第十三章 お姫様が公務から逃げ出したですって!? 嘘の演説なんてお断りですわああああああああああああああああ!!!!
マリベルが王城に来てから迎える二度目の朝。
アメリス王女が最初に聞いたのは、窓辺でさえずる小鳥の声ではなかった。
「姫殿下、起床のお時間でございます」
寝台の横から聞こえてきた、たいへんよく通る侍女の声だった。
アメリスは毛布を頭まで引き上げる。
「まだ夜ですわ……」
「日はすでに昇っております」
「わたくしの目が開くまでは夜ですわ」
「では、お開けくださいませ」
「横暴ですわ!」
アメリスが毛布から顔を出すと、寝台の横にはマリベルが立っていた。
黒い侍女服。
白いエプロン。
きっちりと結われた髪。
腰には、『お嬢様第一』と刻まれた黒塗りの鉄扇。
いつもと変わらぬ姿だった。
ただし、手には三枚の紙が握られている。
「姫殿下」
「何ですの?」
「こちらの反省文について、お話がございます」
アメリスは再び毛布へ潜ろうとした。
マリベルが毛布の端を押さえる。
「逃げないでくださいませ」
「寝台の中ですわ!」
「昨夜、三枚と申し上げました」
「ございますでしょう?」
「三枚目の半分が『今後は気をつけます』の一文だけで埋められております」
「大切な言葉ですもの。目立たせましたの」
「文字を大きくして枚数を稼がないでくださいませ」
「王女相手に厳しすぎますわ!」
アメリスが抗議したところで、扉が静かに叩かれた。
「失礼いたします」
返事を待って入ってきたのは、朝の着替えを腕に抱えた女性だった。
年齢はアメリスよりいくつか上だろう。
落ち着いた色の侍女服を身につけ、淡い茶色の髪を後ろでまとめている。華美なところはないが、立ち居振る舞いには隙がなかった。
「姫殿下、本日のお召し物をお持ちいたしました」
「セラ!」
アメリスの表情が明るくなる。
「戻ってきましたのね」
「はい。昨夜、王城へ戻りました」
セラは寝台の上で毛布を抱えるアメリスへ一礼したあと、マリベルへ向き直った。
「ご挨拶が遅くなりました。姫殿下の専属侍女を務めております。セラと申します」
「公爵家侍女、マリベルでございます」
互いに一礼する。
マリベルはセラが抱えている着替えを一度確認してから、尋ねた。
「昨日の養護院視察では、お姿をお見かけしませんでしたが」
「本来二日目に訪れる予定だった施設へ先行し、姫殿下をお迎えする準備をしておりました」
当初、アメリスの視察は三日間の予定だった。
王女が使用する部屋や食事、警備経路を、前もって確認するためである。
「昨日の一件を受け、残りの視察が中止となりましたので、急ぎ戻ってまいりました」
セラの表情が曇った。
「姫殿下の危険を知りながら、おそばにいられず、申し訳ございませんでした」
「あなたの責任ではありませんわ」
アメリスは毛布から出ると、寝台の上で胸を張る。
「わたくしが勝手に危険な場所へ入りましたもの」
「その点については、現在も反省していただいております」
マリベルが三枚目の紙を持ち上げた。
アメリスの胸が、きゅっと縮んだ。
「反省しておりますわ」
「では、書き直してくださいませ」
「反省と書き直しは別ですわ!」
セラがマリベルへ深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。これまでは、反省文を一枚お書きになっただけで、お褒めしておりました」
「それでは反省になりません」
「おっしゃるとおりでございます」
「セラまでマリベルの味方をするのですか!?」
アメリスが目を見開く。
セラは困ったように微笑んだ。
「姫殿下の味方でございます。ですからこそ、必要なことは申し上げるべきだったのでしょう」
厳しい内容に反して、口調は優しかった。
マリベルはセラを見た。
「セラ殿は、姫殿下には少々お優しすぎるようですね」
「自覚はございます」
「ございましたら、改めてくださいませ」
「善処いたします」
「そこは言い切ってくださいませ」
「このままだとマリベルが二人になりますわ……」
アメリスは遠い目をした。
これまでは何をしても最後には許してくれたセラまで、厳しくなりつつある。
王城におけるアメリスの立場は、昨日より確実に悪化していた。
***
朝食を終えた頃、アルベルトとユリウスがアメリスの部屋を訪れた。
アルベルトは昨日と同じく王族らしく整えられた礼服をまとい、その隣には書類の束を抱えたユリウスが立っている。さらにその後ろには、年嵩の宮内官が控えていた。
ユリウスが隣に立っているだけで、アルベルトまでたいへん有能そうに見えた。
だが、現実は厳しいのだ。
「アメリス」
アルベルトは妹の向かいへ腰を下ろした。
「昨日の養護院で発覚した件について、王家として国民へ説明することになった」
「当然ですわ」
アメリスは迷わず答えた。
「王家の名で支援していた施設で起きたことですもの。知らなかったでは済みませんわ」
昨日、王立ひばり養護院では、五十二人いるはずの子どものうち、二十八人が古い洗濯場へ隠されていた。
食事も衣服も満足に与えられず、王家から支給された金は、院長を務めるヴェルナー男爵たちによって流用されていたのだ。
関係者は拘束され、子どもたちは保護された。
だが、それですべてが終わったわけではない。
誰が不正に関わっていたのか。
なぜ長い間、報告書だけで見抜けなかったのか。
王家はどこまで把握していたのか。
話は夜のうちに王都へ広まり、王城の門前には朝から説明を求める者たちが集まっていた。
「本日正午、王城前広場で説明を行います」
ユリウスが一枚の紙を差し出す。
「こちらが、宮内官の用意した原稿でございます」
アメリスは受け取り、目を通した。
最初の数行を読んだところで、眉が寄る。
半分まで進む頃には、口元から笑みが消えていた。
「お兄様」
「何だ」
「これは、誰が書きましたの?」
「だから、宮内官が用意したと――」
「そうではありませんわ」
アメリスは紙を卓上へ置く。
「なぜ、問題が解決したことになっていますの?」
原稿には、養護院の不正はヴェルナー男爵を中心とした一部の者による犯行であり、王家も欺かれた側であると書かれていた。
そして、アメリスの迅速な判断によって事件は解決したため、国民にはこれまでどおり王家を信頼してほしいと続いている。
「ほかに関わった者がいないか、まだ調べている途中ですわ」
「その点まで詳しく話せば、国民へ余計な不安を与える」
アルベルトが答えた。
「王家が長い間、報告書だけを信じていたことも書かれておりません」
「それは、お前の責任ではない」
「わたくし一人の責任ではないから、書かなくてよいのですか?」
「……そういう意味ではない」
アルベルトの返事がわずかに鈍る。
ユリウスは口を挟まず、二人のやり取りを見ていた。
そこへ、原稿を用意した宮内官が一歩前へ出る。
「姫殿下、今回の目的は国民の不安を鎮めることにございます」
「事実を隠して安心させるのですか?」
「言葉を選ぶだけでございます」
「問題が解決していないのに、解決したと読むことが?」
「王女殿下は、国民の前で美しく微笑み、こちらの原稿をお読みくださればよいのです」
アメリスの指先が止まった。
昨日、ヴェルナー男爵から向けられた言葉が蘇る。
何も知らないまま、微笑んでいればよい。
真実を確かめる必要などない。
決められた場所に立ち、与えられた言葉を読むだけでいい。
目の前の文章も、ヴェルナー男爵と同じことを求めていた。
アメリスは無意識に紙を下ろす。
その向こうに、卓上に置かれた小さな手紙が見えた。
昨夜、ひばり養護院にいたミナから届いたものだ。
『ごはん、きょうもきたよ。おひめさま、ありがとう』
アメリスは手紙から、演説原稿へ視線を移した。
「姫殿下」
宮内官が促す。
「お支度の時間もございます。原稿を覚えていただかなければなりませんので」
アメリスは何も答えなかった。
無言で原稿を折り、卓上へ置く。
「少し、一人で考えさせてくださいませ」
アルベルトが眉をひそめる。
「アメリス、妙なことを考えていないだろうな?」
「考えをまとめたいだけですわ。まとまりましたら、すぐにお呼びいたします」
「……分かった。だが、あまり時間はないぞ」
「承知しております」
アルベルトたちが部屋を出た。
扉の外には近衛兵が残ったが、部屋にはアメリス一人だけが残された形となる。
マリベルはすでに、演説会場の警備を確認するため広場へ向かっていた。
セラも衣装の準備に入っている。
つまり、その瞬間。
部屋の中で彼女を止める者は、誰もいなかった。
***
それから四半刻後。
「姫殿下のお姿が見当たりません」
セラの報告を受け、マリベルは広場から急いで戻ってきた。
アメリスの部屋には誰もいない。
公務用のドレスに合わせる上着は、寝台の上に置かれたまま。
窓が開いている。
卓上には、一枚の紙が残されていた。
『少しだけ、一人で考えてまいりますわ』
マリベルが置き手紙を持ち上げる。
「お姫様が公務から逃げ出したですって!?」
声が王城中へ響き渡った。
廊下の窓が震え、中庭にいた鳥が飛び立つ。
近くにいた兵士たちは、反射的に膝へ手を置いた。
「まだ正座ではございません」
マリベルが告げる。
「はっ!」
兵士たちは姿勢を戻した。
アルベルトとユリウスがアメリスの部屋へ駆け込んでくる。
「何が起きた!」
「姫殿下が、公務から逃走なさいました」
「何だと!?」
「なぜ、お止めしなかったのですか」
「私が部屋を出たあとに逃げたのだ!」
「窓から出られたようですが」
「また窓からか!」
アルベルトは開け放たれた窓へ駆け寄った。
「くそ、油断した! まさか公務を控えたこの時間に逃げ出すとは!」
ユリウスが珍しく表情を曇らせる。
「私も判断を誤りました」
セラも申し訳なさそうに口をつぐむ。
「姫殿下は追い詰められると、幼い頃から使い慣れた逃走経路を用いて逃げる傾向がございます」
「ええい、おかしい点が多すぎる!」
マリベルは窓から外を確認した。
下の植え込みに折れた枝がある。
その先には物置の屋根。
さらに渡り廊下の上へ続いていた。
「城門を閉じてくださいませ。馬車も一台残らず確認を」
「姫殿下を王城へ閉じ込める気か?」
「護衛対象を城外へ逃がさないためでございます」
「言い方が囚人だぞ!」
「姫殿下が向かわれそうな場所を教えてくださいませ」
マリベルがセラを見る。
セラは記憶をたどった。
「王城の屋根、厨房の食料庫、馬車の荷台、庭園の噴水裏でございます」
「多いな!」
アルベルトが叫ぶ。
「ほかには?」
マリベルが尋ねる。
セラは一瞬だけ、アルベルトを見た。
「アルベルト殿下の寝台の下でございます」
「なぜ私の寝台の下へ!?」
「殿下が最も捜しそうにない場所だったそうです」
「私の部屋だぞ!」
「幼い頃、一度も見つかりませんでした」
「なぜ気づかなかったのだ、昔の私!」
ユリウスが手元の記録帳を開く。
「反省は後にしてください。現在の姫殿下を捜します」
「分かっている!」
「私は城外へ続く経路を塞ぎます」
マリベルが廊下へ出る。
「アルベルト殿下は屋根を。セラ殿は厨房へ連絡し、食料庫と昇降機を確認してくださいませ。ユリウス様は、城外へ続く経路をお願いいたします」
「なぜ私が屋根へ!」
「妹君でしょう」
ユリウスが淡々と言った。
「……行くぞ、ユリウス!」
「はい」
王城総出の捜索が始まった。
***
最初にアメリスを発見したのは、アルベルトだった。
王城の屋根の上。
石造りの尖塔を背にして、公務用のドレスを着たアメリスが座っている。
膝の上には、あの演説原稿があった。
「いたぞ、アメリス!」
アルベルトが隣の屋根から声を張り上げる。
アメリスが顔を上げた。
「見つかってしまいましたわ!」
「今すぐ降りてこい! 演説へ戻るぞ!」
「嫌ですわ!」
「先ほどまで、自分が説明すると言っていただろう!」
「説明することから逃げているのではありませんわ!」
アメリスは立ち上がると、手にしていた原稿を屋根へ叩きつけた。
「嘘の演説なんてお断りですわああああああああああああああああ!!!!」
叫び終えると、アメリスは原稿を拾い上げ、折り畳んでドレスの内ポケットへしまう。
「待て! なぜ拾った!?」
「あとで証拠として使いますわ!」
「そこだけ冷静になるな!」
アメリスは足元の小窓を開き、屋根裏へ飛び込んだ。
「待て、アメリス!」
アルベルトもアメリスの後を追い、小窓へ身体をねじ込もうとした。
だが、両肩が窓枠に引っかかってしまう。
「ぐっ……! なぜお前は通れて、私は通れないのだ!」
後ろから追いついたユリウスが、記録帳へ淡々と書き込む。
「姫殿下、屋根裏へ逃走。アルベルト殿下、窓へ挟まれる」
「わざわざ記録するな!」
「救助を呼びますか?」
「先に妹を追え!」
「殿下をこのまま残して?」
「やはり先に私を引き抜け!」
***
次にアメリスが発見されたのは、厨房の食料庫だった。
「焼き菓子が一つ足りません」
料理長の報告を受け、セラが食料庫の扉を開く。
積み上げられた小麦粉袋の一つが、不自然に揺れていた。
遅れて駆けつけたアルベルトが、入口を塞ぐ。
「今度こそ逃げ場はないぞ」
袋の隙間から、アメリスが姿を現した。
「お兄様、背後に誰かおりますわ!」
「そのような手に乗ると思うか!」
「仕方ありませんわね。では、お先に失礼いたしますわ」
アメリスは壁際にある小さな扉を開けた。
料理を上下階へ運ぶための昇降機である。
「待て!」
「少し狭いですわね」
「入るな!」
アメリスが中へ身体を滑り込ませ、扉を閉めた。
直後、滑車が回る音が響く。
下の階から、料理人の声が上がった。
「姫殿下が、焼き菓子と一緒に降りてきました!」
「止めろ!」
アルベルトが階段へ走る。
セラがその後を追いながら、小さく呟いた。
「幼い頃にも、同じ方法で逃げられたことがございます」
「なぜ昇降機を塞いでおかなかった!」
「十年前のことでしたので」
「妹の逃走能力を甘く見るな!」
それは王太子が口にするには、たいへん情けない忠告だった。
***
アメリスを追うユリウスは、城門近くまでやって来ていた。
そこで、城門へ向かう荷馬車の異変に気づく。
荷台を覆う布の隙間から、公務用ドレスの裾が覗いていたのである。
ユリウスが御者へ合図を送り、馬車を止めた。
追いついたアルベルトが、荷台の布を勢いよくめくる。
「見つけたぞ!」
荷物の間に座っていたアメリスが、自分の裾を見た。
「裾を入れ忘れましたわ!」
「反省するところが違う!」
アルベルトが荷台へ手を伸ばすと、アメリスはひらりと躱して反対側から飛び降りる。
すぐ隣に止まっていた別の馬車へ乗り込んだ。
「出してくださいませ!」
「御者、動かすな!」
「では、わたくしが操縦しますわ!」
「絶対に操縦させるな!」
アメリスが御者台へ上がる。
だが、そこに手綱はなかった。
馬車の脇では、ユリウスが外した手綱を持っていた。
「逃走に使用される可能性がございましたので、先に回収しました」
「ユリウス、やってくれましたわね!」
「お褒めいただき、ありがとうございます」
「褒めておりませんわ!」
アメリスは馬車の屋根へ駆け上がると、近くまで伸びていた木の枝へ飛びついた。
枝を大きくしならせ、その反動で庭園を隔てる高い石壁を飛び越える。
無事に隣の庭園へ着地すると、アメリスはそのまま走り出した。
「なぜ王女が、そのような動きに慣れている!」
「日頃の鍛錬ですわ!」
「何を目指しているのだ!」
「自由ですわ!」
アメリスの足音が、石壁の向こうで遠ざかっていった。
***
庭園の噴水の陰から、金色の髪が覗いていた。
それを見たアルベルトは今までの経験を活かし、近衛兵を左右へ回す。
彼らが配置についたのを確認すると、自らは正面に立って逃げ道を塞いだ。
「これで包囲したぞ!」
アメリスが噴水の陰から顔を出す。
「お兄様も学習なさいましたのね」
「兄を馬鹿にするな!」
「褒めましたのに」
「お前が言うと褒め言葉に聞こえん!」
近衛兵たちが距離を縮める。
アメリスは身を翻し、植え込みの中へ飛び込んだ。
「そちらは行き止まりだ!」
アルベルトが叫ぶと、セラが首を横に振った。
「幼い頃、姫殿下がお作りになった抜け道がございます」
「なぜ王女が植え込みに抜け道を作る!」
「秘密基地へ向かうためでございました」
「誰か止める者はいなかったのか!」
セラは目を伏せる。
「わたくしでございます」
「止められていないではないか!」
アルベルトも植え込みへ入る。
しかし、数歩進んだところで動きが止まった。
「なぜだ……」
枝が肩と腰へ絡み、前にも後ろにも進めない。
抜け道は、今のアメリスがようやく通れるほど狭かったのである。
「なぜお前は通れて、私は通れない!」
植え込みの向こうから、アメリスの声が返ってきた。
「日頃の食生活の差ですわ!」
「王太子に向かって太ったと言うな!」
ユリウスが植え込みの外から様子を確認する。
「庭師を呼びますか?」
セラがアルベルトの礼服を見た。
「殿下の礼服を切った方が早いかと」
「どちらも切るな!」
近衛兵たちは笑わなかった。
笑える立場ではなかったのだ。
***
「もう限界だ……」
無事に植え込みから救出されたあと、疲れ切ったアルベルトは自室へ戻ってきていた。
髪には葉が絡まり、礼服の袖には細い枝が引っかかっている。
それらを払う気力すらなく、アルベルトは寝台へ腰を下ろした。
「いったい、どこへ行ったんだ……なぜ公務から逃げた妹を捜すだけで、私がここまでひどい目に遭わなければならない」
ぺらっ……
深いため息をつき、片手で顔を覆う。
「昔から逃げ足だけは速かったが、まさかここまで腕を上げているとは……日頃の鍛錬とは、いったい何をしているんだ」
ぺらっ……
アルベルトは力なく肩を落とした。
「とにかく、少し休んだら捜索を再開する。次に見つけたときは、何を言われても――」
ぺらっ……
「さっきから何の音だ!」
アルベルトは周囲を見渡した。
見える範囲に人影はない。
窓の外にも、誰かがいる様子はなかった。
そのあいだにも、また音がする。
ぺらっ……
アルベルトは眉をひそめた。
そこでようやく、音が足元から聞こえていることに気づく。
自分が座っている寝台の下だった。
「……まさか」
ゆっくりと腰を屈め、寝台の下を覗き込む。
そこでは、アメリスが腹ばいになって演説原稿を読んでいた。
「アメリス」
「あっ……」
アメリスは何事もなかったように原稿をまとめる。
「よく見つけましたわね」
「音がしていたからな!」
「次からは静かに読みますわ」
「次を考えるな!」
アルベルトが寝台の右側へ回ると、アメリスは反対側から這い出した。
慌てて左側へ回れば、今度は右側から顔を出す。
アルベルトが左右へ動くたび、アメリスも反対側へ抜けた。
「止まれ!」
「お兄様が止まれば、わたくしも止まりますわ!」
「本当だな!?」
アルベルトが足を止めた。
アメリスだけが扉へ走る。
「なぜ止まらない!」
「お兄様が止まったので、道が空きましたわ!」
アメリスが扉を開ける。
そこには、マリベルが立っていた。
その後ろには、セラも控えている。
「姫殿下、お戻りくださいませ」
アメリスはすかさず開いた窓へ視線を走らせる。
その前には、アルベルトが立ちはだかっていた。
寝台の下へ目をやる。
先ほどまで使っていた逃げ道だが、そこへ戻っても意味はない。
最後に壁際の燭台を見た。
押せば秘密通路が開くようになっている。
アメリスは燭台へ手を伸ばした。
だが、その指が触れるより早く、マリベルの手が燭台を覆った。
「逃げ道を探さないでくださいませ」
「まだ逃げておりませんわ」
「すでに五回ほど逃げております」
「数えていましたの?」
「護衛ですので」
アメリスはすぐさま踵を返し、アルベルトの脇を駆け抜けようとする。
だが、アルベルトも横へずれてその進路を塞いだ。
「兄を盾にするな!」
「お兄様として、妹を守ってくださいませ!」
「守る方向が違う!」
マリベルは一歩だけ前へ出た。
「姫殿下」
「何ですの?」
「正座を」
「お断りしますわ!」
「正座を」
「わたくしは、この国の王女ですわよ!」
「正座を」
「なぜ言い方が一切変わりませんの!?」
アメリスは助けを求めるようにアルベルトを振り返った。
しかし、すぐに諦めたようにため息をつく。
「お兄様も、同じように正座させられたのでしたわね。助けを求めても無駄でしたわ」
「その話を今持ち出すな!」
「でも事実でしょう?」
アルベルトは気まずそうに目を逸らした。
「……そうだ」
「お兄様の意気地なし!」
「では、お前は断れるのか!」
アメリスがマリベルを見る。
マリベルは穏やかに微笑んでいた。
「正座を」
「……はい」
アメリスは、渋々その場に膝をついた。
乱れていたドレスの裾を整え、両膝を揃える。
王女として申し分のない、たいへん美しい正座だった。
「それでは、お話を伺います」
「……はい」
こうして王城中を巻き込んだ追いかけっこは、王女の正座をもってようやく終わった。
***
先ほどまでの騒ぎが嘘のように、アルベルトの私室は静まり返っていた。
応接卓を囲んでいるのは、アメリス、アルベルト、マリベル、セラの四人。
ただし、椅子に座っているのはアルベルトとマリベルだけである。
アメリスは応接卓の前で、正座を続けていた。
逃走した直後とは思えないほど、涼しい顔をしている。
「なぜ、公務からお逃げになったのですか」
マリベルが尋ねる。
アメリスは膝の上の演説原稿を見つめたまま、答えなかった。
「黙っていては分かりません」
「どうせ、お話ししても戻れとおっしゃるのでしょう?」
「公務へ戻らなくてよいとは申しません」
「では、お話ししても同じではありませんか」
「同じかどうかは、理由を伺ってから判断いたします」
アメリスは顔を上げた。
マリベルは急かさず、答えを待っている。
アルベルトも口を挟まない。
アメリスは小さく息を吐き、それを卓の上へ置いた。
「……この原稿を、読みたくなかったのですわ」
「なぜでございますか」
「まだ、何も終わっておりませんもの」
アメリスが原稿を開く。
「ほかにも不正へ関わった者がいるかもしれません。王家が報告書だけを信じ、確認を怠っていたことも事実です。それなのに、すべて解決したように笑って読めと言われましたの」
懐から、小さな手紙を取り出した。
『ごはん、きょうもきたよ。おひめさま、ありがとう』
「ミナには、これからもきちんと確かめると約束しました。この原稿を読めば、その約束まで嘘になってしまいますわ」
マリベルは原稿へ目を通す。
確かに、アメリスが昨日見た光景とは大きく違っていた。
「姫殿下は、この内容では納得できないとお伝えになったのですね」
「何度も申し上げましたわ」
「それでも変更されなかった」
「王女は決められた言葉を読めばよいと言われましたの」
アメリスは唇を尖らせる。
「皆、王女として何を話すべきかは教えてくださいます。何を着て、どこで笑い、どう振る舞うべきかも」
指先が、原稿の端へ触れた。
「けれど、わたくしが何を話したいのかは、あまり聞いてくださいませんの」
アルベルトの表情が曇る。
アメリスは続けた。
「マリベルは違いますわ。相手がお兄様でも、間違っていれば違うとおっしゃいます」
「事実を申し上げているだけでございます」
「わたくしのお願いも、迷わず断りましたわ」
「私はお嬢様の侍女でございますので」
「そこですわ!」
アメリスは正座したまま、身を乗り出しかけた。
「姿勢を崩さないでくださいませ」
「はい……」
すぐに背筋を戻す。
「だから、マリベルの言葉なら信じられるのです。わたくしの機嫌を取るためではないと分かりますもの」
アメリスはセラを見る。
「セラが、わたくしを大切にしてくれていることも分かっていますわ」
「はい」
「ですが、わたくしが嫌がれば、最後には許してくださいます」
セラは視線を落とした。
「姫殿下に嫌われることを恐れ、止めるべきときにも強く止められませんでした」
「セラ……」
「大切に思うからこそ、必要なときにはお止めするべきでした」
アメリスは、揃えた膝へ目を落とした。
「最近、皆様が厳しすぎる気もいたしますわ」
「これまでが甘すぎたのでございます」
マリベルが即座に答える。
「少しくらい、間を取ってはいただけませんの?」
アメリスは助けを求めるようにセラを見た。
「できる限り、穏便にお止めいたします」
「セラ殿」
マリベルが名を呼ぶ。
「『できる限り』は不要でございます」
「失礼いたしました。必ずお止めいたします」
「結局、厳しくなるだけではありませんの!」
アルベルトが呆れたように息を吐いた。
「自業自得だ」
「お兄様は、たまには妹を慰めてくださいませ!」
重くなりかけていた空気が、わずかに緩む。
マリベルは演説原稿を卓へ戻した。
「この原稿を拒まれたこと自体は、間違いではございません」
アメリスの目が輝く。
「では、逃げても――」
「それとこれとは別でございます」
その期待は、すぐにしぼんだ。
「……そうですわよね」
「行き先も戻る時刻も告げず、王城中の者に捜させたことは間違いです」
「はい」
「演説も警備も止まりました。アルベルト殿下は窓と植え込みに挟まりました」
「なぜ私の失態まで含める!」
「不甲斐ないお兄様で、皆様には申し訳なく思っておりますわ」
「謝るところが違うだろう!」
「姫殿下」
「何ですの?」
「アルベルト殿下の不甲斐なさではなく、皆様へご迷惑をおかけしたことを反省してくださいませ」
「……はい。申し訳ございませんわ」
「私の不甲斐なさは否定しないのか?」
「その点は、殿下ご自身で省みてくださいませ」
「やはり私にも求めるのか!」
アメリスの肩が下がる。
「姫殿下。どなたにご迷惑をおかけしたか、お分かりですか」
「お兄様、ユリウス、セラ、近衛兵の皆様、演説を準備していた方々……それから、厨房の皆様にも」
「なぜ厨房まで入っているのだ?」
「食料庫へ隠れ、料理用の昇降機を勝手に使いましたので」
「そこまで覚えているのだな」
「焼き菓子をいただいたことも謝りますわ」
「いただいたのではなく、無断で持ち出したのでございます」
「……無断で持ち出したことも謝りますわ」
アルベルトが腕を組む。
「私からも言っておく」
アメリスが兄を見た。
「お前が逃げたことには腹が立っている」
「それは先ほどから十分伝わっておりますわ」
「だが、お前がこの原稿の内容に何度も反対していたことも知っていた」
アメリスの表情が変わる。
「私は聞いていなかったのではない。聞いていながら、説明を予定どおり行うことを優先した」
アルベルトは気まずそうに視線を逸らした。
「そこは、私が悪かった」
「お兄様が謝りましたわ!」
「私だって謝ることくらいある!」
「明日は雪でしょうか」
「そこまで珍しくない!」
「王都の気象記録を確認いたしますか?」
「ユリウスは今いないだろう!」
反射的に返したあと、アルベルトは咳払いをした。
「ともかく、原稿の件と逃走は別だ。次に逃げたら、今度こそ捕まえる」
「今日も一度も捕まえられませんでしたのに?」
「だから次こそと言っているのだ!」
マリベルが咳払いをした。
兄妹は同時に口を閉じる。
マリベルは書き物机から白紙とペンを持ってくると、アメリスの前へ置いた。
「人に決められた内容を読む必要はございません」
「では、何を話せばよいのですの?」
「姫殿下ご自身で、お決めくださいませ」
「わたくしが?」
「はい」
「間違えるかもしれませんわ」
「そのときは、訂正なさればよろしいでしょう」
「国民に責められるかもしれません」
「責める理由がある方のご意見は、お聞きくださいませ」
「それでも、怖かったら?」
マリベルは椅子から立ち上がった。
そして、アメリスの半歩後ろへ立つ。
「ご自身の言葉を伝え終えるまで、私がお守りいたします」
アメリスは振り返った。
マリベルは、いつものように背筋を伸ばしている。
そこはエレノアの半歩後ろではない。
今だけは、アメリスの半歩後ろだった。
「……では、そろそろ正座をやめてもよろしいですの?」
「ご自身の思いを文章になさるのでしたら」
「書きますわ!」
アメリスは即座に立ち上がろうとした。
だが、長く正座していた足に力が入らない。
「動きませんわ!」
「姫殿下!」
セラが慌てて支える。
アルベルトは顔を逸らし、肩を震わせていた。
「お兄様、笑いましたわね!?」
「笑っていない!」
「では、こちらを見ておっしゃいませ!」
「まず足を治せ!」
マリベルはアメリスを椅子へ座らせ、改めてペンを差し出す。
「思っていることを、そのままお書きくださいませ」
「はい」
アメリスはペンを受け取った。
「今度は、逃げずに書きますわ」
「途中で逃げようとなさった場合は、わたくしもお止めいたします」
セラが穏やかに告げる。
「あれほどお優しかったセラが、すっかりマリベルに染まってしまいましたわ……」
アメリスは恨めしそうに、二人を見比べた。
***
それから、一刻ほど後。
アメリスが書き上げた原稿は、最初に用意されていたものより短かった。
だが、そこには王家の確認不足も、調査がまだ続いていることも記されている。
原稿を確認するため、アルベルトの私室にはユリウスと宮内官たちも呼ばれていた。
宮内官たちは当然のように反対する。
「王家の非を認めれば、批判が強まります!」
「現在、王城の前には多くの者が集まっております。余計な混乱を招くべきではありません!」
アルベルトはすぐには答えなかった。
妹が書いた文章の、同じ箇所を何度も読み返している。
ユリウスも隣から内容を確認していたが、宮内官たちに同調することはなかった。
「アメリス」
「はい」
「これは、お前が本当に伝えたいことか」
「はい」
「王家の非を認めれば、今まで以上に責められる。それでも読むのだな」
「はい。隠してはならないと思っております」
アルベルトは、冒頭から最後まで読み直した。
読み終えると、アメリスを見た。
「……分かった。この原稿で行う」
「お兄様?」
「自分で書いたのなら、自分で最後まで読み上げろ」
「はい」
「途中で怖くなっても逃げるな」
「努力いたしますわ」
「努力ではなく、逃げるな」
「はい」
アルベルトは原稿を返す。
「ただし、責任をお前一人へ負わせるつもりはない」
アルベルトの表情が、王太子のものへ変わる。
「これは王家全体の問題だ。私も壇上へ立つ」
アメリスが目を見開いた。
「よろしいのですか?」
「兄としてではない。王太子としてだ」
「ありがとうございます、お兄様」
ユリウスが眼鏡の位置を直した。
「殿下にしては、立派なご判断です」
「『殿下にしては』をつけるな!」
「では、過去の殿下と比較すると、目覚ましい成長です」
「言い換えても同じだ!」
アメリスが笑った。
部屋に漂っていた緊張が、わずかに和らいだ。
***
正午。
王城前広場には大勢の人々が集まっていた。
王家の説明を求める者。
養護院の不正へ怒りを抱く者。
王家を責める者。
アメリスを支持する者。
そこに集まった思いは一つではなかった。
壇上へ続く扉の前でアメリスは足を止めた。
外の喧騒が石壁を越えて届く。
「王家は何をしていた!」
「本当に何も知らなかったのか!」
「子どもたちを放っておいたくせに!」
アメリスの手が原稿を強く握った。
「怖いですわ」
「はい」
背後に控えるマリベルが答える。
「大丈夫だとは、言ってくださらないのですね」
「大丈夫ではないかもしれませんので」
「正直ですわね」
「怖くないふりをする必要はございません」
アメリスは扉を見る。
「守ってくださいますか?」
「姫殿下がご自身の言葉を伝え終えるまで、誰一人として邪魔はさせません」
「批判する方々も?」
「ご意見を述べているだけでしたら、止めません」
「厳しいですわ」
「お嬢様でしたら同じようにおっしゃいます」
「それならば仕方ありませんわね」
アメリスは息を吸った。
扉が開く。
熱気と喧騒が押し寄せてきた。
アメリスは壇上へ進む。
隣にはアルベルト。
半歩後ろにはマリベル。
壇上の後方には、ユリウスとセラ、宮内官たちが控えている。
アメリスが演台の前へ立つと、人々のざわめきが次第に収まっていった。
完全な静寂にはならず、なおも厳しい声が残る。
それでも、アメリスは口を開く。
「昨日、王家が支援する養護院で、不正が発覚いたしました」
声がわずかに震えた。
だが、目は伏せなかった。
「わたくしは視察へ向かうまで、子どもたちが十分な食事も衣服も与えられず、古い建物へ隠されていることを知りませんでした」
群衆の中から、鋭い非難が飛んだ。
「知らなかったで済むと思っているのか!」
アメリスの喉が詰まりかけた。
マリベルは助け船を出さず、黙って見守っている。
アメリスはもう一度息を吸い、自分の言葉で答えた。
「いいえ。知らなかったことで、責任がなくなるとは思っておりません」
非難のざわめきが、一瞬だけ弱まる。
「わたくしたちは、提出された書類を読み、支援金を渡し、それで確認したつもりになっておりました」
アルベルトは黙って前を向いている。
「不正に関わった者の調査は、まだ終わっておりません。ですから、問題は解決したとは申し上げません」
アメリスは、自分で書いた原稿から目を上げた。
「今すぐ王家を信じてほしいとも申しません」
隣にいたアルベルトが、わずかにアメリスを見る。
宮内官たちも息を呑んだ。
「これからお示しする調査結果と、わたくしたちの行動を見てください」
アメリスは続ける。
「王家が支援する施設について、書類だけではなく、実際に現地を確認いたします。問題が見つかった場合は、隠さず公表します。そして、助けを求める方の声が届く仕組みを作ります」
広場の後方で、人の動きがあった。
粗末な外套をまとった男たちが、群衆を押し退けて前へ進んでくる。
そのうちの一人が懐へ手を入れた。
鈍い光が見える。
「王女を黙らせろ!」
刃物を持った男が、アメリスへ向かって駆け上がった。
近衛兵が動くより早く、マリベルが一歩前へ出る。
「姫殿下は、まだお話し中でございます」
黒塗りの鉄扇が開く。
黒い扇面に、金文字が輝いた。
『お嬢様第一』
「退け!」
男が刃物を振り上げる。
次の瞬間。
ぱちん。
乾いた音が一度だけ響いた。
男は刃物ごと宙を舞い、一回転して壇上の端へ着地した。
両膝を揃えて。
背筋を伸ばして。
見事な正座だった。
「なぜ正座なんだ!?」
後から続いた二人も、マリベルが鉄扇をひと振りする間に、最初の男と並んで正座していた。
「なぜ、我々だけを正座させる!」
一人が反発した。
「王家を批判していた者たちには、何もしなかったではないか!」
「ご意見を述べることと、刃物を振り回すことを一緒にしないでくださいませ」
「何が違うというのだ!」
「あなた方は、武器を手に王女へ迫っております」
「十分違うだろう!」
群衆の中から反論が飛んだ。
正座した男たちは言い返せずに口をつぐむ。
マリベルは鉄扇を閉じると、アメリスの半歩後ろへ戻った。
「姫殿下」
マリベルが背後から促す。
「続きを」
アメリスは小さく頷いた。
正座した男たちは、駆けつけた近衛兵に取り囲まれている。
アメリスは乱れた呼吸を整え、正面へ向き直った。
「お騒がせいたしました。演説を続けます」
群衆が静まり返った。
「今後、このような不正を二度と起こさせないと、軽々しくお約束することはできません」
群衆の間に、戸惑いが走る。
アメリスはそれを正面から受け止めた。
「ですが、今回保護された子どもたちが安心して暮らせるようになるまで、王家として支援を続けます」
人々をまっすぐに見つめる。
「また、本日いただいたご批判も、今後の対応に生かしてまいります」
そこで一度、息を整えた。
「助けるべき立場にありながら、長い間、その苦しみに気づくことができませんでした。王家を代表して、心よりお詫び申し上げます」
アメリスは原稿を閉じる。
「以上をもちまして、わたくしからの説明を終わります。最後までお聞きくださり、ありがとうございました」
演台から一歩下がり、人々へ向けて深く頭を下げた。
それに続いて、隣に立つアルベルトも一礼する。
すぐに拍手が起きたわけではない。
王家への批判がすべて消えたわけでもない。
重い沈黙の中、アメリスは頭を下げたまま動かなかった。
やがて、前方から一つの拍手が響く。
それに続くように、もう一つ。
一人、また一人と加わり、拍手は次第に人々の間へ広がっていった。
アメリスはゆっくりと顔を上げる。
そこに浮かんでいたのは、誰かに求められて作った王女の笑顔ではない。
自分の言葉をすべて伝え終えた、アメリス自身の笑みだった。
***
演説を終え、王城へ戻る廊下。
アメリスは半歩後ろを歩くマリベルを振り返った。
「逃げ出したわたくしでも、守ってくださるのですね」
「逃走については、反省文を追加いたします」
「そこは忘れてくださいませ!」
「忘れません」
「では、なぜ守ってくださったのですの?」
マリベルは足を止めた。
「戻ることを、ご自身で決められたからです」
「それだけですの?」
「十分でございます」
アメリスは返事に迷うように口を閉ざした。
「マリベル」
「はい」
「今日のわたくしは、少しくらい褒めていただけませんの?」
「姫殿下」
「何ですの?」
「本日の演説で、姫殿下は王女としての責務を立派に果たされました」
アメリスが固まった。
緑色の瞳が大きく見開かれる。
「いま、わたくしを褒めてくださいましたの?」
「事実を申し上げただけでございます」
「マリベルに褒められましたわああああああああああああああああ!!!!」
アメリスが両腕を広げて飛びつこうとする。
マリベルは半歩下がった。
アメリスの腕が空を抱く。
「距離が近うございます」
「褒めた直後くらい許してくださいませ!」
「お断りいたします」
「そこまで噂どおりでなくてもよろしいのですわ!」
後ろから歩いてきたアルベルトが眉を寄せる。
「王城の廊下で叫ぶな」
「お兄様にだけは言われたくありませんわ」
「私がいつ叫んだ!」
ユリウスが記録帳を開いた。
「本日だけでも、数十回は」
「数えるな!」
「また一回増えましたね」
「ぐぬぬ……」
やり取りが一段落したところで、セラがマリベルに頭を下げる。
「姫殿下へ必要なご指摘をくださり、ありがとうございました」
「これからは、セラ殿が伝えて差し上げてくださいませ」
「わたくしが、ですか?」
「姫殿下を最も理解しておられるのはセラ殿でございます」
「ですが、分かっているだけでは足りなかったのでしょう」
「でしたら、必要なときには止めて差し上げてくださいませ」
セラは頭を上げると、まっすぐアメリスを見た。
「セラ?」
「次から窓を使用して逃走なさった場合は、反省文を五枚にいたします」
「増えておりますわ!」
「マリベル殿を見習いました」
「悪いところを見習わないでくださいませ!」
アメリスの抗議が、再び王城の廊下へ響いた。
***
その夜。
アメリスは机に突っ伏したまま眠っていた。
その前には、自分で書いた演説原稿と、養護院への新しい支援計画、ミナへ宛てた返事が並んでいる。
マリベルはセラが持ってきた毛布を受け取り、アメリスの肩へそっと掛けた。
昼間、あれほど王城中を走り回っていたとは思えないほど、静かな寝顔だった。
エレノアからの手紙を思い出す。
『姫殿下には今、あなたが必要なのでしょう』
昨日、その言葉が気になり、手紙を三度読み返した。
エレノアが自分を送り出した理由を、頭では理解していた。
けれど今ここで眠るアメリスと、その手元に残された支援計画を見て、手紙の意味がようやく胸へ落ちた。
「お嬢様」
マリベルは小さく呟く。
「少しだけ、分かったような気がいたします」
アメリスが小さく身じろぎした。
「マリベル……鉄扇を……」
夢の中でも、まだ鉄扇を諦めていないらしい。
「お断りいたします」
マリベルは小声で答え、机上の書類をそろえた。
***
翌朝。
アメリスは机に向かい、昨日の逃走について追加の反省文を書いていた。
今回は文字の大きさも揃っている。
三枚目の最後まで、きちんと文章が続いていた。
「もう二度と、公務から逃げたりはいたしませんわ」
書き終えた三枚を差し出しながら、アメリスは胸を張った。
「そのお言葉、忘れないでくださいませ」
マリベルが反省文を受け取る。
そこへ、ユリウスが一通の封書を持って入ってきた。
「姫殿下、新たな公務について正式な通達がございます」
「望むところですわ!」
アメリスは勢いよく立ち上がる。
「今度のわたくしは逃げません。どのような公務ですの?」
「隣国イシュベルドの第二王子殿下との縁談でございます」
「お断りしますわ」
即答だった。
アメリスは机上の書類を手に取る。
「そういうことですので、お下がりなさい。わたくしは施設の支援計画を確認しなければなりませんの」
ユリウスは動かなかった。
「顔合わせは、来月十二日を候補日として調整を進めます」
アメリスが書類から顔を上げた。
「続けますの!?」
「日程が確定しましたら、第二王子殿下は前日に王都へ到着され、翌日の昼餐会で姫殿下とお会いになる予定です」
「わたくしは、お断りすると申し上げましたわ」
「承知しております」
「では、なぜわたくしの返事を待たずに、調整を進めていますの?」
「姫殿下のお返事にかかわらず、顔合わせは行うようにとの国王陛下のご命令です」
「お父様が!?」
アメリスの手から、支援計画書が滑り落ちた。
どうやら、断るという選択肢は最初から用意されていなかったらしい。
「その日は施設の視察がございますわ」
「暫定的に、翌週へ変更されました」
「誰が勝手に変更しましたの?」
「アルベルト殿下です」
「お兄様まで!?」
父だけではない。
兄まで周到に先回りしていたと知り、アメリスの顔から見る見る余裕が消えていった。
「ですが、わたくしにはその日に着ていく衣装がございませんもの」
「衣装の仕立ては、すでに手配しております」
部屋の隅に控えていたセラが、一礼した。
「昨日、採寸を終えております」
「いつの間に?」
「お休みになっている間に」
「眠っている王女を採寸しないでくださいませ!」
アメリスはマリベルへ助けを求めた。
「マリベル。護衛として、わたくしをこの恐ろしい公務から守ってくださいますわよね?」
「先ほど、もう公務から逃げないとおっしゃいました」
「これは公務ではなく、縁談ですわ!」
「王族にとっては、公務の一つでございます」
マリベルが淡々と答える。
アメリスは窓を見た。
すでに近衛兵が立っている。
扉を見る。
ユリウスが塞いでいた。
机の下を見る。
セラが先回りして椅子を置いていた。
最後に、アメリスはマリベルを見上げた。
「姫殿下」
マリベルは静かに告げた。
「もう逃げ道はございません」
「嫌ですわああああああああああああああああ!!!!」




