第52話 親の心
通された奥の部屋、そのベッドの上で、一人の妊婦が深く呼吸をしながら瞼を下ろして寝転がっていた。艶のない黒髪に、血色の薄い唇。腹は大きく膨れているのに、腕も顔も細々としており、不健康な印象を与えられる。
家主の女性が、彼女の名を呼んだ。すると彼女はゆっくりと瞼を持ち上げ、目玉だけを動かして、こちらの姿を認めた。感情の見えない、冷たい視線だった。――いや、違う。まるで、軽蔑するような。嫌悪するような。そんな冷やかさが込められていた。
アンミはできるだけ柔らかい表情を浮かべて、彼女の枕元に屈んだ。それに合わせて彼女も僅かに首を動かして、アンミをじっと見つめていた。
「オクルさん。俺は、レベリオの総長のアンミです。危害を加えるつもりはありません、話をさせてください」
彼女は何も言わずに首を正面向きに戻して、天井を仰いだ。再び瞼を閉じて、大きく呼吸を繰り返す。その様子を眺めながら、アンミは言葉を繋げた。
「あなたが国の監視下を逃れたのは、お子さんを死なせたくないから、ですよね?」
オクルは何も答えない。
「レベリオなら、あなたもお子さんも守り抜くことができます。俺らと一緒に来ませんか?」
言葉は返ってこない。代わりに彼女は眉間に皺を寄せ、力み、息を止める。様子に気付いた家主が、彼女の名前を呼びながらアンミのすぐ隣に立ち、オクルの腹をさすった。邪魔にならないようアンミが一歩後ろに下がると、家主はアンミたちを一瞥した後、静かに言い放った。
「もう、陣痛が来ているんです」
どうりで。アンミは頭を掻きながら立ち上がって尋ねた。
「医師は?」
「国に通報されるだけです」
家主の返答に、喉の奥で小さく舌打ちをする。トラが不安そうな顔でアンミとオクルを交互に見ている。オクルは歯を食いしばり、呼吸を荒げている。その横から家主によって繰り返しオクルの名が呼ばれる。
アンミはベッド脇に歩み寄り、「失礼」と一言断って、激しく上下しているオクルの丸い腹に触れた。そして、魔力を込める。いつも自分にやっているように。よく仲間に施しているように。掌がぼんやりと温もりを纏い、棘棘とした痛みから母体を守る。
オクルの呼吸は荒いままだった。子宮の収縮は依然として続いている。だが、母の表情は和らいで、開かれた瞼の中からはっきりとした目線がアンミを捉えた。それを真っ直ぐに見つめ返して、アンミは告げる。
「無理やり連行してあげるほど俺は優しくない。だから、あなたがあなたの意志で決めてください。レベリオに来て母子両方生き延びるか、それとも、このままここに隠れ続けるか」
救われる気のない人間の手を引くつもりはない。それはきっとこれからも変わらない。その考えは間違っていない。
でも。選択肢を提示するくらいならできる。手を差し伸べるくらいならできる。本当に救われたいのなら、この手を取ってみせろ。必ず、生かしてみせるから。
オクルの呼吸が段々と落ち着いていく。波が去ったようだ。大きく息をしつつも、オクルの視線はずっとアンミを捉え続けていた。やがてアンミが来たときくらいにまで呼吸がゆっくりになったところで、オクルはようやくアンミから視線を逸らし、目を伏せた。
「……わからないのよ」
乾いた唇から、ぽつりとうわごとのような声が漏れる。オクルはその細い腕を持ち上げ、両手で顔を覆った。
「魔王として生まれたこの子にとって、何が幸せなのか。死ぬよりはいいと思って逃げたけれど、こんな世界じゃ、生きていたって辛いだけでしょう?」
震えるオクルの声を聞きながらアンミは、生き返ったときの記憶を――マダムの顔を、カンの声を、思い出していた。
血を吐きながら生き続けた先で待つ幸福が、果たしてそれまでの苦痛に報いるものとなるだろうか。やめれば楽になる。残りの人生諸共この重苦しい肉体を手放して輪廻へと還り、安らかな魔界で穏やかに次の人生を待つだけ。生きることは義務じゃない。
「……わかってんだろ」
じゃあ、生きろ。
カンはそう言った。
「死ぬよりはいいって、わかってんだろ。幸せになるには、生きるしかないだろ。死後がどれだけ穏やかでも、死んだら幸せにもなれない」
死は安らかだ。ただ人が眠るのと同じ。恐怖するに値しない。だから、死んだほうがマシだなんて考え方が生まれる。
でも。でも。そうじゃなくて。
「生きるのが辛いからって、幸せになれないわけじゃないだろ?」
もしそうだとしたら、アンミが生きてきた時間はなんだったんだ。悪夢に魘され血反吐を吐いて、重たい荷物を背負って息も絶え絶えに走って、それでも幸せになりたいから生きてきたんだ。幸せを知っていたから、生きてこられたんだ。
それを、母親だろうと国王だろうと、他人が奪っていいものか。
そこまで言って、視界がぼやけていることに気付く。頬に何か熱いものが滴る。なんで泣いているんだ。かっこ悪い。慌てて袖口を目元に押し付ける。アンミの呼吸音が、やけに鼓膜に響いて聞こえた。
「……あの」
やがて、オクルが囁くように声を発した。アンミはもう一度目元の水滴を拭い、そちらに視線をやる。涅色の目がアンミを真っ直ぐに見据えた。不安の色も見える。だが、強い覚悟がその不安を奥に追いやって、前面に出てきたようだった。彼女の口が開いて、大きく空気を吸う。
「お願い、してもいいかしら」
その言葉を待っていた。
アンミは笑みを浮かべ、大きく頷いた。




