第40話 海の民
「おはようございます、アンミさん」
足音がして心臓が跳ねる。慌てて立ち上がり振り返ると、ウィルが佇んでいた。その様子に少しだけ肩を落として、アンミは口元を手で拭った。
「どこか悪いんですか?」
「いや、平気。何かあった?」
小さく咳払いをして、ウィルの方に向き直る。厚いウールのコートを羽織って白い息を吐きながら、ウィルは手に持っていたストールを差し出した。
「どうぞ。洞窟内は冷えるので」
「俺より他のやつに渡してやれよ」
「皆さんにも配っていますよ。これはアンミさんの分です」
まさか、全員分用意したというのか。受け取ったマフラーを握るとじんわり温もりを感じた。そこで初めて、手が冷えていたことに気がつく。
「それから、食料などの物資も用意しました。もうすぐ仲間が運んでくるでしょう」
仲間。海の民。
「……悪い、巻き込んで」
「いえ。恩人ですから、当然のことです」
これではむしろこちらが借りを作っているようなものだ。被害を増やさないためにも、また情報を広めないためにも、外部の人間と仲良くする気はなかったのだが。
敢えて大きな溜息を吐く。そのあとに吸い込んだ空気が、ひどく冷たく感じた。
「これ以上レベリオに関わるな。城下町に帰れ、ウィル。ハピも向こうに置いてきたんだろ」
不思議そうな表情を浮かべたウィルの横を通り抜けて、アンミは洞窟の入口の方へと歩く。こんな風にとぼけているこの人も、きっと内心不安を覚えているに違いない。だが、よく通るウィルの声がアンミを呼び止めた。
「それは、私たちに迷惑がかかるからですか?」
「それもある。俺らには、あんたらを守る義務もない。元々ハピを助けたのだって、偽のレベリオの存在が邪魔で倒したついででしかない」
「ならお気になさらず。私たちのお節介だとでも思っていてください」
「そのお節介が困るんだよ。あんたらどころか海の民まで巻き込んでるだろ。戦争になる」
「なりませんよ。我々は王家の扱いが上手いので」
アンミはくしゃりと頭を掻いて、ウィルの方を振り向く。彼は悠々笑みをたたえて、くい、と首を傾げてみせた。
「大丈夫ですよ。この洞窟を教えたことも、族長の承諾を得ていますから」
――今はもう遠い歴史とはいえ、海の民とレベリオはかつて袂を分かった者同士だ。以降どの民族とも協調せずに長らく単独で生き延びてきたレベリオとしては、どうにも居心地が悪い。
ズク、と胸のあたりが痛む。それを隠すようにアンミは黙って前を向き、再び歩き出す。背後からウィルもついてくるのがわかった。
入り口に近付くにつれて人の声が増えるのを聞き、思わず足が速くなる。人目が集まってはならない。だが、着いてみると海の民が物資を届けに来たところだった。物資を受け取っていたタキがこちらに気付き、「アンミくん」と名を呼ぶ。
その向こうから、髪も髭も真っ白な老人がゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。
「お主が現在の総長か」
海の民の族長、メア・ラルト。
「初めまして、メア殿。レベリオ総長のアンミです。この度は我々にお力添えいただき――」
「ああ、いらん、いらん。堅苦しい挨拶は止せ」
目の前まで来たメアは、皺の刻まれた手でアンミの肩を力強く叩いた。アンミは眉を顰めて思わず彼の顔を凝視したが、メアの目元は長い髪で、口元は長い髭で隠されていたため、表情は上手く汲み取れなかった。
「良いか、アンミ殿。戦争を避け逃げることを選んだ主の判断、非常に賢明であったと儂は考えておる。巷では魔王の器の誕生も近いと聞く。さぞ苦労しているのだろう」
肩に置かれていた手が滑り落ち、アンミの胸に触れる。ヒク、と息が乱れる。思わず半歩下がると、白い髪の間から覗く深い深い紫の瞳が、見透かしたようにアンミを貫いた。
「元々我らは魔族を忌むべき存在としてみておらん。主の英断に免じ、匿うことにした。ゆっくり休めよ」
「……感謝します」
深々と頭を下げる。「ほっほっほ」と笑ったメアは再びアンミの肩を叩き、こちらに背を向けた。
わからなかった。なぜそんなに悠長に笑っていられるのか。人が良いのはわかる。だがその優しさに触れる度に、むしろここにいてはいけないのではないかと、これ以上迷惑はかけられないと、責任が肩にのしかかる。
情けない。
メアに頭を下げたまま、アンミは誰にも見られないようこっそりと己の唇を嚙んだ。




