第十二章 お姫様が私を護衛にご指名ですって!? 行ってきなさい、マリベル。
王太子アルベルトがアルヴァイン公爵家を訪れる。
その報せを受けた使用人たちは、驚くより先に玄関広間の床へ視線を落とした。
座布団は必要だろうか。
そう考えた者が、一人や二人ではなかったからである。
以前、アルベルトは男爵令嬢の涙と曖昧な証言だけを信じ、公爵令嬢エレノア・アルヴァインを王宮の夜会で断罪しようとした。
その結果、王城の兵士たちは正門から執務室まで美しく正座させられ、アルベルト本人も机の前で膝を揃えることになったのである。
あれ以来、王太子がアルヴァイン公爵家を自ら訪れることはなかった。
当然である。
「座布団をお持ちしますか?」
若い従僕が小声で尋ねる。
老執事は玄関へ向かう王太子一行を見ながら、首を横へ振った。
「まだ何も起きていない」
「では、用意しなくてよいのですね」
「手の届く場所へ置いておきなさい」
「かしこまりました」
用心に越したことはない。
アルヴァイン公爵家の使用人たちは、過去から学ぶ者たちだった。
***
応接室では、エレノアとマリベルが王太子一行を待っていた。
淡い青のドレスをまとったエレノアが長椅子へ腰掛け、その半歩後ろにマリベルが控えている。
黒い侍女服。
白いエプロン。
一筋の乱れもなく結われた髪。
腰には、黒塗りの鉄扇。
扇面には、金文字で『お嬢様第一』と刻まれている。
やがて、扉の外から来訪を告げる声が聞こえた。
エレノアが返事をすると、使用人によって応接室の扉が開かれる。
「失礼する」
アルベルトがユリウスを伴って入室した。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます」
エレノアが立ち上がって一礼する。
「急な訪問にもかかわらず、時間を取らせてすまない」
アルベルトはそう言って、勧められた席へ向かった。
長椅子の前まで来たところで、マリベルの腰に差された黒塗りの鉄扇が目に入る。
次に床を見た。
最後に、自分の膝を見た。
「殿下」
後ろに控えていたユリウスが、淡々と声をかける。
「まだ何も起きておりません」
「分かっている!」
「では、お掛けください」
「言われなくても分かっている!」
アルベルトは必要以上に胸を張り、エレノアの向かいへ腰を下ろした。
金髪は王族らしく整えられ、礼服にも乱れはない。
黙って座っていれば、華やかで威厳のある王太子だった。
黙って座っていれば、である。
「本日は、どのようなご用件でしょうか」
エレノアが尋ねる。
「うむ。本日は王家を代表し、正式な依頼を持ってきた」
アルベルトは懐から封書を取り出した。
隣に立つユリウスが、眼鏡の位置を直す。
「正確には、アメリス王女殿下からのご依頼です」
「先に言うな、ユリウス!」
「殿下が説明を始めると、要点へ辿り着くまで時間がかかりますので」
「私にも順序というものがある!」
「その順序が問題なのです」
ユリウスはアルベルトから封書を受け取り、エレノアへ差し出した。
封には王家の紋章が押されている。
エレノアが中身を確認する間、アルベルトは落ち着かなそうにマリベルを見ていた。
マリベルは礼儀正しい微笑みを浮かべている。
だからこそ、落ち着かなかった。
「アメリス殿下が、王都郊外にある養護院を視察なさるのですね」
エレノアが書面から顔を上げる。
「はい」
ユリウスが答えた。
「三日間にわたり、王家が支援する施設を巡られる予定です」
「その護衛として、マリベルを?」
「そういうことだ」
アルベルトは再び胸を張る。
「王女直々の指名だ。名誉に思うがよい」
「お断りいたします」
マリベルは即答した。
「早いな!?」
「私はエレノアお嬢様の侍女でございます」
「分かっている。だが、妹がどうしてもお前がよいと言って聞かないのだ」
「王城には近衛兵の方々が大勢いらっしゃるでしょう」
マリベルがアルベルトを見る。
「以前、私一人を止めるために、剣兵、槍兵、弓兵、雷鳴銃部隊、爆裂玉まで用意なさったほどですから」
アルベルトの肩が跳ねた。
「なぜ、その話を持ち出す!」
「王城の警備が充実している例として申し上げました」
「私には皮肉にしか聞こえないぞ!」
「気のせいでございます」
ユリウスが書類を一枚取り出す。
「姫殿下の視察を中止するよう求める脅迫状が、三通届いております」
応接室の空気が変わった。
エレノアの表情から、わずかに笑みが消える。
「内容は?」
「視察を強行した場合、姫殿下の身に危険が及ぶと」
「差出人は分かっているのですか?」
「現在、調査中です」
ユリウスは続けた。
「近衛兵も同行します。ただし、大勢の兵士で施設を囲めば、普段の様子を確認できません。姫殿下のすぐそばを守る者として、マリベル殿を指名されました」
「お姫様が、私を護衛にご指名ですって?」
「はい。騎士団を制圧し、王城の兵を正座させ、大神殿でも騒動を収め、殺人事件の真犯人まで見抜いた侍女だからだそうです」
ユリウスは一拍置いた。
「なお、姫殿下はマリベル殿の大ファンです」
マリベルの口元が、わずかに引きつる。
「……私の大ファン、でございますか?」
「はい。どうしてもマリベル殿でなければ嫌だと」
「なぜでございますか」
「私にも分かりません」
アルベルトが机を叩いた。
「そこは分かっておけ! 側近だろう!」
「私は殿下の側近です。姫殿下の趣味まで把握する役職ではございません」
「趣味扱いするな!」
「では、奇行と」
「悪化しているぞ!」
マリベルはエレノアへ向き直る。
「お嬢様。この件は、ほかの方にお任せするべきかと存じます」
「マリベル」
エレノアが静かに呼んだ。
「はい」
「この依頼、お引き受けしましょう」
マリベルの微笑みが固まる。
「……お嬢様?」
「姫殿下の護衛を務めてきなさい」
「私が、お嬢様のおそばを離れるのでございますか?」
「三日間だけよ」
「三日間もでございますよ!?」
「ええ。行ってきなさい、マリベル」
マリベルは両手で頭を抱えた。
「いやですわああああああああああああああああ!!!!」
公爵家の窓が震える。
庭にいた鳥たちが、一斉に飛び立つ。
廊下では、老執事が目を伏せた。
「荷造りを始めなさい」
そばにいた若い従僕が尋ねる。
「止めなくてよろしいのですか?」
「今回は、お嬢様ご自身が送り出しておられる」
「では、マリベルさんも従いますね」
「身体はな」
「身体は?」
「心がいつ王城から脱走するか分からん。公爵様にもご報告を」
「かしこまりました」
***
「三日間も、お嬢様のおそばを離れるのでございますか」
応接室へ戻った静けさの中で、マリベルが呟いた。
「そうなるわね」
「朝のお支度は?」
「別の侍女に頼みます」
「紅茶は?」
「あなたが茶葉を用意してくれれば、自分でも淹れられます」
「髪は?」
「以前よりも自分で結えるようになりました」
「外出時の手袋は?」
「どこにあるか分かっています」
「夜間に不審者が侵入した場合は?」
「普通は侵入しないのよ」
「お嬢様は普通では考えられない事件へ巻き込まれます」
「そこは否定できないけれど」
エレノアは困ったように笑ったが、マリベルは笑っていなかった。
「それでも、行ってほしいのよ」
「お嬢様がお命じになるのであれば」
マリベルは深く頭を下げた。
従うと決めた以上、そこに迷いはない。
だが、顔を上げたあとも、腰の鉄扇を握る指から力は抜けていなかった。
エレノアは、その手元を見る。
「マリベル」
「はい」
「姫殿下を危険から守ってあげて」
「命に代えましても」
「命は代えないで」
「では、襲撃者の命を――」
「それも代えないで」
「……承知いたしました」
エレノアは少し考え、言葉を続ける。
「それから、姫殿下のお望みを何でも叶えることが、護衛ではないわ」
「心得ております」
「本当に?」
「お嬢様以外の方のご要望を何でも叶える予定は、最初からございません」
「そういう意味ではないのだけれど」
エレノアはマリベルを見上げた。
「危ないことをしようとしたら止める。間違った命令をしたら、きちんと違うと言う。姫殿下ご自身が考えなくてはならないことを、代わりに決めてしまわない」
マリベルの表情が、わずかに変わる。
「守ることと、相手の意思を奪うことは違うわ」
「……はい」
「あなたなら分かってくれると信じています」
その一言で、マリベルの背筋がさらに伸びた。
「必ず、ご期待に添えてみせます」
「ええ」
「そして三日後には、一秒の遅れもなく戻ってまいります」
「一秒くらいは遅れても大丈夫よ」
「いいえ」
マリベルは真顔で答えた。
「三日と一秒は、四日目でございます」
「違うと思うわ」
***
翌朝。
マリベルを乗せた王家の馬車が公爵家の正門を出た。
見送りに立つエレノアの姿が窓の向こうで少しずつ遠ざかっていく。
マリベルは座席へ背筋を伸ばして腰掛けたまま、いつまでも後方を見ていた。
その向かいには、迎えに来たユリウスが座っている。
「まだ見えますか?」
ユリウスが尋ねた。
「見えております」
「屋敷は、とうに角の向こうですが」
「心の目でございます」
「便利ですね」
「お嬢様に関することでしたら」
ユリウスは手元の書類へ視線を戻す。
「三日間の護衛任務です。視察中は、姫殿下の近くを離れないでください」
「承知しております」
「姫殿下が勝手に離れようとした場合は、止めてください」
「当然でございます」
「窓から出ようとした場合も」
「なぜ、窓から?」
「前例があります」
「屋根へ上ろうとした場合も」
「なぜ、屋根へ?」
「前例があります」
「馬車を自分で操縦しようとした場合も?」
「よくお分かりで」
マリベルは黙った。
「ユリウス様」
「はい」
「アメリス殿下は、どのようなお方ですか」
「明るく、裏表がなく、身分で人を見下すこともありません」
「それだけを伺えば、大変すばらしいお方ですね」
「はい」
「問題は?」
「考えるより先に走ります」
「なるほど」
「ご理解いただけましたか」
「お嬢様とは正反対でございますね」
「私もそう思います」
ユリウスは窓の外へ目を向けた。
「姫殿下は、悪い方ではありません」
「存じております」
「ただし、目を離さないでください」
「そのための護衛でございます」
「いいえ」
ユリウスは、わずかに声を低くした。
「王城の者としてではなく、一人の人間としてお願いしています」
マリベルがユリウスを見る。
「姫殿下は、ご自身が王女であることをよく理解しておられます。理解しておられるからこそ、自分が動けば誰かを助けられると思うと、止まれなくなるのです」
「それで、ご自分を危険にさらすと」
「はい」
「大変厄介でございますね」
「よろしくお願いいたします」
ユリウスは深々と頭を下げた。
マリベルはしばらく彼を見つめたあと、静かに頷いた。
***
王城の正門前へ馬車が到着すると、兵士たちは一斉に姿勢を正した。
誰も槍を構えなかった。
誰も門を閉じなかった。
全員、過去から学んでいた。
「公爵家侍女マリベル様、ご到着!」
門番が必要以上に大きな声で告げる。
マリベルが馬車から降りると、左右に並んだ兵士たちは目を合わせないよう前方だけを見つめた。
「お久しぶりでございます」
マリベルが一礼する。
「はっ!」
「以前より、皆様の姿勢が大変よくなられましたね」
「ありがとうございます!」
「正座の成果でしょうか」
「それは分かりません!」
門番は半ば叫ぶように答えた。
ユリウスが眼鏡を押し上げる。
「王城の兵士は、この数か月で礼儀正しくなりました」
「私を見て震えておられるようですが」
「礼儀です」
「左様でございますか」
王城へ入ると、廊下の向こうから軽い足音が近づいてきた。
「マリベル!」
少女の声だった。
次の瞬間、華やかなドレスの裾を持ち上げた王女が角を曲がって現れる。
エレノアより少し年下に見える少女だった。
明るい金色の髪が肩の上で弾み、緑色の瞳は好奇心に輝いている。
王族らしい気品はある。
あるのだが、走っている。
「姫殿下、廊下を走ってはなりません!」
ユリウスが言う。
「急いでいるのですから仕方ありませんわ!」
「王族が転べば、廊下の責任者が処分されますよ!」
アメリスの足が止まった。
最後の三歩だけ、急に優雅な歩き方へ変わる。
「最初から、そのように歩いてください」
「細かいですわね、ユリウスは」
「私の役目ですので」
アメリスはマリベルの前へ立った。
じっと見る。
頭から足元まで見る。
腰の鉄扇を見る。
もう一度、顔を見る。
「本物ですわ」
「公爵家侍女、マリベルでございます」
マリベルは完璧に一礼した。
「このたび、三日間の護衛を務めさせていただきます」
「本当に本物ですわ!」
アメリスが両手を伸ばす。
マリベルは半歩下がった。
アメリスの手が空を掴む。
「なぜ下がりますの?」
「何をなさるおつもりでしたか」
「鉄扇を見せていただこうと」
「見るだけなら、手を伸ばす必要はございません」
「触っても?」
「お断りいたします」
「少しだけ開いてくださいませ!」
「必要が生じた場合にのみ開きます」
アメリスは周囲を見回す。
少し離れた場所に、アルベルトが立っていた。
「お兄様」
「何だ」
「少し悪いことをしてくださいませ」
「なぜだ!?」
「マリベルが鉄扇を開く理由を作りますわ」
「妹が兄を実験台にするな!」
「以前も正座なさったのでしょう?」
「誰から聞いた!」
アメリスはユリウスを見た。
ユリウスは表情を変えない。
「私の記録に残っております」
「消せと言っただろう!」
「公的記録ではなく、個人的な覚書です」
「なお悪い!」
アメリスは楽しそうに笑った。
「わたくし、マリベルのことはすべて調べましたの」
「すべて」
「騎士団へ乗り込んだことも、お兄様を正座させたことも、大神殿で聖女様と対峙したことも、王国裁判で偽証を見破ったことも、殺人事件を解決したことも!」
「大神殿の件と王国裁判は、私だけで解決したわけではございません」
「謙虚ですのね!」
「事実でございます」
「その鉄扇には、本当に『お嬢様第一』と書いてありますの?」
「はい」
「わたくしの名前に書き換える予定は?」
「永遠にございません」
「即答ですの!?」
「私のお嬢様は、エレノア様だけでございます」
マリベルは微笑んだ。
アメリスは驚いたように目を瞬く。
やがて、ますます嬉しそうに笑った。
「そこも、噂どおりですわ!」
「なぜ喜ばれるのですか」
「わたくし、忠義に厚い方が大好きですの!」
「左様でございますか」
「それでは、わたくしのことも命懸けでお守りくださいませ!」
「命は懸けません」
「なぜですの!?」
「お嬢様に、必ず無事に帰るよう命じられておりますので」
アメリスは口を閉ざした。
「……エレノア様から?」
「はい」
「それならば仕方ありませんわね」
引き下がるのは早かった。
ユリウスが小さく息を吐く。
「姫殿下が、一度で納得なさった」
「エレノア様のお言葉ですもの」
「私が二十回申し上げても聞かなかった件ですが」
「ユリウスとエレノア様では、言葉の重みが違いますわ」
「存じております」
ユリウスは淡々と答えた。
だが、眼鏡の奥の目には、わずかな疲れが見えた。
***
最初の視察先は、王都南部にある王立ひばり養護院だった。
身寄りを失った子どもや、家庭で暮らすことが難しくなった子どもを保護する施設である。
王家から毎月、食費、衣服代、教育費が支給されている。
今回、アメリスは支援金が正しく使われているか、自分の目で確かめるつもりだった。
馬車の中で、アメリスは分厚い書類を読んでいた。
「姫殿下も、報告書を読まれるのですね」
マリベルが言うと、アメリスが顔を上げる。
「当然ですわ」
「失礼いたしました」
「わたくしを、何も考えず走り回るだけの王女だと思っていたのでしょう?」
「ユリウス様から考えるより先に走ると伺いました」
「余計なことを!」
アメリスが向かいに座るユリウスを睨む。
「事実です」
「少しは主人を庇いなさい!」
「私はアルベルト殿下の側近ですので」
「では、なぜ当然のように同行していますの?」
「視察が終わったあと、姫殿下がまっすぐ王城へお戻りになる保証がないからです」
「どういう意味ですの!」
ユリウスは答えず、手元の記録帳を開いた。
アメリスは頬を膨らませたあと、報告書へ視線を戻す。
「ひばり養護院では、五十二人の子どもを保護しています」
「はい」
「毎月の支出は、食費が銀貨百二十枚。衣服代が四十枚。暖房用の薪が三十枚。ほかにも教育用品や薬代が申請されていますわ」
「よく覚えておられますね」
「王家の名でお金を出すのですもの。知らないでは済みませんわ」
先ほどまで鉄扇を触りたがっていた少女と、同じ人物とは思えなかった。
マリベルはアメリスの横顔を見る。
真剣だった。
数字を追う目に、浮ついたところはない。
「それに」
アメリスが声を少し落とした。
「脅迫状が届いたからといって視察を中止すれば、何かを隠したい者の思いどおりになりますでしょう?」
「ご自身が危険な目に遭う可能性もございます」
「だから、あなたをお願いしましたの」
「私がいれば、危険へ近づいてよいわけではございません」
「分かっていますわ」
返事が早かった。
マリベルは少しだけ目を細める。
「本当に?」
「たぶん」
「分かっておられませんね」
「これから分かりますわ!」
アメリスは自信満々に答えた。
ユリウスは記録帳へ何かを書き込む。
「何を書いていますの?」
「護衛開始から一刻。姫殿下、早くも不安な発言、と」
「消しなさい!」
***
王立ひばり養護院は、白い壁と赤い屋根を持つ大きな建物だった。
門前には花が飾られ、庭には洗い立ての衣服が整然と干されている。
入口では院長を務めるヴェルナー男爵が待っていた。
丸い顔に穏やかな笑みを浮かべた中年の男である。
「ようこそお越しくださいました。アメリス王女殿下」
ヴェルナー男爵が深く頭を下げる。
「当院の子どもたち一同、今日という日を心待ちにしておりました」
「急な視察にもかかわらず、受け入れてくださり感謝しますわ」
アメリスも王族らしい所作で答える。
走っているときとは別人のようだった。
「こちらが、護衛を務めるマリベルです」
アメリスが得意げに紹介する。
「姫殿下」
「何ですの?」
「なぜ、あなた様が得意げなのですか」
「わたくしが指名しましたもの!」
マリベルはヴェルナー男爵へ一礼した。
「公爵家侍女、マリベルでございます」
男爵の笑みが、ほんのわずかに引きつる。
「お噂は、かねがね」
「どのような噂でしょうか」
「大変、忠義に厚い侍女でいらっしゃると」
「それだけでございますか」
「……正座の指導にも、たいへん熱心でいらっしゃると」
「誤解でございます」
「そうなのですか?」
「必要な方にのみ、ご指導しております」
ヴェルナー男爵は、自分の膝を見た。
それから背筋を伸ばす。
「まずは、子どもたちをご紹介いたします」
案内された広間には、二十四人の子どもが並んでいた。
全員、清潔な服を着ている。
髪も整えられ、靴には泥ひとつない。
アメリスが姿を見せると、子どもたちは一斉に頭を下げた。
「王女殿下、本日はお越しくださり、ありがとうございます」
声が、ぴたりと揃っていた。
アメリスは微笑んだ。
「ええ。こちらこそ、迎えてくださってありがとう」
子どもたちの表情が、わずかに緩む。
ヴェルナー男爵も安堵したように息を吐いた。
だが、アメリスは続ける。
「ところで、残りの二十八人はどちらに?」
男爵の顔が止まった。
「残り、と申しますと」
「こちらでは五十二人を保護していると報告されています。五十二人分の支援金も支払われていますわ」
「本日は、体調を崩している者や、親族のもとへ出かけている者がおりまして」
「二十八人全員が?」
「偶然が重なったのでございます」
「体調不良や親族のもとへの外出が、二十八人も同じ日に重なったのですか?」
アメリスは首を傾げた。
「たいへんな偶然ですわね」
口調は明るい。
だが、目は笑っていなかった。
ユリウスが記録帳にペンを走らせる。
ヴェルナー男爵は汗を拭った。
「詳しい記録は、のちほどご覧いただきます」
「ええ。お願いいたしますわ」
アメリスは子どもたちへ向き直った。
「皆様は、朝は何を食べましたの?」
「温かいパンと、肉入りのスープです」
また、全員の声が揃う。
一番端に立つ小さな少女だけが、少し遅れる。
「……お肉」
隣にいた年長の少年が、少女の腕を軽く引いた。
少女が俯く。
マリベルは、その様子を見逃さなかった。
***
施設の内部は、どこも美しく整えられていた。
食堂の卓には新しい布がかけられ、寝室には同じ形の寝台が並び、棚には畳まれた衣服が積まれている。
アメリスは一つずつ確認していった。
マリベルも、何も言わず周囲を見ている。
寝台の脚。
床の埃。
窓枠。
暖炉。
衣服の折り目。
炊事場へ入ったところで、マリベルが足を止めた。
「ヴェルナー男爵」
「何でしょうか」
「本日の朝食は、肉入りのスープだったのですね」
「はい。子どもたちが楽しみにしている献立でございます」
マリベルは大鍋を見る。
綺麗に洗われていた。
次に、調理台の上へ視線を移す。
まな板にも、包丁にも、肉を切った痕跡がない。
「厨房は、毎日ここを使用しているのですか」
「もちろんでございます」
「左様でございますか」
マリベルは棚から一枚の布巾を取った。
乾いている。
別の布巾も。
その隣も。
すべて、完全に乾いていた。
「たいへん手際のよい料理人を雇っておられるのですね」
「え、ええ」
「少なくとも二十四人分の朝食を作り、鍋も調理器具も洗い、布巾まで完全に乾燥させたうえで、朝露が残る時間に私どもをお迎えになった」
ヴェルナー男爵の額に汗が浮かぶ。
「業務の効率化を徹底しておりますので」
「侍女として、ぜひ方法を学びたいものです」
マリベルは微笑んだ。
ヴェルナー男爵は、笑わなかった。
アメリスが食料庫の扉を開ける。
正面には小麦粉の袋や豆の瓶が並んでいた。
しかし、奥の棚は空である。
「五十二人分にしては、少ないように見えますわ」
「今朝、ちょうど新しい食料を注文したところでございます」
「注文書は?」
「事務室に」
「納品予定日は?」
「明日です」
「昨日まで、何を食べていたのですか?」
ヴェルナー男爵は答えなかった。
ユリウスのペンだけが、紙の上を走る。
そのとき、広間で見かけた小さな少女が、食料庫の入口からこちらを覗いていることにアメリスが気づいた。
「どうしましたの?」
アメリスが腰を屈める。
少女は周囲を見た。
ヴェルナー男爵の姿を確認すると、怯えたように肩を縮める。
「姫殿下、子どもが緊張しておりますので、次へ参りましょう」
男爵が少女の前へ出る。
「少し話をするだけですわ」
アメリスは男爵の横から少女へ視線を向ける。
「あなたのお名前を教えてくださる?」
しばらくして、小さな声が返ってきた。
「ミナ」
「ミナ、今日は何を食べましたの?」
少女の唇が動く。
「温かいパンと、肉入りのスープです」
先ほどとまったく同じ言葉だった。
「昨日は?」
ミナは黙った。
「一昨日は?」
答えない。
ヴェルナー男爵が笑う。
「まだ幼いものですから、昨日のことをよく覚えていないのでしょう」
ミナが両手を握りしめた。
その指の間から、小さく折られた紙が落ち、アメリスの靴の近くへ滑る。
男爵が気づくより早く、マリベルが足先で紙を隠した。
「姫殿下」
マリベルが呼ぶ。
「そろそろ、ご休憩の時間でございます」
「ですが」
「ご休憩を」
アメリスはマリベルを見た。
マリベルは何も説明せず、足元へわずかに視線を落とす。
アメリスが紙の存在に気づいたのを確かめると、マリベルは裾を整えるふりをして屈み、紙を拾って袖口へ隠した。
「……分かりましたわ」
アメリスは何事もなかったように微笑んだ。
「休憩室へ案内してくださいませ」
***
用意された客室へ入る前に、ユリウスが廊下に人がいないことを確かめた。
全員が室内へ入ると、マリベルは扉を閉める。
マリベルは袖口から紙を取り出し、アメリスへ差し出した。
アメリスはすぐに折り目を開く。
そこには子どもの字で、短い言葉が書かれていた。
『うらのふるいせんたくばに、みんながいる』
アメリスの顔から表情が消える。
「古い洗濯場?」
ユリウスが施設の見取り図を広げた。
「裏庭の北側に、使用されていない別棟があります」
「そこへ行きますわ」
アメリスが即座に扉へ向かおうとすると、マリベルがその前に立って制した。
「お待ちくださいませ」
「待っている間に、子どもたちが移されるかもしれません」
「だからといって、姫殿下お一人で動いてよい理由にはなりません」
「一人ではありませんわ。あなたがいます」
「私がいるから危険へ近づいてよい、というお考えはお捨てください」
アメリスの眉が上がる。
「わたくしは王女ですわよ?」
「存じております」
「命令します。道を空けなさい」
「お断りいたします」
「護衛が命令を断るのですか!?」
「姫殿下を危険から守るためであれば」
「ですが、あの子たちを放っておけません!」
アメリスの声が大きくなる。
マリベルは表情を変えなかった。
「ユリウス様、近衛兵を裏手へ回してくださいませ。正面からは動かさず、施設の者に気づかれないように」
「承知しました」
ユリウスは見取り図を畳んだ。
「私は事務室へ向かい、帳簿と職員名簿を押さえます。姫殿下は必ずマリベル殿の指示に従ってください」
「分かっていますわ」
「姫殿下の『分かっています』は、あまり信用できませんので」
「失礼ですわね!」
ユリウスはマリベルへ視線を向ける。
「姫殿下をお願いいたします」
「お任せくださいませ」
短く一礼し、ユリウスは客室を出ていった。
アメリスがマリベルを見る。
「わたくしは?」
「こちらでお待ちください」
「嫌ですわ」
「姫殿下」
「自分の目で確かめます」
「なりません」
アメリスは唇を噛んだ。
「わたくしは……何も知らないまま、あの報告書に署名していたんですのよ」
アメリスの声が低くなる。
「この施設の子どもたちは幸せに暮らしている。王家の支援も正しく使われている。そう書かれていたから、そのまま信じてしまいましたわ」
握りしめた紙が、かすかに震えた。
「知らなかったのだから仕方がないと、言われるかもしれません。けれど、知ろうともしなかったのなら、わたくしにも責任があります」
マリベルは黙っていた。
「だから、自分の目で確かめたいのですわ」
「それでも、姫殿下の安全が最優先でございます」
「子どもたちが危険な場所にいるかもしれないのに、わたくしだけここで待っていろと?」
「私が確認いたします」
「また、人に任せるのですか」
アメリスは唇を尖らせた。
「王女は命令するだけで、自分は安全な部屋にいればよいのですか?」
マリベルの胸に、エレノアの言葉が蘇る。
――姫殿下ご自身が考えなくてはならないことを、代わりに決めてしまわない。
守ることと、閉じ込めることは違う。
だが、望むまま危険へ連れていくことも護衛ではない。
マリベルはアメリスを見つめた。
「条件がございます」
「何ですの?」
「私の指示に必ず従うこと」
「分かりましたわ」
「私より前へ出ないこと」
「はい」
「勝手に走らないこと」
「努力しますわ」
「では、こちらでお待ちくださいませ」
「分かりました! 走りませんわ!」
「最初から、そうお答えください」
マリベルは扉を開けた。
「ただし、姫殿下が一度でも約束を破られた場合、その場で王城へお戻しします」
「どうやって?」
「荷物のように担いで」
「王女を担ぐつもりですの!?」
「必要であれば」
アメリスは少し考えた。
「それはそれで、マリベルらしくて素敵ですわね」
「反省が足りませんね」
***
裏庭の北側には、蔦に覆われた古い建物があった。
窓は板で塞がれている。
扉には新しい錠が取りつけられ、その上から太い鎖まで巻かれていた。
使われていない建物にしては、不自然だ。
マリベルが扉へ耳を寄せる。
「中から物音がいたします」
「子どもたちは中に?」
「おそらくは」
耳を澄ますと、かすかな咳が聞こえた。
アメリスの顔色が変わる。
「開けてください」
「少々お下がりを」
マリベルは鉄扇を抜いた。
黒い扇面が開く。
『お嬢様第一』
アメリスの瞳が輝いた。
期待に満ちた眼差しが、マリベルへ向けられる。
マリベルは気づかないふりをして、鉄扇の先を錠へ当てた。
軽く捻る。
金属音がした。
錠が外れ、巻かれていた鎖が地面へ落ちる。
「すごいですわ!」
「恐れ入ります」
「それで、今のはどうやりましたの?」
「侍女ですので」
「侍女はこんなことまでできるのですわね! あとで教えてくださいませ!」
「お断りいたします」
マリベルが、ゆっくりと扉を開く。
湿った空気が流れ出した。
内部には古い洗濯桶と壊れた棚が残されている。
その奥。
薄い毛布の上に、大勢の子どもたちが座っていた。
痩せた子。
咳をしている子。
袖や裾が足りない服を着た子。
数えると、二十八人いた。
報告書には人数だけ記され、視察の場には出されなかった子どもたちである。
「そんな……」
アメリスが一歩踏み出す。
マリベルは止めなかった。
アメリスは子どもたちの前へ膝をつく。
「ごめんなさい」
子どもたちが怯えたように身を寄せ合う。
「わたくしは、何も知りませんでした」
一人の少年がアメリスを見た。
「お姫様?」
「ええ」
「今日だけ、ごはんをくれるの?」
アメリスの唇が震えた。
「いいえ、今日だけではありませんわ」
「じゃあ、明日も?」
アメリスはすぐに頷きかけて、止まった。
今日まで何も知らず、報告書を信じていた自分が簡単に大丈夫だと言ってよいのだろうか。
少し迷ってから、少年の目を見る。
「明日のごはんは、必ず用意させますわ。ちゃんと届いたか、わたくしも確かめます」
「明後日は?」
「明後日もです」
「その次も?」
アメリスは少しだけ困ったように笑う。
「ええ、その次も。届いているか、何度でも確かめますわ」
少年は、じっとアメリスを見る。
やがて、小さく頷いた。
アメリスは、その小さな頷きから目を逸らさなかった。
約束をした。
だから今度こそ、報告書を信じるだけで終わらせない。
自分の目で、何度でも確かめるのだ。
そのとき、少年の表情がふいに強張った。視線が、アメリスの背後へ向けられている。
直後、重い音を立てて入口の扉が閉まった。
振り返ると、ヴェルナー男爵が立っていた。
その左右には、棍棒や短剣を持った男たちがいる。
「困りますな、姫殿下」
先ほどまでの穏やかな笑みは消えていた。
「勝手に立ち入り禁止の建物へ入られては」
「なぜ、この子たちを閉じ込めているのですか?」
「閉じ込めているとは人聞きが悪い。表の建物は人数が多く、手狭なのですよ」
「では、どうして報告しなかったのですか?」
「細かな運営まで、王族の方にお知らせする必要はないでしょう」
アメリスが立ち上がる。
「支援金は、どこへ消えましたの?」
「必要な場所へ使いました」
「この子たちの食事より、必要な場所が?」
ヴェルナー男爵は肩をすくめる。
「姫殿下は、笑顔で施設をご覧になり、子どもたちへ優しい言葉をかけて、お帰りになればよいのです」
「何ですって?」
「難しいことは、我々にお任せください」
男爵が一歩近づく。
「王女殿下は、何も知らないまま美しく微笑んでいればよろしい」
アメリスの顔から、幼さが消えた。
「わたくしが知らなかったことを、あなたは利用したのですね」
「国というものは、そのように動くのです」
「違いますわ」
アメリスは男爵を見据えた。
「知らなかったことは、わたくしの落ち度です」
その声は震えていなかった。
「ですが、知ったあとも何もしないのであれば、それはわたくしの罪になります」
「姫殿下には何もできませんよ」
男爵が手を上げる。
背後の男たちが前へ出た。
「視察の途中で賊の襲撃を受けた。そういうことにいたしますか」
「脅迫状も、あなたが?」
「視察を中止してくだされば、何も起こらなかったのですがね」
アメリスの手が強く握られた。
「マリベル」
「はい」
「全員、正座させなさい!」
「お断りいたします」
「なぜですの!?」
アメリスが振り返る。
ヴェルナー男爵たちも、驚いてマリベルを見た。
マリベルは鉄扇を閉じたまま、アメリスへ向き合う。
「姫殿下がお命じになるべきことは、正座ではございません」
「では、何を命じればよいのです?」
「王女として、お決めくださいませ」
アメリスは息を呑んだ。
怒っている。
許せない。
目の前の男たちを、今すぐ床へ膝をつかせたい。
だが、それだけでは子どもたちは救われない。
マリベルは何も言わず、答えを待っている。
アメリスは子どもたちを見る。
ヴェルナー男爵を見る。
外で動いているはずのユリウスと近衛兵たちを思い浮かべる。
そして、顔を上げた。
「子どもたちを安全な場所へ保護しなさい」
「はい」
「施設の帳簿、支援金の記録、職員名簿を押収しなさい」
「はい」
「ヴェルナー男爵と関係者を拘束し、正式に取り調べなさい。ほかの施設にも同じことが起きていないか、すべて調べます」
マリベルの口元が、わずかに緩んだ。
「大変結構でございます」
「それから」
アメリスが男爵を見る。
「わたくしを賊に襲わせようとした者たちには、少し反省していただきますわ!」
「承知いたしました」
マリベルの鉄扇が開いた。
「ここからは、護衛として対処いたします」
男たちが一斉に武器を構えた。
マリベルは背後の子どもたちへ一瞬だけ視線を向ける。
狭い室内で、子どもたちのいる方角へ鉄扇を振るうことはできない。
マリベルは一歩前へ出た。
「侍女一人で何ができる!」
一人目の男が短剣を突き出す。
マリベルはそれを鉄扇で受け、手首だけを返した。
男は苦痛の表情を浮かべて、短剣を床に落とす。
その隙に膝裏を払い、男を床へ座らせた。
足が揃う。
背筋が伸びる。
正座である。
「なぜ!?」
「子どもたちの前で刃物を振り回した反省でございます」
二人目の男が背後から飛びかかる。
マリベルは振り返らず、エプロンの紐を引いた。
白い紐が男の足首へ絡む。
倒れかけた身体を鉄扇で支え、床へ優しく下ろす。
やはり正座だった。
「なぜ優しく正座させる!?」
「床で頭を打たれては困りますので」
「なら正座させるな!」
三人目と四人目は、動きを止めて様子を窺う。
「次の方」
「次の方ではない!」
痺れを切らした三人目の男が、短剣を横薙ぎに振るった。
マリベルは身を沈めて刃をかわすと、男の懐へ踏み込む。
鉄扇で肘を押し上げ、空いた足を払った。
男の身体が半回転し、そのまま床へ膝をつく。
マリベルが肩を軽く押すと、両足が綺麗に揃った。
三人目の男も、正座した。
「残るはお一人でございますね」
最後に残った男は、正座した三人を見た。
次に、マリベルを見る。
男は武器を床へ置いた。
そして、自ら正座する。
「賢明でございます」
マリベルが満足げに頷いた。
ヴェルナー男爵が後ずさる。
「ま、待て。私は男爵だぞ!」
「存じております」
「王家の施設を任された者だ!」
「その立場を利用して、子どもたちの食費を奪われたのですね」
「証拠はない!」
「ございます」
入口から、ユリウスの声がした。
王城の兵士たちを連れ、古い洗濯場へ入ってくる。
その手には数冊の帳簿があった。
「事務室の隠し棚から、二重帳簿を発見しました」
ヴェルナー男爵の顔から血の気が引く。
「なぜ、そこを……」
「マリベル殿から、食料庫の在庫が王家から支給された食費に見合わないと伝えられていましたので。事務室を調べたところ、棚の奥に不自然な隙間がありました」
アメリスがマリベルを見る。
「いつ、伝えましたの?」
「客室へ入る前でございます」
「わたくしが気づくより先に?」
「はい」
「では、最初から全部分かっていたのですか?」
「疑っていただけでございます」
「どうして、すぐに教えてくださらなかったのです?」
「姫殿下ご自身の目で真実をご覧いただき、そのうえでどうなさるのか見届けたかったのでございます」
アメリスは言葉を失った。
マリベルはヴェルナー男爵へ向き直る。
「脅迫状に使われた紙も、事務室に保管されていたものと一致しております」
ユリウスが一枚の紙を持ち上げる。
「文面の下書きも残されていました。破棄する際は暖炉へ入れるだけではなく、火をつけることをお勧めします」
「助言する必要はございません」
マリベルが言う。
「次回に活かされては困りますので」
「ごもっともですね」
ヴェルナー男爵は逃げようとした。
だが、足を一歩動かした瞬間、マリベルの鉄扇が膝裏へ触れる。
男爵の身体が沈む。
両膝が床へつく。
見事な正座だった。
「なぜ私まで!」
「反省の姿勢でございます」
「私はまだ罪を認めていない!」
「では、その姿勢で事実確認をお待ちくださいませ」
男爵は王城の兵士たちに拘束された。
正座した姿勢のままである。
***
子どもたちは、すぐに王城が用意した臨時の保護施設へ移されることになった。
医師も呼ばれ、体調の悪い者から順に診察を受ける。
アメリスは最後までその場を離れなかった。
運ばれていく子どもたち一人ひとりの名前を聞き、ユリウスに記録させる。
紙を落としたミナが、アメリスの前へ歩み寄ってきた。
「お姫様」
「何ですの?」
「明日も、ごはんある?」
アメリスは、一度だけマリベルを見る。
マリベルは答えない。
王女自身の言葉を待っている。
「ありますわ」
アメリスはミナの前へ屈んだ。
「明日だけではありません」
「ずっと?」
「ずっと、と簡単に言うだけでは足りませんわね」
アメリスは少し考えた。
「これからは、ごはんを届ける人とは別に、ちゃんと届いたか確かめる人も置きます。わたくしにも毎月知らせてもらいますわ」
「知らせる?」
「ごはんが届いたよって、教えてもらうのです。でも、それだけを信じたりはしません。これからは抜き打ちで確かめに来ますわ」
ミナはよく分からないという顔をした。
アメリスは笑う。
「明日も、その次の日も食べられるように、ごはんが届いたか確かめる人を増やします」
「お姫様も?」
「ええ。わたくしも」
ミナは小さな小指を差し出した。
アメリスも小指を絡める。
「約束?」
「約束ですわ」
その様子を見ていたマリベルは、何も言わず鉄扇を閉じた。
***
「アメリス!」
夕方になって、アルベルトが施設へ到着した。
近衛兵を引き連れ、息を切らしている。
王太子の威厳は、馬車の途中でどこかへ落としてきたらしい。
「お兄様、遅いですわ」
「妹の無事を確認するために駆けつけた兄に、最初に言うことがそれか!」
「すべて終わりましたもの」
「終わったからよいという問題ではない!」
アルベルトはアメリスの肩を掴み、怪我がないか確かめる。
「脅迫状が届いていたのだぞ! なぜ危険な建物へ自分から入った!」
「子どもたちが閉じ込められていたのです!」
「だからといって、お前まで捕まればどうする!」
「マリベルがいましたわ!」
「侍女一人を理由に危険へ飛び込むな!」
アルベルトが叫ぶ。
アメリスは、少し驚いたように兄を見た。
アルベルトは本気で怒っていた。
見栄や体面ではない。
妹を心配している顔だった。
「……ごめんなさい、お兄様」
アメリスが素直に頭を下げる。
アルベルトの勢いが止まった。
「分かればよい」
「ですが、また同じことが起きたら、確認には行きますわ」
「分かっていないではないか!」
「今度は、最初から護衛とユリウスに相談します」
アルベルトが口を閉ざす。
ユリウスが横から言う。
「姫殿下としては、大きな進歩かと」
「お前の基準は低すぎないか?」
「これまでが低かったもので」
「ユリウス!」
アメリスが頬を膨らませる。
アルベルトは正座させられたヴェルナー男爵たちへ目を向けた。
「それにしても」
数える。
一人、二人、三人、四人、五人。
全員、背筋を伸ばしていた。
「なぜ、私が関わる事件では毎回誰かが正座しているのだ!」
「殿下ご自身が最初の前例を作られましたので」
ユリウスが答える。
「私のせいなのか!?」
「少なくとも、王城で正座が一般化した一因ではあります」
「一般化させるな!」
アルベルトは咳払いをし、王太子らしく表情を整えた。
「ヴェルナー男爵」
「は、はい」
「王家の名で支給された金を奪い、子どもたちを苦しめ、さらに妹の命を狙った。その責任は重い」
「殿下、どうかお慈悲を!」
「全員、極刑だ!」
「殿下」
ユリウスが呼ぶ。
「分かっている! 刑罰は正式な裁判で決める!」
「学習なさいましたね」
「誰のせいだと思っている!」
アルベルトは一瞬、マリベルを見る。
マリベルはにっこり微笑んでいた。
「裁判で決める!」
アルベルトは、もう一度強く言った。
***
王城へ戻る馬車の中で、アメリスは窓の外を眺めていた。
行きのような騒がしさはない。
マリベルは向かいの席から王女を見る。
「お疲れでございますか」
「少しだけ」
「王城へ着きましたら、お休みくださいませ」
「子どもたちは、本当に大丈夫でしょうか」
「医師と王城の者が付き添っております」
「明日の食事は?」
「手配済みです」
「衣服は?」
「公爵家からも、必要な品を送るよう連絡いたしました」
アメリスが顔を上げる。
「アルヴァイン公爵家から?」
「お嬢様ならば、そうなさると思いましたので」
「エレノア様に確認せずに決めたのですか?」
マリベルの動きが止まった。
アメリスは、ほんの少し笑う。
「先回りして決めてはいけないのでしょう?」
「……お嬢様が断られるとは思えません」
「それでも、尋ねなくては」
「はい」
マリベルは素直に認めた。
「王城へ戻り次第、お手紙を差し上げます」
「わたくしからも、お礼を書きますわ」
アメリスは膝の上で手を組んだ。
「マリベル」
「はい」
「今日は、わたくしの命令を断りましたわね」
「はい」
「腹は立ちましたけれど」
「申し訳ございません」
「謝らないでくださいませ」
アメリスはマリベルをまっすぐに見た。
「あなたが断ってくださらなければ、わたくしは怒りに任せて、全員を正座させて終わったと思います」
「正座だけでは、子どもたちの明日の食事は届きません」
「ええ」
「王女殿下のお仕事は、正座させたあとに始まるのでございます」
「正座はさせるのですね」
「必要な方には」
アメリスは声を立てて笑う。
「やはり、わたくしの専属護衛になりませんこと?」
「お断りいたします」
「また即答ですの!?」
「私がお仕えする方は、ただお一人でございます」
「エレノア様」
「はい」
「少しくらい迷ってくださいませ!」
「迷う理由がございません」
アメリスは不満そうに唇を尖らせる。
だが、その表情にはどこか嬉しそうな色もあった。
***
ひばり養護院から押収された帳簿を、王城に保管されているほかの施設の支出記録と照合すると、同じ商会への不自然な支払いがいくつも見つかった。
複数の施設で同じ請求書番号が使われ、受領記録のない食料や衣服まで支払い済みになっている。
支払先はすべて同じ商会だった。
偶然とは考えにくい。
その夜、王城の執務室でユリウスが報告すると、アルベルトは机へ両手をついた。
「つまり、ほかの施設でも同じことが行われている可能性があるのか」
「はい」
「至急、すべての施設を調べろ」
「すでに調査官を手配しております」
「……私が命じる前に動いたのか?」
「殿下なら、そうお命じになると思いましたので」
「ならば先に言え!」
そう言いながらも、アルベルトの声には安堵が滲んでいた。
ユリウスはわずかに口元を緩めると、静かに一礼する。
二人がそんなやり取りをしている間に、アメリスはマリベルの腕に抱きつこうとしていた。
マリベルは無言で半歩離れる。
アメリスの手が空を切った。
「なぜ避けますの?」
「距離が近うございます」
「一日中、護衛としてそばにいたではありませんか!」
「必要な距離でございます」
「では、今も必要ですわ!」
「王城内で、周囲には近衛兵もおります」
アメリスは近衛兵たちを見る。
兵士たちはマリベルと目が合い、背筋を伸ばした。
「頼りになりますの?」
「以前よりは」
「ちょっと待て、以前は頼りにならなかったのか!?」
アルベルトが思わず声を上げる。
ユリウスはその抗議を聞き流し、続いて新たな書類を取り出した。
「もう一件、ご報告があります。王家とアルヴァイン公爵家で協議した結果、不正への関与が疑われる施設の視察が終わるまで、マリベル殿には王城へ滞在していただくことになりました」
マリベルの顔から表情が消えた。
「三日間では?」
「延長です」
「いつまででございますか」
「現時点では未定です」
「未定」
「はい」
マリベルはユリウスを見る。
次にアルベルトを見る。
最後にアメリスを見る。
アメリスは、喜びを隠す気がなかった。
「しばらく一緒ですわね!」
「お嬢様は、この件をご存じなのですか」
「アルヴァイン公爵とエレノア嬢から、すでに了承を得ている」
アルベルトが答えた。
「私に知らせる前に、お嬢様へご連絡なさったのですか?」
「なぜ私を疑うような目で見る!」
「では、どなたがご連絡を?」
「……ユリウスが」
「殿下は、姫殿下の無事を確認することで頭がいっぱいでしたので」
「余計なことを言うな!」
ユリウスは一通の封書をマリベルへ差し出す。
「エレノア様からです」
マリベルは両手で受け取った。
封筒には、見慣れた筆跡で名前が書かれている。
『マリベルへ』
その文字を見ただけで、マリベルの肩からわずかに力が抜けた。
***
夜。
王城内に用意された部屋で、マリベルは一人、机へ向かっていた。
部屋はアメリスの寝室から廊下を一本挟んだ場所にある。
警護には適していた。
だが公爵家へ帰るには、遠すぎる。
机の上には、エレノアから届いた手紙が置かれていた。
マリベルは封を開く。
中の便箋を、慎重に取り出した。
『マリベルへ。姫殿下を守ってくれて、ありがとう。今日の報告をユリウス様から伺いました。姫殿下がご自身で答えを出せるよう、支えてくれたことを嬉しく思います。しばらく会えないのは少し寂しいです。けれど、姫殿下には今あなたが必要なのでしょう。お仕事が終わるまでどうか力になって差し上げてください。そして、必ず無事に帰ってきて。あなたの部屋はそのままにしてあります。帰ってきたら、今日のことを聞かせてください。紅茶を用意して待っています。エレノア』
マリベルは最後の一行を見つめた。
もう一度、最初から読む。二度目は、少しゆっくり。三度目は、一文字ずつ確かめるように。
それから便箋を丁寧に折り、封筒へ戻した。
胸元に抱くことはしない。皺がついてしまうからである。
代わりに、枕元の小さな卓へ置いた。
眠る直前にも読める場所だ。
「お嬢様……」
名前を呼ぶが、返事はない。
当然である。
それでも、不思議と遠くは感じなかった。
エレノアは待っている。
自分が帰ることを疑わず、部屋をそのままにして、紅茶を用意して待つと言ってくれている。
「必ず、戻ります」
マリベルは手紙に向かって、深く頭を下げた。
そのとき。
扉が勢いよく開いた。
「マリベル!」
夜着姿のアメリスが、枕を抱えて立っていた。
マリベルは顔を上げる。
「姫殿下」
「今夜は、こちらで一緒に眠りますわ!」
「お断りいたします」
「護衛は近くにいるべきです!」
「お部屋へお戻りくださいませ」
「嫌ですわ!」
「姫殿下」
「マリベルの昔のお話を聞かせてくださいませ! 騎士団を正座させたときの詳しい手順も!」
「機密事項でございます」
「では、鉄扇を一晩だけ貸してくださいませ!」
「永遠にお断りいたします」
アメリスは枕を抱えたまま部屋へ入ろうとする。
マリベルが扉の前へ立った。
「距離が近うございます」
「まだ部屋へ一歩も入っておりませんわ!」
「入ろうとなさった時点で近うございます」
「厳しすぎますわ!」
廊下の向こうで、ユリウスが目を伏せた。
「始まりましたか」
隣にいた近衛兵が尋ねる。
「お止めしなくてよろしいのでしょうか」
「止められると思いますか」
近衛兵は、扉の前で言い合う王女と侍女を見た。
「無理です」
「では、被害を最小限に抑えるのが我々の仕事です」
「何を用意すれば?」
ユリウスは少し考えた。
「姫殿下のお部屋へ、温かいミルクを」
「マリベル様には?」
「便箋と封筒を」
「なぜですか?」
「明日の朝には、エレノア様へ報告の手紙を書かれるでしょう」
近衛兵は納得し、一礼して廊下を去った。
扉の前では、アメリスがなおも粘っている。
「一晩だけですわ!」
「お戻りください」
「では、扉の前で眠ります!」
「お戻りください」
「廊下も王城の一部ですわ!」
「お戻りください」
「言い方が一切変わりませんわ!」
「お戻りください」
「……はい」
アメリスは枕を抱え、渋々自室へ戻っていった。
マリベルは、その背中を見送る。
扉を閉める前に、枕元の手紙へ目を向けた。
お嬢様が待っている。
ならば、この任務を終え、必ず帰らなければならない。
そのためにも。
「姫殿下」
マリベルが廊下へ顔を出す。
アメリスが振り返った。
「何ですの?」
「明日の起床は、日の出と同時でございます」
「早すぎますわ!」
「視察資料を確認したあと、朝食でございます」
「朝食を先にしてくださいませ!」
「それから、無断で部屋を出た件について、反省文を三枚」
「わたくしは王女ですわよ!?」
「存じております」
「王女に反省文を書かせるつもりですの!?」
「王女殿下だからこそ、ご自身の行動に責任をお持ちくださいませ」
「マリベルの護衛は厳しすぎますわああああああああああああああああ!!!!」
アメリスの絶叫が、夜の王城へ響き渡った。
王城の者たちは、一斉に足を止める。
アルベルトは自室で顔を上げた。
「今の声は何だ?」
廊下での様子を見届けたあと、書類を届けに来ていたユリウスが答える。
「姫殿下が、マリベル殿から生活指導を受けておられます」
「護衛ではなかったのか?」
「護衛です」
「反省文と聞こえたぞ」
「必要な警護措置かと」
「どのような必要だ!」
ユリウスは眼鏡を押し上げた。
「少なくとも、姫殿下が夜中に窓から抜け出す可能性は下がります」
アルベルトは黙った。
「……好きにさせろ」
「賢明なご判断です」
こうして、マリベルの王城滞在が始まった。
守るべき相手は、天真爛漫で、怖いもの知らずで、思い立てば誰より先に走り出す王女アメリス。
そしてマリベルの帰る場所は、今も変わらず一つだけである。
エレノアが待つ、アルヴァイン公爵家。
そこへ帰る日まで。
王城ではしばらく、毎朝誰かの悲鳴が響くことになる。




