実ではございません。昨年から同じ馬車を修理してお使いです」
「やはり嘘でしたのね!」
アメリスは、これで一矢報いたとばかりにエリオットへ勝ち誇った笑みを向けた。
すると、セラがアメリスに視線を向ける。
「姫殿下も、同じドレスを二度と着ないというお話は虚偽でございます」
「わたくしの方は、もう十分に訂正されましたわ!」
エリオットの侍従もさらに続ける。
「殿下は公務を兄君へ押しつけてもおられません。出立前夜まで水路整備の書類をご確認なさっていました」
「立派ではありませんの!」
「君も養護院の書類を読んでいただろう?」
「今は殿下のお話ですわ!」
「お二人とも」
マリベルの声が二人の間へ落ちた。
ぱちりと黒塗りの鉄扇が開く。
扇面に金色の文字が現れた。
『お嬢様第一』
「正座を」
応接室が静まり返る。
「なぜ、わたくしまでですの!?」
「ご自身を貶める嘘を重ねたためでございます」
「わたくしは王女ですわ!」
「存じております」
エリオットは床へ目を向けた。
「僕も?」
「姫殿下に対して虚偽を重ね、嫌われようとなさったためでございます」
「公平なんだね」
「納得しないでくださいませ!」
エリオットはためらわず絨毯に膝をついた。侍従が青ざめて一歩出る。
「殿下! 他国の侍女に命じられて、何をなさっているのですか!」
「正座だよ」
「見れば分かります!」
「僕にも非があったからね。少し待っていてくれるかな」
穏やかな声だったが、第二王子としての意思は明確だった。侍従は渋々一歩下がる。
「さあ、君も」
エリオットが隣を示した。
「なぜ殿下は、それほど自然に受け入れておりますの?」
「絨毯が厚いから、あまり痛くなさそうだよ」
「問題はそこではございませんわ!」
「姫殿下」
マリベルに呼ばれ、アメリスも渋々隣へ膝をついた。セラがすぐにドレスの裾を整える。
「ありがとう、セラ」
「どういたしまして」
「ですが、止めてくださってもよろしかったのではなくて?」
「今回は、姫殿下にも反省していただく必要がございます」
「本当に、マリベルが二人ですわ……」
王女と王子が並んで正座する。
「それでは、ご自身の言葉でお話しくださいませ」
「これは罰ですの? 話し合いですの?」
「両方でございます」
「やはり横暴ですわ!」
エリオットが隣で笑った。
「ずいぶん頼もしい護衛だね」
「護衛をしていただいているだけで、わたくし付きの侍女ではございませんわ」
「そうなの?」
「私は、エレノアお嬢様の侍女でございます」
マリベルが即答する。
「お嬢様より、姫殿下をお守りするよう仰せつかっております」
「その鉄扇の文字どおり、本当にお嬢様が一番なんだね」
「当然でございます」
「わたくしの隣で迷いなく言い切らないでくださいませ!」
アメリスの抗議を受け流し、マリベルは続ける。
「先月の姫殿下は、ほかの者が用意した嘘を読むことを拒まれました。そして、ご自身の言葉で国民へ事実をお話しになりましたね」
「覚えておりますわ」
「ですが本日は、ご自身で嘘を並べておられます」
アメリスは言葉に詰まった。
「だって、わたくしがこの縁談を望んでいないと正直に申し上げても、誰も聞き入れてくださいませんでしたもの」
「それで第二王子殿下も姫殿下のお気持ちを聞いてくださらないと思い、嫌われて縁談を断っていただこうとなさったのですね」
マリベルはエリオットへ視線を移した。
「第二王子殿下も、ご自身が縁談を望んでいないことを伝えず、姫殿下から断っていただこうとなさいました」
エリオットはわずかに目を伏せる。
マリベルは二人を順に見据えた。
「事情は違っても、なさったことは同じです。お二人ともご自身の気持ちを伝える前に、相手の方から縁談を断ってもらおうとなさいました」
二人は、マリベルの指摘を否定できなかった。
「姫殿下、まずは縁談についてのお考えを正直にお伝えくださいませ」
アメリスは膝の上で両手を握る。
嘘であれば、いくらでも口から出てきた。だが、本当の気持ちを言おうとすると、途端に喉が重くなる。
「……わたくしは、この縁談を望んでおりません」
エリオットも同意するように小さく頷いた。
「殿下に問題があるからではございません。お会いする前からお断りしていました。わたくしのことを何も知らない方と、国同士の都合だけで結婚するのが嫌なのです」
エリオットは急かさず、黙って聞いている。
「王女として国のために務める必要があることは理解しています。けれど、何を感じるかまで決められたくはございません。正直に断っても聞いていただけないのでしたら、殿下から嫌われるしかないと思いましたの」
「だから、手を洗わないことにしたんだね」
「本当は洗っていますわ!」
「知っているよ」
「お風呂にも毎晩入っていますの!」
「それも、よく分かった」
「でしたら、もう忘れてくださいませ!」
エリオットの口元が緩む。
その表情を見て、アメリスはわずかに肩の力を抜いた。しかし、自分が並べた嘘を思い返すと、さすがに気まずくなって視線を落とす。
「失礼な嘘を重ねてしまい、申し訳ございませんでした」
「僕も謝るよ」
「では、殿下のお考えを聞かせてくださいませ」
「僕も、この縁談を望んでいない」
「それは、もう分かっておりますわ」
「そうだったね。僕も父上に断ったけれど、顔合わせだけはしろと言われた。君が縁談を望んでいるなら、僕から断るよりも君に嫌われて断ってもらった方が傷つけずに済むと思ったんだ」
「それで、月に一度しかお風呂へ入らない王子になりましたの?」
「手も毎回洗うし、湯浴みも毎日しているよ。公務の書類も自分で読む」
「当然ですわ!」
「君もだろう?」
「当然ですわ!」
二人は同時に胸を張った。
マリベルは、妙なところで息の合った二人に冷ややかな視線を向ける。
「威張ることではございません」
「分かっておりますわ!」
「分かっているよ」
二人の返事が揃う。
顔を見合わせると、どちらからともなく笑みがこぼれた。
「君とは、話が合うようだね」
「少々、不本意ですけれど、否定はできませんわ」
「僕も、誰かとこういう話をしたことがなかった」
「縁談について?」
「自分の望んでいないことについて、かな」
アメリスは隣の青年を見た。何でも穏やかに受け入れそうに見えるからこそ、周囲は彼の意思を後回しにしてきたのかもしれない。
自分も、王女なのだから微笑んでいればよいと思われていたように。
「殿下も、聞き入れてもらえなかったのですわね」
「五回ほど断ったんだけどね」
「五回も?」
「最後は馬車の中で断りの手紙を書いたけれど、国境へ着く前に侍従に没収された」
アメリスが侍従を見る。
「我が国の国王陛下より、断りの手紙はすべてお預かりするよう命じられておりました」
「徹底しておりますわね……」
「君は?」
「窓から逃げようとしましたが、留め具を外したところでマリベルに見つかりましたの」
「窓から?」
「秘密通路も、衣装箱も、通用口も塞がれておりましたわ!」
「それは以前、何度も逃げたからじゃないかな」
「殿下まで、あちら側へ行かないでくださいませ!」
エリオットが肩を揺らして笑う。
アメリスは頬を膨らませながらも、その笑顔から目を逸らさなかった。
嫌われるつもりで向き合った相手に、親しみを覚えている。それが少し悔しく、同時に安心でもあった。
マリベルが鉄扇を閉じる。
「お話は終わりましたか」
「はい」
二人の声が重なる。
「では、正座を解いて結構でございます」
アメリスはすぐに立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。
「また動きませんわ!」
身体が横へ傾き、エリオットが腕を伸ばす。肩を支えられ、二人の顔が思った以上に近づいた。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫ですわ! というか近すぎますの!」
「離したら、君が倒れる」
「それでも近すぎますわ!」
セラが反対側から支え、アメリスを長椅子に座らせた。頬には先ほどまでなかった赤みが残っている。
エリオットも平然としているように見えたが、アメリスから離した手を一度だけ握り込んだ。
マリベルは何も言わず、二人の様子を見ている。
「マリベル。今、何か考えましたわね?」
「何も」
「本当ですの?」
「姫殿下と違い、嘘は申し上げません」
「今それを言いますの!?」
***
しばらくして、アルベルト、ユリウス、それに隣国イシュベルドの使節と王国側の宮内官たちが応接室へ入ってきた。
アルベルトは長椅子に座るアメリスとエリオットを見たあと、マリベルの手にある鉄扇へ目を向けた。
「……正座させたのか?」
「必要がございましたので」
「相手は隣国の第二王子だぞ!」
「僕が了承したんだ。僕にも反省すべきところがあったからね」
「なぜ、隣国の王子の方が私の妹より聞き分けがよいのだ……」
「お兄様。あとで正座ですわ」
「なぜだ!」
ユリウスが記録帳を開く。
「顔合わせの結果をお聞かせください」
アメリスは姿勢を正した。
「現時点で婚約をお受けするつもりはございません」
「僕も同じ考えです」
使節たちがざわめく中、隣国イシュベルドの年嵩の使節が口を開いた。
「殿下、今回の縁談には、両国の結びつきを強めるという大きな意味がございます」
「分かっているよ。でも、互いをほとんど知らないまま結婚だけを決める必要はないと思う」
「王族であっても、結婚するのは当人同士ですわ。国のことは考えます。ですが、何を感じるかまで他人に決めさせるつもりはございません」
アメリスはエリオットを見る。
「まずは、互いを知る時間をいただきたいと思いますの」
「僕も賛成だよ」
「では、婚約を前提とした交流を――」
イシュベルドの年嵩の使節が、すかさず口を挟んだ。
「前提にはしておりませんわ」
「前提にはしていないよ」
二人の声が重なり、使節は口を閉じる。
アルベルトはしばらく二人を見比べていたが、やがて小さく息を吐いた。
「分かった。父上には私から伝える。少なくとも、今日この場で婚約を決めることはしない」
「お兄様……」
「ただし、次からは嫌われるために手を洗わないなどと言うな」
「そこを蒸し返さないでくださいませ!」
ユリウスだけが冷静に書き留める。
「婚約を前提とせず、相互理解のための交流を希望、と」
アメリスは立ち上がり、エリオットへ右手を差し出した。
「エリオット殿下とは、もう少しお話ししてみたいと思いましたの。まずは、お友達から始めませんこと?」
「喜んで」
エリオットは差し出された手を見つめた。
ここまで淀みなく話していた青年が、わずかにためらったあと、その手を取る。
「どうなさいましたの?」
「君と友人になるための、最初の握手だと思うと、少し緊張してね」
「握手ですわよ?」
「大切な合意だろう?」
二人の手が重なる。
エリオットはアメリスの手を握ったまま、急に改まった口調で言った。
「これからは友人として率直な意見交換を行い、互いの価値観と生活習慣を確認し、両国間の認識に齟齬が生じないよう――」
「お友達になるだけで、なぜ条約のようになりますの?」
「ほかの始め方を知らないんだ」
「……そう正直に言われると、怒れませんわね」
どちらが先に離すのか迷うような沈黙のあと、アメリスが慌てて手を引いた。
マリベルがエリオットへ向き直る。
「姫殿下を泣かせた場合は、正座していただきます」
「分かったよ」
「まだお友達ですわ!」
「今後のために申し上げております」
「今後とは何ですの!?」
アメリスの抗議に、エリオットの口元が楽しげに緩んだ。
その後、双方の関係者もその場で婚約の結論を出さず、まずは二人が互いを知る時間を設ける方針をそれぞれの国王へ報告することで合意した。こうして、顔合わせはひとまず終了となる。
相手に嫌われて縁談を断らせるはずだったアメリスの計画は、思いがけない形で幕を閉じた。
***
顔合わせを終えたエリオットが王城を発つ頃には、空が淡い橙色へ変わっていた。
正面玄関にはイシュベルドの馬車が待ち、使節たちが乗り込んでいる。アメリスはアルベルトとともに見送りへ出ていた。
馬車へ乗り込む前に、エリオットがアメリスへ向き直る。
「今日は、ずいぶん長い顔合わせになったね」
「殿下がありもしない生活習慣を披露なさったからですわ」
「最初に手を洗わないと言ったのは君だよ」
「いつまで覚えていますの!?」
「しばらくは忘れられそうにないな」
エリオットが笑う。
アメリスは反論しかけたが、結局口を閉じた。もう少し話していたいと思っていることまで、否定するつもりはなかった。
「次にお会いするときは、普通にお話しいたしますわ」
「それは楽しみだね」
「ですが、婚約をお受けしたわけではございませんからね」
「分かっているよ。まずは友人からだろう?」
「ええ」
「では、友人として手紙を書いてもいいかな」
アメリスは一瞬だけ答えに詰まった。
「……お好きになさればよろしいですわ」
「迷惑じゃない?」
「迷惑でしたら、最初からお断りしております」
エリオットは馬車へ乗り込もうとしたが、その直前にもう一度アメリスを振り返った。
「今日は、会えてよかった」
真っ直ぐに言われ、アメリスは視線を逸らす。
「わたくしは、まだ判断しかねますわ」
「では、手紙で感想を聞かせてもらおうかな」
「なぜ、わたくしが書くことになっていますの?」
「友人だから?」
「疑問形でおっしゃらないでくださいませ!」
エリオットは名残惜しそうに目を細め、馬車へ乗り込んだ。
動き出した馬車の窓から顔を覗かせる。
「アメリス殿下。手は、きちんと洗うんだよ」
「殿下こそ、毎日お風呂へ入ってくださいませ!」
返事の代わりに、エリオットが手を振る。
馬車が角を曲がって見えなくなっても、アメリスはしばらくその場を動かなかった。
「アメリス。もう馬車は見えないぞ」
「分かっておりますわ!」
「では、なぜまだ見ている?」
「お兄様が隣にいるから、わたくしもいただけですの!」
「私は、お前が動かないから待っていたのだ!」
兄妹の言い争いがさらに激しくなる前に、ユリウスが間へ入った。
「玄関前で騒がず、お部屋へお戻りください」
二人は揃って口を閉じた。
アメリスは歩き出す。その足取りは、顔合わせへ向かうときより明らかに軽かった。
***
エリオットを乗せた馬車が王城を出てから、まだ半刻も経っていなかった。
部屋へ戻ったアメリスは、上着も脱がないまま書き物机へ向かい、便箋を広げる。
「姫殿下。まずはお召し替えを」
「少し待ってくださいませ」
セラに答えながら、アメリスはペンを取る。
『エリオット殿下へ』
そこまで書いたところで、手が止まった。
「……わたくし、お手紙は苦手なのですけれど」
「でしたら、明日になさってはいかがでしょう」
「今日のお話は、今日のうちに訂正しておくべきですわ!」
「何を訂正なさるのですか?」
「わたくしが毎日きちんと手を洗い、お風呂にも入っていることですの!」
「殿下は、すでにご存じでございます」
「念のためですわ!」
アメリスは勢いよく書き始めた。
今日の非礼を詫び、次に会うときは互いに嘘をつかずに話したいと続ける。さらに、エリオットが携わっている水路整備についても尋ね、イシュベルドで好まれている菓子についてまで書き加えた。
「姫殿下」
「何ですの?」
「生活習慣の訂正にしては、ずいぶん内容が多いようですが」
マリベルが机の横から便箋を見下ろしていた。
アメリスは慌てて腕で隠す。
「お友達になったのですから、これくらい当然ですわ!」
「左様でございますか」
「何ですの、その返事は!」
「いえ。嫌われようとあれほど嘘を重ねておられたのに、エリオット殿下がお帰りになった途端、もう三枚目を書いておられると思いまして」
アメリスは机の上を見た。
二枚の便箋と、書きかけの三枚目が並んでいた。
「これは……誤解を残さないためですわ!」
「では、こちらの一文は、何のためにお書きになったのですか?」
マリベルが、閉じた鉄扇で便箋の末尾を示す。
『またお会いできる日を、楽しみにしております』
アメリスの顔が一気に赤くなった。
「そこは読まなくてよろしいのですわ!」
「声には出しておりません」
「顔に書いてありましたわ!」
アメリスは便箋を引き寄せ、その下へ小さな文字で『少しだけ』と書き加えた。
マリベルはその文字を見下ろし、静かに告げる。
「姫殿下。文字を小さくしても、楽しみにしておられることは隠せません」
「隠してなどおりませんわああああああああああああああああ!!!!」




